ぼくたちは勉強ができない 邂逅の後輩編 作:愉快な笛吹きさん
水族館を出ると、心のどこかで予想していた光景が五人を待ち構えていた。
「姉さま……」
「美春……それに父さま、母さまも」
呟いた真冬に、成幸を除く三人が驚きながら目の前の人物たちを見やる。言われてみれば皆彼女の面影があった。
若干疲れた様子を覗かせるも、それでもなお険しい表情を向けてくるのを見た真冬は、やはり許されないことをしてしまったのだと痛感する。
だけど、それでも――
「――すみませんでした」
(先輩!)
意を決した真冬が口を開こうとした瞬間、唐突に前に進み出た成幸が深々と頭を下げた。
数秒ほどの沈黙が続いた後、真冬の父が重々しく告げる。
「君は……確か唯我君、といったね。一体何がすまなかったのかな」
「その……真冬さんの予定があるにも関わらず、俺の独断で連れ出してしまったことです。貴重なレッスンの機会を奪ってしまったこと、どんな形でも構わないので償わせてください」
「そう……言質。ちなみにレッスン料は一時間50万円程度でしたが」
「……すみません。できればお金以外にしてもらえると非常に助かります」
真冬の母から告げられた一言で急速にトーンダウンする成幸。桐須家が支払った損失のデカさに今更ながら身体が震えてくる。
だが、
「あー、さすがに今すぐっていうのは厳しいですねー! 分割払いとか、最悪私が学園を卒業するまで待ってもらえれば何とかなりそうなんですけど」
この場に全く似合わない雰囲気で、千代子が割って入ってきた。金額にもビビらないどころか、逆に交渉を持ち掛けようとする豪胆さに成幸は仰天する。
「い、いやいや天田さんが払うことはないって! 連れ出したのは俺なんだから!」
「何言ってるんですかー。だったら連れ出した真冬ちゃんを引っ張り回した私も同罪ですよ。まー試合の度にテレビに取り上げられるような超有名人と一緒に遊べたと考えれば安いもんですって」
躊躇う成幸を、まるで商売人のような理屈で諭しにかかる千代子。その頼もしい姿に感銘を受けたのか、小森、大林も相次いで話に乗ってきた。
「しょうがねーなあ。ここはいっちょ貯めてたブタの貯金箱を開放してやるか」
「微力だけど僕も成ちゃんたちに協力するよ。バイト先にシフトを少し増やしてもらうよう相談してみる」
「お前ら……」
友人たちの心強い申し出に、成幸の胸が熱くなる。こうなれば自分だけ怖気づくわけにもいかない。
未だ静かに佇む真冬の両親に、どうにか交渉の余地が無いかと話しかけようとした、そのときだった。
「感謝、みんな……ありがとう」
そう告げた真冬が、すっと先頭に進み出ていく。居並ぶ両親、美春をしっかりと見つめた後、彼女は静かに頭を下げた。
「謝罪。今日は勝手な真似をしてしまって、本当にごめんなさい。明日からは一層気を引き締めて練習に取り組み、今日の遅れを取り戻してまいります」
「そうか……」
と、真冬の父がぽつりと呟く。先程の感謝の言葉といい、まるで別れを感じさせるようなやり取りに、成幸たちの心に無力感が走る。
「――だから」
(えっ?)
「懇願。今後はどんな厳しい練習だろうと頑張ります。だからこの方たちと一緒にいさせて下さい。私の……大切な友人だから」
「真冬……あなた」
「お願いします。父さま、母さま……美春」
そうして再び頭を下げる真冬。口にしたことであらためて自覚する。引っ込み思案な性格のせいで。他人に深く踏み込めない臆病さのせいで。ずっと心に空いていた穴を彼らは少しずつ埋めてくれたのだ。絶対に失いたくはなかった。
近付いてくる靴音に、真冬の鼓動は早まる。本心を告げてなお、拒否されてしまったら? 失望されてしまったら?
ぎゅっと固く閉じた瞼の裏に、彼女が誰より信頼する先輩の姿が浮かぶ。
そして――
「……顔を上げなさい。真冬」
思っていたのとはずっと違う父の声色に、真冬はおずおずと姿勢を戻した。いつの間にか流れていた涙の跡を、母がそっとハンカチで拭ってくれる。
「……真冬。私たちが何故この場所を突き止められたか、わかるか?」
「いえ……」
言われてみれば、両親にも美春にも今日の行き先を告げた覚えはなかった。疑問に思う真冬に、母がぽつりと告げる。
「告白。自転車を見失ってからというもの、貴方の消息はさっぱり掴めませんでした。闇雲に探し回った挙げ句、結局は途方に暮れて家に戻った私たちに、ある人が教えてくれたのです」
「ある人?」
「君のお父さんだよ、唯我君」
「親父が?」
驚きの声を上げた成幸に、頷いた真冬の父が軽く微笑む。自嘲するような笑みだった。
「君と同じだ。出会うなり息子が勝手なことをして申し訳無い、と謝られたよ。そのうえで私たちに教えてくれたんだ。行き先を知りたければ、娘の部屋に何か痕跡があるんじゃないか、とね」
「半信半疑。そんな気持ちで私が姉さまの部屋をあらためてみました。そしたら本当にこの場所のことがノートに記されていて……」
「……本当にショックでした。いかに教師とはいえ、親である私たちよりも娘のことをずっと理解していることに。私たちは打ちのめされたのです」
「……」
輝明の介入によって、どうやら裏では全く違う方向に話が進んでいたようだった。ここは沈黙を選ぶことにした成幸たちが言葉を待つ。
「その後、ここに向かおうとする私たちに、彼が言ったんだ。"どうか迎えに行く前に娘の表情を一目見てやってくれないか"、と。だから水族館でこっそり君たちと、真冬の様子を伺っていた」
「それで……どうでしたか?」
「……最初に見たとき、私はあれが真冬だと気付きませんでした。あんなに引っ込み思案だったこの娘が、楽しそうに会話をして、ときに積極的に振る舞って、弾けるような笑みを……浮かべて」
「八面玲瓏。姉さまの心からの笑顔は本当に……綺麗でした」
目元を潤ませた母に代わり、美春が言葉を繋げる。つまりはそれが――桐須家の出した答えだった。
戸惑う真冬に再び目を合わせて、父が告げる。
「確かにレッスンを休んだことは痛手だ。だが……そんなものとは比較にならないほどの大切な授業を、お前も、私たちも受けさせてもらったよ」
「父さま……母さま」
初めて聞く両親の本音。普段の厳しさは無く、ただ娘の幸せを願う温かな言葉に、真冬が声を震わせる。
そして――
「すまなかった、真冬」
「本当にごめんなさい、真冬」
揃って二人は頭を下げた。自らの過ちを悔いるように深く、深く。
懺悔を済ませ、起き上がった父が真冬に告げる。
「フィギュアのことは気にしなくていい。お前はお前の好きなように生きなさい」
「皆さん、どうかこれからも、真冬のことをよろしくお願いいたします」
「父さま、母さまっ!」
両親からの回答に、感極まった真冬が二人の下に飛び込んだ。これまでの我慢が堰を切ったのか、又は歓喜からきたものかはわからない。ただひたすらに涙を流し、心のどこかで望んでいたこの光景に身を任せる。
「ぐすっ……ちくしょう、いい話じゃねえか」
「っ……うん、そうだね。本当に良かった」
「ですね……あーもうハンカチぐっしょり。先輩も使います?」
「いや……大丈夫」
新たなハンカチを取り出しかけた千代子の申し出を断り、成幸はひとり充実感に浸る。前の世界では決してできなかった難題を解決できたことに喜びを感じつつ、最後は父親の手助けを受けた事実にまだまだ敵わないな、と痛感させられる。
と――
「釈根灌枝。私は納得できません」
この場の雰囲気にそぐわない、甲高い声がした。美春だ。両拳をぎゅっと握りながら、真冬たちの下に進んでいく。
「確かに姉さまの幸せは大事です。でも父さまと母さまの夢はどうなるのですか? お二人とも、姉さまの為にあんなに身を粉にしていたではないですか」
「美春……いや、もういいんだ」
父がたしなめようとするものの、やはり無念な思いは多少なりともあるのだろう。少しだけ寂しげなその表情に、美春は決意を深める。
姉の本心を知ってから、彼女はずっと考えていた。姉も、父も母も皆が笑えるようになるには一体どうすればいいのか。まだ幼い自分に一体何ができるのか。
自身に課した問いは、ようやく答えが見つかりそうだった。
「笑門来福。私は姉さまも、父さまも母さまにも笑ってほしいのです。だから……私にフィギュアをやらせて下さい!」
「なっ……!」
美春の提案に、両親も、真冬ですら目を見開いた。類稀なる才能と実績を誇る姉の後を継ぐ。言葉ほど容易くない道であることは重々理解している。
それでも、
「本気なのか? 美春……」
「剛毅果断。もちろんです。姉さまのような才能はないかもしれませんが……いつか絶対、父さま母さまに喜んでもらえるように頑張ります」
「美春、それは――」
思わず口を挟みかけた真冬に、しかし美春が頭を振る。
「大丈夫です姉さま。これは私の意思で、私がやりたいことですから」
そう言って笑みを浮かべた彼女に、もはやこれ以上の言葉は不要だった。
そっと片膝をついた母が美春と目線を合わせる。
「本当に……いいの? 私たちの夢と希望を貴女に託しても」
「はい。父さまと母さま。そして姉さまの思いは美春が受け継ぎます!」
「美春……」
宣言した瞬間、感極まった母に美春が抱き寄せられる。家族を想うそのいじらしい姿に、見ていた小森たちから声援が沸き起こった。
「試合に出たら絶対見に行くからなー、頑張れよ美春ちゃん!」
「は、はい。感謝感激。よろしくお願いします」
母に抱かれながら照れた様子で応える美春。
彼女の申し出により、桐須家に巣食っていた問題はここに解決を迎えた。成幸の前に進み出た真冬の父親が、穏やかな表情で口を開く。
「感謝する。君と、君のお父さんには大変世話になった」
「い、いえ俺は何も。親父がいなければ結局めちゃくちゃにしていただけで……」
「それでもだよ。君のあの思い切った行動が無ければこの光景は生まれようもなかった。本当に……ありがとう」
そうまで言われてしまえば無碍にするわけにもいかなかった。はい、と成幸が感謝の言葉を受け取る。
心地よい空気がさらりと流れたあと、頃合いとばかりに真冬の父が声を上げた。
「では、私たちはそろそろ失礼するとしよう。真冬はどうする?」
「私は――」
声を掛けられた真冬がちらりと成幸を見る。目が合った彼が軽く頷いたことで、彼女の腹は決まった。
「同乗、一緒に行きます。帰ったら話したいことが沢山あるので」
「そう……そうね」
呟いた真冬の母の口元が微かに緩む。これまで話し合ってこなかったことへの後悔と、娘が心を開いてくれたことへの嬉しさが入り混じっているのだろう。まだまだ時間はかかるだろうが、きっと良い方向に向かうはずだ。
先に行ってほしいと家族を促して、真冬がこちらを向いた。
「謝罪、最後まで一緒に過ごせなくてごめんなさい」
「あはは、こんな時間まで付き合ってもらったらもう十分過ぎるくらいだって」
「うん。あとは家族とよく話し合って、うまくいくといいね」
「また遊ぼうぜー真冬ちゃん♪」
皆明るい顔で別れの言葉を口にしていく。小森の言葉に「はいっ」と返事をした真冬が、最後に成幸と目が合った。
「それじゃあ成幸先輩……また"明日"」
「うん、また"明日"な」
言葉を交わし、最後にお辞儀をして真冬が去っていく。"いつか"ではなく、"明日"、と口にしてくれたことが、成幸には何よりも嬉しかった。
彼女が姿が見えなくなってから、うーん、と伸びをした小森が声を上げる。
「さて、俺たちもそろそろ帰ろうぜ。電車って何時だっけ?」
「えーと、最終が21時30分ですね。今が21時27分だから……」
「あと3分だね」
「ははは、そうか。だったら――」
「「「走れええええ!!」」」
顔を青ざめさせた成幸たちが一斉に爆走する。間一髪、駆け込み乗車でどうにか間に合った成幸たちは、車掌に怒られながら帰りの列車をいくのだった。
「――とまあ、そんな感じだったかな」
翌朝。学園への道を歩きすがら、成幸は事の顛末を隣にいる父に報告していた。
聞き終えた輝明がなるほどな、と頷く。
「上出来だ成幸。本当によくやってくれたな」
「いや、父さんが助けてくれなかったら、結局何もできなかったよ」
真冬の父はああ言ってくれたものの、それを誇る気にはなれなかった。
謙遜する成幸だったが、「それは違う」と輝明が声を上げる。
「俺が手助けできたのも、お前が率先して動いてくれたからだ。仮に俺がお前と同じことをしたってあいつは間違いなく両親の方を選んでいただろうよ――そうだろ? 桐須」
「えっ?」
父の言葉に驚いた成幸が背後を振り向く。
そこには初めて出会った時と同じように、控えめに笑う真冬の姿があった。
「あ、挨拶……おはようございます。唯我先生、成幸先輩」
「おう桐須。おはようさん」
「お、おはよう真冬さん。ていうかなんで徒歩?」
疑問符を浮かべる成幸に、真冬が嬉しそうにはにかむ。
「不要、もうレッスンの時間を気にしなくてもよくなったので、誰かと一緒に通学してみたいと思いまして。ですが……」
「?」
「判明、まだ先輩たち以外に親しい人がいなかったことに気付いたので……」
そう言ってずーんと落ち込む真冬に苦笑いを浮かべる成幸。そういえば元々こういう娘だったなという事実を今更ながらに思い出す。
くっくっと愉快そうに笑うと、輝明が彼女に声をかけた。
「ま、お前にとっちゃあ色んなことが初めて尽くしだしな。少しずつ学んでいけばいいさ。頼りになる"先生"だっていることだしな」
と、成幸の肩に手を置く輝明。え、俺? とばかりに驚いた顔をする成幸だったが、父の目は「お前しかいないだろ」と訴えかけていた。
仕方なしに真冬の方を見る。
「まあその……頼りになるかはわからんが、俺にできることがあれば手助けするよ。これからも何かあったときはいつでも相談してくれ」
親父を押し退けてその役を担うことに若干の照れくささを感じる成幸。とはいえ"生徒"からの反応は上々だった。たちまち嬉しそうな顔になった真冬が「はいっ」と応える。
「それで……昨日はあれからどうなったんだ?」
「はい。フィギュアについては高校を卒業するまで続けることにしました。ただ練習時間は大幅に減らすつもりなので、自由な時間はかなり増えるかと」
真冬の言葉に成幸たちが驚く。てっきり昨日限りでフィギュアを辞めると思っていただけに、意外な結末だった。
自覚しているのだろう。苦笑を漏らした真冬が理由を口にする。
「その……フィギュア自体は決して嫌いではないのと、美春に一度だけでいいから大会で一緒に滑ってほしいとせがまれたので。これから頑張るあの子の目標の一つになってやりたいと思ったんです」
「そっか……」
理由を聞いて納得する成幸。彼女が自分の意思で続けるというのであれば何も言うことは無かった。
と、ここで輝明から声が上がる。
「今の話だけなら特に辞める理由が無いように思うんだがな……高校卒業のタイミングでっていうのは何かあるのか?」
「そ、それは……」
言われて成幸も気付く。彼女の最大の問題は解決されたのだから確かに不自然ではあった。
何故かもじもじとしている真冬に、何かを察したらしい輝明が口を開く。
「もしかして、他にやりたい事でも見つかったのか?」
そう訊ねられた瞬間、はっと真冬が目を見開く。どうやら図星だったらしい。
「ど、どうして……」
「なあに、ちょっと思い出してな。今のお前の顔、VIP推薦を辞退したいと言ってきた時の息子と全く同じだったぞ」
にやりとする輝明。恥ずかしそうに顔を伏せる真冬とは対照的に、成幸の方はたちまち嬉しそうな表情を浮かべる。
いつか学園長室の前で「フィギュアの他には何もない」と漏らしていた彼女が見つけた夢。
応援する。良かったら聞かせてほしい、などと声をかけた結果、ようやく彼女は白状した。
「その……私も教師になりたいと思いまして」
「え?」
驚いた成幸。そんな彼の目をしっかりと見つめて、真冬が告げる。
「私が今ここにこうしていられるのも、成幸先輩がずっと親身に寄り添ってくれたおかげです。よって結論。私も先輩のように困っている誰かを助け、導ける人になれたらなと」
「そ、そうなんだ……」
今までの彼女からは想像もつかないほど、しっかりとした意思を感じさせるものだった。
たじろぐ成幸に、ふふ、と真冬が微笑む。
「あと……同じ仕事ならいつも先輩の側にいられますし」
「ええっ!?」
頬を赤らめて告げた真冬にどぎまぎする成幸。敬意なのか好意なのか、どちらともとれそうな彼女の言葉に翻弄される。
と、
「ったくお前ら……あんまり朝からいちゃつくなって。遅刻するぞ」
すっかり空気が甘くなったことに気付いた輝明が二人を嗜めた。踵を返し、学園に向かうその背中を成幸が追いかけ、更にその後ろを真冬がついていく。それはまさに一本の直線のようで、いずれこの学園に訪れる未来を示しているかのようだった。
そして、
「どうしたの? 父さん」
「どうかしましたか? 先生」
それは角度を変えれば同じ視点で、同じ方向に並んだ平行線にもなる。不意に後ろを向いた輝明に、成幸と真冬は揃って同じ表情を浮かべていた。
ふっ、と笑うと、
(……せめて孫の顔を見るくらいには長生きしねえとな)
胸ポケットに眠った人間ドックのチラシを思い出して、輝明は小さく呟いたのだった。