「銀ちゃん、どうしたの?すごい音したけど」
銀が壁に複雑な思いをぶつけ、ただその一点を見つめていると、音で慌てて部屋に友奈が駆け込んできた。
心配そうに銀と壁を交互に目をやる友奈。そんな友奈に銀は軽やかに笑った。
「何でもない。蚊が壁に張り付いてたから叩いただけ」
「そ、そう…なんだ」
銀は笑顔でそう言うが、友奈の目に映る銀は微笑たりとも浮かべていない。
そんなこと露知らず、銀は靴紐を結びながら友奈へと頭を下げた。
「心配させてごめんな。アタシ、よく血を吸われるからさ」
「あはは。刺されたら痒いからね」
いくらなんでも誤魔化しにしては及第点も与えられない銀の誤魔化し。きっと本当のことを聞いても答えてくれないと友奈は諦め、その下手な誤魔化しに乗っかった。
「行こっか。友奈」
「うん!風先輩と樹ちゃん、下で待ってるよ!」
銀は頷くと同時に部屋の鍵を友奈に託し、抱える感情を置き去りにするかのように外へと飛び出した。
銀が先程まで立ち尽くしていた跡をじっと友奈は見つめ、それから直ぐに銀の背中を追いかけたのだった。
風と樹を無事に送り届け、銀と友奈は再び自宅へと舞い戻った。
遅めの夜ご飯を食べ、お風呂に入ったあと、銀と友奈はテレビを意味もなく眺めていた。
しかし、先程の一件があったからか友奈は何処と無く銀を気にしている様子である。銀も簡単に話すことが出来る内容ならば、躊躇いなく打ち明けているだけに居心地の悪さを感じていた。
せっかくのお泊まりだと言うのに、弾まぬ話題。こうした状況に対し、先に痺れを切らしたのは銀だった。
「明日の祭り、クラスの子達来るのかな」
「どうだろ。みんなお祭りの話で持ちきりだったし来ると思うよ」
当たり障りのない事から始めてみたものの、銀は既に手札を失った。普段ならこうはならないのに、余計な事にリソースを割かれてしまっており、銀は思うように振る舞えない。
そんな銀に、友奈は意図せずして踏み込んだ。
「神樹館時代の銀ちゃんのお友達ってどんな人達?」
「おぉう。どしたん急に」
「何となく?そう言えば私、聞いた事無かったなあって」
「そうかな?」
記憶を思い起こすと、過去の友人の話をしたのは風だけだった事に今更になって気がつく。
銀が友奈に視線を送ると、友奈は少し頬を膨らませていた。
「そうだよ。銀ちゃん、全然私に話してくれないもん」
「ごめんごめん。アタシ、友奈や風先輩と過ごす毎日が楽しくて昔のこと忘れてたんだ」
銀は可愛らしく拗ねる友奈にしれっと嘘をついた。銀は1日たりとも3人のことを忘れた日はない。誤魔化しなれてきた。と言うのは嫌なことではあるのだが、時には必要な事だと今は割り切る。
「んー。誰から話そうかな。アタシ、これでも前は沢山友達いたしね」
「自慢だ〜」
クスクスと肩を揺らす友奈。そんな友奈の横腹を銀は軽く小突くと同時に苦笑いを浮かべた。
「そんなんじゃないって」
「本当かなあ」
「本当だよ。でも、訳あって今日は1人の話だけ」
銀は友奈にまるで弟達に絵本を読み聞かせるように、ゆっくりと鷲尾晴哉について語り出した。
友奈もテレビに向けていた視線を、銀へと向ける。
「鷲尾晴哉って言う、凄く変わった子がいたんだ。知ってたりする?」
「鷲尾は有名だよね。だけど、その子の名前は聞いた事ないや」
当然と言っても過言ではないことに申し訳なさそうにする友奈。そんな友奈に銀は何度目かの苦笑を浮かべた。
「そらそうだよ。兎にも角にも、ハルヤはアタシから見たら孤独って言葉が似合う人だったかも」
「1人ぼっちだったってこと?」
「んー。間違いじゃないけど、どっちかと言うと1人でいる事を望んでる感じ?」
友奈の言う1人ぼっちとはまた違う。銀とて晴哉と関わった時間はそう長くない。それでも長くないなりに、彼のことはよく見ていた。
思い返してみても、初めて出会った時、転んで怪我をした銀の手当した彼はとても1人になってしまうほどの人とは思えなかった。
だからこそ────。
「アタシは最初、本音を言うとハルヤの事が苦手だったんだ。何を考えているかもわからないし、こっちとは話そうともしてくれないし」
何を考えているかわからないと一括りにしても園子の方がまだマシだった。超がつくほどの真面目さを誇る須美もコミュニケーションは取れていた。その点、晴哉の性格は銀には難解すぎた。きっと国語の教科書のどの主人公よりも読み取りにくい。他の人もそう思っているだろう。1人で居たくないと思っている人が何より1人になりたがった。その矛盾が、銀には酷く悲しく見えた。
(けど、そうだよな。ハルヤは考えてる事はずっと同じはずだ)
銀はいつから自分が晴哉の事を理解していったかはもう忘れてしまっている。それでも、これまで晴哉が自分自身にしてくれた事、須美や園子。周りの人々にしてきた事は鮮明に覚えている。
彼の存在が、懐かしさという思い出になり始めている事に胸が苦しくなった。それが嫌で、銀は目の前の友奈に鷲尾晴哉という人物を知って欲しくなり必死に言葉を絞り出した。
「ハルヤは……根はとても優しくて真面目で。誰よりも人の事を考えてるようなやつだったよ」
彼の浮かべた様々な表情を想像して、銀は更に胸が苦しくなったり熱くなったりする。
銀が一通り話終わり、今の自分の心境に名前をつけようとしていると友奈は優しい眼差しを銀に向けていた。
「銀ちゃんは晴哉くんのことが好きなんだね」
「へっ?す、好き?」
「うん!好きじゃなかったらそこまで知らないと思うんだ」
その好きがどの好きなのかは混乱の末、銀は問いただすのをやめた。その答えを知るには今は場違いだと思ったからだ。
1人勝手な葛藤をしている銀とは裏腹に、友奈は無邪気な笑顔を。それと銀の心に寄り添うような優しい微笑みを同時に浮かべた。
「銀ちゃんにそこまで言わせる晴哉くんは凄い人なんだね!きっと勇者部に入ったら凄く活躍するよ!」
「そっか。確かにそうかもね」
そんな未来があったかもしれないし、きっとそうなら園子も須美もいて、もっと賑やかで楽しい日々に違いない。
訪れるはずのない未来。その未来はどうしたら自分の手元に来てくれるだろうかと多くの可能性を探ってみた。けれど、銀にはその力はなかった。
銀は本当はここで話を終わらせようとした。だと言うのに、口だけはこれまでにあったことを語り続ける。
「実はさ。そのハルヤは……数ヶ月前から行方不明なんだ。理由は…友奈にはまだ言えない」
「行方、不明?」
知ってはいるけども馴染みのない言葉なのだろう。友奈は戸惑いを隠さず何度もその言葉を反芻する。
その戸惑いを知りながら、銀は更に友奈を混乱へと導こうとしていた。
「だから勇者部に入るとか、そう言うことは想像できなかった……。けどさ、今日居たんだ…。有明浜に」
「いたって。晴哉くんが?」
「そう。1年前に失踪してそれっきりだったのに今更姿を見せやがった」
銀は昼間に起きたことを思い返し、感慨に浸るわけでもなく自分の悔しさに打ちひしがれるわけでもない。何故この時ばかりは怒りが先に胸の中に去来していた。そして気がつく。ずっと胸の内に熱く波打つ物の正体を。
「そのまま学校に連れてけたらって思った。ここ一年何してたって問い詰めたかった」
会えて嬉しいって。
「しないようにしてたよ。今更望んじゃいけないって。一緒にいることは叶わないって」
諦めてたんだよって。
「だったのに、アタシの前に現れて……希望を持たせた。そのくせして……」
また一緒にいられるって。
「何もかも忘れてた。自分の名前も、アタシの名前も。家族の名前も」
どうして人の気も知らずに何もかも忘れてるんだって。
「言ってやれば良かった!その場で!」
何も手にできなかった自分への怒りなのか。それとも、全てを忘れて新たな人生を人知らず進み始めた晴哉に対してか。
友奈は先程銀の気持ちに名前をつけた。「好き」と名付けられたその気持ちとは裏腹と言っても良い今の感情はどこから来たものなのだろう。それを考えつく前に銀からは怒りや悲しみ、喜びをごちゃ混ぜにした言葉の数々が友奈を無視して次々に解き放たれる。
「アタシがどんな気持ちで!!どんな気持ちで……これまで待ち続けてたと思ってるんだって……」
「銀ちゃん……」
銀は待ち続けていたわけではない。探して、探して。探して探して。諦めては探して。気がつけば1年も時が経っていた。たった1年。されど、銀にとっては人生で最も長い1年だった。
必死に知恵を振り絞り、須美と園子の居場所も突き止めようと奮闘した。それでも1人で出来ることには限りがあって。晴哉が近くにいてくれたらなんて望んでもいけないことを望んだ。そしてまた知恵を振り絞って探した。晴哉が生きてる可能性に賭けた。その賭けは負けることが確実視されていて、砂浜の中にダイヤモンドを見つけるよりも難しいと思っていた。だと言うのに晴哉は姿をいとも簡単に現したのだった。しかも、簡単に現れたと思えば次々と悲劇が銀を襲ったのである。
「せめて……せめてさ」
今から言うのは銀のエゴだ。それには自覚があった。普段ならきっと口にすら出しやしない。けれど、思ったよりも銀の心は疲れていたのだろう。自制心が働くことはなかった。
「命をかけて守った女の子の名前くらい……覚えていてほしかったな…」
何のために晴哉は片腕を失ったのか。何のためにあそこまで傷だらけになったのか。その理由を失わせる事は余りにも晴哉に対する冒涜であった。
銀は自分の怒りと言う感情の矛先が、無意識のうちに神樹へと向かいつつあることには気が付かない。今はその怒りを覆い隠すだけの友奈への申し訳なさがあった。
「はぁ……。ごめん友奈。せっかくの泊まりだってのにこんな…うわっ」
楽しい日になるはずだったのに、こんな陰鬱な話を聞かせた事を銀は謝った。頭を下げようとした銀を優しく友奈は抱き止めた。
「大丈夫。聞かせてくれてありがとうね」
「友奈……」
「友達なんだから。謝らないで」
友奈の優しい言葉が銀の中にドロドロと溶け込んでくる。銀は体重も友奈に預け切る。
こうして誰かに自分の重みを全て預けるのはいつぶりだろうか。もしかしたら初めてのことかも知れなかった。
「私に出来ることがあったら何でも言ってよ。役に立つか自信はないけどね」
銀が友奈から身体を離し、顔を上げると友奈は言葉とは裏腹に自信たっぷりに力強い笑みを浮かべていた。
「その話は風先輩にもできない話?」
「そう、だね。今話せるのは友奈だけ」
「そっか。それなら私と銀ちゃんだけの秘密だね」
「そんなに大したものでもないけど」
秘密という言葉の響きが気に入ったのか、上機嫌に揺れる友奈に銀は苦笑いを浮かべた。
「銀ちゃん的にはまだ探す気なのかな」
「一個もう手がかりは掴んでる。明後日その人とは会う予定」
「え、はや。私の出る幕ない?」
「励ましてもらった手前言うの心苦しいけど、友奈はあまり関わらない方がいい」
銀の友奈を案ずる真剣な眼差しに友奈も納得したようだった。銀としても大赦という絶対的権力の前に友奈を引きずり出すわけにも行かないのである。
「だから、友奈にはアタシが迷った時の相談役になって欲しい」
「もちろん!」
友奈は銀に力強く頷いた。銀は友奈という仲間が出来たことに一抹の不安を感じながらも、心の大きな支えを得た。
その日、銀と友奈は互いに眠りにつくまで自分のことや友人のことを語り合った。銀と友奈の埋まらなかった距離。それがようやく手を伸ばせば掴めるほどになったのだった。
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友奈とのお泊まり会を終えた銀は余韻に浸る事を許されず、安芸に指定された場所へと足を運んでいた。
指定されたのは放棄された小さな神社。神社は基本、大赦が一括で管理している。しかし、この小さな神社だけは存在を忘れられたのか朽ち果てている。
「本当に来るのか?」
銀は安芸の言葉を完全には信用していない。約束の時間まで5分。姿を見せなければ銀はすぐに引き返す予定だった。
時計の針だけが無情にも時を刻んでいく。1秒…10秒……1分………4分。そして時計の針が約束の時間に差し掛かったと同時に草の根を踏む重々しい足音が銀の耳に届いた。
「来ないと思ってましたよ。てっきりいつものように隠しにくるってね」
皮肉混じりの言葉を投げかけながら、銀は足音の方へ顔を向けた。銀の目に映ったのは仮面を被り、恭しく礼をする女性だった。けれどその立ち姿から銀はその相手が安芸だと悟る。
「お久しぶりです。三ノ輪銀様」
とても教え子に向ける姿勢とは思えないほどに安芸の所作は仰々しい。銀はそれにどう反応して良いのかわからなかった。自身が勇者として【御役目】に挑んでいた時、ここまでの姿勢は取られなかったからだ。
銀は文句の一つでも最初に言ってやろうと思っていた。しかし、安芸の態度に違和感を感じて出鼻を挫かれた時点で安芸の思惑通りだった。
「その呼び方はやめてください。変に動悸がします」
「勇者様には最大の敬意を」
「アタシはもう勇者じゃない。大赦も関係ない。だから、知り合いの大人と子供っていうスタンスでいきましょうよ」
「……わかりました」
銀の言い分には隙もあったが、安芸はそれを受け入れた。しかし、仮面は外さなかった。それだけは出来ないと拒絶の姿勢を安芸は示す。
銀は仮面に関しては仕方がないと割り切り、早速本題に入ることにした。
「どうしてアタシをここに呼んだんですか」
「鷲尾晴哉様の事でお話があったからです」
無意識のうちに銀の眉はピクリと動いた。安芸もその話を聞きたかったのだろうと見透かしているようだった。
「ハルヤの事をどうして知ってるんですか」
晴哉は亡くなったはず。そう鎌をかけようとしたが、まだ安芸は話があるとしか言っておらず、銀はグッと気持ちを堪える。
「鷲尾晴哉様は亡くなったはず。それをあなたは知っていますよね」
「……はい。1年前の大橋での戦いで消息不明になって以来、大赦も捜索を諦めた」
「その通り。しかし、三ノ輪さん。仮に彼が生きてるとしたらあなたはどうしますか」
仮面の下で安芸がどう言った表情をしているのか、銀には読みとく事はできなかった。
銀はしばらく無言のまま自分がどう出るべきなのかを探る。仮定であると示しつつ、その内は真実である安芸の言葉をどう受け止めるのが正解なのか。苦慮した末に銀は素直に安芸に向き合うことにした。
「アタシはハルヤを探します。生きてるとわかったのなら、後は怖いものはありませんから」
「それがあなたの答えですか」
仮面越しでも伝わる安芸の力強い視線。銀はそれに臆さず、真正面から見据える。
安芸は銀の姿勢に真実を知ろうとする覚悟を見出すと、一度小さく呼吸してから再び口を開いた。
「わかりました。あなたにはお伝えします。と言うよりもう知っているでしょう」
安芸は先日の出来事を既に把握しているようだった。晴哉が話をしたのか、見ていたのか。聞いたのか。それは定かではない。ただ、銀が晴哉と接触していたと言う事実を知ったからこそ、安芸はコンタクトをとって来たのだと銀は理解する。
「鷲尾晴哉様……鷲尾君は生きています。戦いの後遺症で何もかもを忘れてしまっている事を除けばですが」
「それは安芸先生のこともですか」
「忘れていました。私が彼を見つけた時、彼は廃人でした。1年……。なんとか今では普通の人のようにはなれました」
先日彼が言っていた「前よりマシ」と言うのは事実だったようだ。
「ハルヤは自分のことを安芸と名乗ってました。それは先生が教えたから?」
「はい。大赦は既に鷲尾晴哉は亡くなったとしてます。既に英霊の碑にもその名は刻まれています。世間的には鷲尾晴哉は生きていてはおかしい」
淡々と話を進めていく安芸に銀は困惑を隠せなかった。それに次々と語られる事実は、非情にも鷲尾晴哉と言う存在を否定していた。
黙りこくる銀とは対照的に安芸は語ることをやめなかった。
「そこで私は彼の記憶が曖昧なのを利用して、安芸と名乗らせることにしました」
「………」
銀も話は理解はできた。1年もその姿を見せず、どこにいるのかもわからない時点で亡くなったとするのは自然なことだった。
だとしても銀はこの時引っ掛かりを感じた。晴哉にも敵の攻撃から身を守る精霊がいたはずだからだ。須美と園子にも精霊が居て、どこにいるかは不明であるが生存は確約されている。晴哉もどこかで生きているとしないと道理が通じないのではないか。
銀の疑問が口にしなくても安芸にも理解できたのだろう。安芸は一度俯いた後、予想外のことを口にした。
「三ノ輪さんの疑問は当然のこと。精霊のことを知っている以上、その性質も知っていたでしょう」
「はい。須美や園子からも機能は聞いてましたから」
「鷲尾くんも例に倣って生存しました。けれど、私はもう2度と彼に辛い目にあって欲しくなかった」
そして安芸は「これは私の自己満足です」と他の人々の思いを踏みながら歩んできた時間の流れに罪の意識を向けた。
「だから……私は大赦に彼の生存を否定し、亡くなったと報告しました。大赦も私の報告を嘘だと知りながら、簡単に受け入れました」
「そして、ハルヤに安芸と名乗らせて第二の人生を歩ませようとしたと」
銀の推測に安芸は頷いた。銀は安芸の口から語られたことを何度も噛み潰しては飲み込もうとする。けれど、飲み込むことができなかった。
銀が長い間溜め込んだ不満や不安。怒りや虚しさによって感情の撃鉄は既に引き起こされている。今回の自分勝手な安芸の言い分にも銀の不満は更に高まっていた。それ故に、いつ暴発してもおかしくはなかった。
「ハルヤは……それで納得してるんですか」
「納得しているかはわかりません。彼にはまだそこまで考える力はありませんから」
「……」
銀は再び黙り込む。話を聞く限り、今の晴哉の状態は思った以上に深刻そうだったからだ。とは言え銀としても譲れないものもある。これ以上、大切なものを奪われてたまるかと言う意地もあった。怒りに身を任せてもよかったが、銀はあくまで話し合いをしにきたのだと何度目かの深呼吸をした。
銀の強くなり続ける思いを諌めるのように、そよ風が銀を抱きしめる。肩の力を抜いた銀は、落ち着いた口調で自らの願いを口にした。
「アタシは会いたいです。ハルヤが今、どんな状況でも受け入れて、前に進むために」
「それが鷲尾くんの意に反していてもですか」
「はい」
一層力強く、決意に満ちた瞳は安芸の気持ちを固めるには十分だった。
安芸はこれまで付けていた仮面を外すと、大赦の安芸ではなく1人の人間として改めて銀に向き直る。
仮面を外し、あらわになった安芸の素顔は何処と無く憔悴していた。
「いいんですか。それ外して」
「これを付けていては、私は自分の心のままに話をする事ができませんから」
「そ、そうですか」
疲れ切った安芸の顔色を見てしまい、銀はなんとも言えぬ気持ちになる。先程まで胸の内に燻っていた安芸への感情は見る影も無くなっていた。
安芸も銀に苦笑いを返し、傾き始めた陽光の中で今一度話の行く先を正した。
「私が今日、この場を作ったのは鷲尾くんがあなたの名前を口にしたからです」
「ハルヤがアタシの名前を?」
銀の心臓がドクンと脈打つ。
「はい。普段ほとんど話すことの無くなっていた彼が三ノ輪さんの話をしました。私はそれが嬉しかった」
斜陽が照らす安芸の顔は悲しくもありながら優しさに満ちていた。それだけで安芸の思いは痛いほどに伝わってくる。銀はこれほどまでに思ってもらえる記憶喪失の彼が少しだけ羨ましくもなった。
「おかげで、第二の人生を歩ませようとしたのは間違いだとそこで気付くことができました。彼の心は、決して過去を無いものとしようとはしていなかった」
ここまで言い切ったところで、安芸は銀に頭を下げた。銀は突然のことに少しだけ面食らう。
「せ、先生!?」
「どうか。鷲尾くんを助けてあげてください。三ノ輪さんにしか、もう鷲尾くんの目を覚ます事はできません」
表情は見えないが安芸の肩は震えていた。銀はそんな安芸の姿を目に焼き付けながら、もう一つのことを考えている。
晴哉が銀の名前を口にし、覚えている可能性がある。その一言だけで銀は晴哉の思いを察することができたような気がした。
「過去を否定することがハルヤにはできなかったんだ……」
銀とて彼が過去や現在、未来に対してどう言った思いを抱えているかはまだわからない。けれど、晴哉にとって1年前のあの日々は『忘れてはならないもの』だった。
「先生。顔あげて」
「……」
安芸は恐る恐ると言った様子で顔を上げた。見上げた先にあったのは、清らかなたましいの輝きだった。
「アタシ。もう難しいこと考えるのはやめました。先生の事とか、きっと気にしないといけない事ってたくさんあると思う」
銀は自分らしくもなかったこの一年と、積もってしまった負の感情の数々を一度胸の奥にしまっておくことにした。
ようやく自分のすべきことを見つけられた。晴哉のことを安芸が素直に告白をしてくれたおかげで銀は活路を見出すことが出来たのである。
「アタシは取り戻せるものから取り戻していく!」
「三ノ輪さん……」
「先生見といてよ!アタシの逆転劇ってやつを!!」
夕焼けに照らされた銀の表情は、以前の輝きを取り戻したのだった。