ぼくたちは勉強ができない 邂逅の後輩編   作:愉快な笛吹きさん

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「……い。……ぱい」

 

「……ん。……くん」

 

 心地よいまどろみの中、成幸の耳に誰かの声が聞こえてきた。

 二人。それもどちらも女性のものだ。誰かを呼んでいた。

 

「――輩。――輩!」

 

「――君。――君!」

 

 再び呼び声。切迫した状況なのか、トーンが少しばかり上がっていた。むくりと起き上がる成幸。

 周囲を見回すものの辺りに人はいないようだ。ならばと駆けつけようとして――逡巡する。声はそれぞれ反対の方角から聞こえている。果たしてどちらを選ぶべきなのか。

 

(……いや、どっちもだろ)

 

 と、瞬時に思い直す。力の及ぶ限り人に寄り添うことが亡き父の、ひいては今の自分の信条でもあった。片方を助けられたなら、急いでもう片方へも駆けつけよう。

 そう決意した瞬間、不思議なことが起こる。気付けば、声のする方にひとり走っていく者がいる。

 

「……俺?」

 

 既視感だらけの背中に声を上げると、立ち止まったそいつが振り向いた。やはりそうだ。親指を立て、こっちは任せろと笑顔を浮かべる自身の顔を見つめ返して頷く。

 

(頼んだからな)

 

 踵を返すと、残る一人の声の方に向かって成幸が走り出した。

 刹那――

 

「――先輩っ!!」

 

 耳元いっぱいの声によって、彼の意識はそこで途切れた。

 

 

「う……ん」

 

 瞼の隙間から差し込む光に気付いてぼんやりと目を開く。少し霞みがかった視界の中、ふと鼻先に何かがぽたり落ちてきた。

 

(……涙?)

 

 意識した瞬間、視界がはっきりとしていく。見れば一人の少女がこちらを覗き込みながら目から雫を落としていた。

 ああ……と成幸が思い出す。どういうわけか自分は過去にタイムスリップしてしまい、彼女と遊園地に来ていたのだった。その観覧車の中で自分は後頭部をぶつけ――おそらく気絶していたのだろう。例の声は助けを求めるものではなく、自身を心配してのものだったらしい。

 未だこちらには気付いていないのだろう。固く目を瞑りながら、再び嗚咽を漏らしはじめた“後輩”を安心させるべく、彼女の腕に手をやる。

 

「先輩っ!!」

 

 ようやく気付いた後輩が目を開けるなり再度呼びかけてきた。大事ないとばかりに頷くと、ほっと彼女が胸を撫で下ろす。

 

「ごめんなさい先輩。私がバランスを崩したばっかりに」

 

「いや俺の方も不注意だったから。ていうか、この体勢って」

 

 申し訳無さそうにしている彼女との距離が近い。それに後頭部に伝わる柔らかな感触。

 彼女に膝枕をされている事実に遅まきながら顔が熱くなる。

 

「安全。観覧車が揺れるので先輩が転げないようにと思って。もう大丈夫ですか?」

 

「あ、はい。ありがとうございます」

 

 礼を言うと身体を起こし、再び座席に座り直す。ガラス越しから見える外の景色を見るに、もう間もなく地上に着くようだ。

 ぼんやりと眺めていると、対面に座る彼女が不意に何かを差し出してきた。

 

「発見。これがコースターで買った写真です」

 

 そういえば頭を打つ前はその話をしていたのだったか。どれどれと目を通してみれば、ちょうど頂上から下る場面だった。安全バーが外れ、コースターから吹き飛びそうになった彼女の手を咄嗟に掴んだ瞬間が写っている。

 

「すごい顔してるのな、俺」

 

 不謹慎だとは思いつつ、ぷっと笑いがこぼれてしまう。相当必死だったのだろう。目はこれでもかと思うほどに見開き、口元は突然のトラブルに遭遇したこともあってか、開ききった唇が更に風圧でめくれ上がっており、悲惨な有様だ。

 

「ひ、否定。決してそんなこと、こと……だ、ダメ。ごめんなさい」

 

 どうやら彼女も見たのは初めてだったらしい。どうにかフォローを試みるも耐え切れず、ついには吹き出してしまう。

 

 本当に、おかしそうに。

 

 声を上げて笑う彼女を温かく眺めているうちに、観覧車が地上に到着した。

 

「姉さまっ!」

 

 扉が開くやいなや、待ち構えていた彼女の妹が係員を押しのけるようにして入ってきた。こちらに目もくれずに姉の手を取ると、容疑者を連行していくような勢いで外に飛び出していく。

 

「静止。ちょっと待って……待ちなさい! 美春!」

 

 後を追って観覧車を出れば、彼女が妹の手を振りほどくところだった。ショックを受けた様子の妹に何やら告げて背を向けると、こちらにやってくる。

 

「感謝……先輩、今日は本当にお世話になりました」

 

「あ、いえ、礼を言われるほどのことじゃ。桐須せん――桐須さんが楽しめたみたいで良かったです」

 

 そう言って笑みを浮かべるが、彼女からの反応は無かった。数瞬の沈黙を置いてから微かに口元が動く。

 

「希望……」

 

「え?」

 

「その……良かったら敬語ではなく普通に話してもらえたら、と」

 

 もじもじとしながら告げてきた彼女に、成幸が気まずげに頬を掻く。今は同じ高校生であることはわかっているものの、威圧感バリバリな未来の姿の印象が重なるためについつい敬語を使ってしまうのだ。

 とはいえ言われてしまえば訂正する必要があるだろう。受け入れた成幸があらためて彼女のイメージを脳に焼き付ける。眼前にいるのはどこか儚げな雰囲気を漂わせた物腰柔らかな後輩だ。断じて学園ジャージを愛用する眼光鋭い汚部屋教師ではない。

 

「ええわかりまし――あ、いや……わかった。桐須さん」

 

 多少たどたどしくはあったものの、そう言い直すと彼女が嬉しそうにはにかんだ。

 そろそろ頃合だった。再び痺れを切らしはじめた様子の妹を尻目に、彼女が最後に申し出る。

 

「先輩の名前……まだ聞いていませんでした」

 

「え? ああ……」

 

 彼女の妹に追いまわされたおかげで、そういえばまだ名乗っていなかったことを思い出す。

 

「唯我成幸だ。その……よろしく。桐須さん」

 

 フルネームを告げた瞬間、何故か彼女がはっとした表情を見せ――笑顔に変わる。

 

「理解。納得しました。それじゃあ唯我先輩さようなら。また学園で」

 

 どこか含みのある言葉を言い残し、最後に会釈をした彼女が妹の元へ向かう。一月ぶりに飼い主と再開した犬のような表情になった彼女は姉の手を握るや、あっという間に連れ去ってしまった。

 

「はは……」

 

 姉とは違い、昔から全く変わらない妹――美春に苦笑すると、成幸は大きくため息をついた。ようやく手が空いたことで現状を考える余裕ができてしまう。

 

「やっぱり……あれのせいだよな」

 

 とぼとぼと歩きつつ、思い出すのは先の観覧車で見た夢の内容だ。逆方向に走り去っていったもう一人の自分。「――君」と呼んでいたあの声こそ、自分が“よく知る”彼女のものなのだろう。

 だとすれば……“こちら”を選び、“ここ”に残った自分はこれからどうすれば良いのか。何を成すべきなのだろうか。

 

(親父……)

 

 行き詰まった成幸が亡き父の姿を思い描く。悩んだとき、迷ったときには常に父の言動や考えが行動の指針となっていた。

 今度もまたそうしようと試みて、

 

「――!!」

 

 はたと気付いた事実に震えが走る。何故今まで気付かなかったのだろうか。この時代であれば父は“まだ生きている”ことを。

 

「父さん!」

 

 叫ぶやいなや、弾かれたように駆け出す成幸。全速力で駅に向かうと電車に飛び乗り、最寄り駅に着くと再び一目散に自分の家へと向かう。この時間であれば既に帰宅しているに違いない。

 

 走る。走る。

 

 呼吸が苦しかった。頭の中は真っ白だ。何も考えられない。全く以て自分らしくもない。

 それでも今はもう一度だけ――父に会いたかった。

 

「はあ……はあ……」

 

 どれくらいの距離を走り続けていたのか。気が付くと家はもうすぐそこに見えていた。流れ出る汗を拭うと膝に喝を入れ、足を踏み出す。

 

「くそ……」

 

 一旦立ち止まってしまったことを後悔する。急に気持ちにブレーキがかかり、弱気の虫が頭をもたげてきたのだ。

 いきなり家にやってきた男子高校生が両親に「自分は未来からやってきた息子なんです」などとのたまう。はっきりいって恐怖でしかないだろう。完全に警察案件だ。最後の部分のみ誤解釈されてしまえば隠し子云々で唯我家離婚の危機すらあり得る。

 悩みに悩みながらうろうろと玄関前を彷徨う成幸。だが……やっぱり家族に迷惑はかけられないとの結論に至った。

 

 一目見るだけで良しとしよう。

 

 そう決心すると成幸が目を瞑る。気を落ち着かせると、どうにか父に不審がられずに対面する方法を模索し始める。

 やはり道を訊ねるのが自然だろうか? そんなことを考えていた、その矢先だった。

 

「……うおっ?」

 

 がらがらと玄関が開いて中から声がした。はっとした成幸が顔を上げる。

 ――遺影と同じ姿がそこに立っていた。短く切り揃えた黒髪、笑い皺の目立つ顔、お気に入りだといつも言っていたストライプのネクタイは水希と二人、誕生日に贈ったものだ。

 

「父、さ……」

 

 喉の奥が震え、涙が滲み出る。二度と無いと思っていた光景。もう会えないと思っていたはずの父が、こうして自分の目の前に立っていた。きょとんとした表情を浮かべて。

 

(――まずい!)

 

 気付いた瞬間、成幸が慌てて目を伏せた。初対面の人間が顔を見るなり泣きだすなど怪しさ極まりない。

 

「あ……その」

 

 何とか言い訳を考えようとするも、上手い言葉が出てこない。何より一度顔を見てしまえばもうだめだった。話したいこと、聞いてほしいことが次から次へと溢れてきてしまう。

 と、

 

「……え?」

 

「なーに泣いてんだ成幸。世界史の小テストの点数悪かったのがそんなにショックだったのかよ」

 

 ぽん、と頭に手を置いた父がおどけた調子でそう言った。「できなかった」頃の自分に何度も向けてくれた、その顔で。

 

「いや、あの……」

 

「ったく、小学生の頃からちっとも変わんねーなお前は。まー安心しろって。作った俺が言うのもなんだが今回は割と難しめにしたからな。平均点もいつもより低かったはずだぞ」

 

 ははっ、と愉快そうに笑う父を見て成幸は困惑する。この時代の自分はまだ小学生のはずだ。なのに当たり前のように息子と認識されているのは辻褄が合わない、が。

 

(……いや、経緯が経緯だしな)

 

 そもそもここに来たきっかけはあの先生の胸に押し潰されたのが原因だった。その荒唐無稽さを考えれば、単純なタイムスリップだと決め付けるのは些か早計かもしれない。

 

「ほれ、いつまでも突っ立ってないで早く入れ。VIP推薦の結果もまだなんだ。復習するんなら俺が見てやるよ」

 

 そう言って、父がちょいちょいと手招きをする。

 疑問に思うこと。知らなければいけないことがいくつも浮かんでくる。でも、今だけは。

 

「うん……ありがとう、父さん」

 

 この奇跡の瞬間に身を委ねていたかった。

 

 

 たとえどんな所に来ようとも、やるべきことはいつもと同じだった。

 暗記するまで朗読を繰り返し、ペンを持つ手を動かしては白紙のノートにびっしり文字数字を埋めていく。

 

 深夜。馴染みの勉強机に向かい、成幸は今日の――彼女の汚部屋を掃除した後にやろうとしていた分の――課題をこなしていた。小気味よくペンを動かす音が部屋に響き、やがて聞こえなくなる。終了だ。

 

「ふう……」

 

 机の勉強道具を片付けた成幸がごろりと畳に寝転がる。父との劇的な再会から数時間、未だ我が身に起きたことが信じられない。てっきり単純な――どころではないが――タイムスリップだと思っていたのだが……ここには“小学生の唯我成幸”がおらず、何故か自分ががっちり息子のポジションに収まっている。

 

「パラレルワールド……かな」

 

 世界には無数の可能性があり、それと同じ数だけ世界が存在するという説。この場合は『この時代に高校三年の唯我成幸が存在している世界』に、別の世界線の自分が何らかの理由で取って代わったのかもしれない。

 

(いやいや、気にしたって意味ないだろ)

 

 と、かぶりを振って考えを打ち切る。これ以上は自分がどうこうできる問題でもない。複雑ではあるが割り切るしかないだろう。

 そんなパラレルワールドだが、自分の存在以外については殆ど違いは無かった。葉月と和樹はまだ産まれておらず、水希もまだ幼い。この頃は父にべったりだったところも何ら変わっていなかった。

 

(待てよ。なら――)

 

 成幸の胸中にひとつの想いが浮かぶ。ひょっとしたらこのままいくと父は同じように病死してしまうのだろうか? 

 可能性はある。だがそれは同時に、自身の行動次第で未来を覆すことができるのではないだろうか? かつて行けなかったはずの遊園地――部屋で見たボロボロの未使用チケットと彼女の言葉がその証だ――を無事に満喫することができた桐須真冬のように。

 

「マジか……」

 

 ぶるりと身体が震える。それは父が亡くなってから幾度となく夢想した光景。泣き崩れる母と水希の姿も、何もわからずにただきょとんとしていた赤ん坊の葉月と和希も、ひたすら途方に暮れていた自身の姿も無い、理想といってもいい世界だ。

 成幸の脳裏に数時間前の光景が浮かぶ。あれから家に入ると父はいつものように――自身にとってはあの頃のように――勉強を見てくれた。じゃれ付く水希をあやしながら担当教科である世界史の小テストを丁寧におさらいする。復習を終え、最後に「よくやったな」と父の手が自分の頭を撫でた瞬間、もはや溢れる涙を抑えることができなかった。

 

(そうだ――)

 

 成幸が頷く。この幸せを失いたくはない。何より大切な家族を再び悲しませるわけにはいかない。

 

「今度は俺が助けるよ、親父。それに――」

 

 むくりと起き上がった成幸が机の上のノートを見やる。

 いつからだったろう。孤独で辛いだけだったはずの勉強がそう思わなくなってきたのは。

 勉強が楽しくなった理由、その過程で再び思い描くようになった自分の夢。ここが過去の模倣というのなら、あいつらのことも見捨てるつもりはない。

 

「今は、またな」

 

 まだ見ぬ「できない」生徒たちに告げて、成幸は部屋をあとにした。

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