ぼくたちは勉強ができない 邂逅の後輩編 作:愉快な笛吹きさん
「珍しく早いじゃねえか。もう寝るのか?」
寝室の端っこにある小さな机に明かりを点け、父は作業をしていた。さらさらとペンを動かしていた手を止め、首だけをこちらに寄越してきた父に、成幸が小さくかぶりを振る。
「いや、明日は休みだし、もうちょっとだけ頑張るよ」
「そうか……ま、進路変更したといってもやるべきことは変わらんからな。あまり焦らずじっくりやれよ」
「うん、ありがとう」
母や水希を起こさないよう、小声で礼を言う。鷹揚に頷いた父が、そのまま大きく伸びをした。
「さて、いい加減肩も凝ってきたところだ。休憩がてら、ちょっと息子に話相手にでもなってもらうかな」
そう芝居がかったように呟くと、ぐるぐると肩を回しながら立ち上がる。すれ違いがてらにぽんと肩を叩いてきた父の背中を見て、やっぱり敵わないな、と成幸は思った。
「しかしまあ、お前もすっかりでかくなったもんだな」
ちゃぶ台に並べられた麦茶を互いに一口飲み終えたタイミングで、しみじみと父が切り出した。
「そりゃあもう高三なんだから。逆にでかくないとおかしいだろ」
苦笑しつつ、そんな感じで軽く返す。だいぶ慣れてきた他愛ないやり取りも、僅か数週間前までは到底望むべくもなかったものだ。
感慨深く思う成幸に、「それもそうだな」と父が笑う。
「唯一苦手だった筈の世界史も、いつの間にか克服してやがった。もう俺が手助けしてやることもないかもしれねえな」
「いや、俺なんてまだまだだよ」
またもしみじみと呟いた父に、成幸が自嘲混じりに否定する。克服できたのは決して自分の力だけではない。出来の悪かった生徒に対し、丁寧に指導し続けてくれた先生がいたからだ。
そんな彼女の顔をふと心に浮かべる。口を一文字に結んだ氷の女王。元いた世界では彼女の心からの笑顔を見ることは叶わなかった。そしてここでも、未だ。
口元を引き締めると、本題に入っていく。
「友達がさ」
「ん?」
「友達がいま苦しんでるんだ。習い事のせいで自分の自由が一切無いほどがんじがらめになっていて。でも才能があるから放り出せば多くの人に迷惑がかかってしまう。そんな状況でどうすれば自分が力になれるのか、わからなくって」
「ふうん……」
成幸が口を閉じると、父が顎に手を置いて考え込んだ。幾分かの時間を置いた後、ゆっくりと言葉が紡がれる。
「俺は教師になりたい――そうここで言ったな。成幸」
「え?」
出てきた言葉は随分予想とは違っていた。少し驚いた成幸だったが、父の表情が勉強で間違えたところを丁寧に解説してくれるときのそれであることに気付き、肯定の言葉を返す。
「いい返事だ。じゃあ訊ねるが、教師ってのは一体何をする仕事だ?」
いよいよ内容が学校の授業らしいものになってきた。父からの更なる問いに成幸が腕を組んで考え込む。
「自分のイメージだけど……できない人たちの気持ちを理解して、できるように導いていくことかな」
幼き日の父の言葉。そして“元”教育係の経験を通じて感じた想いを迷いなく伝える。
一瞬虚を突かれた表情になった父が、感心したような笑みを浮かべた。
「ああそうだ。単に教科書を読み上げるだけが教師じゃねえ。まずは生徒の気持ちを理解することで、どう導くべきかが見えてくる。だから聞くが――お前はその友人の気持ちをちゃんと把握しているのか?」
「!」
はっと成幸の目が見開かれる。そうだ、彼女の泣き声や「何とか助けたい」という気持ちが先行し過ぎるあまり本質を見失っていた。
何にせよ、と父が続きを口にする。
「もう一度、その友人と向き合って話してみるこったな」
「うん、参考になったよ。ありがとう父さん」
「おう。でもまあ、それについてはこっちも礼を言わなきゃならねえがな」
礼を告げると、何故か父が含みのある言葉を返してきた。残りの茶を飲み干して息をつくと、あらたまった様子で口を開く。
「……正直、桐須のことについては俺も前から気になっていた。親の意向が強いんだろうが、とにかくフィギュア第一で学園じゃほぼ孤立状態だったからな」
「えっ?」
「なんだ。まさか正体に気付いてないとでも思ってたのか? 学園長室前でのお前らのやり取り見てりゃ一目瞭然だろ」
「…………」
父の指摘に閉口する成幸。名前を伏せたのは彼女のプライバシーに配慮した結果だったが……このうえは隠したことが違う意味に取られている気がして何とも恥ずかしい。
「ま、とにかくそういうわけだ。どんないきさつがあったかは知らねえが、お前が関わるようになってくれてほっとしてる。同じ生徒同士、子供同士だからこそできることもあるだろうからな。今後もあいつの力になってやってくれ」
「はい」
切り替えた成幸が力強く返事をする。やはり父に相談したのは正解だった。少なくとも自分がやるべきことが理解できたのだから。
あとは――
(生徒同士、子供同士……か)
寝室に戻っていく父の背を見ながら、そうだったなと思い直す。今の自分はもう教育係でも、長男と父親との二足の草鞋を履いているわけでもない。だから間違えることも、失敗することもできる。
その特権に賭けてみようと思った。
「そろそろ時間か」
翌朝――重厚さを漂わせた桐須家の門扉の前にて。
一足早く外に出ていた真冬の父は腕時計をちらり見ると声を上げた。
それまで談笑相手を務めていた車の運転手の男が会話を切り上げると、邸宅の方を見やる。
「……来られたようですね」
視線の先には、左右を母と妹に固められた真冬の姿があった。いつもと違って既にジャージ姿なのは、少しでも練習時間を確保する為だろう。
それだけ桐須家の意気込みが伺えたのだが、当の本人はどこか心ここにあらずといったように感じられた。
「待たせましたか」
門扉までやってくると前に出た母親が先に待つ二人に声をかけた。
「いや、まだ少し余裕はある。とはいえ貴重なことに変わりはないからな。早速出発しよう。体調などは変わりないか? 真冬」
「……良好。何も問題ありません。父さま、母さま」
それまで能面のように無表情だった真冬が、そう言ってにこりと笑みを向けた。
機嫌良く頷いた両親だったが、真横から姉を見つめていた美春はぞっとする。姉を尊敬し、姉を誰よりも間近で見てきたからこそわかった。今の姉の声や笑顔は、びっくりするほど感情がこもっていない。
「ねえ、さま……」
昨夜の話のあと、どこか憔悴しきっていた姉の姿が蘇る。もしかして、自分たちは何か取り返しのつかない事をしてしまったのかもしれない。
このまま姉が自分たちの手の届かない所に行ってしまうのではないか。そんな予感が急速に彼女の心に渦巻いていく。
「姉さ――」
母に寄り添われ、車の中に消えて行こうとする姉の後ろ姿に、美春が思わず手を伸ばした。その時――
「桐須さん!」
往来に、突如として声が響き渡った。一体何事かと桐須家の面々が運転手ともどもそちらを振り向く。
と、
「せん……ぱい?」
少し離れた場所で佇む青年――成幸――の姿に気付いた真冬の瞳に色が戻った。
姉の変化に思わず美春が目を丸くする。
「真冬の知り合いか?」
「はい、その……今日遊びに行く約束をしていた先輩で……」
「昨日断ったのではなかったの?」
「電話でそのように伝えてあります。なのになんで……先輩」
最後には独り言になって、真冬。呆然とした様子の娘を尻目に、素性を把握した両親の方はさっさと対応させることにしたらしい。
真冬の肩に手を置くと父が告げた。
「なにぶん電話でのことだ。やり取りに齟齬があったのかもしれないな。せっかくここまで足を運んでくれたのだから、お前の口から直接彼に伝えてやりなさい」
そう言うと両親はいち早く車へと乗り込んだ。落ち着かない様子で姉と車とを交互に見回していた美春も、最後は観念したように後に続く。
残されたのは真冬だけとなった。未だ困惑している彼女だったが、もし父の言うように誤解があったのならば正す必要がある。
とぼとぼと、成幸の方へと足を進めた。
「先輩……ごめんなさい」
たどり着いたのはいいものの、このうえは何を伝えればいいのかわからない。ともあれ誤解があった可能性やここまで来てくれた礼も含めて頭を下げる。が、
「いや、違う」
「え?」
返ってきた声はいつもの彼のものとは異なっていた。
どこか硬さの混じった声色に、真冬が戸惑ったように顔を上げる。
そして。
「謝るのは――俺の方だから」
そう言って真冬の手を取った成幸は踵を返すと全速力で駆け出した。