とある日の昼下がり。陽気な気候に心を躍らせ、窓から吹き込むそよ風に身を委ねながら俺はいつものように読書に耽っていた。
今読んでいる本は主人公の女の子が親友を死から救うために何度も人生をやり残すと言う壮大なSFファンタジー小説である。数分前に佳境に入り、親友が主人公のタイムリープを最初から知っていたと言う衝撃の真実が判明したところだ。次の章からは主人公が決断を迫られ、きっと親友を意地でも助け出すと言う展開を勝手に予想して本を閉じた。
「4時間も経ってたか。そんなに面白かったかなこれ」
本を手の中で弄び、ここまで読んだ内容を脳内で反芻しながら1人感想会を始めた。
結論。買って後悔しなかったと言う素直でない感想が採択されたところで結末まで一気に駆け抜けようとした時だ。自室の扉が弱々しい音を立て、廊下の空気が流れ込んでくる。一体何者だと目を向けてみると、そこにはいつもより元気が8割減している須美が弱々しい姿勢で立っていた。
「どしたよ。やけに元気なさそうだけど」
立ったままも辛かろうと中に手招きしても、須美は頑なに入ろうとはしなかった。
俺が怪訝そうに首を傾げると、須美は小さくため息をついた。それから須美は一度咳き込み、掠れた声で俺に告げた。
「げほっ……。兄さん。私、風邪ひいたみたい」
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休みの日だと言うのに休日出勤をしている父親と母親は頼りには出来ず、運が悪い事にお手伝いさんもいない。家で看病と言う手もあったが、流行り病がクラスで蔓延していたことを思い出し、俺は仕方なく須美を病院へと送り届けることにした。授けられたばかりの【守り人】の力を利用して。
「に、兄さん!?げほっ。げほっ。本当に、行くの?」
「こうするしかないだろ。安芸先生にはまた後で怒られとくよ」
神樹の力は『御役目』の時以外は使用を禁じられている。俺たちの監督役でもあり担任の先生でもある安芸先生に口酸っぱく言われたのが実に昨日の話である。
それ故に真面目な須美は兄の蛮行に困惑しているのだろう。熱に侵され、兄の蛮行に付き合わされる妹の心境たるや想像するのは心苦しい。
「よし。ちゃんと捕まっとけよ。俺が離さんけど」
俺がそう言うと須美も諦めがついたのか、装束をぎゅっと握った。それを確認すると、まだ慣れない神樹の力を解放させる。
病院自体はそこまで遠くなく、神の力を借りれば実に5回地面を跳躍すれば良いだけだった。なんと簡単なお仕事。須美が目を回しているのは俺のせいではなく熱のせいに違いない。
「大丈夫か?さっきよりも視点が定まってないけど」
「元々変な人だと思ってたけど、ここまでする?」
一応確認したが、体調が悪そうなのは熱で確定だ。そしていつもにまして口調が鋭いのも熱のせいだ。何でも熱のせいにしてしまえるのはなんと便利なことだろうかと1人で笑いをあげてしまいそうになる。
「全く……感謝して良いのか、怒っていいのかわからないわ」
須美も呆れた様子で病院の中へと入っていった。俺もその後についていく。それにしても病院に来るのはいつぶりか。子供だけで来たのも初めてなので少しばかり不安である。
とは言え、連れてきた以上、須美に不安を感じさせてはいけない。俺は経験と事前に調べた知識で窓口へと勝負を挑んだ。
「妹が体調を崩したみたいで、診てもらいたいのですが」
「そうしましたら保険証と……」
西暦の時代。「進研ゼミでやったところだ!」なる言葉が流行ったと言うが、まさしく今それを体感していた。
物凄くスムーズに事が運んでいく。無駄に怖がっていた事が嘘のように、気がつけば俺は体温計と問診票を手に持っていた。これを書いてまた出しに行けば良いらしく、俺は一連の手続きを終えた誇らしさを胸に須美のもとへと舞い戻った。
「どうしてそんなに嬉しそうなのよ」
「初めて出来たことは何でも嬉しいだろ」
「兄さんって時折まともなこと言うわよね」
いつもまともだ。と言ってやるつもりだったが、須美が咳き込んだので俺は言うのをやめた。命拾いしたなと病院の床に心の声を吐き捨て、須美に問診票と体温計を渡した。
「熱測って、これに書けば良いんだって。書くのは俺がやるよ。熱は自分でやれるか?」
「もちろんできるわよ。げほっ」
不安になるくらい咳き込む須美を横目に、体温計が測り終えるのを待つ。テレビで流れる番組では有名な俳優が美味そうにうどんを啜り、麺の食感とスープの絶妙な絡み具合を実に上手にリポートしていた。だとしても香川県民に今更そのリポートは不必要だろうと思ってしまうのは俺だけだろうか。周りの患者や付き添いの人々は食い入るように見ているので、もしかしたら俺がおかしいのかもしれない。
「うどん……美味しそう……」
隣の須美も見入っていたので、やっぱり俺が変だと言うことにしておいた。番組内のうどんの茹で終わりを知らせるタイマーの音と須美の体温計の音が同時になったところで意識はテレビから引き剥がされた。
「どうだ?」
「38.6……。げほっ。高いわね。心なしか、さっきよりも体調悪いがするわ」
「誰のせいだろうな」
「兄さんよ」
「風邪のせいだろ」
須美はまだ先程の移動方法について文句があるらしかった。ただ、須美の体調が悪化した一端を担っていることは否定しきれない。
悪いことをしたかなと思っていると、スマホが震えた。嫌々画面を開くと、そこには安芸先生からの通知を知らせていた。
須美もその画面を覗き込んでおり、顔を上げると目が合った。そして須美はニヤリと酷く意地悪な笑みを浮かべた。
「出ないの?」
「また後でかけ直すよ。今は須美優先」
怒られる未来に絶望しながらスマホをしまい、手元の問診票に測った体温を書き記す。次の項目を書き記すために、俺は再び須美へと問いかけた。先程までの表情は何処へ行ったのか、須美は浅い呼吸を繰り返して苦しそうにしている。
「それで、いつから体調悪いんだ?」
「昨日から、よ。寝れば治るかなと思ったのだけど甘かったわ」
「昨日からか。やけに夜、咳してるなと思ったらそう言う……」
昨日の時点で気がついてあげられていれば、父親か母親を家に残すことだって出来た。後の祭りではあるが、思うところはある。
難易度は高めなことであったが故に、後悔の念も引きずることなく他の項目は俺が勝手に書き記しておくことにした。アレルギー欄に英語と書こうとしたら須美に止められたのは今日のハイライトだ。
書き終わった問診票と体温計を受付に返すと、やけに受付が騒がしくなったのだが何故なのか。医者や看護師。受付の人が問診票と俺と須美の顔を交互に見返している。
「何かしたかな俺たち。やっぱり親いないとダメなのか?」
「お父様とお母様がいたらもっとややこしくなってわよ。きっと」
「どゆこと?」
「兄さんはもう少し、自分の家の立場に関心を持つべきよ」
そう言われてようやく合点がいった。確かに、大赦の名門家系と同じ名字の奴が話も無しに来たら驚きはする。
家柄などを気にせずに生きてきた俺からすれば普通の人達と同じように扱って欲しいが、世間はそうではないらしい。その証拠に、俺と須美は他の患者よりも早く診察室へと案内されたのだった。
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診察は思いの外早く終わった。数日分の薬と診断書をいただき、俺と須美は病院から家に戻った。帰りはもちろん神樹の力を使った。
須美を布団に横にさせると、俺はその傍らに椅子を持ってきて座る。
「良かったな。変な病気じゃなくて」
「スペイン風邪が流行ってるのに、私は普通の風邪なのは納得いかない所はあるわ」
「インフルエンザのことをスペイン風邪と言ってのは古今東西須美だけだよ」
須美も薬を飲めばすぐに治る風邪だとわかったからか、気分は病院に行く前よりも良さそうである。おかげで軽口を叩く余裕も生まれたようだった。
俺も気が張っていたのか、須美が感染症でないことがわかると気が楽になった。先程から鳴り続けているスマホの方が気がかりだ。無視するのも後1時間が限界だろう。
「寝れば治るらしいから、大人しくしてな」
「そうするわよ。兄さんでもあるまいし」
「須美の中で俺はどういう扱いなん?」
どちらかと言えば性格も大人しい方だと自負している。人との関わりを断ち切っているのを大人しいと言うのかはさておき、須美の中で俺は火を始めてみた原始人さながらの落ち着きの無さだと思われているようだった。
原始人はどこの原始人が良いだろうか。北京原人が無難かもしれない。と言う謎の思考に身を委ねながら、俺は一度須美の部屋を出た。それから自室に戻り、読みかけの本を手に取ると再び須美の部屋へと戻った。
わざわざ病人のいる部屋に戻ってきた俺に須美は目を疑ったようで、頭の上にはクエスチョンマークが浮かび上がっている。
「どうして戻ってくるのよ」
「暇だから?俺が」
「大人しく寝なさいって言ったのは兄さんなのに」
「ちゃんと静かにしてるよ。須美も1人は寂しいだろ」
「………全く。兄さんは」
須美は俺の我儘を呆れながらも受け入れた。昔、俺が風邪を引いた時に誰も近くにいなかった事が辛かった時がある。誰とも関わりを持とうとしたなかった俺も、その時ばかりは本で紡がれる言葉の数々では心の隙間は埋めきれないと悟ったほどだ。
俺は須美に薬だけ飲ませると、用意した椅子に戻り、置き物のように鎮座した。
「と言うわけで寝なさい」
「言われなくても……そうするわよ…」
俺が本を広げるのと、須美が眠りの世界へと入るのはほぼ同時だった。薬がすぐに効いたわけではなさそうだが、須美の顔色や表情は数時間前と比べて安らいだものになっていた。
とにかく何事もなくて良かったと俺もようやく肩の荷が降りた。今になって相当に心配していたことを知り、自分とは思えない焦り具合に苦笑する。
(ま、この程度出来ないと『御役目』も果たせないでしょ)
話を大赦の人から聞いたばかりだが、今度の『御役目』とやらは相当危険なものになるらしい。神樹からの合図があるたびに、命と言う大きすぎるものを俺達はこれからベットし続けなければならない。それに比べたら今回程度の話はあまりにも簡単だった。
「ちゃんと守れるといいな」
穏やかな寝息を立てる須美に聞こえないように、口の中だけで呟く。他の2人も同様だ。乃木園子と三ノ輪銀。面識がなくはないという中途半端な関係性の2人とも上手くやらねばならない。
「……そこだけはめんどくさい」
女の子3人の中に放り込まれるのも実を言えば嫌なのに、そこから関係を築かねばならないのが尚更俺には苦痛だった。守りたいと言う気持ちとは裏腹に、そういった所だけは相変わらず苦手なようである。自分のことを素直に面倒くさい性格だと思えるだけ、もしかしたらマシなのかもしれないと言い訳を重ねた。
自問自答にも飽きた頃には本の物語は結末へと向かっていた。何と主人公の少女は最後の最後で親友を救うのをやめてしまった。それが運命であり、最善の選択肢だと諦めて。親友も主人公に感化され、生きるために必死に足掻いたが変えられない運命を受け入れ、最後は主人公と涙を流しながら抱擁を交わしてその姿を消してしまった。
「そこは助けるのが王道展開じゃないのか」
別れこそ最大の救いとまで宣い始めたこの小説を、俺は後味の悪さを噛み締めながら閉じることにした。
それからスマホを取り出し、この小説の評価を調べてみる。何と「⭐︎4.8」の傑作扱い。評価を書き込んでいる者だけでも数千人以上おり、この小説に涙し、映像化まで希望していた。
「確かに内容は面白かったけど、最後に親友さんが亡くなるのはなぁ」
どうにもこの手の物語では、俺はハッピーエンドの方がお好きなようだ。とは言え、命の儚さを伝えるには間違いなく名作の域だ。文章の構成と言い、秀逸な文字使いと言い全てが完璧な構成だった。
更に調べてみると、似たようなタイトルがあることを発見し、そのサイトを開いてみる。
「続編あるのかよ。なになに……。伏線を張り巡らせるためだけに存在した前巻とそれを徐々に回収し、最高の終わりを迎える物語……」
まさか今手に取っている本が丸々伏線だらけとは誰が思うのか。
「と言うより素直に終わらせとけよ。今のままが素直で綺麗な結末だろうに」
俺的には納得いかないが、ここまで堂々完結と言う姿勢を見せたのだ。是非とも貫いてほしい所なのに、これが全て伏線だったとか言われても笑えない。
無性に気になるので次に購入する本を決めたところで、俺はスマホをポケットへとしまいなおした。
須美の眠る布団に目を向けると、穏やかな寝息を立てている。その寝息に合わせて俺も呼吸していると段々と眠気が意識の内側へと入り込んできた。睡魔と戦う余力もなく、瞼が重くなり気がつけば意識を手放していた。
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自分でも驚くべきことに、目を覚ますと外は日が暮れていた。須美の部屋も昼間よりも空気が澄んでいるように思えた。
夜独特の冷たさを纏った空気を肺一杯に吸い込んでいると妙に視線を感じ、その主と目を合わせた。
「おはよ。だいぶ顔色良くなったな」
「風邪を引いてる人の隣で堂々と眠れるのは才能だと思うわよ」
「どこでも寝れる事が特技だからな」
その特技が身近な人間に破られる事になるとはこの時思わなかった。と言う話はさておき、俺は須美の体調が良くなった事に安堵して一度小さく息を吐いた。
「本当に良かった。心配したよ」
「大袈裟ね。ただの風邪じゃない」
「朝の弱った姿を見せてやりたいね」
「確かに朝は辛かった……わね。それと…その……」
突然歯切れが悪くなる須美に首を傾げる。何か言いたい事があるなら素直に言って欲しいとは兄妹となった時に決めた。その割には須美にはたまにこう言う事がある。
そしてこう言う時は決まって自分に落ち度があると思っている時だ。
「気にするな。風邪ひいて休みを無駄にさせた事を迷惑だなんて思うなよ」
「……ありがとう。兄さんのおかげで良くなったわ」
「困ったらいつでも言ってな」
俺は須美に笑いかけ、凝り固まった体を伸ばした。身体中から不安になるくらいの音がするが、無視して立ち上がる。
「よしっ。須美、お腹減ったろ」
「兄さんがお腹減っただけじゃなくて?」
「それもある」
須美の軽口に乗っかり、俺がケラケラと喉を鳴らすと須美もクスッと小さな笑みを浮かべた。
「たまには俺が作るよ。父さんと母さんを驚かせてやりたいし」
「大丈夫?私が見てなくても。怪我しない?」
「俺そこまで心配かなあ……。須美は寝ててな。どうせまだ熱は下がってないんだろ」
自分の調理技術の信頼の無さを憂いながら、俺は須美が隠していたであろう事を見抜く。須美は気まずそうに顔を伏せると、大人しく布団の中へと戻っていった。
(寝る前の犬みたいだな……)
頭を撫でたら尻尾を振りかえしてくれるだろうか。須美の場合は噛み付いてきそうな雰囲気がある。それを愛情と捉えるか拒絶と捉えるかが俺の心の強さの物差しとなりそうだ。
須美に聞かれたら怒られそうな事を考えながら、部屋を一度出る。無駄に大きい家の廊下は人気がないと少し怖い。
階段を降りて居間にたどり着くと、電気がついており俺は首を傾げた。
「父さんか母さんが帰ってきてるのかな」
居間からまた少し進んだ所にある台所に顔を覗かせると、そこには包丁でネギを刻む父親の姿があった。父親も俺に気がつくと、何故か珍しく戸惑っていた。そこまで自分が台所に立っている姿を見られたくないものだろうか。
その戸惑いの真意はさておき、父親にまだお帰りを言ってない事に気がついて先に言う事にした。
「お帰りなさい。父さん。いつ帰って来てたの?」
俺の率直な疑問に父親は包丁でネギを刻みながら答えた。
「少し前には帰って来てたよ。須美の体調があまり良くないと聞いて、早めに仕事を終わらせて来たんだ」
「須美の面倒は俺が見とくって連絡したのに……。ありがとう。父さん」
仕事を慌てて終わらせて来たのかと思い、お礼にも申し訳なさが入り混じる。そんな俺に父親は柔和な笑みを浮かべ、頭を優しく撫でた。
それが妙に照れ臭くて、父親から顔を逸らした。父親も俺がなかなか素直になれない事を知っているからか、追い討ちをかけるように優しく言葉をかけてくる。
「よく頑張ったな」
「あー、須美の病院?」
「他に何がある」
「頑張るも何も、あのくらいはできるよ」
緊張したことは黙っておこう。そう思っていた矢先に父親から出て来た話でそれすら隠せなかった。
父親は全部知っているぞと言いたげな雰囲気をこれでもかと俺に見せつける。どうしてそんなに嬉しそうなのかを聞く前に、父親は口を開いた。
「やけに緊張してたみたいじゃないか」
その言い方は何処と無く須美が俺を揶揄う時と酷似していた。
「何で知ってるのさ。俺が緊張してた事」
「晴哉が行った病院。あそこは私の知り合いの経営している所なんだ」
「通りでことがスムーズに進むと思ったよ」
「知らなかったのか?昔、晴哉がこの家に来る前に色々検査をしてくれた場所だぞ」
「そんな小さな時のこと覚えてないよ」
「だろうな」
そう言って上機嫌に笑う父親は。いつの間にか溶き卵を土鍋に注いでいる。それでようやく何を作っているのかを理解した。
お粥が完成へと近づいていく様を見守っていると、父親はまた嬉しそうに先程の話の続きをしだした。
「最初、晴哉から連絡が来た時は家にずっといるものだと思っていたからね。すぐに帰って須美を病院に連れて行かなければと思ったさ」
「ちょっとは頼りがいのある兄になれてるでしょ」
冗談めかして言ったのだが、父親は大袈裟に頷いた。
「晴哉の成長が見られて私は嬉しいよ。事情が色々とあったとは言え、須美を引き取って良かった」
父親の中で、須美との関わりが俺を成長させていると思っているらしかった。自覚がないだけで、須美のおかげで変われた所もあるのかもしれないと思うと、少しだけ心が弾んだ。
「ところで、須美はただの風邪だったのか?」
「あれ。それは聞いてなかったんだ。ただの風邪だったよ」
「そうか。『御役目』のこともあって疲れてたのだろうな」
「かもね」
「晴哉は大丈夫か?」
「俺は元気だよ。明日も稽古があるのが億劫だけど」
「はははっ。それで風邪を移してもらいたくて須美の部屋にいたのか?」
「と、父さんにしては意地悪なこと言うね」
やはり、何処と無く今日の父親は機嫌が良い。いつもはここまで俺を揶揄うような事は言わないからだ。よっぽど俺が須美を病院に連れて行ったことに息子の成長を感じているらしかった。
「たまには私だって意地悪の一つくらいしたくなるさ。それに、晴哉のことをこれまで……おっと。もう出来てしまったか」
俺と父親の会話は、ぐつぐつと煮えたぎったお粥の音で中断される。
父親が出来たお粥と取り皿をお盆に置いた所で、俺はそれを横から手を伸ばした。
「俺が持ってくよ」
「お願いするよ。私より晴哉が持って行った方が須美も喜ぶ」
「そんなことは無いと思うけどなあ……」
須美から「また来た」と言われると予想しながら、俺は須美の部屋へと向かうために台所を出た。
その前に、と一度父親に首だけ振り返って先程言いかけた言葉を聞いてみた。すると父親は顎を指でなぞり、僅かに口角を上げた。
「また今度言うよ」
「何それ」
俺も思わず小さく笑ってしまった。
「私からも一つ良いか?」
「手短にお願いしても良い?」
父親が俺に何か聞くことがあるとは珍しいと思いながら、改めて父親に向き直る。
先程のような緩やかな雰囲気ではなく、真剣な眼差しを向けらた。俺は何を言われるのかと戦々恐々とするが、向けられた言葉は予想とは少し違った。
「あぁ。晴哉は……まだ人と関わるのは怖いか?」
先程の上機嫌な様子とは異なり、期待と不安を父親の瞳から感じられた。
俺はその問いに直ぐには答えられなかった。父親は俺が人と関わる事を極端に嫌う理由を知っている。それだけに、今の成長には一縷の期待感があるのかもしれない。
少し間を空けてから、俺は先程の父親の所作を真似て、ゆっくりと口の端を上げた。
「怖いね。けど、今は前より楽しみだよ。誰かと関わるの」
それでも人と関わる恐怖心から、心の温度が下がって人を遠ざけようとしてしまう。自分を守るために殻に閉じこもった時、それをこじ開けてくれるような人に出会わない限りは変わらないのではないだろうか。己の他力本願さに苦笑いも浮かぶと言うもの。
だと言うのに、煮え切らない俺の言葉にも、父親は満足そうに頷いた。最後の一言が聞けたのがもしかしたら嬉しかったのかもしれない。
「すまないな。邪魔をして。落とさないよう気をつけて」
「わかった」
俺は父親に頷くと、今度こそ背を向けて須美の下へと向かったのだった。
両手が塞がっていると、階段も慎重になり普段よりも幾分か長く感じる距離を踏破し、須美の部屋へとたどり着く。中に入ると須美は大人しく布団で横になっていた。俺が来たことに気づくと、布団から身体を起こした。
「ありがとう。兄さん」
「どういたしまして。ほれ。お粥」
一度お盆をテーブルに乗せ、まだ湯気が立ち込めるお粥をお玉で掬って取り皿に移す。
「食べさせてあげようか」
「やめて」
冗談だと言うのにかなり強めに拒否をされて心が挫けたので、大人しく須美の手にお粥を渡した。
「熱いから気をつけてな」
「うん。いただきます」
皿を受け取った須美は一度膝の上に置くと、ご丁寧に手を合わせてからお粥を口に運んだ。
てっきり熱さに負けて、舌でせわしくあちこちに転がすと思っていたが須美は飄々と食べ進めている。
「須美、熱くないのか?」
黙っているつもりだったが、思わず気になって聞いてしまった。
「熱くないわよ。とても美味しいわ。本当に兄さんが作ったの?」
「それ作ったの父さんなんだ。父さんに伝えとくよ」
「お父様が?それは私も後でお礼を言わないと」
受け答えの様子を見ていても本当に熱くなさそうで、とても不思議だ。特別熱さに強い身体を手に入れたのだとしたら羨ましい限りである。
「ちょっと俺も貰っていいか?」
「いいわよ。ちょっと待ってて」
そう言って須美は立ち上がると勉強机の中から木製の使い捨てスプーンを取り出した。
「なんであるのさ」
「前に兄さんが置いていったんじゃない。いつか使えるだろって」
「何に使わせるために俺はそれを置いたんだろうな」
過去の自分に聞いてもケラケラと不愉快な笑いを耳に残すだけなような気がして、俺は過去を振り返る事をやめた。あまり過去は振り返らない主義をこの先も出来たら貫こうと思う。
俺は須美からスプーンを受け取ると、少量を掬うと口の中に放り込んだ。次の瞬間、口の中に痛みが走った。
「あっつ!!」
「島?」
「誰がアッツ島わかるんだよ……。痛い…。舌がヒリヒリする……」
須美のした謎のボケも相待って口の中は無茶苦茶だ。これを飄々と食べる須美に俺は畏敬の念を送った。
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次の日は休み明けだということもあり、クラスメイト達に限らず神樹館全体が活気に満ち溢れていた。月曜日が始まったと言う憂鬱さを微塵も感じさせないこの学校の凄さに感服してしまう。
須美はと言うと大事をとって今日は休むことにした。昨日父親のお粥を食べながらそう言っていたので、もしかしたら最初から休む気だったのかもしれない。意地でも学校に行くと言うと思っていたので意外だった。
(学校を休んでみたかったのかな?)
真面目な須美でも非日常的な事をしてみたいと言う気持ちが心の何処かにあるのだとしたら、須美にもお茶目な所もあったのだと感動する。彼女は機械ではなかったことへの安心かもしれない。
クラスに入ると何人かは挨拶をしてくれたのでそれに返してから席に着く。こんな存在感の薄い人に挨拶をする物好きもいるのかと思いながら、本を通学カバンから取り出す。
挟んでいた栞を取り出したところで、俺は斜め前の席から視線を感じてそちらに目を向けた。
「おはよう乃木。どうしたのさ」
乃木園子。『御役目』を共にする仲間の割に、俺は今の今まで彼女と言葉を交わした回数は片手で数えられる。そんな少女に今日は珍しく俺から声をかけていた。
乃木は俺から声をかけられた事がよっぽど不思議だったのか、何度か目を瞬かせる。それから乃木は小さく首を傾げた。
「今日鷲尾さんは〜?」
「休みだよ。昨日から風邪ひいててさ」
「わ〜。大変だ〜。熱は下がった〜?」
「下がってたよ。今日休むのも念の為らしいし」
「そっか〜。今日はお隣がいなくて寂しいな〜」
寂しいと感じられるほど彼女は須美と親しかったろうか。最近はよく話しているところを見るし、知らないところで仲良くなっているのかもしれなかった。
「晴哉くんも寂しい〜?」
「は?俺?」
突然のことに次は俺が目を瞬かせる番だった。乃木はニコニコとその表情に花を咲かせている。
質問の意図はわからなかったが、とりあえず素直な気持ちを口にしておくことにした。
「寂しくはないよ。心配だけど」
「わ〜。良いお兄さんだ〜。鷲尾さん羨ましいな〜」
あの答えで満足いったのか、乃木は機嫌が良さそうに足をパタつかせた。
(よ、よくわからん)
乃木の雰囲気は以前図書館で遭遇したこともあるので知っていたが、いざ何度も言葉を交わしていると向こうのペースに引き込まれていく感覚があった。
良い言い方をすれば笑顔が増えそうな。悪い言い方をすれば顔へ強引に花を植えられてるようなものである。
会話もここで終わりかと思いきや、次第に『御役目』関連のものへと変わっていっていた。
「今日晴哉くんは訓練あるの〜?」
「あるよ。今日は槍の訓練だったかな」
俺の主力武器は剣だが、力の特性上様々な武器を扱うことができるために他の3人よりも訓練の時間は倍あるのだ。ちなみにこれまで乃木との合同の訓練はない。もう1人の……みの、なんとかとは今のところ一度訓練はしたことがある。
「じゃあ私と一緒だ〜。今日も私訓練なんだ〜」
「そうなんだ。頑張ろうな」
「うん!訓練憂鬱だったけど少し楽しみになったよ〜」
「乃木でも憂鬱だとか思うんだ」
「思うよ〜。私だって人間だからね〜」
「確かに」
「だから晴哉くんと仲良くなりたいとも思ってるよ〜」
「凄い繋がり方。絶対俺じゃなくて須美と仲良くなった方がいいよ」
須美も心から通じ合える友達が欲しいだろうし、その方がお互いのためにもなるに違いない。さしずめ俺は橋渡し程度になれれば十分だ。
「嫌だった〜?」
その言い方は卑怯だ。生憎、ここで嫌と言えるほどの度胸も持ち合わせていない。俺は視線を徐々に乃木から外しながら答えた。
「嫌ではない……とは思う」
「すごく曖昧だ〜」
俺のどっち付かずの答えにも乃木は柔らかい笑みを浮かべた。もっと悲しむかと思っただけに意外だった。
「晴哉くんは絶対その気になったら友達たくさん作れると思うのにな〜」
「どうだろうね。俺は……今の自分で精一杯だよ」
昨日父親とした会話が脳裏をよぎる。まだ人と関わるのが怖いか。それに俺は前より楽しみだと答えた。それでも、俺には信頼できる友達はいない。今、ここでその一歩を踏み出してみるのも悪くないのかな。なんて思ってしまった。
どちらにせよ『御役目』がある以上、信頼関係は深めなければならないのだ。それならそれを最大限に利用してやろうと思った。だから、少し間を空けてから俺は乃木に勇気を振り絞って声をかけた。
「なあ。乃木。よければ今日一緒、に………」
「zzz………」
なんと乃木は寝ていた。俺の勇気は空振り。まだ一つ目のストライクだが、すごすごと俺はバッターボックスからベンチへと戻った。
(まあ、いつか俺も人と関わることが怖くなくなるでしょ)
その時こそ、俺が本当の意味で変われたという証拠に他ならないのだから。無理する必要はない。ゆっくりで良い。誰かにそう言われた気がした。
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須美が目の前にいないというのは非常に新鮮で、とても興味深い一日を過ごせている。特に安芸先生の俺をみる目がやけに厳しいのは気のせいではあるまい。これまで須美が俺と安芸先生の緩衝材になっていた事実に、今すぐに等身大の須美のパネルでも置いておきたい気分になった。
午前の授業を戦々恐々としながら乗り切り、お昼ご飯の時間になった。今日も今日とて1人で給食を食べようとした所で目の前に誰かが来たことに気がつく。
誰だと思い顔を上げると無表情の安芸先生が俺を見下ろしていた。
「ひっ」
思わず喉を鳴らすと、安芸先生は小さくため息をついた。
「その反応は思い当たる節があるということですよね」
「ありまくりですよ」
「自覚があるのならよろしい。給食を食べたら職員室に来て。話があります」
「……行けたら行きます」
「来なさい」
「はい」
無駄にクラスメイトからの注目を集めてしまい、ヒソヒソと話す声が耳に届く。俺がため息と一緒に意識の中からその雑音をかき消すと、次は何者かが俺の肩を叩いた。
「次は誰……って、みの……なんとかだ」
「アタシの名前覚えてないってマジ?」
「そういう日もあるんだよ」
今思い出した。三ノ輪銀。確かこれが彼女の名前だった。三ノ輪はおそらくクラスメイトを代表して俺に何があったのかを聞きに来たのだろう。俺と話す三ノ輪に向けられたクラスメイト達の視線には様々な感情が渦巻いていた。
何を言えば適当に受け流せられるだろうかと思案してから俺はありもしない嘘を三ノ輪に伝えた。
「宿題忘れ記念10回目の追加課題を渡されるらしい」
その声が聞こえていたからか、何処と無くクラスがざわついた。それもそのはず。まだこのクラスが始まってから9日しか経っていないのだから。
加えて基本的に神樹館の生徒は真面目なので宿題を忘れることは滅多にしない。それだけに衝撃的なのだろう。
「噂に聞いてた通りなんだ。鷲尾兄って」
「どんな噂?」
一体俺に関してどんな噂が流れていると言うのか。興味本位でつい聞いてしまった。
「神樹様の教えを一切守らないって噂」
どんなエピソードがあれば俺にそんな噂が出来上がるのか。人の想像力は豊かだと改めて思い知らされる。
「守る時は守るよ。気分が乗れば」
「なんだそれ!!おもしろ!!」
別に面白い要素はなかったと思うのに、三ノ輪は豪快にうわっはっはっ。と笑い声を上げた。
「ま、アタシもよく忘れ物するし一緒だな」
「仲間が1人でもいてくれて嬉しいよ。神樹様も呆れてるだろうね」
「ね。こんな2人が神樹様の『御役目』に選ばれてるんだから」
三ノ輪は『御役目』のことだけは時が来るまで公にできない理解しているからか、俺の耳元で囁いた。それから悪戯が成功した子供のように白い歯を見せる。それが余計に周りの視線を好奇なものに変えてしまったのを感じた。非常に最悪である。
「で、本当は何があったの?」
「嘘だって気づいてたのか。賢い奴め」
「アタシのこと馬鹿にしてたりする?」
「全然。それと、本当の理由はさっき言ったことだよ」
「え、本当に宿題の件?」
「いや。神樹様教えを守らないって噂の方だ」
それだけ言い残し、俺は席を立つ。これでは給食を落ち着いて食べれたものでもない。一口も手をつけずに残すのは気が引けるが、あと3日何も食べなくても良いくらいに食欲がないと嘘をついて残した。
クラスメイトから向けられる視線は以前よりも悪い印象が強くなったような気がした。やはり神樹関連の話は下手にするものではないと俺は悪態を吐く。
教室を出て廊下に一歩を踏み出した時、いつのまにか三ノ輪が再び俺の前に姿を見せていた。
「どうした?」
「鷲尾さんにお大事にって伝えといて」
「わかった。伝えとくよ」
「おう!よろしく!」
本当にそれだけを言いに来たのか、三ノ輪はすぐにクラスメイト達の輪の中に戻っていった。
(……結局、俺が敬遠してるだけで乃木も三ノ輪も良い子達なんだよな)
2人の優しさに触れ、己の価値観が徐々に脆くなって行きそうなのを感じながら長くも短くもない廊下を歩く。
職員室に入ると俺の早すぎる登場に安芸先生は一瞬困惑の様子を見せた。
「早いですね。ご飯は食べたのですか?」
「他のクラスメイトに食べてもらいました」
「……あなたがそれで良いのなら何も言いませんが…」
「空腹は気にならないタイプなので」
いかんせん寝れば空腹も何も感じない。授業を寝る前提で話を進めたものだから安芸先生は何か言いたげに口を動かすが、本題に入ることを優先したようだった。
俺は安芸先生に職員室隣の応接間に通され、空いている席に座らされた。目の前に座った安芸先生の背中からは得体の知れないオーラが俺を飲み込もうとその姿を顕現させている。
「話の件はわかってるでしょう。昨日、許可されていない場面でシステムを使用しましたね」
「間違いないです」
「理由をひとまず聞きましょう。なんのために使用したのですか」
「散歩のために……」
「嘘はいいです。あと誤魔化しが下手すぎます。誤魔化すのならもっとマトモな嘘をつきなさい」
俺は安芸先生の鋭い視線に耐えられず、遂には観念した。
「………須美の体調が悪くて、親も家にいなかったので近くの病院に運ぶために使いました」
「最初から素直にそう言いなさい。鷲尾さんの体調は?」
安芸先生は何度か眉間を揉んだあと、先程までのこちらの嘘を的確に射抜いてくるような恐ろしい雰囲気を弛緩させた。
俺も肩の力が抜けて、真面目に受け答えすることにした。普通に考えたら逆なような気がするがそこはご愛嬌だ。
「薬を飲んだら良くなったみたいで今は回復してます」
「そうですか。それなら良かった」
いつ手厳しい指導を受けられるだろうかと内心ドキドキワクワクだったというのに、なかなかその手の話が来ない。
「てっきり怒られるかと思ってました」
「あなたは誰かのためなら平気で規則も破りかねないのは知ってますから」
「褒めてます?」
「そう聞こえたのなら解釈は任せます」
安芸先生は多分呆れている。俺のことをよく知っているこの人だからこそ今回のことは怒るに怒れないのかもしれない。都合が良いと言えば都合が良いのだが、それに甘えてしまうの今日の夜ご飯が美味しく感じないような気がした。
「規則を破ってすみませんでした。以降は2度としません」
頭を下げているので安芸先生が今どんな表情をしているかは見えない。けれど、何度目かのため息が聞こえた気がした。それに合わせて元の体勢戻ると安芸先生は優しく微笑んでいた。
「あなたのそう言うところは美徳ですね。大事にしてください」
「……ありがとうございます」
「ですが、これからは気をつけてください」
「わかりました」
安芸先生はこれにて話は終わりだと一度目を伏せた。それがスイッチだったのか監督役兼担任の先生と言う立場から昔からの付き合いのあるお姉さんに変化した。
「鷲尾くんは大丈夫ですか?あなたの事だから付きっきりで看病してたでしょうし」
「俺は大丈夫です。何故だか昔から風邪だけはひかない体質なので」
「変に頑丈ね」
「そこが強みですから。腕の一本持ってかれても生き残る自信ありますよ」
冗談半分でこの時は言ったが本当に腕一本持ってかれるとはこの時誰が思うだろう。
「そうならないように訓練は厳しくしないとね」
「風邪は引いてないですけど全身は筋肉痛ですよ。あの訓練嫌なんですけど。瞬時に欲しいものを想像して作り上げる訓練」
俺は多くの武器を扱うのだが、それを全て手元に置いておけるわけではない。そのため想像力で足りない部分を生み出し、神樹の力で形にするのだがそれが苦痛の何物でもない。
今の所訓練でもその辛さは隠しているが、この機会だ。明かしてみるのも良いかも知れない。
安芸先生はまだ俺の辛さを知らないので、平然と「もしかしたら」の話をした。
「いつか戦いで役に立つかも知れないわよ」
「その訓練、頭痛薬飲まないといけないくらい頭痛くなるんですよ。家帰っても寝てないと辛くて」
俺が告白をすると先生は目を丸くした。何やら点と点が線で結ばれたようである。
「もしかして9日も宿題を出していない理由はそれ?」
「いえ。宿題はサボりです」
次の瞬間、頭に軽い衝撃が走った。安芸先生の手には次の授業の教科書が握られていた。それが今回の犯行の凶器である。
「心配して損しました。鷲尾さんの気持ちが今ならわかる気がします」
「須美も仲間が出来て嬉しいと思います」
「反省しなさい」
安芸先生はまた俺の頭を教科書で軽く叩いた。変幻自在な教科書という武器を『御役目』でも使えるかと尋ねると、安芸先生は再び俺の頭を叩いた。
2つ攻撃を貰った頭頂部をさすりながら俺は安芸先生なら頭痛の原因がすぐにわかるのではないかと期待を込めた眼差しを向けてみる。
「でも、頭痛は本当です。安芸先生なら知ってそうですけど」
俺の期待とは裏腹に安芸先生も少し困った様子を見せた。頭を捻らせても仮説しか今の所出すことができないと言うのは安芸先生を見ていればすぐに理解できた。
「脳に負担がかかってるのかも知れないわね。原因がわかるまでは訓練の内容を基礎的なものだけにしておきましょう」
「やった。ちょっと楽になる」
「あなた本当に頭痛に苛まされてるのですよね?」
こうして疑われるあたり、やはり普段の行動は大切だと身をもって味合わされる。
俺は疑いの目を向ける安芸先生に真剣な眼差しを送っておいた。それすら疑われてそうなので俺はよっぽど目の前の恩人からは信頼がないらしい。
安芸先生も話はここで終わりだと目配せをしたので、俺は素直に椅子から立ち上がる。先生は俺の去り際に『御役目』の話をする時よりも真面目で、尚且つ不安そうな声音で言った。
「午後の授業は寝ずに受けてくださいね」
「先生、須美みたいなこと言いますね」
「そんなことを言わないといけない鷲尾さんに同情するわ」
「寝るつもりでしたけど安芸先生のために起きてます」
「自分のために起きてなさい」
「それは気が向いたらにしときます」
俺はそれだけ言い残し、改めて安芸先生にお礼を告げてから応接間を出た。
(安芸先生のために今日は真面目に受けようかな)
普通のことなのに仰々しい覚悟を決め、俺はその日の授業は珍しく真面目に受けたのだった。
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夕方からは乃木との訓練もあり、家に帰る頃には日は暮れていた。乃木と比較しても、あまり俺の槍捌きは上達せず本当に形だけを覚えたのだった。いつかこれが役に立つ日が来るとは俺は素直には思えない。
乃木とは少しばかり会話をしたが、常々須美の体調を心配していたあたり彼女はとても良い人なのだろう。明日には元気に学校に来ると思うと伝えると、彼女の周りにはわかりやすく花が咲き誇っていた。
(須美と乃木ってそんなに仲良かったのか)
もしかしたら俺の知らないところで三ノ輪とも会ってるのかもしれない。その割には須美と2人との間には距離があるような気がする。
手のひらに早速できた血豆を弄びながら帰路に着く。ついでに神樹のシステム無しに物を生み出せるかを試してみたりもする。
(ま、できないけど)
これで作れてしまったら俺は人間をやめてしまう。
訓練の内容も変えたからか特別体調が悪いこともない。久しぶりに宿題がやれると心を躍らせながら俺は玄関をくぐった。
「ただいま戻りました〜」
偶然にも須美が玄関近くにおり、俺が改めて「ただいま」と言うと見たことのないほど複雑な心境を抱えているのが見るだけでわかった。
「誰の真似してるのよ」
「なんのこと〜?」
「き、気持ち悪いからやめて」
普通に話してるだけなのに散々な言いようだ。
「須美こそ体調は良くなったの〜」
「だから本当に何なのそれ」
ちなみに自覚はある。そろそろ本気で顔が歪んできたので一度軽く咳をして喉を整える。そして喉元に埋められた乃木の綺麗な花を引きちぎった。引きちぎった花は色が霞んでいた。
「どうだ元に戻ったろ」
「あ、いつもの兄さんね。良かった」
「どこに安心感覚えてるんだ……。須美はもう完全に大丈夫そうだね」
「おかげさまで良くなったわ。兄さん、昨日は本当にありがとう」
「気にするなって。もっと大事になると思ってたし」
正直、インフルエンザかと思っていただけに普通の風邪だったのは本当に救いだった。インフルエンザだったら俺は1週間学校を休み、須美の看病に時間を割かねばならなかったことだろう。お手伝いさんにも看病を任せるわけにはいかないと言うのも盾に使おうとしていたのは内緒だ。
「それと須美。乃木と三ノ輪がお大事にって」
「三ノ輪さんと乃木さんが?」
須美は意外と言わんばかりに目を瞬かせる。須美の様子を見る限り、乃木と三ノ輪と仲良くなったと言う説は無くなってしまった。自分がどのように少し残念な気持ちになる。
せめて乃木と三ノ輪への足がかりになるように須美には一言付け加えておいた。
「うん。特に乃木が隣に誰もいないの寂しそうにしてたよ」
「意外ね。それは」
俺もそれは思うので須美に同意だ。ただ、乃木的にも思うところはあるのだろう。家柄的に心置きなく会話をしてくれそうなのが、今の所須美か俺しかいないと言うのも可哀想な点だった。
「ところで、どうだ。学校サボってみた感想は」
「人聞きが悪いわね。けど、まあ……」
悪くなかったわ。と言って、ニヤリと笑った須美は何処と無く自分自身に似ていたような気がした。
「似なくて良いところ似ちゃったな」
不真面目になってしまったねと揶揄うつもりで言ったのに、須美は妙に満足そうにしていた。
「兄さんこそ、少し真面目になったんじゃないの?」
「さあ。宿題未提出を10日目へと更新しようとしててもか?」
「それはやりなさいよ」
「善処する。庭でもう一回鍛錬してくるよ。夕飯の時間になったら呼んで欲しいな」
須美は俺の願いに首を縦に振った。それにお礼を伝えてから俺は自室に戻った。
カバンを置き、服を着替えてから庭に出る。俺は使用するなと言われたばかりだと言うのに、家の敷地内というのを免罪符に神樹の力を使用する。そして取り出したのは名も無き一振りの槍。全身の神経を駆け抜ける痛みを、この時には感じなくなっていた。
(宿題やれってことか?)
神樹が俺に説教垂れていると言うのなら受けてたとう。余計にトレーニングをして体を壊してやるだけのことだ。
「さてと。乃木のようにはできないかもしれないけど……」
今日の昼休みに安芸先生に言われたことを思い出す。
「いつかこの力が役に立つと信じて頑張りますか」
俺は素直な気持ちで鍛錬に取り組み始めた。神樹のためとか、自分のためとかではない。須美、そしてまだ関係性の浅い乃木と三ノ輪の未来を守りたい。その願いを叶えるために。