雨の日に拾った女の子と恋に落ちました   作:緑茶わいん

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転機

「それじゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい、長谷川くん」

 

 桃谷(ももたに)千夏(ちなつ)長谷川(はせがわ)夜空(よぞら)のアパートで暮らし始めてから数日が経った。

 夜空の家に来てから、千夏の生活は大きく変わった。

 彼女は学校には通っていない。というか通えない。高校には入学したものの、すぐに中退してしまったからだ。だから、ブラウスもスカートも持っている必要はない。なのに身に着けていたのは「もう必要ないから」だ。大事に取っておいても仕方ないので家で着ていたという話。

 街をうろつくにしても私服よりは「まともっぽく」見えるので、家を飛び出した際に制服を着ていたのはちょうど良かった。サイフもスマホも、それどころか傘も持たずに飛び出してしまったのはさすがに考えなし過ぎたとは思うのだが。

 結果的に千夏は「いい人」に拾われた。

 

 さすがに学校を中退したことは夜空にも話すしかなかった。

 それでも夜空は「気にしなくていい」と言うだけだった。千夏の言いたくないことを無理に聞いてこない。無関心からではなく優しさからの行動が嬉しくて、胸が温かくなった。夜空の家は「本当の家」と違って居心地がいい。なんというか、安心する。

 けれど、千夏には夜空に返せるものが何もない。

 唯一の持ち物である身体をあげるのは強い口調で断られてしまった。それもまた、気遣ってくれているのだと思うと嬉しかったのだが。

 セックスが駄目となると恩返しの方法はほとんどなく、結局、千夏が思いついたのはごくごく平凡な事柄だけだった。

 つまり、忙しい夜空の代わりに家事を買って出ることである。

 

 朝、早めに起きて二人分の朝食を作る。もちろん洗い物もする。それから夜空をバイトや学校へ送り出す。

 新妻のようだと思わないこともないし、そう考えると恥ずかしいのだが、夜空も「一人だと手が回らないから助かる」と言ってくれている。

 

「さて。それじゃあ、始めようかな」

 

 夜空を送り出した後は洗濯物を干さなければならない。

 濡れた洗濯物を洗濯かごへ移し、狭いベランダまで運ぶ。一人~二人向けのアパートなのでご近所付き合いは薄く、挨拶されたり不審がられたりといったトラブルは今のところ起きていない。

 問題というか悩み事と言えば、年頃の男子である夜空の下着を自分が扱っていいものか、ということか。

 父親の洗濯物を干したり畳むのは慣れっこなので、別に男の下着を見慣れていないわけではないのだが、父と夜空とではまるきり話が違う。そのせいか、今はまだ見るたびに赤面してしまう。

 まあ、それを言ったら、夜空の下着と一緒に自分のブラやショーツを干しているのも恥ずかしいような感覚があるのだが。

 

「ああ、もう。……長谷川くんのこと考えるのは止めよう」

 

 気持ちを切り替えてベランダを後にする。残りの家事は掃除である。といっても、夜空も男子にしては綺麗好きな方だし、連日掃除しているので大した作業ではない。少しずつ慣れてきたのもあって手早く終わらせる。

 

(えっちな本とか、どこかにあるのかな?)

 

 夜空の部屋に関してはあまり手をつけていない。別に入るなとは言われていないし、最低限の掃除はさせてもらっているのだが、机の中などを勝手に見るのはさすがに気が引ける。なので、そういうところに女子には見せられない「宝物」が眠っていたとしてもおかしくはない。

 あの少年がどういう本を好むのかは少し興味が──と。

 

(結局、長谷川くんのこと考えちゃってる)

 

 千夏は狭い世界で生きている。

 カレンダーは五月初旬。いわゆる黄金連休(ゴールデンウィーク)に突入している。学生である夜空にとって平日は平日。今日も普通に出かけていったが──問題なのはそこではない。千夏が高校に在学していた期間はごくごく僅かだった、ということだ。

 中学の友達とは離れ離れになってしまったし、高校は友達を作る前に退学してしまった。連絡を取れる相手がいないわけではないが、スマホがなければ連絡先がわからない。あの時、夜空に出会わなければどうなっていたことか。

 

 はあ、と、ため息をついた千夏はシャワーを浴びることにした。

 水道代を考えれば褒められたことではないが、夜空からは「好きに使っていい」と言われている。少しくらいは甘えてもいいだろう……と自分に言い聞かせてジャージを脱いだ。

 着替えがないので、千夏の服は制服と、そのまま使わせてもらっている夜空の予備ジャージだけだ。ブラウスは今、ワンセットしかない下着と一緒にベランダなので必然的にジャージを着るしかない。けれど、それはある意味で都合が良かった。

 ジャージを脱ぐと素肌が露わになる。

 洗面所の鏡に映った自分の身体。少し血色が良くなってきたような気はするが、男子の気を引くには少々魅力不足かもしれない。何より、

 

「まだ消えてない、よね」

 

 左肩には小さな痣が残っている。既に何日か経っているものの、完治するにはもう少しかかるだろう。幸い痛みはもうほとんどないので生活や家事に支障はない。すりむいた膝や、他のいくつかの傷はもう治っている。

 あと少し。

 痣が消えたらもう少し前向きになれるだろうか。そうしたら夜空にも話ができるかもしれない。

 

「……ふぅ」

 

 シャワーを浴びたら頭がすっきりした。昼食はありあわせで簡単に済ませるとして、夕飯はどうしようか。「なにが食べたい?」と尋ねても、夜空からはなかなか良い答えが返って来ない。彼にしてみれば「毎日聞かれても」ということなのだろうが、せっかくなら好きな物を作ってあげたい。

 と、そこまで考えて、千夏はとても重要なことを忘れていたことに気づく。

 

「あ! 買い物メモ、長谷川くんに渡し忘れちゃった!」

 

 スーパーでの買い物は夜空が学校帰り、買い物帰りに担当してくれている。千夏は今、スマホを持っていないので、足りない物を買ってきてもらうには朝のうちに伝えないといけなかった。まさか学校まで押しかけるいかないし、夜空への伝言は諦めるしかない。

 しかし参った。そうすると今、この家には主食となる物が不足している。あるのは一食分のパンだけである。お米が今朝の分で切れているので買い足さなければならない。

 一応、夜空からは最低限のお金をもらっている。合い鍵も渡されているので出かけることもできる。居候させてもらっている身だということもあって、できれば使いたくはなかったのだが。

 

「しょうがない、よね」

 

 別にスーパーへ買い物に行くだけ。何も変なことじゃない。お米といくつかの食材を買ったらさっと帰ってくればいい。夜空が帰ってきた後で事情を話せば経費は清算してくれるだろう。

 

(うん、そうしよう)

 

 幸い、学校指定のジャージは目立つデザインではない。校章の刺繍だけ除いてしまえばごくごく普通の「野暮ったい女子」だ。

 と思ったら裁縫セットが見当たらなかったので、仕方なくはさみを使ってちくちく糸をカットした。男子の一人暮らしだと縫い物なんてしないのかもしれない。この分だと色々と、気づいていない不便な点があるかもしれない。

 

「そうだ。下着、もうワンセットくらい買ってもいい、かな?」

 

 昼食を軽く済ませてから、そっとアパートを出た千夏は、むき出しのお札と合い鍵をジャージのポケットへと忍ばせ、近所のスーパーへと足を延ばした。

 夜空が買っていたのと同じ米はあっさりと発見。ついでに食材をカゴに入れ、悩みつつも下着も入れた。

 自分の物を買うのはさすがに気が引けるが、これは今度こそ何かの形で返そうと思う。そう、落ち着いたらバイトを探すとか。家出娘を雇ってくれるところがあるかどうかはわからないが、探せばなにかいい仕事が見つかるかもしれない。それがいい。そうしたら給料からお金を返せるし、生活費だって入れられる。

 居候ではなく、立派な共同生活に──。

 

「千夏!」

「──え?」

 

 楽しいことを考えながらアパートへの道を歩いていた千夏は、聞き慣れた男の声に立ち止まった。

 足が、がくがくと震え出す。

 会いたくなかった。まさか、こんなにあっさりと出くわすなんて思わなかった。千夏がいないと何もできない彼が、そうそう出歩くことなんてないだろう、と。

 なのに。

 小さい頃に母を亡くした千夏にとってたった一人の肉親──千夏の養育者であり、絶対的な支配者でもある父が、通りの向こうから駆けてきた。

 逃げないと。そう思うのに足は動かなかった。父に出会っただけで、千夏は一瞬にして「夜空に出会う前」の状態へと戻ってしまった。

 恐怖から立ち尽くしている腕に腕を掴まれた。父の顔を見上げると、強い視線で射貫かれる。

 

「あの、ごめんな、おとうさ──」

「帰るぞ、千夏」

「やっ」

 

 発することができたのはたどたどしい言葉だけ。

 明確に「嫌」と言うこともできないまま、千夏は半ば引きずられるようにして「本当の家」への道を歩き出した。

 

 

   ◇    ◇    ◇

 

 

「今日の晩御飯はなんだろうな」

 

 僕は、何日か前までならありえなかったことを頭に浮かべながら夜道を歩いていた。

 一人暮らしである以上、食事というのは自分で作るか買うかしないと得られなかった。だけど今は料理をしてくれる同居人がいる。

 桃谷さんはまだ高校一年生なのに料理が上手い。少なくとも僕なんかとは比べ物にならない腕前で、一般的な家庭料理なら問題なく作れてしまう。「美味しい」と言うと嬉しそうに小さく笑ってくれて、その顔を見た僕は「なんかいいな」と思った。

 そんなことがあったからか、もうすっかり彼女に料理を任せてしまっている。

 というか家事全般そうだ。桃谷さん自身は「これくらいしかできないから」と言っているものの、正直僕としては物凄く助かっている。一人だとできないことが二人ならこんなに簡単になる。役割分担というのは素晴らしいと、朝、余裕を持って家を出られた時や帰ってくると夕食が既に用意されていた時などはしみじみと感じる。

 

「でも、怒ってるかな、桃谷さん」

 

 今日は帰りのHRが長引いてしまい、バイト前に帰る時間がなくなってしまった。なのでバイト先には学校から直行し、ようやく終わって帰るところだ。

 僕の生活サイクルについては伝えてあるので心配はないとは思いつつ、もし、やきもきしながら待っていてくれたらと思うと申し訳ない気持ちになる。桃谷さんがスマホを持っていれば連絡が取れたのだが生憎そうではなく、アパートには(僕一人だったので)固定電話も引いていなかった。

 もし、これからも彼女がいてくれるなら電話くらい引いてしまおうか。あるいはプリペイド式か格安SIMのスマホを用意するか。でも、今時の女の子ってスマホを持つと色々したくなったりするんだろうか。さすがにスマホゲームとか動画視聴とかされるとパケ代が怖い気が──。

 

「ただいま。……あれ?」

 

 桃谷さんとのこれからのことを考えながら帰宅した僕は、すぐに異変に気付いた。

 部屋の電気がついていない。

 寝ているのかとも思ったが、部屋の中にあの子の姿はどこにもなかった。ベランダには洗濯物が干しっぱなしで、少なくとも夕方からいなかったことがわかる。

 どうして。

 家に帰った可能性も考えたが、すぐに否定する。気を遣いすぎるくらいに気を遣い、制服とジャージを交互に身に着けながら家事全般を引き受けてくれていた彼女。他愛ない話をすれば笑ってくれることもあったし、朝、送り出してくれた時はごく普通の様子だった。

 桃谷さんが自発的に家へ帰ったのなら、書き置きくらいはしていってくれるはずだ。

 荷物を取りに帰っただけという可能性もあるが、それにしては時間が長い。すると考えられるのは、あまり良くない想像になってしまう。

 数日前、家に誘った時のずぶ濡れの彼女を思い出す。

 あの時、桃谷さんはなんと言っていた? 柄の良くない男三人に絡まれて、ギリギリのところで逃げ出した、と言っていたじゃないか。

 

「くそっ」

 

 まさか、こんなことになるなんて思わなかった。

 どうしてよりによってバイトに直行した日にこんなことが。ちゃんと一度帰っていれば防げたかもしれないのに。僕は唇を強く噛みしめながら、自分にできることを考える。

 単なる思い過ごしで、何事もなかったんならそれでいい。とにかくできる限りの方法で桃谷さんの無事を確かめないと──。

 

「中学時代の女子の連絡先、どれくらい登録してあったかな」

 

 僕はスマートフォンを取り出すと、手がかりを求めて片っ端からコールを始めた。

 

 

   ◇    ◇    ◇

 

 

「どうして帰って来なかった! どうして、俺を一人にした! どうして!」

「ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい、お父さん。ごめんなさい」

 

 小さいながらも庭の付いた一軒家。

 アパートやマンションに比べて隣家に声の届きにくい家のリビングには対照的な二つの声と、何かを叩くような音とが断続的に響いていた。

 声の片方は千夏の父であり、もう片方は千夏だ。

 父は千夏をリビングまで連れてくるとまず、彼女の着ていたジャージを掴み、ファスナーを全開にした。そして少女が中に何も着ていないこと、肌が汚れていないことを確認すると「服はどうした」と尋ねてきた。泊めてもらった家で洗濯中だったのだと説明しようとしたが、言い終わる前に手を出された。

 

 父は顔や手足を狙わない。

 

 誰かに見られた時に虐待を疑われるからだ。だから必ず、服で隠れる場所を狙う。強くしすぎると痕が残って病院沙汰になるかもしれないので力加減にも気を遣う。その代わり機嫌の悪い時はいつまで経っても暴力が終わらない。何度も何度も叩かれて気力も体力もボロボロになる。

 抵抗してはいけない。

 下手に歯向かえばそれだけ機嫌を損ねてしまい、暴力が激しくなる。そういう時はとにかく謝ること。抵抗しないこと。父の気が済むまでやり過ごすのが一番だと、千夏は長年の経験から知っていた。

 だから、胸をむき出しにされても床に転がされても、叩かれた勢いで服が乱れても、ただ「ごめんなさい」と繰り返しながら自分の身体を抱きしめ続けた。夜空からもらったジャージが痛めつけられるのは申し訳なかったが、自分から脱ぐのはなけなしの羞恥心が邪魔をしてできなかった。

 

(結局、私は何もできない)

 

 幼い頃に母が亡くなって、父は荒れるようになった。

 それでも時間が経てば仲のいい親子に戻れると信じていたが、むしろ父からの暴力は激しさを増すばかりだった。千夏が痛みに耐えられるようになったこと、それからだんだんと母に似てきたことが原因らしかった。

 あの日も父から告げられた。

 

『千夏は、お母さんにそっくりだ』

 

 ある意味、どんな暴言よりも恐ろしかった。性的な暴行を加えられたことは一度もなかったが、これからもそうとは限らない。感じた悪寒は千夏にそう思わせるには十分で、だからこそ少女はなけなしの勇気を振り絞って家を出たのだ。

 帰らないつもりだった。

 連れ戻される可能性はもちろん考えていたが、自分からは絶対に帰らないと決めていた。だとしたらもう少し計画的に家でするべきだったのかもしれないが、きっと、そこまで頭が回らないほど追い詰められていたのだろう。少しばかり落ち着いて冷静になってみるとそれがわかった。

 けれど、一度安らぎを経験してしまったからこそ、わかってしまった。

 

(私は、お父さんから逃げられない)

 

 千夏は弱い。千夏は狭い世界しか知らない。だから、どれだけ暴力を振るわれても父を拒絶することができなかったし、やられる前にやることもできなかった。いい点を取っていい高校に入れと言われても素直に頑張ったし、入ったばかりの高校を「学費が高いから」と退学させられても従った。

 父には逆らえないし、逆らってはいけない。

 それが桃谷千夏の運命であり、役割なのだ。

 

「千夏。夕食を作りなさい」

「……はい、お父さん」

 

 ようやく少し落ち着いたのか、父は静かな声で命令してきた。

 千夏はか細い声で返事をすると、よろよろと床から起き上がってエプロンを身に着けた。ぷしゅ、と、缶ビールの蓋が開く音を聞きながら冷蔵庫を開け、ろくな食材が残っていないことを確認して、メニューを味噌汁と野菜炒めに決める。

 米びつを開くと中身は空だった。これじゃあご飯も炊けないと思った直後、目に入ったのは放り捨てられるようにしてリビングの入り口に転がったスーパーの買い物袋だった。その中には千夏が持ち運べるギリギリのサイズ、三キロの米が含まれている。

 

(でも、このお米は──)

 

 使ってはいけない。そう思って父を振り返るも、

 

「どうした」

「……なんでもない」

 

 米があるのに米が炊けない、なんて父が許してくれるはずがない。使うしかない。千夏は「なにをやってるんだろう」と自嘲的な思いに囚われながらも、可能な限り丁寧かつ素早く料理をした。

 

「いただきます」

 

 娘に作らせた料理を、父は無言で食べ進めた。美味しいともまずいとも言ってくれない。時折ビールを傾けるだけで、言ってくれた言葉は食事が半ばまで進んでからの「お前も食べていいぞ」という一言だけだった。無造作にテレビが点けられるのをぼんやりと認識しながら「はい」と返事をして、夜空からもらったお金で買った米を一粒も残すまいと箸を必死に動かした。

 そうして八割ほどを平らげたところで、

 

「なんだ、お前。辛気臭い顔しやがって」

「っ」

 

 どこがいけなかったのか全くわからない。ともかく、父のスイッチが再び入ってしまった。

 

「お父さん、あの、もう少しだけ待って──」

「待てって? 飯食い終わらなきゃ俺の話も聞けないってのか!? ああ? 子供の癖に口答えしてんじゃねえよ!」

「止め──」

 

 がしゃん、と、音を立てて食べかけの料理が床に転がった。こういう時のために食器はプラスチック製になっているが、料理の方はそういうわけにもいかない。

 千夏はよろよろと立ち上がると、床に散らばったご飯と野菜炒めを拾い上げる。幸い父の分はもう全てなくなっていた。だから残っていたのは千夏の分だけ。良かった、と、思いながら拾い上げたそれらを口に運んで、

 

「汚い真似してるんじゃねえ! そんなにひもじい思いをしてるって言いたいのか!」

「あ──っ!?」

 

 無理やりにでも食べ終えることさえ許されなかった。

 再び床に転がされた千夏は「掃除しろ」と命令され、掃除機と雑巾がけで床を綺麗にさせられた。もちろん、その合間には支離滅裂な罵声が飛ぶ。そしてようやく終わったかと思えば、何度も何度も身体を叩かれる。

 いつものことだ

 これがいつまでも、いつまでも続くだけだ。これからどうなるのかなんてわからない。バイトをさせられてバイト代を取られるかもしれない。大学に行けと命じられて試験を受けさせられるかもしれない。もっと酷い未来だって待っているかもしれない。

 それでも関係ない。父に従うしかできないのだから、従えばいいだけだ。

 余計なことを考えたところで辛くなるだけ。だから千夏はひたすら耐え続けた。口から「ごめんなさい」という言葉が繰り返し漏れた。

 そんな時、不意にポケットから転がり出るものがあった。

 

「ん?」

 

 父の視線が『それ』に向けられる。いけない、と思った時には千夏は夜空の家の合い鍵に飛びついていた。

 

「出せ、千夏。出しなさい」

 

 当然、父の暴力は激しくなった。それでも、どうしても鍵を手放せない。

 ああ、こんなことなら知らなければ良かった。

 知らないままならこんなに苦しまずに済んだのに。千夏は心の中で夜空を呪って、

 

「……たすけて、長谷川くん」

 

 届くはずのない祈りを口にした。

 もちろん、優しい少年の声が返ってくるはずはなくて──。

 

「え?」

 

 代わりに、少女の耳に家のチャイムの音が届いた。

 続いて大きなノックの音と、声。

 

「すみません! 桃谷さんのお宅ですよね!? 開けてください! 娘さんのことで、どうしてもお話したいことがあるんです! お願いします!」

「……ああ」

 

 それは、来るはずのなかった助け舟に間違いなかった。

 

 

   ◇    ◇    ◇

 

 

『あの子、前から怪我してることが多くて。……たぶん、暴行、受けてるんだと思います』

 

 中学時代の女子生徒、それから女子の連絡先を知っていそうな友人に片っ端から連絡して、桃谷さんのことを知っていそうな女子に連絡を取ってもらった。

 行方不明かもしれないと言えば怪しまれることもなく、桃谷さんの中学時代の友達と電話をすることができた。そうして聞くことできたのは僕が予想して通りの──いや、予想していたよりも悪い、桃谷さんの境遇だった。

 

『でも、そのことを言うといつも無理して笑って。私達には絶対に頼ってくれなかったから、私……!』

 

 その友達も後悔していた。もっと助けてあげればよかった、と。

 

『助けてあげてください、先輩。あの子のこと』

 

 確約なんかできるはずがない。僕は桃谷さんと一歳しか違わないただの男子高校生で、相手は桃谷さんの父親だ。だけど、気づいたら僕は「任せて」と答えていた。

 どうしてそんなことを言ったのかわからない。ただ確かなのは、今までにないほどの力が僕の身体に漲っていたということだけだ。

 僕はその子から聞いた桃谷さんの住所へ急いだ。普段なら絶対使わないタクシーを使って家に着くとチャイムを鳴らし、それでも埒が明かないと悟ると恥も外聞もなく声を上げてノックをした。

 夜遅くにそんなことをしたら近所迷惑に決まってる。だからこそ、桃谷さんのお父さんは僕の話を聞くしかない。

 

「……君は?」

 

 思った通り、お父さんはチェーンのかかったドア越しながら僕の前に顔を出してくれた。

 酒臭い吐息。僕は名前と学校名、中学時代からの友人で、ここ数日桃谷さんを家に泊めていたことを話しながら家の奥を窺った。さすがに細い隙間からではよく見えなかったが、視界の端に見覚えのあるローファーが留まった。踵の部分に目立つ傷のあるそれは、間違いなく桃谷さんの靴だ。

 

『転んだ時、付いちゃったんだと思います』

 

 靴の泥汚れを落とすついでに尋ねた際、そう言ってたのを覚えている。同じ靴があるだけならともかく、傷まで同じということはありえない。なら、彼女は家にいるということだ。

 そこまで確信した上で、敢えて口には出さずに言う。

 

「突然いなくなってしまったので心配で……。どこに行ったのか心当たりはありませんか?」

「……ああ、えっと」

 

 迷うような視線。どう答えるべきか考えているんだろう。

 僅かな間を置いた上で、桃谷さんのお父さんは笑顔を作って、

 

「千夏なら帰って来ているよ。疲れたからってもう休んでるけど、元気だから心配しなくていい。たぶん、君には『家に帰る』って言い忘れただけだよ」

「嘘ですよね、それ」

 

 返答は予想通りだった。でも、僕には問答する気なんてない。僕は家の中にいるはずの彼女へ向けて声を張り上げた。

 

「桃谷さん! ごめん、迷惑かもしれないけど、迎えに来たんだ! 学校からバイトに直接行ったから遅くなって、本当にごめん! でも、急にいなくなったから心配で──」

「おい、君。迷惑だろう。止めなさい」

「止めません。桃谷さんの顔を見るまでは安心できません。だから──」

「何を言っているんだ。いい加減にしないと警察を」

「長谷川くん」

 

 賭けとしか言いようがなかったが、幸い僕は賭けに勝った。ドアの向こうからよろよろと桃谷さんが顔を出して、僕の名前を呼んだのだ。

 お父さんが「ちっ」と舌打ちして、ドアのチェーンを外す。

 

「入りなさい」

「……はい」

 

 ここからが正念場だと感じながら、僕は桃谷さんの家へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 リビングはお世辞にも綺麗とは言い難い状態だった。

 テーブルの上にはひっくり返った食器が転がっており、床にはいくつものビールの空き缶、酒の空き瓶などが散乱。自堕落な生活が行われていたことと、少なくとも何日か掃除する人がいなかったことがわかる。

 桃谷さんは見るからに憔悴しきっていた。はだけたジャージの上からエプロンを身に着けていたものの、そのエプロンも乱れたままの状態。身体に力が入らないのかリビングの入り口に座り込んだまま虚ろな瞳を僕に送ってきていて、どう考えても無事じゃない。

 どうしてこんなことを。

 怒りがふつふつと湧き上がってくる。

 

「彼女になにをしたんですか」

 

 お父さんを睨みつけながら尋ねる。でも、どちらかといえば僕は僕自身に怒っていた。桃谷さんをこんな状態にしてしまった、こんなになるまで助けてあげられなかった僕自身に。

 しかし、

 

「君には関係ないだろう」

 

 主犯であろう男は突っぱねるようにそう答えるだけだった。

 

「顔も見たんだから帰りなさい。これは私と千夏の問題だ」

「娘に手を挙げるのが父親なんですか! 辛そうにしている友達を見て、それでも何もしちゃいけないっていうんですか!」

 

 衝動のままに叫ぶ。すると、桃谷さんがぴくりと動いた。ほんの少しだけ彼女の瞳に光が戻った。

 なのに、お父さんは娘の様子を見てつまらなそうな顔をして「ふん」と息を吐いた。

 

「友達ね。友達なら、踏み込み過ぎないことも必要じゃないか? 君は『ただの』友達なんだろう?」

「っ」

「大体、若い男が異性を家に連れ込むなんておかしいんじゃないのか? 君こそ下心があったんだろう。娘に傷ひとつでも付けていたら十分に訴える理由になるんだからな」

 

 僕は怒りのあまり唇を噛みしめた。冷静にならないといけないのに、挑発めいた言動がどうしても許せない。

 桃谷さんに傷をつけているのは僕じゃない。むしろそれを言っているお父さん自身だ。なのに彼は口先だけは達者に僕を責め立ててくる。

 頭に血が上った僕が何を言うか迷っていると、気を良くしたのか彼はいやらしい笑みを浮かべて「この子の事は忘れなさい」と言った。

 

「でないと、君の学校に言って『対処』してもらうことになる」

「何を……!? 娘を暴行しておいて、そんなこと!」

「証拠はあるのかい? むしろ、暴行したのは君の方かもしれない。そもそも、退学した千夏を守るのは保護者である私だ。学校側だって私の言う事を信じるだろう」

 

 証拠があるのかと言いながら、彼は「証拠なんて必要ない」と言っていた。立場を利用してもっともらしい申告をするだけで、学校側に僕への『対処』を促すことができると。

 

「君は二年生だったね? じゃあ、受験準備を少しずつ始めないといけない。そんな時に年下の女の子の暴行が発覚したらどうなるかな? 退学にはならなくても停学くらいはありそうだ。そうなったら内申にも大きく響くだろうね」

「……っ」

 

 その脅しは、僕にとってとても恐ろしいものだった。

 停学は別にいい。困っている人を助けて停学なら望むところだ。でも、受験に影響が出るのは困る。そもそも、一人暮らしを始めたのは大学進学に備える意味もあるのだ。

 

『長谷川くんは大学行くんですか?』

『うん。行きたい大学があるんだ。でも学力が足りないから、今のうちから勉強してる』

 

 桃谷さんとはそんな会話を交わしたことがあった。

 僕にはバイトがあるから予備校に通うのが難しい。その分、授業はしっかり聞かないといけないから居眠りなんかできない。お陰で睡眠時間は足りなくなりがちだったのだが、桃谷さんが家事をしてくれるようになってその分だけ早めに眠れるようになった。

 

『だから、桃谷さんのお陰で助かってるんだ』

『こんなの、大したことじゃないです』

 

 なのに。

 僕は俯いてぎゅっと拳を握りしめる。正直、この男だけは許せない。一発ぶん殴って、桃谷さんを家に連れて帰りたい。けれど、そんなことをしたら悪者になるのは僕の方だ。

 悔しい。

 

(僕は、何を迷ってるんだ!)

 

 たかが受験程度のことで引き下がるくらいなら「任せて」なんて言うべきじゃなかった!

 

「学校には好きに言って構いません。だから、桃谷さんを返してください」

 

 僕はリビングを出ると、着ていた上着を脱いで桃谷さんに羽織らせる。それから「帰ろう」と手を差し伸べると、彼女の瞳が僕を見上げて、

 

「ごめんなさい、長谷川くん」

 

 僕は、桃谷さんが僕を見ていないことに気づいた。

 

「ごめんなさい。私のことは忘れてください。迷惑かけてごめんなさい。頼ってごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 

 謝罪の言葉。

 振り返れば、桃谷さんのお父さんが満足そうに頷いていた。……いや、もうこいつはお父さんなんかじゃない。ただの敵だ。

 だったら、気を遣ってやる必要なんかない。

 僕は絶対に許さない。彼女をこんな風にしたこの男を。自分には何もできないからと言い訳して、踏み込まないで、中途半端に手を差し伸べて助けた気になっていた僕自身を。

 

(どうして僕は、桃谷さんにここまで)

 

 決まっている。

 あの雨の日。僕の好きな弁当を美味しいと言ってくれた時の表情。服を摘ままれたこそばゆい感覚。朝、いってらっしゃいと送り出される嬉しさ。ふと瞬間に見せる控えめな笑顔。美味しい料理と、僕の好みを聞いてそれに近づけようとする努力家なところ。

 全部が大切で、守りたくて、愛おしいからだ。

 本当は「いつか現れる好きな人」なんかじゃなくて、僕自身が彼女をひとり占めにしたいからだ。

 

(ただの『友達』じゃ駄目なんだっけ)

 

 なら言ってやる。僕はしゃがんで桃谷さんを抱きしめると、父親を名乗るろくでなしに向けて告げた。

 

「僕はこの子が──桃谷千夏さんのことが好きです。だから、僕は何があっても千夏さんの味方をします」

「───っ」

 

 少女が息を呑む。その身体が震え出すのを感じて、僕はもっと強く彼女を抱きしめる。冷たい。その身体を少しでも温めてあげられるように。

 そして、

 

「はせがわく──」

「この、疫病神が!」

 

 リビングの床に転がっていた酒瓶が拾い上げられて、振り上げられて、こっちに向かって飛んでくる。

 そこまでをスローモーションのように眺めた僕は、咄嗟に自分と桃谷さんの位置を入れ替えた。庇うように抱きしめて押し倒し、

 

「嫌……嫌ああああああああっ!?」

 

 後頭部への衝撃。それから何かが割れる音。僕は意識が急速に失われていくのを感じながら、ただ、桃谷さんの無事だけを願った。

 

 

 

 

 結局、僕にできることなんて大したことはなかった。

 欲張った結果がこれだ。守れないまま気を失った馬鹿者。彼女にも親にも申し訳ないと思わないのか。

 眠っている僕は自分自身による自分への罵声を数えきれないくらい聞いた。それらは全部正しいことで、僕はただ受け止めるしかなかった。

 目覚めるのが怖い。

 心の底からそう思った。もちろん、そんなのは夢の中の出来事でしかなくて、眠った以上は目覚めるしかないのだが。

 それでも。

 確かに僕は闇の中にいて、自分を責めていた。

 

 そんな僕は、不意に光を感じた。

 

 同時に身体が浮かび上がっていく感覚。そのまま光の中へと吸い込まれた僕は、気がつくと淡いクリーム色を基調した部屋にいた。

 ベッドに寝かされ、身体には何かの計器が取り付けられている。

 そして、脇には──。

 

「───」

 

 疲れたのか、ベッドにもたれかかってすうすうと寝息を立てる桃谷さんの姿があった。

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