1話
理不尽なことや不条理なことは、世の中誰にだって起こり得る。突然兄弟になった奴が出会った直後に飼い犬を蹴り上げたり、最終的にはソイツと心中することになったり。たくさんの理不尽、たくさんの不条理が、今日も世界のどこかで起こっている。
不条理と理不尽は同じ意味だろうと思うかもしれない。実際、どちらも「物事の道理のなさ」を表す言葉だ。違うのは、起こる物事のスケールにある。理不尽はどちらかというと当人の感情を表すもので、不条理はもっとスケールが大きい。
ならば私の身に起こっていることは、理不尽ではなく不条理なのだろう。
細い四つ足、面長の頭、風にたなびく長い尻尾、天をつく二つの耳。
古来より人と生き、人の文明を発展させていった獣────〈馬〉。
それが、今の私である。不条理文学の名作フランツ・カフカの『変身』のように、目が覚めたら馬になっていたのである。もっとも、私の場合は変身ではなく〈馬として生まれた〉なのだが。
畜生道に堕ちるほどの業を背負った記憶などないけれど、私個人の倫理観的にセーフだが仏教的にはアウトなことをしまくっていたのかもしれない。毒虫よりはマシではあるが、それでも獣であることには変わりない。もし私に自由にものを掴める手があったなら、外へ出たくなさすぎて、子宮にしがみついていただろう。
しかも、ポニーとかならまだ楽に生きられただろうに、私がなったのはサラブレッド系。しかも、牧場長が宝くじを当てた金で一念発起と良血の名馬に種付けしてもらったそうだ。母親の方は競走馬にこそなれなかったものの、父はかなりの名馬らしい。つまり、私は競走馬になることを期待されているのだ。
牧場の人は「もし走れなかったら、ここで乗馬やればいいよ」と言ってくれてはいるが(この牧場は乗馬クラブもやっている)、それも無事に競走生活を終えられればの話だ。幸先は依然として暗い。
「カワイイ〜、放牧の時間だよ〜」
「カワイイ」というのは私のことだ。
どうやら私は馬の中でもかなり可愛らしい顔立ちをしているようで、生まれた頃からカワイイカワイイと言われていた。それである時、牧場に住み着いている猫に向けたカワイイに反応したことで「自分の名前をカワイイだと思い込んでいる」と勘違いされてしまった……という訳だ。
放牧場に出て、母と一緒に草を食む。まだ雪が残っていて、それを踏む音が耳に心地よい。たまに見学に来てる人に愛想を振って人参を貰ったりしながら、軽く走る。若いせいか、体力が有り余っているのだ。
「あれがミスクイーンの2009です」
牧場主が誰かを連れて、私と母のいる放牧場にやって来た。ミスクイーンは母の名前だ。祖父の名前に「キング」が入っていたから、こんな名前になったらしい。母は牧場主が嫌いだから、耳を後ろに伏せて顔を前に出し、近づいて来たら噛む姿勢に入った。
「父親はダートと芝の覇者〈アグネスデジタル〉、母父は〈キングヘイロー〉です」
牧場主が連れている男はなんというか、随分とアバンギャルドな格好をしていた。頭につけてるの何? バラン?
〈先生〉と言われているし、なんか調教師とか評論家とかそのへんなのだろうか。
「走りそうかい?」
「まだ体が成長してないのでなんとも言えませんが、走らせるならダートですかね。母父キングヘイローもアグネスデジタル産駒も、ダートが得意ですから。
走るとしたら短距離からマイルですね。キングヘイロー産駒はカワカミプリンセスとかローレルゲレイロとか短距離馬が多いですし、アグネスデジタルはマイルが得意だったので」
母が止めるのを無視して、牧場主と男に近づいてみる。男の方は、冬なのに腹を出している。寒くないのだろうか。
「おっ、どうした〜カワイイ、腹減ったか〜?」
牧場主は私に甘い。ここに来るときはいつも、私用のりんごを持ってきてくれる。
りんごを食べている私を、男はじっと見ていた。近くで見ると、モナリザやネットで話題になっていたぬいぐるみの持ち方が雑な俳優に似ているような男前だった。どこかで見たことある気がするが、思い出せない。誰だろう。
「カワイイってのは、こいつの名前かい?」
「ええ、カワイイカワイイ言ってたら自分の名前だと思っちゃって」
「へえ、バカだな」
すごいナチュラルに罵られたので、ちょっと母を呼んでやろうかと思った。母は現役時代よりはおとなしくなったが、対牧場主だとものすごく気性が荒い。私を産んだときも、牧場主が来た瞬間壁に蹴りを入れて馬房を破壊したほどだ。
「はは……〈露伴先生〉もどうですか?」
…………えっ。
「いやいい。汚れるのは嫌だし、噛まれて商売道具に傷つけられたら大変だからな」
「ですよね、漫画家さんですもんね。けどカワイイ、人懐っこい上に賢いので、指を噛まないように食べてくれるんですよ〜」
〈露伴〉〈漫画家〉
もしかしてこの男、名字が岸辺で年末に好奇心からレッドラインを越えまくってたりしないだろうな……?
「そうだ、もしよかったらサインを書いてもらえませんかね? 『岸辺露伴』って。
うちの子、『ピンクダークの少年』の大ファンなんですよ」
……ジョジョじゃん。
この世界、ジョジョの世界だったんか……