ブラムスがシルメリアを引きずり込んだ闇の深淵。
その場所は不死者王には不要と思われる寝室であった。
美しい模様が覆う壁には大きな窓があり、カーテンが開けてある所為であろうか。欠けた月が窓から顔を覗かせていた。
部屋の中央に設えてある寝台にはびっしりと優美な模様が施されており、天蓋から繊細な紗が寝台を静かに囲っている。その大きさたるや堂々たる体躯の不死者王でさえも余裕で横になれる程である。
見た目は豪華という訳ではないが、落ち着いたそして質の高い繊細な美がその部屋を静謐と共に彩っていた。
ブラムスは寝台の側に進み片膝をそこに落とした瞬間、ぎしりと寝台が軋む。その体勢のままふと視線を胸へと落とした。己が胸に頭をもたれかけたシルメリアの瞼は閉ざされたままで、そのふちを金色の長い睫毛が飾っている。ブラムスはシルメリアを月の光が零れ落ちる白いシーツの上へと横たえた。
僅かに身体が沈んだ目の前の女性は不死者王ブラムスが見慣れた戦乙女シルメリアだ。助けた時の幼さや顔立ちは既に失われ、この場所に在るのは幾度となく対峙した戦乙女であり運命を司る女神である。
だが、その戦乙女は冠する名が象徴する蒼穹の鎧や剣を身に着けてはいない。身体を覆うのは鎧とは対極の位置にある頼りなく薄い絹の夜着で、剣を持つ手は何も持たず無防備な姿を月光の下に晒し出していた。
寝台の上の肢体から窓へと顔を移動させたブラムスは欠けた月を眺めていた。
どのくらいの時が経ったのであろうか。シルメリアを残してブラムスは寝室を後にした。
音も立てずに閉まる扉を闇に浮かぶ月だけが見ていた。
それからまるまる一日が過ぎ、シルメリアは目覚めた。
髪と同じ金色の睫毛がゆっくり持ち上がり、鮮やかな緑の瞳が現われる。
目覚めたばかりで意識がはっきりしないのだろう、ゆっくりと頭を振るように左右に動かして周りを確認した。
寝台のシーツの上に静かに手を突いてゆるゆると上半身を起こして横座りになる。絹の夜着が覆う背中と胸に金の髪がさらりと零れた。
シルメリアは再び辺りをゆっくり見廻した。不意に窓に顔を向け、少しの間夜空に浮かぶ月をじっと見つめていたが、足を上げて寝台の上に立ち、窓のある方向へとシーツの上を歩く。
寝台から床へと飛ぶ様に下りた瞬間、寝台を覆う紗が揺れて背中の金髪が羽根のようにふわりと舞い上がる。金の髪は月光の煌めきを跳ね返した。
白い素足が無音で床を進みシルメリアは窓辺に立つ。月の光は尚も人間の器に収まった戦乙女を照らしている。シルメリアは両手で窓を開き、窓枠に両手を揃え猫が伸びをする様な体勢で窓の外へを身を乗り出そうとした。
————その瞬間————
シルメリアの後ろから大きな手が伸びてきて、窓辺に立つ存在を身体を囲い込むように窓枠を掴んだ。
我に返るシルメリアの背中には冷たい不死者の体が隙間無く密着して、振り返って後ろの人物が誰なのか確認する事が出来ない。夜空から顔下げると、全てを引き裂く鉤爪を持つ手が視界へ飛び込んで来る。
唇が動いて言葉を紡ぎ、静寂が支配している空間にその声が波紋の様に拡がった。
「不死者王ブラムス。」
「ようやく目覚めたか、シルメリア。」
重低音が金色の頭上から落ちてくる。
重なりあう二つの身体は同じ方向へ向いたまま窓辺に立つ。ブラムスはその体勢のまま背後から自分の眼前に立つシルメリアの顎を左の掌で持ち上げ、反射的に開いた口に中指を突っ込んだ。
「!」
声を封じられたシルメリアに、嗤いを含んだ声が月光を従えて絹の夜着を浸食する。
「礼も言わずに立ち去るのか?いい性格をしている。」
今、口を動かすとその中に在る鉤爪が口内を容赦なく切り裂き、人間の身であるシルメリアとって深い傷であれば出血多量という事態も含まれる。要は下手をすれば命を落とすという事だ。この体勢は、ブラムスがシルメリアに対して否定も肯定さえも許さないという意思を表している。傲慢で尚且つ強権的な態度は「王」そのものであり、この城の主「不死者王ブラムス」がそこに居た。
抗議をする様に自分の顎と口内を支配したブラムスの左手首を掴み引き剥がそうとするシルメリア。だが、彼女は次の瞬間凍りつく。
「お前の此処での時をもらう。」
聞こえたのは何の感情も含まれていない、事実を伝えるだけの冷徹な声だった。
足掻くように窓枠から右手を空へと伸ばす。だがその手もブラムスの大きな手が握り、シルメリアの自由をブラムスが容赦なく文字通り握り潰した。
左手と指が口と顎から離れた瞬間、シルメリアの叫びが寝室に響き渡る。
「ブラムス!!」
ブラムスの左手は流れるようにシルメリアの腰を抱き、抗議の声を上げた相手をまるで荷袋の様に肩に担ぎ上げた。そして無言のまま寝台へと向かう。
シルメリアはブラムスの着衣を引っ張ったり、目の前の大きな背中を叩いたりといった具合に声と態度で抵抗していた。遂に着衣を掴んで上半身を持ち上げて何とか逃れようと身を捩る。が、腰に廻った腕はびくともせず、抵抗の全てが徒労に終わってしまう。
そうこうしている間に寝台へと来たブラムスは静かにシルメリアを降ろした。
尚も逃れようと後退る者の足首を掴んだ。
「往生際が悪い。」
言い終えると同時に足首を高く掲げ身体を引き寄せる。小さな悲鳴を上げたシルメリアへと伸びた鉤爪は絹の夜着を音も立てずに引き裂いた。ブラムスはゆっくりと白い肢体へと圧し掛かる。寝台の軋む音がシルメリアの代わりに抗議の声を上げた。
戦乙女が剣の代わりに両手でシーツを掴む。そしてきつく唇を噛んだ。が、殺しきれなかった嗚咽と喘ぎがない交ぜになり、唇から溢れ出て切れ切れに空間を漂う。
左を横を向いているシルメリアの右目から落ちた涙が左目に溜まり、両目から溢れた一筋の涙がこめかみを通りシーツに染みを作る。
シルメリアの左頬を大きな手が包み、指の腹で涙を拭いた。真紅の双眸が自分を見ていると気付いていたが、どうしてもそれへと視線を向けることが出来なかった。
「とことん抵抗するのだな、お前は。」
「大人しく従えば、止めてくれるの?」
「愚問だ。」
唇が重なり二人の会話が終わる。そして再び衣擦れの音や唇から滴る息が空間に浸透してゆく。
窓から見える欠けた月が満ちるまでの三日間、ブラムスはシルメリアを決して離しはしなかった。
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意識が戻ったシルメリアは一人寝台に居た。余韻が全身を支配し指一本動かすのも気だるい体をどうにか起こしてゆっくりと周りを確認するように見回す。と、新しい夜着が端に置かれているのが見えた。何も身に付けいていない体に散った赤い印。腕を何とか伸ばしてそれを掴むと、シルメリアは全身に散る赤い印を素肌を夜着で隠した。
寝台の上から満月を見ていたシルメリアはきつく瞼を閉じる。眉間に皺を寄せると同時に肩をいからせ、力の入らない両の拳を強く握って俯いた。
何かを耐えるかの様に、或いは飲み込むかの様にして一時動かずにいたシルメリアは、小さく息を吐くと全身の強張りを解いた。
顔を上げると、感情を殺した声を漏らす。
「私は・・・帰れるの?」
小さな疑問に答える声が入り口の扉から響く。
「お前次第だ。」
シルメリアは自分へと向かってくるブラムスを見た。その顔で静かな光を湛える真紅の双眸を見つめながら、噂に聞く人間界の竜玉はこんな色なのだろうかとぼんやり考えていた。
芒洋とした表情で自分を追うシルメリアを見たブラムスは口端で小さく笑いながら、細い腰を両手で挟みシルメリアを幼子の様に自分の腕に座らせる。
「え?」
驚いたシルメリアは慌ててブラムスの大きな肩を掴んで我が身を支える。ブラムスがもたらした小さな衝撃で我に返り、意識がはっきりしたシルメリアは冷静に自分の状況を確認し始めた。
「ここは・・・」
「我が城の最深部だ。」
いや違う、とシルメリアは思った。
通常ブラムス城の最深部と言われるのは玉座の間を指す。だが此処は玉座の間ではない。あえて言うなら最深部の更に底であろうか。
思い至ったシルメリアははっとしてブラムスを見る。畏怖の声が柔らかな唇からブラムスの耳朶へと落ちた。
「闇の・・・深淵・・・・・」
ブラムスは真紅の眼だけを動かし、驚いた表情のシルメリアを捉える。
くっくっくっ・・・・。
ブラムスの哂う声が深淵に響き渡った。
窓辺に来た二人はどちらともなく満月を見上げる。大きな月は貴石の様な真紅と緑、二対の視線を受け止めていた。
ブラムスは片手で窓を開け放った後、壊れ物を扱う様にそっとシルメリアの腰を抱いて窓枠の上へと立たせた。
月を背に立っていたシルメリアは顔を月へと向ける。
「あの月を目指せ。」
「それで私は帰れるの?ブラムス。」
「お前次第と私は言わなかったか?」
一筋縄ではいかぬ帰路となるだろう。だが、不死者王の指し示した道さえ違えなければいいのだ。単純にブラムスの言を信じればいい、ただそれだけの事なのだ。ブラムスや不死者以外の誰がそれをありのままに受け入れる事が出来るのだろう。
しかもブラムスが相手をしているのは人間の器に納まっている神族であり、過去に幾度も敵対した戦乙女シルメリアである。
「確かに。」
いともあっさりとシルメリアが返事をする。
「シルメリア」として目覚めてから、この深淵で自分が何をされたか知りながら、それでもブラムスの言質を信じた。
彼女は「信じざるをえなかった」のではなく「信じた」のだ。
月を背に、戦乙女が不死者王へと向き直る。ブラムスの両手が細い腰を掴み身体を支えた。剥き出しの肩を覆う金の髪が艶を増し、両手が伸びて逞しい筋肉が覆う肩にそっと落ち、シルメリアはブラムスを見下ろす体勢で微笑んだ。
「ありがとう、ブラムス。」
「礼なら既に受け取っている。」
「人の命を助けてもらった。」
そのまま転生へ向かう筈だったシルメリアが眠っていた魂ではなく、小さく笑いながら逝った人間の母親の事だろうとブラムスは思った。
「この場所でよくしてもらった。」
ブラムスが何故この様な茶番に首を突っ込んだのかは、本人以外に理由を知る由も無い。しかも此処はブラムス城だ。城の主の意向無くして今の自分の状況はありえない、とシルメリアは思った。
「たとえ気紛れであっても。」
シルメリアの言葉にブラムスは口角を上げて不敵な笑みを浮かべた。研ぎ澄まされた剣の切先の様な犬歯が現われ、月光を反射する。
「お前はよく理解っている、シルメリア。」
月を目指すためには神族としての力が必要だ。人間の身のままで本来の姿、その一部分を顕現させたシルメリアは支えられている腰を曲げて顔をブラムスへと近づけ、両目を閉じた。
シルメリアの背中から夜空を覆う様に純白の翼が現われ、白い羽根が静かな空間を月の光とと共に舞う。
「王に感謝を。」
言いながら自分の額とブラムスのそれを重ねた。
金色の髪と絹の夜着の一部もそっとブラムスに触れる。
ブラムスの右手が腰から背中へと移動する。掌は背中を上へと這い、赤い印が残る肩と首筋を通りぬけ、耳朶をくすぐりながら金の髪を掻きあげる。そうすれば金が縁取る瞼を落として微笑む顔がよりはっきりと見えた。
「悪くはないな。」
低い囁きは羽根と共に床へと舞い落ちた。
鉤爪を持つ両手が細い身体から離れ、逞しい肩から白い手が遠ざかる。
シルメリアは窓から月を目指して羽ばたいた。
ブラムスは舞い散る羽根の中で窓に背を向けた。
そして何事も無かったかの様にこの部屋を静寂がひっそりと包み込む。
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ブラムスは、何人も足の踏み入れる事を許さない場所で三日もの間、シルメリアを一時も離さなかった。
シルメリアは、ブラムスの行為が感情に由来するものではないと知った。だから涙を零した。
何故、ブラムスは離さなかったのか。
何故、シルメリアは涙を零したのか。
理由は心の一番深い場所。そう、深淵に横たわる感情にある。
しかし、その感情は————
深淵にて未だ目覚めず。
何時の日か、ブラムスの、シルメリアの、深淵に横たわるそれは目覚めるであろう。
だがそれはまだまだ遠い未来の、そして別の話である。