とある休日の昼下がり。高校生になった晴哉は大橋市の鷲尾家に何ヶ月ぶりかに戻ってきていた。特に理由はない。強いて言うなれば両親の顔を見たいから。と言うことにしておきたい所だった。その方が美談になるから。と言う冗談混じりの考えは何とも彼らしい。
「どう?高校は上手くやれてるの?」
晴哉は須美から持って行けと言われた緑茶を堪能しながら、母親と近況について話をしていた。とは言っても母親の第一声がこれである。何とも自分は信頼されていないのかと言う言葉を苦笑い共にお茶で流し込んだ。
湯呑みを口元から離した時、その中に映る自分と目が合ってしまった。何となく晴哉はその自分自身に問いかける。自分は上手くやれてるのか?と。
「やれてるとは思うよ。友達も増えたしね」
水面に映る自分の表情を見て、晴哉は母親に自信を持って答えた。その答えに母親も安心したような素ぶりを見せた。
「私とお父さん心配してたのよ。あなた、そんなんでしょ?」
サラッと流れに任せて言われた事に晴哉はケラケラと軽く笑った。何処と無く誰かに似ていたのはきっと移ってしまったからに違いない。
「それが息子に言う言葉?」
「私の中の晴哉は中学で止まってるのかも」
クスクスと上品に口元を隠しながら笑う母親に晴哉も思わず口端が綻ぶ。
「いい加減更新してくれよ」
「ふふっ。そうね。貴方も、須美も。私達の知らない所で成長してるんだものね」
母親は少し遠い目を窓の向こう側の景色に向ける。その先の庭であった昔のことが彼女の中では再生されていた。晴哉もつられてその視線先に目をやる。
少し前では考えられないほどに穏やかな陽射しと海風が世界を優しく包み込んでいた。晴哉はその情景に気を取られていたのだが、母親の控えめな笑い声に意識が呼び戻される。
「晴哉、覚えてる?貴方が1番最初に自転車に乗った時のこと」
「俺が?どうだろ。あまりしっかりとは」
「貴方、補助輪を最初に外した時おもいっきり転んだのよ。それから凄く泣いて」
「な、何の話だよ」
晴哉としても昔話をされるのはむず痒かった。泣いた話となると尚更だ。
「それからすぐに貴方諦めちゃったのよ。もう嫌だ〜って」
「うわぁ。なんか思い出した気がする。それいつだっけ。4歳?」
母親の話を黙って聞いているうちに当時の記憶が次々と蓋を開けて飛び出してくる。より鮮明になり始めた所で母親は話を続けた。
「そうね。まだ貴方を鷲尾家に引き取ってから一年経ってたかどうかって所だったはず」
「あの時から諦め癖は既に習得済みだったって事か……」
「何を感慨深げに言ってるの。……私達の初めての育児だったしね。どうするのが正解かわからなくて凄く戸惑ったの今でも覚えてるわ」
母親は自分たちの不甲斐なさを責めていた。安芸の家から言われたとは言え気安く引き取るべきではなかったかもしれないと思った日も随分とあった。と小さく息を吐く。
「その一件で私もお父さんも最初は晴哉が凄く弱い子だと思っちゃったわ。お父さんは厳しくしても鷲尾家に相応しい子にしなくては!って息巻いてたけどね」
「と、父さんの厳しさは冗談じゃないからやめてくれ」
「あら。多分まだあれでも序の口よ」
「嘘だろ……?」
晴哉はとても人類の絶望的状況に立ち向かった人とは思えないほどの絶望感をその全身を使って体現していた。母親は天の神よりも恐ろしいとされる自分の夫を少しだけ不憫に思ってしまった。
「可哀想なお父さんは置いておいて。私たちがどうしようかって悩んでる時、金蔵寺さんに呼ばれてね」
金蔵寺さんと言うのは当時のお手伝いさんの1人。今は既に鷲尾家を離れて所帯を持っている。その名前を久しぶりに聞いた晴哉は少しだけ懐かしくなった。
「私とお父さんが呼ばれてついて行ったら晴哉ったら庭の隅で」
「乗る練習してたんだろ?もういいよ。恥ずかしいからこの話はここまで。……人前で何かするの苦手なんだよ」
「それが晴哉の強さの根源ってところね。あら。話が上手くまとまったんじゃない?」
「どこにも繋がってないよ。要するに母さんは何が言いたかったの」
まさか歳を取ると思い出話に花が咲くって事を言いたかったわけじゃないよね?と晴哉はからかい気味に言う。
「言うようになったじゃない。歳を取ると思い出話に花が咲くのは事実だから認めるとして……。要するに私が言いたいのは晴哉は誰の目にも映らない所で努力して、知らないうちに成長してるって事よ」
「うっ。改めて言われると居心地が悪い……」
何だか急に褒められると嬉しい反面、やはり照れくさい。鼻筋が痒くなる。晴哉は口元をもごつかせているのを見て、母親は晴哉の息の根を止めにかかった。
「今だってそう。私達両親の元を離れて、着々と強く逞しくなってる。それでも親ってものは子供が心配なのよ」
「そう言うもの?」
「えぇ、そうよ。いつか晴哉も親になる時が来たらわかるわ。子供ってのはそう簡単に決めつけるものではないって事。覚えといて」
帰ってきて早々にこんな人生の教訓のようなものを教えられるとは思ってもいなかった晴哉だったが、簡単にその教訓を自分の中に落とし込めていた。こんな大切な話を聞けるのなら思い出話も、過去の恥も少しは思い出して良かったとすら思えている。
母親も話すことができて嬉しそうに頬を緩めていた。そこには前まではなかったシワがいくつも刻まれていた。自分も、母親も歳をとったものだと16歳が思うにしては年寄り臭い感想が晴哉の頭をよぎる。
「晴哉。貴方、結構失礼な事考えてるでしょ」
「いえ。何も。じゃあ俺は一旦部屋戻るから」
晴哉は母親の詰め寄りに対して逃げると言う行動を選択した。その引き際は鮮やかで、湯呑みに残された温いお茶を全て飲み込むと風の如くその姿をくらませた。
「ほんと、子供の成長ってのは早いものね」
子供に恵まれなかった自分たちは本来、こんな気持ちを味わうことは出来なかったはずだ。それでも自分たちを『親』にしてくれた晴哉と須美には頭が上がらない。
いつか今した話が、先を行く者として子供達に残せた大きな欠片の一つでありますように。と彼女は過去ではなく未来を想像して優しく微笑んだのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「お父さん……もう疲れた。無理……」
讃州市に建てられた一軒家の芝生の庭。そこで1人の少女は持っていた木刀を手放した。小さい身体に合わせて調整された木刀は音を立てて転がる。
「剣術やりたいって言い出したのは美遊だろ?」
少女の父親。晴哉はそう言って美遊の傍に転がった木刀を片手で簡単に拾い上げた。ついてしまった草を払ってからその小さな木刀を軽々と振って見せる。
「見せつけてるの?」
「子供に自慢してもどうもならんだろ。無理矢理立てとは言わないけど、自分で決めたろ?1日に少なくとも素振りはこなすって」
そう言って晴哉は寝転ぶ美遊の隣に座り込んだ。
「それでも限界があるよぉ……。私、お父さんみたいに大人じゃないし」
「お、大人にも限界はあるからな?」
「むぅ。手が痛いこともわからないんでしょ」
晴哉は美遊に「拗ねた?」と挑発的な言葉を投げかける。美遊も美遊で素直に「拗ねた」と唇を尖らせて答えるのがまた可愛らしい所だ。
優しい手つきで頭を撫でる晴哉とされるがままの美遊。美遊は妙に嬉しそうに目を細めている父親を見上げた。
「私もお父さんみたく強くなれるかな。……お母さんや園子様。須美さんが言う事は信じられないけど」
美遊は少し前、3人から晴哉の昔の話を興味本位で聞いていた。まだかつての事を全て聞いたわけではないが、3人とも口を揃えて強かったと言うのだから信じたくなくても信じざるを得ない。
「俺は強くないよ。ただ運が良くて、いろんな人に助けてもらっただけ」
「けど、お父さんは沢山の人を助けたんでしょ?」
「助けた……と言うより、自分がしたかったからそうしただけだよ」
謙遜とした感想を一向に崩そうとしない晴哉に美遊は思わず首を傾げてしまった。子供である美遊からすれば褒められれば嬉しいし、寧ろ褒めてもらうためと言うのが動機であることすら多いのだ。父親である晴哉もそうだと勝手に思い込んでいた。
そんな美遊の戸惑いを感じ取ったのか、晴哉はケラケラと笑い声をあげる。
「美遊もいつか自分の命を投げ出しても良いって思える相手ができるさ」
さも答えかのように振る舞う目の前の父親を見て、更に美遊は混乱したのだった。しかも言い方が何かにつけて大袈裟である。
晴哉は未だ納得できてなさそうな美遊の頭を撫でながら何か思いついたように指をパチンと鳴らした。
「美遊にいい言葉を教えてあげよう。どんなピンチでも勇気になる魔法の言葉をね」
「魔法の言葉?」
「そうそう。諦めそうになってもその言葉を思い出せば無限の力が湧いてくるんだぞ」
美遊もそう言った話の方が気になるのか、先程まで抱いていた疑問は何処に行ったのやら。魔法の言葉、と言うキーワードに起き上がって目を輝かせて今か今かとその言葉を待っている。
晴哉はその勢いに気押されながらもその魔法の言葉を海から吹き込んできた一陣の風に乗せた。
「気合いと根性」
「何かと思ったらお母さんの決まり文句じゃん」
期待して損したとばかりに美遊はまた芝生の上に倒れ込んだ。
「美遊は知らないだけだぞ。この言葉の力強さを」
「根性論は退廃的な考えだよ……」
「む、難しい言葉知ってるな。6歳とは思えん」
まさかの返しをされてまたも晴哉は面食らった。それでも、いつの間にそんな言葉を覚えたのかと褒めちぎる。
「お父さんが私を褒めるなんて珍しい」
「俺、そんなに極悪非道な父親してる?」
晴哉からしてみればこれまでもかなり愛情を持って美遊に接していた。確かに彼女の事を愛し切れていなかった時期もあったが、それもたった数ヶ月。それが晴哉自身の中で尾を引いていて、美遊に辛い思いをさせていたらどうしようかとおもむろに不安になったのだった。
急にわかりやすく不安そうにする父親を見て、美遊はケラケラと軽快な笑い声をあげた。
「私はお父さんのこと好きだよ」
「お、おう。そうか」
成長する中で2度と聞かなくなるであろう言葉をもらった晴哉は先程までの不安そうな表情は消え、もう死んでもいいとばかりの安堵した表情を浮かべながら胸を撫で下ろす。
そんな晴哉の姿を横目に、美遊は青空を見上げる。美しく、際限なく広がる空も地獄のような様相を呈したと言う話も美遊は知っていた。全てを救おうと足掻き、世界を滅びから救った内の1人の父親がたった1の存在である自分の事であそこまで思い悩んでくれていると言うのはきっと、とびっきり幸せな事なのかもしれないと幼いながらに美遊は思う。
「気合いと、根性……」
それが父親の中で魔法の言葉だとするならば、きっとこの言葉が無ければ何もかも諦めていたのかもしれない。そう考えると確かに魔法の言葉のように思えてきた。
「何だ。気に入ってくれたのかその言葉」
「気にいるも何も前からずっーと聞いてる」
「銀のやつ、最近困ったら全部それだもんな」
ここには本人が居ないからとそこそこ失礼な事を言う人だな。と美遊は内心思った。だが否定し切れないのもまた事実。勝ち気な笑みを浮かべて「気合いと根性だ!」とサムズアップしている自分の母親の様子があまりにも簡単に思い浮かんだ。
「お母さんはどうしてあのパワープレーで問題解決できてるの?」
「さぁ。銀だからでしょ」
「そっか。お母さんだからか」
晴哉と美遊が2人して納得をした瞬間、軽い衝撃が脳天を突き抜けた。
「「いった!?」」
情けない声が町中に響き渡り、2人して同時に振り向く。そして同時に顔を引き攣らせた。
「ハルヤ、美遊。アタシの言いたいことはわかってるんだろうね」
そこには威風堂々たる姿で仁王立ちする銀。晴哉も美遊も母親たるこの人物だけには逆らうことなど出来なかった。
「わかってるけど敢えて触れないって言うのは許されない?」
晴哉はいつも通りに誤魔化して逃げようとする。しかし、銀はそれを大体許さない。ここまでは美遊がいつも見ている家庭の日常だった。
「お父さん、学習しないよね」
自分の置かれた状況を棚に上げて美遊は呆れた眼差しを晴哉に向けた。そんな視線を向けられた晴哉は心外だとばかりに眉を寄せる。
「わかってないなあ美遊は。楽しんでるんだよこの状況を」
「………変態さん?」
美遊からしてみれば複雑怪奇。理解が遠く及ばない世界に自分の父親は行ってしまったと心の中で嘆いた。
「変態さん言うな」
晴哉は隣でケタケタと笑う美遊の頬を軽く指先で突く。美遊はそれを嫌がる事なく寧ろ嬉しそうに受け入れた。
そんな2人に銀は少し羨ましそうな眼差しを向ける。それに気がついた美遊は銀に向けて「どうだ」とばかりに勝ち誇った顔を向けた。
「アタシは別に……」
「どうした?何か言った?」
「何も。さてと、アタシは買い物に行くけど2人はどうする?」
銀は美遊の挑発を大人の対応で受け流しつつ、2人にこれからの予定を伝えた。晴哉は一瞬美遊に目を向けた後、立ち上がって銀の隣に並んだ。
「俺はついて行こうかな。お米とか確か切らしそうだったよね。運転するよ。美遊はどうする?」
「私は家で寝てる。疲れちゃった」
欠伸を噛み殺す真似をしながら美遊も立ち上がると、銀と晴哉に目もくれずにスタスタと屋内に戻っていった。
2人はその様子を見てから目を見合わせるとクスッと小さく笑った。
「性格はハルヤ譲りだね」
「もう少し素直になって欲しいよ」
「帰るの少し遅くしよっか」
「そうだね。お腹空かない程度にね」
銀の提案を晴哉は受け入れる。2人はわかっていた。美遊は努力をしている所を誰かに見られるのが苦手なのだと言う事を。それに2人は知っている。彼女の手には幾つものマメが出来ていると言う事を。それを努力の結晶だと言わずなんと言うのか。
「ちなみに聞くけどハルヤもあんな感じだったの?アタシ達の知らない所で頑張ってたり?」
「母さんにでも聞いてくれ。……あんなに小さくて泣き虫だった美遊がここまで成長するなんて。子供の成長ってのは早いな」
車のエンジンをかけながら晴哉は感慨深げに息を吐く。いつか母親に言われた通りだった。それがまたおかしくて目を細めた。
「きっとこれからもそんな事ばっかりだよ」
「あはは。かもね。俺たち親は黙って陰ながら応援してあげないと」
それが親としての最大の責務だと晴哉は胸に刻む。この先、美遊が進みたい道に進めるように人として。親として自分も努力を続けなければと決意を固めた。その決意を燃料に、歯車は回り続ける。いつか錆びついて止まってしまうその時までーーーー。