視界一杯に広がる、真っ白な天井。
鼻腔をくすぐる、薬品類の匂い。
一定のリズムを刻む、電子音。
目が覚めた悠人の意識は最初こそぼーっとしていたが、段々と意識が鮮明になってくると、彼は自然と周囲を見回した。そうしたことで、悠人はものの数秒で自分が病院のベッドで横になっていることに気が付いた。
(なんでオレ、こんな所で寝てるんだ……?)
記憶の糸を手繰り寄せると、断片的ではあるが悠人は何があったのかを朧げに思い出すことが出来た。
自分に向けられた明確な殺意とナイフ。
疾る痛みと赤く染まる服。
遠ざかる意識と、それに反比例して近づく《死》への恐怖。
それらを思い出した時、それまでバラバラだった記憶の欠片がひとりでに連結し、悠人はすべてを思い出した。その瞬間、彼は両眼を見開き、ガバッと突然ベッドから上体を起こした。
「…………ッ!」
すると、急に身体を起こしたからか、腹の中心部にピリッとした痛みが疾った。ふと視線を下に落とすと、自分の腹に包帯が何重にもグルグルと巻かれていることに気が付いたため、それにより『殺されかけた』という事実がより一層悠人の中で現実味を帯びてきた。
「気が付いたみたいね」
聞き慣れた声の主は、悠人のベッドの隣で丸椅子に腰掛けて彼を見ていた。
「りーちゃん、オレ、何がどうなって……?」
「須郷に刺されて廊下で倒れていた悠人ちゃんを、私が見つけたの。お医者様が言うには、あと少し傷が深かったら内臓にまで達していたそうよ。出血は激しかったみたいだけど、命に別状はないらしいわ。ただ、少しの間安静にしないと駄目だから、しばらくはここで入院ね」
そう言われた悠人は、安堵の息を漏らし、起こしていた上体を再びベッドに沈めた。仰向けの状態から見える真っ白な天井は、ほんの2ヶ月程前に毎日目にしていた天井と瓜二つで、また退屈な入院生活に逆戻りかと思うと少しだけ気が重くなった。あの地獄のようなキツいリハビリがないのが、唯一の救いだった。
「……ん? ちょっと、待って。ここって何処の病院?」
「悠人ちゃんがあの子に会うために通ってた所よ」
「……それじゃあ…………」
するとここで悠人の言葉を遮るように、理沙は右手を持ち上げて彼の目の前にかざし、ストップをかけた。
「さっきも言ったでしょ。命に別状はないけど、しばらくは安静だって。気持ちはわかるけど、まだ傷も塞がっていないんだし、ここで大人しくしていなさい」
いつもは優しい理沙が珍しく悠人に対して強い口調で諭すが、裏を返せば彼の身を案じている何よりの証拠だ。今すぐにユキの元へ行きたい気持ちを汲んであげたいものの、自分の足で彼女の病室に行くのは流石に厳しいと理沙は判断した。
悠人もそこまで子供ではないので、自分の事を心配してくれる理沙の気持ちが全くわからないわけではない。しかし、頭で理解していても、時として感情が優位に立つ場合はある。
「りーちゃんの言いたい事はわかる。でも、オレ、ユキと約束したんだ。現実に戻ったら真っ先に病院へ……ユキに会いにいくって。あいつ、多分その言葉を信じて待ってるから…………だから」
「別に悠人ちゃんがそこまで気負う必要ないわよ」
悠人の言葉に被せるような形で理沙が声を発すると、彼女はそのまま言葉を紡いだ。
「それに、女の子がいつも守られるだけの立場だと思ってたら大間違いよ。ただ待つだけじゃなくて、自分から動いて道を切り拓くぐらいの事は出来る。あの子なら特に、ね」
理沙がいつも見せる自信ありげな表情を見た悠人は、最初は彼女が何を言っているのかわからなかった。
しかし、彼女が発した言葉の意味は、悠人を訪ねてやってきたとある人物が現れたことで判明した。
病室の扉が静かに開き、ユキが点滴の支柱を支えにして部屋に入ってきた。肌は陶器のように白く、身体の線は長期の入院生活の影響でひどく痩せ細っている。黒い髪は背中にかかるほどの長さで、悠人の記憶にある彼女の姿とは違う出で立ちだった。
それでも、強い意志を宿した瞳は、悠人が知っているユキのものと寸分の狂いもなく同一だった。
予想外の来訪者に驚いた悠人は、思わず声を失う。そして彼とユキの視線が交錯すると、彼女は微笑み、全身から上がっている悲鳴を抑えつけ、意志の力だけで足を前に動かし始めた。この時、理沙は立ち上がり、何も言わず懸命に歩くユキの横を素通りしたが、ユキは歩くことに集中し、悠人はユキの歩みを内心ハラハラしながら見ていたため、2人は理沙の存在を完全に意識の外へと置いていた。
おぼつかない足取りで1歩ずつ悠人のベッドに歩み寄り、時間をかけて彼の真横にたどり着いた。ユキは肩を上下に動かして大きく息をしているが、筋力の落ちた身体で歩くのがどれだけ大変な事かを理解している悠人にとって、その姿は胸を打つものがあった。触れれば壊れてしまいそうな儚さを秘めているユキに、悠人はゆっくりと左手を伸ばす。ユキもそれに応えるように、右手を悠人に向けて伸ばした。
しかし、支柱を支えにして立っていたユキがバランスを崩したため、2人の手は触れ合うことなく、ユキが悠人のベッドに倒れ込む形になった。
「だ、大丈夫か!?」
「うん……。ちょっと……疲れちゃった、みたい…………」
そう言うユキの額には汗が滲んでおり、伸びた髪が張り付いていた。悠人は右手でユキの顔にかかっている髪を掻き分けると、そのまま手をそっと彼女の頭にのせ、優しく撫で始める。疲れ切っていたユキの表情が、わずかに緩んだ。
「最初は、待ってるつもりだったの。でも、さっきのお姉さんから、カイトがここにいるって聞いて…………そしたら、居ても立っても居られなくなっちゃった」
悠人がユキを探し求めたように、ユキもまた、悠人を探し求めた。2人の強い想いが実を結び、あれだけ遠くに感じた距離は、たった今、ゼロになった。
悠人はさきほど掴み損ねたユキの右手をとり、身体と魂の芯にまで染み渡る体温を感じた。長く苦しい戦いを終えた成果を、彼はようやく掴むことが出来たのだ。
慈愛に満ちた表情を浮かべながらお互いに見つめ合い、ユキは両眼に涙を滲ませ、悠人は照れ臭そうにはにかむ。いたわるように彼女の頭を撫でる手はそのままに、ユキの帰りを待ち望んでいた悠人は、そっと声に出して呟いた。
「おかえり」
「うん…………ただいま」
病室から静かに立ち去った後、理沙は廊下の片隅に設置されている横長のソファで休んでいた。悠人とユキの再会を邪魔してはいけないという、彼女なりの気遣いだろう。
入院患者が看護師と共に目の前を通り過ぎていくのを見つつ、理沙は上着のポケットに手を突っ込んだ。そのまま看護師の後ろ姿を眺めながら、ポケットの中に入れてある小さな物体の感触を指先で確かめていると、理沙は自分の右側に誰かが座る気配を感じた。
「彼の容体は?」
発せられた声の行き先は、間違いなく自分に向けられたものだと理沙は察した。
そして彼女は声の主がいる方向とは異なる方角に顔を向けつつ、端的に返答する。
「傷は残るけど、命に別状はないです。少しの間入院することになりますけど、春までには退院出来ますね」
「そうか、それなら良かった」
明るい調子で話す男が安堵の声を漏らした時、ようやく理沙は声の主に顔を向けた。
「良かった? 全然良くないです。殺されかけたんですよ? あの子が一体どれだけ苦しい思いをしたか……それを考えると、私は胸が張り裂けそうで…………。正直、代われるものなら代わってあげたいくらいです」
「……感心するというか、呆れるというか…………君の悠人君に対する態度を見ていると、どれだけ彼を想っているのか嫌という程わかってしまうよ」
「それは褒め言葉として受け取っておきますね」
理沙の返答に対し、男は苦笑する。実の弟ではなく
「それより、さっさと用件を済ませましょう。別にあの子の様子を知りたいがために、ここまで足を運んだわけじゃないですよね? ……菊岡さん」
理沙にそう言われると、線の細い生真面目そうな顔立ちの男――――菊岡誠二郎は、太い黒縁眼鏡の山を、ほんの少しだけ持ち上げた。
「勿論、本題はそっちだよ。でも、世間話の1つもなしに、いきなり本題から入るのは少し素っ気ないと思ってね。…………それで、例のデータは取れたかな?」
「ええ。ここに」
理沙がポケットに突っ込んでいた手を出すと、そこには小さなUSBメモリーが握られていた。彼女がメモリーを菊岡に手渡すと、受け取った菊岡は満足そうに微笑んだ。
「うん、確かに。…………それで、彼の研究に少なからず
「いいえ……」
ため息混じりにきっぱりと否定した理沙は、そのまま言葉を紡いだ。
「須郷は自分の研究に陶酔していて視野が狭まっていたみたいですけど、対抗措置の開発は充分可能です。それに、まだはっきりとは断言出来ないですけど、これはおそらくナーヴギア以外では実現不可能だと思います。VRゲーム機の市場はアミュスフィアが主流ですし、ナーヴギアがほぼ全て廃棄されている今だと、彼の研究自体はほとんど意味を成し得ないでしょうね」
SAO事件を踏まえ、アミュスフィアは脳の物理的破壊が可能なナーブギアと違い、電磁パルスの出力が大幅に弱められている。機能的観点で言えば、これが須郷の研究を机上の空論にしている大きな要因だと、理沙は付け加えた。
「ふうん……僕はそっち方面の専門家じゃないけど、要するにこのメモリーに入っている研究データは、すべて無駄ってことになるのかな?」
露骨に残念そうな様子を見せる菊岡に対し、まだ話は終わってませんよ、と理沙は言葉を添えた。
「私も最初はそう思ってました…………300人の未帰還者が目覚めるまでは、ね」
「ほう? と言うと?」
今度は興味深そうな表情に一変し、理沙の意味深な発言の説明を求めるかのように、菊岡は片眉を持ち上げた。
「未帰還者はもれなく全員、あらゆる信号を脳に直接送られていました。痛みや苦しみ、時には喜びといった種類のものを、数ヶ月に渡って。……ですけど、知っての通り、未帰還者は誰も実験中の記憶がないんです」
「確かに、今挙がっている報告の中だと、SAOをクリアしてからの記憶を覚えている者は、桐ヶ谷君と綾瀬さんを除いていないからね」
「あの2人は例外ですよ。……それで、最初にそれを聞いた時は私も疑問に思ったんですけど、その理由はすぐにわかりました。夢、です」
「……夢? 夢っていうと、寝ている時にみる、あの夢のことかい?」
「ええ。実験に携わっていた研究員達は、
ここまでの話を聴いた菊岡は、自分なりに解釈すると、口に出して呟いた。
「実験中の脳は、夢をみている時と同じ状態だった。だから、未帰還者は目覚めた時、自分が非人道的な目に遭っていたという記憶がない、と。ここまでは理解出来たけど、この話は一体何処に行き着くのか、僕は皆目見当がつかないのだけれど…………」
「私の言いたい事、まさしく菊岡さんがたった今言ったことですよ」
「んん?」
「少し言い方を変えますけど、VRワールドからログアウトする際、仮想世界での記憶を現実世界に持ち込めないよう、記憶を意図的にブロックするんです。このメカニズムが解明出来れば、もし今後《プロジェクト・アリシゼーション》に外部の人間の協力を仰ぐ場合が出てきたとしても、その人物から情報が漏れるリスクはなくなるはずです」
理沙が口にした《プロジェクト・アリシゼーション》は、まだ一部の人間しか関わっていないが、関係者は今後も増える予定だ。現時点で候補に挙がっている人物達は、ありとあらゆる経歴を調べ、高い能力に加えて口の堅い人間ばかりである。
しかし、仮想世界というジャンルは、まだまだ未知数なことが多い。どれだけその分野の研究に秀でた者が集まっていたとしても、いずれ自分達では解決できない大きな壁にブチ当たる時が来る――それこそ、仮想世界での動作に慣れている人物の協力を必要とする事態――のではないかと、理沙は危惧していた。
理沙の考えを聴いた菊岡は、目を丸くし、次いでこめかみを押さえて力の抜けた笑いを漏らした。
「ははっ……まさか彼の研究がもたらした偶然の産物をプロジェクトに組み込もうだなんて。中々思いつかないよ」
「少なくとも、須郷の実験データよりは価値がありますよ」
「いやはや、君が味方で本当に良かったと、僕は心底思うよ」
「とは言っても、今言ったことを実際に活用できるかどうかは、これから検証しないといけませんけどね……。それじゃあ、渡す物は渡しましたし、私はこれで失礼します」
そう言うと理沙はソファから立ち上がり、その場をあとにするため歩き出した。
「……ああ、そうだ。そう言えば、君に聴きたいことがあるんだけど……」
しかし、背中に投げ掛けられた菊岡の言葉に呼び止められたため、理沙は足を止めてその場で振り返る。彼女と菊岡の視線が、菊岡の黒縁眼鏡を通して交わった。
「今回の件に関して、僕は『実験データをコピーし、それを持ち帰る』ということ以外、やり方はすべて君に一任すると言ったね?」
「…………何かマズイ事がありましたか?」
「いや、今更君のやり方にケチをつけるわけじゃないし、そのつもりもない。結果として与えられた仕事をきちんとこなしたんだから。ただ、今までの事を振り返ると、綾瀬由紀さんを仮想ラボから隔離して君の監視下に置いたのは、本当に必要だったのかと思ってさ」
ユキが実験の餌食にならなかったのは、約300人のSAOプレイヤーの中から、理沙が意図的に彼女を隔離したからだ。
しかし、任務を遂行するにあたって、ユキ個人を実験から救い出すような行為が必要だったのかと考えると、はっきり言って余計な手間を増やしただけに過ぎない。彼女が任務完遂のキーパーソンであれば話は別だが、ユキがいようといなかろうと、今回の結果に与える影響は1パーセントにも満たないだろう。菊岡からすれば、理沙がする必要のない余分な仕事をして無駄に労力を割いたように見える。
ただ、菊岡がこれまで見てきた理沙の仕事ぶりを振り返ると、彼女の行為で無駄なものは一切なかった。とすると、今回のことも何かしらの意味があるのではないかと、菊岡は考えたのだ。
「君は倉崎君のことになると、いつもの合理的な判断を欠く傾向にあるからね。彼女を実験から解放したのは、倉崎君のためかと思ったんだが…………どうかな?」
「確かに、悠人ちゃんのためでもあった…………かもしれません。あの子が世界樹の上に到達するまでの労力に見合った対価はあって然るべきですから、ちょっと早く会わせてあげるくらいならいいかなって。…………でも、それは正直に言っておまけみたいなものなんですよ」
「その言い方だと、彼女を隔離した行為には、正当な理由があるということかい?」
「ええ、まあ。今回の件は全てが上手く繋がって、私が考えうる最良の結果になりましたけど、当然失敗する可能性もありました。須郷の気を逸らす時間稼ぎに仕向けた明日奈ちゃん達があっさりやられた場合、あの男は私が研究データをコピーして盗み出そうとしていることに気が付いていたかもしれません。もしそうなったら、私は躊躇なくユキちゃんを部屋から出してラボの
理沙の口元に仄かな微笑が生まれる。何も知らない者がその笑みを見れば美しいと捉えるだろうが、菊岡が感じたのはそれと相反するものだった。
「明日奈君は時間稼ぎに、綾瀬さんはもしもを考慮して自分が逃げるための囮に利用するつもりだったのか。用意周到だな、君は」
「策はどれだけ練っても損することがないですから。…………それに、悠人ちゃんはユキちゃんの事を大事に想っているでしょうけど、私はあの子に何の感情も湧いていないので。悠人ちゃんは兎も角、ユキちゃんはどうなろうと関係ないです」
理沙は遠い目を浮かべ、力の抜けた笑みを零した。心底どうでもいいと言わんばかりの表情は、今の言葉が本心なのだと菊岡に確信させるのに充分だった。
「あっ、でも、この事は悠人ちゃんに言わないで下さいね。私がユキちゃんを利用しようとしていたなんて知ったら、あの子に怒られちゃいますから」
それだけ言うと、理沙は再び菊岡に背を向け、足早に遠ざかっていった。
「…………まったく、君ほど敵に回したくないと思える人はいないよ」
残された菊岡は理沙の後ろ姿が見えなくなると、自分以外の誰にも聞こえないような声でポツリと呟いた。
『VRゲーム機における電磁パルスの出力の強度が、フルダイブ技術による洗脳に大きく関与している』というのは、原作に記述されていない拙作の独自設定です。