ソードアート・オンライン 〜君と共に〜   作:楽々亭

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第11章 -未来の概算-
第82話 恐怖と勇気


 

 ベッドの上で瞼を持ち上げた悠人は、頭に残存する倦怠感を無理やり振り払う。遠ざかっていた四肢の感覚が戻ってくると、彼は勢いよく上体を跳ね上げてベッドから起き上がった。

 ダイブ前はベランダから陽の光が射し込んでいたが、今や外は深い闇に包まれており、遥か上空には濃い雲が街全体を覆い尽くしている。その光景をエアコンで温度管理されている自室から眺めていた悠人は、ふと天候の悪化を予感して身支度を急ぎ整えた。

 お気に入りのダッフルコートを着込んで首にマフラーを巻いた悠人が階段を下りていると、廊下と1階のリビングを隔てる扉が開き、理沙が顔を出した。トレンチコートを着ている彼女を見るに、室内で過ごすのではなく、外出するつもりでいる気だろう。

 

「行くの?」

 

 『何処に』を訊かないのは、わざわざ訊くまでもなくわかっている事の表れだ。

 そして、当然その問いに対する悠人の答えは決まっていた。

 

「うん」

「そう……。それじゃあ、送ってくわ」

 

 理沙の手には、車の鍵が握られていた。おそらく、最初から一緒に行くつもりだったのだろう。

 

「いいの?」

「暗くなったし、外は寒いからね。それに、どうせなら早いほうが良いでしょう?」

「……ありがとう。それじゃ、お言葉に甘えて」

 

 悠人がそう言うと、2人は玄関から暗い夜空の下へ出ていった。

 

 

 

 

 

 悠人は車に乗り込むと、ついさっきまで剣を交えていた相手の運転によってユキが入院する病院へと向かう。自宅を出て5分と経たないうちに雪が降り始めたが、幸いにもさほど勢いは強くないので、路面に積もる心配はなさそうだ。さらに雪の影響で交通量が減っていたため、悠人にとっては非常に好都合だった。

 悠人はふと、隣でハンドルを握っている理沙の横顔を横目で見た。彼女は自分のために裏であれこれと動いたり、行く手を阻んだり、手を貸したりしているが、いまいち一貫性のない彼女の行動に、悠人は今、疑問を感じると共に、その真意を図りかねている。

 

「…………もしかして、怒ってる?」

 

 すると、赤信号で止まった際、横からの視線を感じとった理沙が悠人に問いかけてきた。

 

「怒る? オレが? 何で?」

「だって、私はユキちゃんをあの場から解放できる立場であったにも関わらず、意図的に監禁していたのよ。叱責されてもおかしくないと思ってたけど」

 

 ユキをログアウトさせたことから、確かに理沙はいつでも彼女を自由にすることが出来たはずなのだ。悠人とユキにしてみれば、再会を遅らされ、本来あるべきだった時間を奪われたようなものだろう。

 

「何か理由があるんでしょ? りーちゃんは意味のないことをしない人だって、ちゃんと知ってるから。ちなみに、理由は?」

「ごめんね、それは言えない。言いたくない」

「だと思った」

 

 悠人の乾いた笑い声が車内に響く。理沙が悠人のことを知っているように、悠人もまた、理沙のことを知っているのだ。尋ねる前から大方の想像はついていたのだろう。

 

「理由を話したら、今度こそ本当に悠人ちゃんに怒られるだろうから。……私ね、悠人ちゃんに嫌われたくないの」

 

 ほんの少し目を伏せた彼女の顔が、酷く寂しそうに映る。端整な顔立ちと相まって、それはどこか儚げな雰囲気を醸し出していた。

 

「言いたくないなら言わなくていいし、こっちも無理に聞き出す気はないよ。りーちゃんとは喧嘩したくないし。……それにユキが無事だったんだから、それだけで十分だよ」

「……ありがと。悠人ちゃんは優しいね」

 

 そう言われた悠人は「別に普通だし」と小さく呟きつつ、運転席とは反対方向にそっぽを向いた。彼の表情を直接見ることは出来ないが、窓に映った様子からただの照れ隠しなのだと理沙は思った。恥ずかしさを感じたり褒められたりすると、相手から顔が見えないように背ける癖は相変わらずのようだ。

 そんな彼の様子が愛らしくて、可笑しくて、理沙は口元に笑みを浮かべながら、助手席の悠人に向けて手を伸ばした。左手が髪に触れると、彼の頭を優しく包み込むように撫で始める。

 

「…………またそうやって子供扱いする……」

 

 悠人は助手席のドアに肘をつき、頬杖をつくと一見して不貞腐(ふてくさ)れたような態度をとるが、やはりこれもただの照れ隠しだ。先ほど同様、窓に反射する悠人の表情に加え、ほんのり赤く染まった耳と横顔がそれを示している。

 

「子供を子供扱いするのは当然でしょ」

 

 本気で嫌がっているなら、手で振り払うなり拒絶する言葉を吐くなりすればいいが、そうしないところを見ると満更でもないのだろう。ユキやキリト、アスナといった面々の中では年長ということもあり、『年上だから』という考えが無意識に働いて背筋を伸ばしがちだが、長年の付き合いである理沙には気を張る必要がない。頭を撫でられることに対して何もせずされるがままなのは、彼なりの理沙に対する甘え方なのかもしれない。

 

「……信号、そろそろ変わるよ」

「はいはい」

 

 理沙が左手を離して再びハンドルを握り直したところで、信号の赤色灯火が青色になった。アクセルを踏んで緩やかに車が加速し始めると、止まっていた景色も動き出す。

 

「それにしても、最後のあれは中々良いシーンだったわね」

「あれって、どれ?」

「ほら、悠人ちゃんがあの子を起こす場面のことよ」

 

 理沙が言っているのは、悠人が眠っているユキに口付けをして目を覚まさせた時のことだ。眠っている彼女を起こすためとはいえ、人の見ている目の前でするのは少々、いや、かなり緊張した悠人だったが、その話を掘り起こされた彼は恥ずかしさで顔が徐々に熱を帯びてきてしまった。

 

「いや、まあ…………恥ずかしい気持ちはあったけど、あの場ではああするしか方法がなかったわけだし。それに相手がユキなら、オレも全然やぶさかでは……」

「あら、別にキスしなきゃ目覚めないとは言ってないわよ?」

「…………うん?」

 

 理沙の言葉が引っかかり、悠人の顔から急速に熱が冷めていく。

 

「今の、どういう意味?」

「だから、別にキスする必要なんてなかったのよ」

「…………は?」

「私はあくまで『刺激を加える必要がある』と言っただけ。もっと言えば、アバターの皮膚感覚が刺激されればそれで良かったのよ。手を握るとか、頬をつねるとか」

「は? はあ!? い、いやいや、だってりーちゃん、キスがどうとかって……」

「目を覚まさせる手段の1つとしてキスを例に挙げただけで、そうしなきゃいけないとは言ってないわよ」

 

 運転中の理沙は正面を向きながら悠人と会話をしているが、悠人が彼女の横顔を見ると、理沙の口元が微妙に吊り上っている。可笑しくてしかたがないが、笑いを堪えている証拠だ。つまり、悠人はまた、理沙のからかい遊びに付き合わされ、嵌められていたのだ。

 

「だ・か・ら!! そういうのはもっと早く言ってよ!!!!」

 

 怒り半分、恥ずかしさ半分を適度にブレンドした悠人の声が車内に響くと、笑いを堪えられなくなった理沙は大きな声で笑い出した。

 

 

 

 

 

 悪天候による交通量の減少が幸いし、以前理沙に送ってもらった時よりも早く病院へ着くことが出来た。時間が遅いため既に門は閉ざされており、ガードマンが日中詰めているボックスも無人だったので、理沙は車を路上に停めると、2人して職員用の小さなゲートから敷地内に入る。

 広大なパーキングを横切り、階段を上って正面エントランス前まで来る。自動ドアの前で数秒間立ち尽くしてみたが、開く気配は一向になかった。奥の受付カウンターには灯りがあったので、左側にあるスイングドアから院内に入った。

 

「一応、当直の看護師に話をしておくわ」

 

 そう言って理沙はロビーに整然と並べられたベンチの前を通過し、受付へ向かう。一方の悠人は逸る気持ちを抑えることが出来ず、ユキがいる病室へ足早に歩き出した。

 通い慣れた道筋を辿り、1階廊下の中ほどにある階段に来ると、1段飛ばしで昇り始めた。もう少しで会える、と思うと心臓の鼓動は否応なく早まり、期待に胸が膨らみ始める。左手で階段の手すりを掴み、踊り場に足を着いた――――そんな時だった。

 

 ……コツッ……コツッ……。

 

 悠人の耳が、静寂に満ちている院内で人の足音を捉えた。

 自分以外の人間が病院内を徘徊しているとは予想していなかったので、悠人の動きが一瞬止まる。一体誰が、と考えるが、答えはすぐに出た。

 

(警備員の巡回、かな?)

 

 踊り場から2階まで移動すると、遠ざかる足音を聞きながらそっと廊下に顔を出す。左右を見回すと、右側の離れた場所で動く人影を発見した。だが、その様子を見た瞬間、悠人の中で奇妙な違和感が2つ生まれた。

 まず1つは、足取りが酷くおぼつかないこと。身体が左右に揺れる様子は酒に酔っているのではと思えるほどで、歩くスピードも一定ではない。

 もう1つは、暗い廊下を歩いているにも関わらず、懐中電灯の1つも持っていないことだ。廊下の所々で小さな照明が灯っているので歩けなくはないが、それでも警備員がライトを持たずに巡回などするわけがない。

 この時点で、悠人は廊下の先にいる人物が警備員である可能性を捨てた。それとほぼ同時に、不審な人物が右手に何かを持っていることに気が付いた。

 

(何だ、あれ……?)

 

 目を細め、不審者の右手に意識と視点を照準する。暗がりで何かわからなかったが、謎の人物が等間隔で灯っている小さな照明の横を通った時、悠人はそれが何かを理解し、次いで鋭く息を呑んだ。

 照明の光を受けて鈍く輝く、細長いナイフ。サバイバルナイフだ。

 非現実的な状況に遭遇した悠人の思考が停止し、表情は凍りつく。衝撃から回復するまで数秒を要したが、真っ先に思ったのは、何故ナイフを持った男が病院内を徘徊しているのか、ということだった。

 生唾を飲み込んで息を殺し、廊下の影に身を潜めていた悠人だったが、一瞬だけ見えた後ろ姿が頭の隅をチクチクとつつく。自分はかつてあの後ろ姿を見たことがある、それもつい最近に、と直感した悠人は、直後に身体が動いて廊下に飛び出していた。

 自分以外の足音が廊下に響いたのに気が付き、男の歩みがピタリと止まる。ゆっくり振り返り、照明が男の顔を露わにしたことで、ようやく悠人はナイフを持つ危険人物の正体を看破出来た。

 

「…………須郷……信之……」

 

 絞り出した声は酷く頼りないものだったが、相手の耳に届かせるには充分だった。

 

「……誰だい? 僕を知っているのか?」

 

 訝しむ須郷の様子からして、彼はまだ悠人の正体に気が付いていない。それもそのはず、悠人の近くに灯りはないため、須郷にしてみれば暗闇の中に誰かが立っている程度しかわからないからだ。

 

「……いや、待てよ。今の声には聞き覚えがあるな……」

 

 しかし、悠人と須郷は1度だけキリトの病室で会話を交わしたことがある。須郷は声を頼りに暫し黙考して記憶を辿ると、答えに行き着いて沈黙を破った。

 

「…………ああ、そうだ、思い出したよ。倉崎君だったね。桐ヶ谷君の病室で1度会っているはずだ。どうして君がここに?」

 

 薄暗い廊下でナイフ片手に佇む須郷に恐怖を感じつつ、悠人は唇を動かした。

 

「そっちこそ、こんな時間に何してるんだ? しかも、そんな物騒な物を持ち歩いて」

「ああ、これかい? これはね、躾のなってないガキに、今から罰を与えようと思って持ってきたんだ」

 

 抑揚のない声で呟く須郷をよく観察すると、数日前に出会った時とは印象がまるで違った。

 丁寧に撫でつけられていた髪は乱れ、ネクタイは解けて首にぶら下がった状態だ。好青年を思わせる風貌は見る影もなく、狂気に満ちた姿は寧ろ通り魔なのではないかと錯覚するほどだ。

 

「まったく、本当に腹が立つよ。ゲームしか能のない小僧が、あっち側で僕に向かって偉そうに説教するんだからさ。全てにおいて劣っているクズが、この僕の足を引っ張った罪は万死に値する」

 

 須郷の言っている意味が、悠人にはなんとなく理解出来た。

 『小僧』はキリトを、『あっち側』は仮想世界のことを指すのだろう。そしてキリトを救出に行ったアスナとリーファ側には茅場が手を貸しているので、彼の助力を得たキリトが須郷に痛手を負わせた、とみて間違いない。その事で須郷は憤りを感じているようだが、彼の言動からして、これからしようとしているのは説教程度の生易しいものではない。

 

「…………あんた、まさか……キリトを殺すつもりで来たのか?」

「言っただろう、万死に値すると。死以外にはあり得ない。あのガキは殺す」

 

 それがさも当たり前とでも言わんばかりの様子に、悠人は身体の芯から恐怖を感じて背筋が凍りついた。狂っている、壊れていると、そう思わずにはいられなかった。

 すると突然、須郷は止めていた足を再び動かし始めた。ただし、それはさっきまでの進行方向とは逆で、言い換えれば悠人に近付くように歩み出したのだ。

 

「けどその前に、この事を知った君を殺すことに決めたよ」

 

 須郷の歩むスピードは速まり、開いていた距離はみるみるうちに縮まっていく。

 

(…………殺す? ……誰が? …………あいつが、オレを……?)

 

 一方の悠人は、須郷の吐き出した言葉の意味を咀嚼(そしゃく)して飲み込むのに数秒を要し、その間足が床に深く根を張っているかのようにその場から動けなかった。そんな彼が我に返り、足を床から離すことが出来たのは、須郷が右手に持ったナイフを無造作に悠人の腹へと突き出した時だった。

 

「――――ッ!」

 

 悠人は咄嗟に身体を右側へ流し、コートの一部を裂かれつつもどうにかナイフを躱すことが出来た。もつれそうになる足を必死に堪えて背中から壁にぶつかると、そのまま壁に身体を預けて立つ。

 

「あんた、自分が何をしようとしているのかわかっているのか? 変な気は起こさずにおとなしく自首しろ」

「まったく、最近のガキ共には人に説教するのが流行ってるのかい? ほんっと、ムカつくなあ」

 

 須郷は左手で頭をガシガシと搔きむしり、髪がさらに激しく乱れる。

 そこでようやく気が付いたのだが、悠人が須郷の顔を覗き込むと、見開かれた眼の右側は瞳孔が小さく収縮しており、おまけに酷く充血していた。その理由は、キリトがペインアブソーバをレベルゼロにした状態で須郷の右眼を剣で貫いたので、仮想の痛みを持ち帰り、現実に還元して多大な影響を及ぼしたことの結果だ。

 そんな焦点を失った右眼を見た後、悠人はさっきよりも近くにある須郷のサバイバルナイフに目をやった。ゲーム内の死ではなく、本物の殺傷力を備えた道具は、文字通り悠人を永い眠りにつかせることが出来る。そう認識した時、悠人の身に重くて冷たい恐怖という名の魔物が襲いかかった。

 速く、浅い呼吸を不規則に繰り返し、身体が強張る。右手で左腕を押さえ、恐怖に抗おうと自らを奮い立たせているが、リアルな《死》のイメージを払拭することが出来ず、息が詰まりそうになった。

 その時、悠人はふと、刃渡り20センチのナイフを手にする須郷と、大振りなダガーを携えていたかつての宿敵――――PoHとイメージが重なった。しかし、イメージが重なったのは一瞬で、須郷とPoHの違いが自然と頭に浮かぶと、悠人は今自分が感じている恐怖に違和感を抱き始めた。

 

(なんでオレは、こいつに怯えているんだ?)

 

 サバイバルナイフと、大型ダガー。

 荒々しい殺意と、不気味なほど静かで突き刺すような殺意。

 現実世界での死と、アインクラッドでの死。

 微妙な違いはあるにせよ、それぞれの比較対象に差はない。にも関わらず、恐怖の大きさは何故かPoHよりも須郷のが大きい気がしていた。ナイフ術の達人でもなければ武道の心得があるわけでもない須郷よりも、人を殺す技術を持っていたであろうPoHのがずっと大きいはずなのに、だ。

 

(あいつのが、もっと怖かった。…………でも、オレは逃げたりしなかった)

 

 そう考えると、悠人の頭が急速に冷え、停止していた思考が一気に加速した。《死》のイメージで覆い尽くされていた脳内がクリアになり、狭まっていた視野は広がって少しだけ落ち着きを取り戻す。

 

(PoHよりもずっと劣るこいつに、怯える必要なんてない…………ないんだっ!!)

 

 すると、悠人の表情は自然と引き締まり、瞳には強い輝きと意志が宿る。その様子は、数秒前とはまるで受ける印象が違っていた。

 そんな気持ちの変化など須郷が知るはずもないが、悠人の様子が変わったことを察知した彼は大きく眉を吊り上げた。

 

「……なんだ、その眼は。生意気だなあ……」

 

 わずかな怒気がこもった声を呟くように漏らすと、須郷は脱力した状態から右腕とナイフを持つ手に力を込めた。

 

「死ねっ、小僧おおお!!」

 

 須郷が狂ったように絶叫しながら悠人に襲いかかる。

 

「う……ああああっ!!」

 

 一方の悠人は湧き立つ勇気をかき集めると、反射的に右手で拳を作って思いっきり振りかぶった。

 無我夢中で力強く握った右の手拳(しゅけん)が、偶然にもカウンター気味に須郷の左頬に喰い込んだ。渾身の力で殴り飛ばしたことで須郷は突き飛ばされ、背面の壁に思いっきり激突する。須郷の手からナイフが落ちた。

 

「……がっ…………!!」

 

 さらには壁と衝突した瞬間に後頭部を打ちつけたのだが、打ち所が悪かったらしい。直後に目を回し、ズルズルと壁にもたれながら床に倒れてしまった。倒れた後は一向に動き出す様子がないことから、どうやら気を失ってしまったようだ。

 

「はあ……はあ…………」

 

 心臓の鼓動が全身に響き渡っているかのように、強く、激しく波を打つ。殴った右手の甲に広がる痛みが残滓(ざんし)となって消え去るまで、悠人は床に横たわっている須郷を見下ろしていた。

 

(……そうだ、ユキの所に…………いや、先に警備員を……)

 

 昂ぶっていた気持ちが落ち着き始めると、本来の目的を思い出し、同時にこの状況をどう処理するかに思考が割かれた。今の須郷は気を失っているが、いつ目覚めるかわからない上に、放っておけばまた悠人を襲いかねない。さらには、キリトがいる病室に乗り込んで彼に刃物を突き立てるのは容易に想像出来る。1階まで戻り、受付近くのナースステーションにいるであろう看護師にこの事を伝えるため、悠人は1歩踏み出した。

 

(――――ッ!?)

 

 足を動かした瞬間、腹部を疾る強烈な熱と刺激に襲われ、悠人は顔を大きく歪ませた。咄嗟に左手で腹を押さえるが、その行為が尚更刺激を強めたため、彼は左手を腹から離した。

 悠人が視線を下に落とすと、薄暗い廊下でもわかるほど着ている服が赤く染まっていることに気が付いた。無我夢中でわからなかったが、須郷を殴り飛ばした時に斬りつけられた傷だろう、と悠人が認識した途端、熱と痛みがさらに増して襲いかかった。

 

(……やば…………これ……歩けない、かも……)

 

 痛みに屈して膝をつき、その場に倒れ込むと、悠人はそのまま冷たい廊下に身体を預けた。今までで味わったことのない痛みに対し、悠人はその場で浅い呼吸を繰り返すことでしか抗えなかった。

 しばらくして遠くで誰かの声を聞いた気がしたが、その時点で既に悠人の意識は朦朧(もうろう)としていた。声の主が誰かを知るよりも早く、彼はゆっくりと瞼を閉じた。

 

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