あなたに伝えたかった”感謝” 作:若杉優太(テト/teto)
左目が見えない、左腕から先の感覚が一切ない。
身体がだるい、どこかに倒れてそのまま眠ってしまいたい……そんなことをぼんやりと思いつつ、私は渋谷駅の地下を放浪し続ける。
ここに居る理由すら忘れて。
「(マレーシア……クアンタンがいい。ゆっくりと過ごそう、もうやりきったさ……)」
そう、そうだ。元々、私は逃げた……逃げたくせに、あの女性がきっかけで“やりがい”なんていうものを得て戻って来ただけ。
呪術師など一時の気の迷いで続けていたに過ぎず、所詮仕事の域を出ない。
なら、こんな仕事など辞めてしまおう。辞めて、平穏な日々を取り戻すんだ。
きっと、そこには穏やかな――
「(……っ!私は何を考えている?真希さん、直毘人さん、伏黒君の心配をしないと……いけないのに)」
考えがまとまらない、意識も朦朧としてきた。
痛い。身体全体に激痛が走り、歩くことすら辛い。
歩いていも、歩いていも人とは出会う事がなく、私の足音だけが駅の構内に響いた。
「誰も居ないのか……?誰も……?」
掠れた声を出してみるが、それに応じる者は誰一人として現れない。
おそらく、この階には呪術師どころか一般人すら居ないのだろう。
今の状況を鑑みれば、当然と言えば当然かもしれないが。
「(疲れたな。どこかリゾート地にでも行こうか……?ハワイ、グアム、モルディブ、ホノルルもいいかもしれない……)」
太陽が照らすビーチのパラソルの下、椅子の背もたれに身を預けながら本を読みふける自分の姿が目に浮かんでくる。
誰にも邪魔されることなく、一人でひたすらに自由を謳歌する毎日がそこにはあるはずだ。
きっと、きっ……と……
「ぅ……くッ!?ぁぁ……ッ!」
麻痺していた痛覚が戻ると共に、思わず激痛から近くの壁にもたれかかって座り込むと、私はようやく妄想から現実へと揺り戻された。
「(ふっ……ここまでか。ここで、私は死ぬんだな……)」
上半身の左半分が焼け焦げ、肉どころか骨まで見えているような死に体の状態で、よくここまで歩いてこれたものだ。
どうせなら、あの呪霊に火傷を負わせられた時にそのままくたばっていれば、ここまで苦しむこともなかったはずだが、こんな時に限って私は運がいいらしい。
まったく……クソな話ではあるが。
「(私は、何がしたかったんだろうな?灰原……?)」
あの遠征で彼を喪った時、呪術師としての責務などどうでもよくなった。
呪術師をやっているよりも、一般社会で金を稼いだ方が何倍も楽で安全だと気付き、結局一度は呪術師という仕事を見限った。
だが、あの女性との出会いをきっかけにし、また私は呪術師の道へと戻っていたのだ。
あくまでも、自分の意思で。
「(元気にやっているでしょうか?あの方は……何もなければ良いのですが)」
呪術の世界へ戻ったことを今更後悔はしていない。
あの時の感謝があったからこそ、今の今まで前へと向いてこれた。
呪術高専で乙骨君や虎杖君といった子達と出会えたことを考えれば、呪術師へ復帰したことは悪くない選択肢だったように思える。
「(虎杖君、後は……よろしくお願いします)」
彼のように正義感が強く、人の為に動ける人材が居れば、例え五条さんが居なくても呪術高専は大丈夫だ。
「なぁ、お前もそう思わないか?」
私の目の前に立つ友へと問いかけると、灰原はにっこりと笑みを浮かべつつ、おもむろに右を指差す。
つられてその方向へと顔を向けた途端、私は目を見開かせたと同時に表情を綻ばせた。
「……っ!?ふふ、まだ簡単には死なせてくれないか。簡単には……」
薄茶色の髪をした私のよく知る少年が、こちらへと走ってきている。
もう誰も来ないと思っていたのに、まさか彼が来てくれるとは思いもしなかった。
もっとも、いくら彼が来てくれた所で私は助からないだろう。
だから、最後に一目姿を見れただけでも良かった。
「(ああ……貴女とまた会いたかったです。あの店で、今度はゆっくりと話でもしたかったな……)」
いつの間にか、灰原と入れ替わる様に立っていたあの女性を見つめ、私は徐々に消えゆく意識の中で笑みを浮かべる。
――何度見ても、美しい笑顔だ。
手を振りながら私へ何かを呟く彼女だが、もう私の耳には何も聞こえない。
目も、ぼやけて……涙が、溢れてくる。
呪術師になってから死などとっくに覚悟していたつもりだったが、いざとなると怖いものだ。
なら、せめて一言彼女に言葉を残しておこう――
「会いにいけなくて、ごめんなさ……い」
絞り出したその一言が、私の記憶に残る最後の言葉だった。
**
「……」
「……もう死んだと思っていた私でしたが、その後に何とか仲間の呪術師に救出され、こうして生を謳歌しているというわけです。仲間には何も言わずにひっそりと呪術師を辞めて……」
これまでで自身に起こった事を私へと話し終えると、七海さんはそのまま顔を俯かせてしまった。
私も、そんな七海さんに掛ける言葉もなく、彼のように表情を暗くする。
「(渋谷で、そんなことが起きてたなんて……)」
少し前のニュースで渋谷……というより東京で起きたことについて知ってはいたが、まさかその裏側で七海さんが命を落としそうになっていたなど知らなかった。
――遠い所の出来事だよね。
東京から離れた位置にあるこの場所で暮らしていることもあってか、私は呑気にそんなことを思っていたが、実際は違ったのだ。
「(私の大切な人が傷付いてたなんて……予想、できるわけないよ……)」
七海さんが倒れている所を発見するまで、私は順調にこの店を切り盛りしていた。
テレビにも紹介され、雑誌にも特集を組んでもらうなど、自分の作るパンが世間に認められるのが嬉しくて、無我夢中であの時は日々をパン作りに捧げていたと思う。
そう、あの時までは。
「私は、これからどうすればいいんでしょう?呪術師には戻りたくない、でもこのまま生きているのも嫌気が差している……本当に、どうすれば……」
頭を抱え、苦悩する七海さんの力に少しでもなってあげたい。
だが、いくら呪霊から守ってくれた恩を返したいと強く思っても、呪術師でもない私が掛けられる言葉など所詮気休めにしかならないに決まっている。
きっと、この場では取り繕った笑顔を見せてくれるだろうけど、彼はそのまま私の前からひっそりと居なくなって、もう二度と会えなくなる気がした。
せっかく、こうして会えたというのに。
「(私が、七海さんにしてあげられることって……何なのかな?わたし、なんかが……)」
パン作りをすることと、小さい頃から持った底抜けの明るさぐらいしか取り柄がない私が、七海さんの悩みをどうやって解決するというのだろう。
彼がどんな戦いをしてきたのかを直接知らないくせに、無責任に七海さんを励ますなんてできっこない。
「あっ、すいません。つい、本音が出てしまいました……迷惑でしたか?」
「……いえ、そんなことはないです。私も、話を聞けてよかったです」
気遣いを見せる七海さんに返事をし、私がふと机の上に置いた湯吞みを見つめると、さっき淹れたはずのお茶はすっかり冷めきっているのが分かった。
咄嗟に“淹れ直そう”と思ったけれど、とてもじゃないが今の重苦しい雰囲気の中でお茶など飲む気にすらならない。
「……」
「……」
どうやって、声を掛けたらいいかな……
私がそんなことを考えていると、気付けば私と七海さんの間に無言の時間が流れていた。
七海さんも私も、互いに掛ける言葉もなくただ顔を俯かせるだけの時間。
一番苦しい思いをしている彼に勇気を出して一言二言でも言葉を掛けられない自分が、私は嫌で嫌で仕方なくなりそうになる。
「(じゃあ、どうしたらいいの……?なんて、言ったらいい……っ!?掛けられる言葉なんて一つもないじゃない……!)」
自問自答を繰り返すも、結局私の中で結論がまとまることはなく、ただただ自分の不甲斐なさに下唇を嚙み締める――
すると、不意にそれまで無言だった七海さんが口を開いた。
さっきまでとは違う、朗らかな笑みを私に見せて。
「近くの公園の桜は綺麗でしたね……」
「え?」
「こうして貴女と久し振りに会うまで、ずっと私は自宅にずっと居たものですから外の景色と空気が新鮮に感じるんです。もちろん、人の温かさも……」
そう言って椅子の背もたれにぐったりと身を預け、七海さんは感慨に浸ったようにして窓の外を見つめた。
「呪術師を辞めて、すっきりしたと思っていましたが、やっぱりあそこで得られる温かさは代えがたい物がある」
「でも、呪術師には戻りたくないって……」
「ええ。戻りたくはないですし、正直今まで貰った給料を考えれば一人でこのまま何もせずに暮らすことも可能です。でも、私の中にある罪悪感がそれを許してくれない……“逃げた”という罪の意識が消えないんです」
腕を抑え、やり切れない表情をする彼の身体は、僅かながらに震えている。
恐怖や葛藤、自責の全てを今の今まで溜め込み、ここに来るまでの間苦しみ続けてきたのだろう。
もし相談する相手や心を許せる仲間が居るのなら、普段はあんなにも頼もしい姿を見せていた七海さんが、ここまで苦悩した様子を見せることは絶対になかったはずだ。
そう、彼を支える相手が居れば……
「(――居る。ここに居るじゃない、七海さんを支えられる相手が……)」
今の今まで何もできないと顔を俯かせてばかりだったけど、それは大きな勘違いだった。
確かに七海さんの身に起こった事を全部は理解してあげられないし、私はどこまでも無力な一般人に過ぎない。
だけど、彼の傍に居てあげることぐらいはできる。
「(そのぐらいはしないと、あの時の恩も返せないよね……)」
過去の思い出に心を浸し、顔を穏やかにすると、私は大きく息を吸い込んで言葉を発した。
「七海さん。どこか行きたいところ、あるんでしたよね?」
「……?いや、特に無いですけど……」
「もう!言ってたじゃないですか!“渋谷で瀕死になっている時咄嗟にマレーシアのクアンタンに行きたくなった”って!」
「あ、ああ……確かに話しましたけど、あれは――」
「行きましょうよ、クアンタン!」
いつの間にか七海さんの手を取っていた私は、屈託の無い笑みを彼へ向ける。
当然、戸惑いの表情を見せる七海さんだったが、明るい声と表情を崩すことなく構わず言葉を続けた。
「一度行ってみたかったんですよね、海外旅行!特に東南アジアとかは、数年前は真剣に旅行へ行くか検討してました!」
「あ、あの……」
「でも、ハワイとかも捨てがたいですね……やっぱりどうせお金払うんだったら、定番のリゾート地にも行ってみたいんですけど、スケジュールが厳しいな……」
私は悩んだ末に席から立ち上がり、店内の壁に掛けてあるカレンダーの元まで歩いていく。
「(そっか、今日は営業日だったよね……)」
カレンダーにびっしりと書き込まれた黒丸は、この店が営業していることを示すマークのはずだが、実際はマークしているほとんどの日を今月は休んでいる。
おそらく、営業を再開しても戻って来る客は少ないだろう。
なら……
「七海さん、以前お会いした時……私の夢、お話しましたよね?」
「……!ええ聞きました。確か、自分の店を持つことがずっと夢で、それがようやく叶ったと……」
「はい、そうです。こうして自分のお店を持ってるだけで、すっごく幸せでした。このお店さえあれば他は何も要らない、そのぐらいに思ってたはず……なんですけどね」
言葉を詰まらせながらも再度気持ちを整理すると、私はゆっくり七海さんの方へ向き直る。
さっきまでと変わらない、朗らか笑みのままで。
「でも、このお店よりも大事な物ができちゃいました!ずっと、傍に居たいって思う……大事な人が」
「え?」
「逃げちゃいましょうよ、七海さん。私、貴方のためだったら、どこへでも行きます。だから、一人で抱え込まないでください!」
冗談や嘘ではない、彼がどこへ行こうと絶対に傍で支える。
喋りが上手なわけではないが、それでも私なりに伝えた想い。
その想いは、確実に七海さんに伝わったようだった。
「逃げ、る。本当に、こんな私が……?」
「ええ!逃げたっていいんですよ、だって七海さんはこれまで頑張って来たじゃないですか!」
「……っ!!しかし、私は……私は……」
一瞬安堵した顔を見せる七海さんだったが、やはり踏ん切りが付かないのか再び頭を抱えてしまう。
そんな彼の元へと私は歩いていき、背後からそっと――七海さんの身体を抱き締めた。
「大丈夫です。七海さんは一人じゃありません、私が傍に居ます。この先どんなことがあっても、絶対に貴方の元から離れません」
「しかし、それでは……店の経営が……」
「いいんです、今はお店より……七海さんの方がずっと大事。私は貴方の傍に居れることが、一番幸せなんですから」
最初は強張っていた彼の身体は、私が言葉を重ねるに連れて柔らかくなっていき、顔の表情も少しばかりか良くなった。
口を開くことはなく、黙り込んではいたものの、それでも私の言葉に何かを感じ入ってくれたようだった。
「(逃げてください、逃げて、逃げて……ずっと元気でいてほしい)」
海外に行くだけの貯金と時間、覚悟もある。
後は七海さんが決断してくれれば、どこへだって行こう。
そう、どこへだって……
**
「こことも、お別れか……」
椅子や机、レジ、調理器具などなど……店にあった物を全てを業者に引き取ってもらい、すっかりパン屋であった頃の面影がなくなった店の一階部分を見渡し、私はぼんやりと言葉を呟く。
私が生活するのに使っていた二階部分も、私物以外は全て一階の物と同じように業者へと引き取ってもらった。
後は、手元にある鍵で店の扉を閉めてしまえば、この店とはおそらく永遠にお別れをすることになる。
「(もう少し、居たかったかな……もう少しだけ……)」
幼い頃からずっと追い続けてきた夢が叶って、数年もしないうちに店を畳むことになるとは思いもしなかった。
私としては、ここに骨を埋めるつもりでこの数年間働いてきたのだが、今更くよくよしてもしょうがない。
だって、これから新しい生活が始まるんだから!
「よし、そろそろ行こうか!だいぶ、あの人待たせちゃってるだろうし……早く行かないとね!」
この店で作り上げてきた思い出や、出会いの全てを胸にしまい、私は店を後にするのだった。
「ごめんなさい!お待たせしちゃいましたか!?」
「あ、いえ……全然待ってませんよ」
店の近くにあった公園で待っていた七海さんに、私は慌てて頭を下げるが、七海さんは特に怒った様子もなく許してくれた。
「まだ飛行機が飛ぶまで時間はありますし、もう少しあの店に居ても良かったと思うんですが……本当に、後悔はないんですか?」
「……はい、ありません。ちゃんとお別れも済ましてきましたから……!」
私を気遣ってくれる七海さんに対し、精一杯の笑みを返してみせると、彼もそれ以上は言葉を紡ぐことはなかった。
きっと、彼なりに私へ負い目を感じているのだろう。
「(ほんと、真面目な人なんだから)」
貯金を崩して払おうと思っていた飛行機のチケットを、結局七海さんが強引に私の分の料金を払ってしまったところを見ても、やっぱりこの人は生真面目過ぎる人だ。
でも、そんな生真面目過ぎるところが私はたまらなく好きだし、この人にどこまでも付いて行きたくなる――
「じゃ、行きましょうか!新たな新天地へ!」
「ええ。行きましょう」
元気よく声を出す私に、穏やかな笑みを向ける七海さん。
数日前までは乗り気でなかった彼もすっかり元気を取り戻しており、新しい生活に胸を高鳴らせているようだった。
「(これから大変だろうな……)」
言語も生活様式も違う海外へと行き、そこで生活を営んで行かないといけない。
お金に関しては心配ないが、やはり言語が全く違うというのはかなりの不安要素ではある。
だけど、何とかやっていけるだろう……七海さんが居れば。
「(マレーシアだろうと、どこのリゾート地だろうと、ずっと傍に居ますからね。七海さん……)」