ぼくたちは勉強ができない 邂逅の後輩編 作:愉快な笛吹きさん
「なっ!?」
高級車の車内に四人の驚愕する声が上がった。真冬の手を引いて走り去っていく成幸の行動に、両親や美春、果ては運転手に至るまで、揃って目が点となる。
「い……一体どうなっているんだ?」
「と、とにかく追いかけて。早く!」
「わ、わかりました!」
我にかえった面々が直ちに事態の収拾に動いた。両親からの命を受けた運転手がシートベルトを装着すると直ちにアクセルを踏み込む。
高級車らしからぬ慌ただしい音を立てながら、弾かれるように車が発進した。
「あそこだ!」
いくつかの曲がり角を抜けて大通りに出ると、見覚えのある姿が父親の目に留まった。どうやら自転車を用意していたらしい。後部に娘を乗せての二人乗りで漕ぎ続ける成幸を見つめ、さてどうするかと思案する。
「飛ばせば先回りも可能ですが」
運転手からの提案を一考してみたものの、いや、と首を振った。
「無茶をされて娘に怪我でもあったらかなわん。幸いこの辺は大きな道ばかりだ。彼の体力が尽きるまで、このまま付かず離れず後を追ってくれ」
「かしこまりました」
車中の空気も徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。主人の命を完遂すべく、初老の運転手は慎重にアクセルを踏み込んだ。
「くそっ」
付かず離れず。
一定の距離を保ちながらしつこく付きまとう高級車を肩越しに見やった成幸は、再び足元のペダルに力を込めた。いつもは母の買い物用に使われているママチャリが、これまで出したことの無いであろう速度で突き進んでいく。
体力的にも相当無理がきていた。頬に、首筋に。珠のような汗を浮かべる彼の背後にしがみついた真冬が、悲痛な声を上げる。
「先輩! もういいです! もう降ろして下さい!」
「だめだ!」
「どうしてですか!?」
「まだ聞いていないからだ!」
「!?」
真冬以上の声量で叫んだ成幸に、真冬がはたと黙り込んだ。
数秒の沈黙。息遣いとペダルを漕ぎ続ける音を挟み、成幸が続けて口を開く。
「昨日電話で聞いたのは桐須さんの両親の都合だ。そうじゃなくて、“桐須真冬本人が”どうしたいのかを聞かせてほしい。レッスンを優先したいっていうなら今すぐ止まる。けど俺たちと一緒に行きたいのなら――」
「先輩……」
「――絶対に、逃げ切ってやる!」
そう断言した成幸が再び両足に檄を飛ばした。またもや勢いを取り戻した自転車が唸りを上げて道路を驀進していく。車との距離も少しは空いたようだ。
(とはいえ――)
足が鉛のように重い。強がりはしてみたものの、あまり時間は残されていない。自身の体力が尽きる前に、何としてでも車を撒く必要があった。
と――
「――左折! そこを左に曲がってください。先輩!」
背後の真冬が声を張り上げる。わかった、と即応する成幸。彼女の指先が示す方向に向けて自転車を走らせていく。
二人揃って身体を傾け、綺麗な左カーブを描き終わると、彼女が続けざまに告げてくる。
「熟知。この辺りの地理なら私の方が詳しいと思います! 次はあそこ! 看板の見える角を右へ折れて下さい!」
「了解!」
真冬のナビゲートに従って成幸が自転車を操作する。息の合った動きは角を一つ曲がるごとに車との距離を着実に開いていった。
そして――
「好機! 後ろはまだ来てません! 先輩あの筋を。入って少し進めば地下に降りる通路がありますからそこで撒ける筈です!」
「うおおおラストスパートおおおお!」
ゴールを示された成幸が最後の力を振り絞ってペダルを漕ぐ。間一髪、車が角を曲がりきるより先に地下に潜り込んだ二人は、ようやく振り切ることに成功した。
「ぬああああ……」
「だ、大丈夫ですか? 先輩」
車を撒いてからおよそ半刻ほど。駐輪場に自転車を停め、近くのコンビニでようやく腰を降ろせた成幸は、いままさに猛烈な筋肉疲労に襲われていた。
痛みと酸素不足からくる目眩で頭がくらくらするなか、ふと頬に何かが触れる。
「静止。じっとしていて下さい」
触れていたのは真冬の掌だった。汗の滲む頬にひんやり柔らかな感触が伝わってくる。そのままハンカチで汗を拭いはじめた彼女の姿に顔を赤くするものの、疲労が濃すぎて今は動くことすらままならない。
妙な呻き声を上げつつ、結局最後までされるがままとなった。
「ごめん、ありがとう……」
「いえ……あ、あと良かったらこれも」
言いながらバッグに手を伸ばした真冬が、中から水筒を取り出した。
「母お手製のスポーツドリンクです。疲労回復によく効くので」
「え、いいの?」
「今日はもう使いませんから。私より今の先輩の方が必要でしょうし」
「そうか……」
頷いて、水筒を真冬から受け取る。蓋を開けるとカラカラになった喉に一気に注ぎ込んだ。
「うまっ!」
一口飲んだ瞬間、思わず声が出た。身体が欲してたのもあるのだろうが、スポーツドリンクとは思えないほどの味わい深さだ。おそらく材料や製法にかなりこだわっているのだろう。
「良かった。好きなだけ飲んで下さい」
母が作ったものを褒められて嬉しかったのだろう。笑みを浮かべる真冬を横目に再び水筒に口をつける。
一杯目とは違い、今度は味わうようにじっくり飲み干すと彼女に水筒を返した。
「ありがとう、おかげで生き返ったよ。それどころか身体がちょっと楽になってきたような……」
胸に手を当ててみながら、成幸。思い込みも多少入ってるかもしれないが、実際に疲労が軽減しているように感じられたのだ。
ふふ、と真冬が微笑む。
「母さま曰く、練習内容に応じてレシピを変えているそうです。今日のレッスンはかなりハードになるとのことだったので、即効性のあるものを選んだのかと」
「へえ、手がこんでるんだな」
普通なら飲み物一つにそこまでこだわったりはしないだろう。
感心していると、真冬の顔が曇るのが見えた。その心の中に浮かんでいるものを何となく察して、告げる。
「逃げてきたこと……後悔してる?」
「半分くらいは……でも」
言葉を区切った真冬が成幸の方に振り向いた。
「正直、これから先輩たちとどう接すればいいのかわからなくなっていました。だから……もう半分はこれで良かったんだって」
そう告げ、証拠だとばかりに微笑んだ真冬に成幸が安堵する。どうやらぎりぎりの所で間に合ったようだ。
あらためて父に感謝をすると、彼女を見つめる。ここからはーー自分の出番だ。
「……小学生の時にさ」
「?」
唐突に話が変わり、真冬がぽかんとした顔をする。が――織り込み済みだ。彼女の目をしっかり見つめながら、続ける。
「学校でテストがあると、いつも親に言い張ってたんだ。今度は絶対に良い点取るって。でも当時の俺は笑っちまうほど勉強できなかったからいつも散々な結果でさ」
「先輩が?」
意外だといった風に真冬が目を丸くする。彼女に限らず、つきあいが短い者は大体そんな反応を見せるのだが。
苦笑すると、成幸が再び口を開く。
「本当だ。程度は違うけど、俺も期待をずっと裏切ってきた。今となっちゃいい笑い話だけどな。だから――今日のこともそうしてしまわないか?」
「え……?」
「つまりだ。いつまでも悩まずに次頑張って結果を出す。そうすればどんな失敗や間違いも笑い話や成長エピソードに変換できるだろ?」
「………」
黙り込んでしまった真冬に、成幸がこっそり冷や汗を流す。無茶を言ってるのはわかっているものの、それが確かな解決策であることは身をもって経験している。
それに、だ。
「……艱難。先輩の言ったことを実践するのはかなり大変だと思いますが」
「確かに、皆がみんなできることじゃないと思う。でも――」
と、成幸が手を伸ばす。彼女なら――フィギュアに、或いは生徒の幸せの為に。ずっと自らを律しながら人知れず懸命に頑張り続けられた彼女であれば、そんな心配は不要なのだ。
ぽん、と彼女の頭に手を乗せて、告げる。
「保証する。桐須さんなら絶対にできるよ」
幾度も父にそうしてもらったように。
目を見開いた真冬に笑顔を向けた成幸がくしゃりと頭を撫でてやる。
気恥ずかしさからだろうか、ほんのりと顔を赤くした彼女が顔を伏せた。
「先輩は……不思議な人ですね」
成幸が手を離すと、地面に目を向けたままの真冬がぽつりと洩らした。
「出会ったのはついこの間なのに…‥まるでずっと前から私の事を知っているような感じで」
「そ……そうか? きっとあれだ! 俺と桐須さんの相性が良いとかそんな感じなんじゃないかな? うん」
核心めいた言葉に虚を付かれた成幸が、あたふたとしながら誤魔化す。元より自分以外に真実を知る者などいないのだが、突然のことに冷静に対処できなかった。
次からは気をつけようと反省したところで、成幸の携帯に通知音が流れる。
「小森先輩たちからですか?」
「うん、あいつらも駅に着いたみたいだ。そろそろ行こうか、桐須さん」
メッセージを読み終えた成幸が携帯をしまいつつ、声をかける。
と。
「……真冬」
「え?」
「希望……“桐須”じゃなく、“真冬”って呼んでもらえませんか? 先輩」
遊園地での別れ際と同じだった。大きな瞳でこちらを見つめながら呟いた真冬に、成幸が顔を赤らめる。
「い、いや……でも」
「言質。私たちは相性が良いみたいなので。だったら私はもっと親しくなりたいです。“成幸”先輩」
「!」
完全に不意打ちだった。名前を呼ばれた成幸の鼓動がとくんと跳ねる。頬が赤くなるのを感じつつ、こうまで彼女に言わせては流石に応えないわけにもいかない。
一呼吸すると、不安げにこちらを見つめる後輩を見返して告げる。
「わかった。い、行こうか。真冬……さん」
言うやいなや、成幸が大きく息を吐き出した。何ぶん教師だった彼女を知っているだけにどうにも背徳じみた感覚に陥ってしまう。
慣れるしかないな、と思いつつ真冬を見ると、彼女の顔にも変化が起きていた。
「ふふっ」
ぎこちなさからか。それともつい“さん”を付け加えてしまったせいだろうか。小さく彼女が吹き出した。
ひとしきり笑ったあと、
「――はい! 成幸先輩!」
ようやく見ることができた。雪解けの地面から覗いた花を思わせるような笑顔に、成幸の顔にも自然と笑みが溢れる。
必死に伸ばし続けた手は、今ようやく彼女の心に届いたようだった。