いざ、神の山がまかり通る   作:ニンジンデース

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今更かもですが、レース名は当時の表記で書いてます。


第10走 稍重の芝を踏み越えて 府中3歳ステークス

 新馬戦、芙蓉特別競走とひと月の内に2回レースを勝利したバンセイフガク。

 次のレースは11月中旬に開催される府中3歳ステークス。芙蓉特別競走の1600mから更に距離を伸ばして1800mになる。

 このレースで活躍した競走馬達は翌年のクラシックレースでも好成績を残してきた事もあり、来年4歳馬になる競走馬達の最初の関門として多くのファンやホースマン達から注目されている。

 

 そんな重要なレースを一か月半先に控えたバンセイフガクは、短期間だが放牧する事になった。要はちょっとした休暇である。

 本馬は至って元気なのだが、2戦連続レコード勝ちを労う意味も兼ねて生まれ故郷である守松牧場へと帰郷させてもらったのだ。

 去り際に世話になった又則や溝峰、共に戦ってくれた恵護へ挨拶代りに顔を摺り寄せてひと鳴きした後、馬運車に揺られながら再び故郷の地を踏みしめる。

 

「おぉークロマツ……いや今はバンセイフガクか、立派になったなぁ!」

 

「いやぁ、大変ご立派になっちゃって……本当にでかくなったなお前」

 

 バンセイフガクを出迎えてくれたのは牧場長の守松と仔馬の頃に担当を務めていた谷村達だった。

 育成牧場へ送られた時より更に大きく逞しくなったかつて仔馬だった者の姿に、若干引き攣りながらも笑って迎えてくれた。

 

『牧場長、それに谷村。皆元気そうで何よりだ』

 

 自分が世話になった人達だったのでよく憶えていたバンセイフガクは、挨拶に顔を摺り寄せる。人間の頃だったらあり得ない事だが、馬の場合は挨拶の様なものなのでもう慣れた。

 

「はは、覚えててくれたか。大きくなってもお前は変わらないな」

 

「牧場の皆は相変わらずだよ。後、お前のお袋さんがお前の弟と妹を元気に産んだよ」

 

(ほう、母も頑張っているようだな)

 

 繁殖牝馬と言うのは健康ならば毎年仔馬を産んでいるので、母バンセイフジも次の世代を増やすべく励んでいる事はバンセイフガクも知っていた。

 時期的に弟は去年産まれて、順調なら今頃は育成牧場で競走馬になるべく調教の真っ最中の筈だ。妹は今親離れをして同年代に混ざって体力づくりをしているらしい。そして新たに今年もお腹に子供がいるらしい。

 タイミング的に会えるのは弟の方はこれまた順調だったら舞田厩舎に入厩した頃になるだろう。妹は放牧中のどこかで見る事が出来るかもしれない。ちゃんと顔を会わせるのは競走馬だったら厩舎に入ってからだろうが。

 

 それはそれとして、バンセイフガクは自分の馬房へ行く途中行先を変更した。綱を引いていた谷村は突然進路を変えたバンセイフガクに引き摺られて慌てて馬房へ連れて行こうとするが、ダンプカーでも引いているのかと思うくらい動かない。

 

「お、おいフガク、何処行くんだ。そっちは……あ」

 

 行先を察した谷村は、「大丈夫かなぁ」と困り顔で付いて行く事にした。

 

 バンセイフガクが辿り着いたのは、牡馬達から離された場所にある大きな小屋。

 馬が近付いて来た事に気付いてそこから出てきたのは、従業員の杉だった。

 バンセイフガクの巨体に驚いて目を見開いた。

 

「でかっ!? ってクロマツか!? 久しぶり……というか谷村、こっちは繁殖牝馬のいる馬房だぞ。なんでこいつ連れて来た?」

 

「すまん、フガクが会いたいみたいで……」

 

「……あぁ、今はバンセイフガクだったな。しかし会いたいっつっても……」

 

 谷村と杉はこれ以上バンセイフガクが進むのに難色を示している。

 バンセイフガクが用があるのは、繁殖牝馬達がいる馬房だ。

 そして、バンセイフガクは牡馬だ。馬の繁殖管理は人間の手によって厳正に管理されている。最悪の事態を避けるために、入れるわけにはいかないのだ。

 

 二人の様子を見ていたバンセイフガクは、おもむろに上を向いた。そして。

 

 

 ヴオオオオオオォォォォォ…………ッ!!

 

 

 およそ、馬の叫びとは思えない雄叫びが守松牧場に響き渡る。びりびりと空気が震え、牧場の人間達が何事かと建物から飛び出してきた。

 突然のバンセイフガクの雄叫びに従業員2人が驚いて固まっている内に、バンセイフガクは件の馬房がある小屋の方へと深く頭を下げ、暫くすると顔を上げて自分の馬房がある方と戻って行った。

 

「あ、おいフガク待てって……!」

 

 谷村は掴んだ手綱に引っ張られながら、バンセイフガクと一緒にその場から去って行く。

 

「やれやれ……流石に入れて無事な保証はないからなぁ」

 

 それを見送った杉は大きく安堵の溜息をつくと、小屋の中にいる牝馬達の様子を見た。

 不思議と暴れたり怯える様子は無く、皆普段通りの様子で落ち着いている。

 一頭一頭様子を見ながら奥まで進み、とある牝馬の入った馬房に杉は、そこにいる繁殖牝馬へと声をかけた。

 

「競走馬になって2戦2勝。しかもレコード勝ちだってさ……お前の息子は、立派になってるみたいたぞ、フジ」

 

 その馬房にいるのは、未だ筋肉に衰えを見せない逞しい体つきをした大柄の馬体を持つ黒鹿毛の牝馬。

 かつて生涯無敗で七冠という伝説を築いたバンセイフガクの母、バンセイフジがいた。

 バンセイフジは大きく成長した最初の息子がいた方角をじっと見つめ続けていた。

 

 

 放牧期間は2週間。

 食事の調整こそあるが、後は基本的にのびのびと過ごすして体を癒す事が今のバンセイフガクの仕事である。

 砕けた言い方をすれば、食っちゃ寝のダラダラの日々である。しかし、食う寝るだけだと体がむずむずするので放牧地をぐるぐるとウォーキングしたり、馬なりにストレッチを行ってみたりと自分なりに体調管理は心がけるようにすると、牧場の人間達はバンセイフガクの行為を不思議そうに見ていた。

 ついでに、放牧地や牧場内で馬が問題を起こしたら頭突きでド突くなり、睨みつけながら威圧して黙らせたり、困っていた馬の相談を聞いて解決策を模索もしていた。例え年上の馬だろうが問題を起こしているのならば容赦なしである。

 その結果、守松牧場内の牡馬達のボスに君臨していた。育成牧場へ行く前からそんな気配がひしひしとあったのだが、この放牧中でそれが確固たるものとなった。前に牧場で追い運動に付き合ってもらっていた馬からは『若、御立派になられて』と馬の眼に涙がほろりと流れていた。

 なお、牝馬達については母バンセイフジが今も尚ボスを務めている。牝には牝にしか分からない世界がある、という事だろう。

 

 放牧の最中、バンセイフガクは母と妹達を遠目に見る機会があったので様子を見てみると、母は別れた時と変わらず雄々しく逞しい馬体ですこぶる元気そうであったので安心した。

 妹の方は自分とは似ても似つかぬ毛色に体格、顔つきで少々面食らったが、自分が変わり種だったのであってああいう姿こそ本来の馬なのだろうと納得も出来た。

 現在育成牧場でトレーニング中の弟の方は、人間達の噂話を聞くにバンセイフガクとは別の意味で変わり種だったらしく、バンセイフガクと並べて見てみたいと口々に言っていた。

 

 放牧中には馬主の万世も時間を見つけてはバンセイフガクや母と妹の様子を見に来てくれていた。

 今回は息子を連れて来ている。二度目の対面となるが、あの武闘派ヤクザの組長みたいな顔と姿の万世楽之助の遺伝子がどこに入っているのかと疑ってしまうくらい似ていない好青年風の外見である。恐らく母の遺伝子のおかげだと思われる。

 付き人を待機させながら、親子二人がバンセイフガクを前にてあれこれと話している。

 

「見ろ駆(かける)、これがあの時のクロマツ、いやさ今はバンセイフガクだよ」

 

「うっそだろ父さん、本当に同じサラブレッドなのか? 二回り以上は違うじゃないか」

 

「おう勿論だとも。どこに出しても恥ずかしくない、それどころか、もしかしたら日本で一番凄い血統の持ち主だぞ」

 

 万世の息子の駆は、未だに目の前にそびえ立つどす黒い馬体の巨大な馬をサラブレッドだと信じ切れず、目を見開いてバンセイフガクをまじまじと見ていた。

 

「……僕も父さんの影響でちょっと馬は調べたりしてるけど、明らかに重種馬? っていう馬と同じかそれ以上じゃないか」

 

「なに、日本軽種馬登録協会のお墨付きなんだ。競走馬として登録出来たしレースにも出ている。何も問題は無いってわけよ」

 

「…………レコード勝ちしてるんだもんなぁ、今まで調べてきた常識が全然通用しない。恵護の奴、こんな馬に乗って走ってるのかぁ」

 

「ふふふ駆よ、このバンセイフガクにこれまでの常識は当てはまらないと思っておけ。これからそんな事は山のように出てくるぞ」

 

(こいつは期待を裏切るわけにはいかんな)

 

 腕を組みながらぐぬぬと唸る息子と胸を張って笑う父の構図を、バンセイフガクは色んな意味で対照的な二人を見て遺伝ってよく分からんなぁと己の身の上も鑑みてつくづくそう感じた。

 

 とりあえず挨拶代りに顔を摺り寄せた後、万世のスキンヘッドの頭へ鼻筋でごんごん突いていたら息子の駆が爆笑していた。

 しかしその後、「僕も将来父さんみたいな頭になったらされるのか……?」と己の毛根の行く末を想像して、何だかブルーな気持ちになっていたそうな。

 頑張れ万世駆、お前の未来は未だ未知数だ。と、バンセイフガクは一応心の中でエールを贈っておいた。

 

 

 

 実家へ帰省して気分がリフレッシュしたバンセイフガクは舞田厩舎へと戻った。

 残り一か月は府中3歳ステークスへ向けて1800mの距離を慣れさせる為の調整に使われる。

 

 そんな最中、競馬界がある話題で湧き上がった。

 

 無敗五冠のミスターシービーが八大競走の一つ、秋の天皇賞を優勝したのだ。未だに負けなし、すなわち、無敗の六冠馬となったのだ。

 

【無敗六冠ミスターシービー! このまま無敗の七冠へ天馬の如く舞い上がれるのか!?】

 

 数年前、バンセイフジによる無敗の七冠という伝説に、新たな競走馬が上り詰めようとしている。

 バンセイフジの時は子供を産むためにやむなく繁殖牝馬入りしたが、このミスターシービーは違う。ファン達は新たな伝説の誕生に胸を高鳴らせた。

 七冠を獲ったら、今度は八冠? いやいや世界へ挑戦だろう。日本で初めてジャパンカップで海外の競走馬に勝っているんだ。劣りはしない筈だ。

 多くのファン達の意見や予想が飛び交い、ミスターシービーの今後の活躍に誰もが期待している真っ最中だった。

 

 

 

『―――ってのが今の俺の状況よ』

 

『ほー』

 

 ふんすふんすと鼻息荒く自慢げに己の功績を語るミスターシービーへ、バンセイフガクが壁越しに適当な相槌を打っている。

 

 牧場から帰って来たバンセイフガクは馬房の場所が変わっていた。今はミスターシービーの隣である。

 前々からミスターシービーは綺麗な顔をして中々気が荒い馬で他の馬達が怖がってしまい、隣の馬房にいる馬が居心地悪そうにしているのが目立っていた。

 しかしバンセイフガクとは仲が良さげなので、隣にしても大丈夫だろうと又則達が判断し、バンセイフガクが帰省中に部屋替えを済ませていたのだ。

 別に馬房が変わったくらいで落ち着かなくなる程繊細な心は持ち合わせていないバンセイフガクなので、隣の馬房にミスターシービーがいる事に一瞬面倒くさそうにしたが、その後は普通に過ごしている。

 加えてバンセイフガクの厩舎生活に変化が起こったと言えば、会話の機会が増えた事だろう。もっぱら、相手はミスターシービーだけなのだが。

 それまではバンセイフガク自身も他の馬達へ話しかけられないような気配を出していた為、他の馬達も干渉しないようにしていたが、馬房替えをして隣がミスターシービーになったら、向こうからあれこれと話しかけられるようになったのだ。

 

 今もこうして先日のレースの出来事を得意げにミスターシービーが隣の馬房から話してくる。

 バンセイフガクも母の記録に迫るこの競走馬に興味があるので、自慢話に付き合っていた。

 

『次のレースは決まったのか?』

 

『さてな、人間達の方で調整中みたいだが、多分年末の有馬記念だろう』

 

『1年最後の大レースか』

 

 有馬記念。それは中央競馬のその年最後の総決算。

 3歳以上の競走馬達の中から選び抜かれた優駿達だけが走る事を許された日本競馬最大級のレースの一つである。

 ミスターシービーは去年末に行われた第28回有馬記念を制している。もし今年度末の有馬記念を勝てば、スピードシンボリ、バンセイフジに続く3頭目の有馬記念連覇を成し遂げた競走馬となるのだ。

 

『ジャパンカップは去年獲ったから他の奴に譲ってやるが、最後の大トリはいただくぜ。お前は朝日杯やってから来年来な――千切り捨ててやるからよ』

 

『なら、精々俺に抜かれるまで手柄を高く積み上げておくんだな。――それが崩れて壊れる様はさぞかし見応えがあるだろうよ』

 

『お前ほんっと可愛げがねえな! まだ2勝しかしてないくせに!』

 

『知るか、可愛いはあんたの特権だろうが』

 

『あー! お前俺に可愛いっつったか!? つまり牝って言いてえんだな!? ぶっとばすぞてめえ!』

 

『やかましい、無敗の六冠馬の癖にがたがた喚き散らしよって。ガキ相手だと思うんならもっとどっしりと構えとけ』

 

『うるせー! 俺より2歳下の癖にー!』

 

 あーだこーだーブルルルンヒヒーンと騒がしくしていると、厩務員の溝峰達が何事かとやって来た。

 しかし来てみても、隣り合わせの馬房で二頭が言い合う様に何やら鳴いているだけで、馬達自身は険悪な様子でもなく、やってきた厩務員達はとりあえず二頭を宥める事にした。

 厩務員達によって宥められると、ミスターシービーは『疲れた! もう寝る!』と言ってふて寝をしてしまったらしく、その様子を壁越しに聞いたバンセイフガクは溜息をつき、自分も眠りについた。

 

 朝起きて午前中みっちり調教で体を鍛え、午後はミスターシービーとだらだら世間話をして適当に寝る。

 そんなルーチンワークが出来上がって日々を過ごしていたバンセイフガクも、ついにレース当日を迎えた。

 

 

 

 

 11月18日、場所は東京都府中市の東京競馬場。

 

 馬運車に運ばれいつもとは違う見慣れない競馬場へと連れられたバンセイフガク。

 いつものように諸々の手続きを済ませ、恵護を乗せて本馬場へと向かうと恵護が話しかけて来た。

 

「フガク、今日は今までよりも芝が湿っている。気を付けて行こう」

 

『……どうも、湿った芝は走りづらい』

 

 本日の天候は曇り、しかし数日前に降った雨の影響で競馬場の芝は未だ湿り気を帯びているのだ。

 舞田厩舎陣営は、その馬場の状態を心配した。

 

 競馬では馬場の状態を良・稍重・重・不良の4段階で分けられるが、それらは水の含み具合で決められる。

 今回の馬場は稍重、1日晴れ間のあった日を挟んではいるが、完全に乾ききらず湿ったままだ。そう言った馬場は、普通の芝よりも幾分か滑りやすくなっている。

 

 舞田厩舎陣営の舞田又則はが心配しているのは、バンセイフガクと湿った馬場の相性である。

 バンセイフガクの走りは、並の馬の倍以上の、それこそ飛んでいるのかと錯覚するほどの超ロングストライド走法。

 ストライド走法を用いる競走馬は滑りやすい馬場との相性が悪いというケースが見られる。

 加えて、バンセイフガクは前代未聞の1tを越える超重量の競走馬、軽自動車よりも重いのだ。更に、バンセイフガクの蹄および蹄鉄もその巨体に比例して大きい。

 車などにも言える事だが、重いものほど滑った際に止まりにくいものだ。ならばバンセイフガクの場合は? 他に類を見ない滞空時間のストライド走法に加え、他の馬達を10馬身以上の差で引き離すハイスピードで走るバンセイフガクが滑る馬場に対して危険なのではという可能性が浮かんだのだ。

 もし滑ろうものなら、その超重量と加速による慣性の法則で、最悪の事態を引き起こしかねない。実際、調教期間中にも当然雨は降るので、芝の濡れた馬場で走る感覚を覚えさせていた事があるが、その時バンセイフガクがいつもの様なスピードを出さずに走りづらそうにしていた事もあって又則は危惧しているのだ。

 

 そう言った問題点を考慮した末、又則はある作戦を一頭と一人のコンビに提案した。

 

 

 曇天模様の東京競馬場に多くの観客達が集まっていた。

 各々応援している馬がいるだろう。馬券にで一攫千金を狙う者もいるだろう。

 だが、大半の観客達はある馬を見るために府中までやって来たのだ。

 

 本馬場に件の馬が姿を現すと、おぉっ! と観客達がどよめいた。

 

 全身が黒い塗料で染められたようで、艶のない馬体はまるでそこだけ影法師があるかのように錯覚してしまう程に暗く、黒い。

 そしてその馬体、他の競走馬達よりずっと大きく、その全身は各筋肉が発達し、馬のシルエットを持ちながらも全く何か別の生物にも見えてくる。

 顔の方も馬の骨格でありながら筋肉によって猛獣かと思えてしまうほどに猛々しく、全てが黒い馬体の中でただ一つだけ刃のように鋭い目がギラリと光を照り返している。

 観客達の声にも動じず、騎手を乗せて堂々と歩くその馬の名は。

 

《さあ出ました本レースで最大の注目株。新馬戦、芙蓉特別競走と2戦全てを競馬場のレコード勝ちした驚異の超大型サラブレッド。2枠2番、バンセイフガク!》

 

 単勝1番人気、2戦をレコード勝ちしたその強さはもはやフロッグ(まぐれ勝ち)では無いと誰もが認める。今後の中央競馬最大の台風の目になり得る異端の競走馬。

 

《4枠4番、シリウスシンボリ。前の芙蓉特別ではバンセイフガクの大逃げによって大差負けを喫してしまいましたが、雪辱を果たせますでしょうか》

 

 バンセイフガクの2頭後に現れたのは鹿毛の馬、シリウスシンボリ。

 自分の戦績に土を付けた黒い巨馬の姿を見かけると、芙蓉特別の時の事を乗り越えたのか、凄まじい怒り顔を浮かべながら返し馬を行っていた。

 

 

 返し馬が終わり、待機所で集合時間となってゲート前で輪乗りを行いゲートへと入る。

 

《第5レース、府中3歳ステークス。8頭立ての各馬がゲートに納まり……スタートしました》

 

 朝日杯3歳ステークスへ、関東地区3歳馬最強決定戦への前哨戦が始まった。

 

 一斉に競走馬達が湿り気を残した芝を駆け出した。

 そしてすぐに観客や騎手、そして競走馬達が想定していたものとは全く違うレース展開が起きていた。

 

《おっとバンセイフガク、スタートを失敗したのか? 馬群最後方にいます》

 

『何だと!?』

 

 最も驚いたのはシリウスシンボリとその騎手。

 あの憎き黒い巨馬は先頭を駆けるのだろうと予想していたのだが、それを裏切って件の巨馬は最後方を走っている。

 

『……あのデカブツ、何を考えてやがる』

 

 本当にスタートを失敗して調子を崩したのならそれはそれで好都合だ。このまま勝利して、今までの借りを返してやる。

 そう気炎を燃やしてシリウスシンボリは馬群先頭集団のポジションを確保して芝を駆けて行く。

 

《さあ想定外の展開となりましたが先頭集団を引っ張るのはシリウスシンボリとサクライットウ、高低差2mの急坂を越えて第2コーナーへと入りました。後方最後は変わらずバンセイフガク》

 

 そのままバンセイフガクは前に出る事なく第3コーナーを越え、最終コーナーへと入る。

 既に他の馬達は最後の直線へと入って行った。

 これは駄目か。適性距離では無かったのか。

 多くの観客達がこのレースの勝利者は先頭集団から抜けて行ったシリウスシンボリだと諦めはじめていた。

 

 その中で全く動じていなかったのはバンセイフガクの調教師舞田又則と馬主の万世楽之助。

 そして、今芝を走るバンセイフガクと主戦騎手の舞田恵護コンビだった。

 

 

 

 最終コーナーへ入った所で、ついに黒い巨馬が動き出した。

 

「ここだ。行こう、フガク」

 

『……振り落とされるなよ恵護』

 

 手綱を両手で短く持った恵護は、何かに備えるように全身を強く引き締めた。

 そして―――

 

 

 最初に異変に気が付いたのは、バンセイフガクの一つ前を走っていた競走馬とその騎手だった。

 馬群の中でも特に出遅れてようやく直線に入ろうとした時、背後から異様な音が聞こえてきたのだ。

 

 

 シュオオオオオォォォォ……

 

 空気が何かに吸い込まれる音がする。

 しかし一体何に? 今まで競馬場で聞き慣れない音に馬も騎手も不思議に思う。

 音の出所は自分達の後方。

 後ろにはあのやたら馬鹿でかい黒い競走馬しかいない筈。

 

 謎の音は2秒~3秒すると消えた。

 そして次の瞬間。

 

「はあっ!?」

 

 唸る風の音と背後から尋常ではない速度で件の黒い巨馬が自分達をあっという間に追い抜いて行ってしまった。

 

《さあ最後の直線途中の急坂をシリウスシンボリが後続と“大差”を空けての独走で急坂も越えてこのまま……ああ!?》

 

 それに最初に気が付いたのは実況か、観客か、それともこの事態を想定していたその馬の調教師と馬主か。

 

 

 最後の直線500mをラストスパートを駆け、この時後続と大きく離してゴールへ迫るシリウスシンボリは勝利を確信していた。

 

『勝った! このレース、この俺の勝ちだ!』

 

 今から俺を抜く事など出来やしまい。あとはゴール板を越えるだけ。

 嗚呼、勝った後あのデカブツに何て言ってやろうかあの野郎。

 

『デカブツ野郎、あのまま前に出て来やがらねえ。……けっ、どうやらこの距離は奴の図体には荷が重かったようだなぁ……!』

 

 育成牧場での一件以降、シリウスシンボリは己の心に怒りと屈辱を抱きながら、人間の課してくる調教を黙々とこなして力を蓄え続けて来た。

 全ては、あの時自分に恥をかかせた忌々しい黒い巨馬を見返す為。あの時、あの馬に言われた言葉が今も心を蝕み続けている。

 

――何の実績もない奴が垂れ流すでかい言葉ほど滑稽で惨めなものはないな。

 

――己が優秀な馬だと思っているのなら、競走馬として結果で証明して見せろ。

 

 それからシリウスシンボリは、勝利するために人間達の調教に内心イラつきながらも我慢を重ねて己を強くするためと言い聞かせながら受けて来た。奴に勝つためなら何だってやってやるつもりだ。

 調教内容が物足りなければ、もっと俺を鍛えろと駄々をこねて暴れた事もある。

 走る時はいつも、黒く巨大なあの馬を仮想敵として走り続けて来た。

 同じ牧場出身の一つ上のいけ好かない“あの馬”も、黒い巨馬の事を考えれば意識の外へと追いやる事が出来た。

 

 芙蓉特別競走での惨敗で己と相手の間に大きな差がある事も思い知らされ、あまりのショックに食事が喉を通らず、眠れなかった事もあった。

 その時の屈辱を胸に、自分を担当する調教師達へ徐々に厳しい調教を行わせるよう仕向け続けた。

 

 今、それが報われる時が来たのだ。

 汗でぬれた体も、激しい呼吸で握りしめられるような肺の苦しさも、この後に来たる勝利を想えば悦びにすら感じられる。

 

 勝利を確実なものとする為に、今ゴール板目がけて最後の直線を走るシリウスシンボリは背後から迫る凄まじい圧力に全身の毛が逆立った。

 

『な、んだぁ……!?』 

 

 思わずシリウスシンボリが振り向こうとしたが、その圧力の元凶が自らシリウスシンボリの視界内に入った。

 いや、明確に言えば、シリウスシンボリを抜き去って行ってしまったのだ。

 

 発達した筋肉で全身を覆う、自分より巨大などす黒い馬。

 既にその後ろ姿は、シリウスシンボリから大きく離れて先を走っていた。

 

 シリウスシンボリはその時、体は走る事を続けながらも思考が停止した。

 

 てめえ、何で俺の前走ってんだ?

 

 一番後ろにいたんじゃねえのかよ、なあ?

  

 

『ッッッッッックソったれがああああーーーッ!!』

 

 シリウスシンボリが絶叫した頃には、既に彼の黒い巨馬はゴール板を越えていた。

 

 

《な、何だ今のは!? バンセイフガク、直線に入った途端あの最後方から見た事のない凄まじい猛スピードで、先頭を走っていたシリウスシンボリまで7頭全てを一気に抜きさって大差でゴールしましたー!?》

 

「くはっ! はぁ……はぁ……上手く……いった……!」

 

「ブシュウゥゥゥゥゥ……」

 

 ゴール板を越えて1着となったバンセイフガクの鞍上では、恵護が荒い息を上げながら無事に走り切った事に安堵していた。

 当のバンセイフガクも、全身からいつも以上の汗を流しながら排熱するように熱い鼻息を盛大に吹かせていた。

 

 恵護がレース前に又則からこう指示を受けていた。

 

――いいか恵護、今回のレース序盤はスピードを抑えて馬群後方で待機しろ。そして最後の直線で全速力で構わん、一気に突っ込め。

 

――フガクは確かに逃げを主戦法として走って来たが、その本質は必ずしも逃げ馬じゃない。あまりの速さとスタミナと頑丈さで、逃げが成立しているだけだ。

 

――こいつがもうそこいらの競走馬のポテンシャルじゃ計り知れない能力を持っているのは恵護、お前も分かってきている筈だ。

 

――調教時にフガクが走る調子を崩したのはコーナーでの話。直線の方は坂でも問題なく走れている。速度を落として走ればフガクもコーナーは曲がれる。だから最後の直線まで脚を溜めて、一気にぶっ放せ。

 

――……もし、それで負けてもそれは俺の判断ミスだ。馬主の万世さんも了承している。だからあまり気負うなよ、恵護。

 

 

「……気負うなって言っても流石にヒヤッとしたぞ親父」

 

 呼吸が落ち着いた恵護は、速度を緩めて歩きに変えたバンセイフガクの鞍上でそう溢す。

 バンセイフガクの能力は又則に言われた通り、これまでの調教やレースで恵護も理解しているつもりだ。

 この馬は無敵だ。勝利する事が約束された、史上最強の競走馬になれる馬なのだ。

 だがそれでも、その馬が使い続けて来た戦法とは真逆の戦法をさせるのは、騎手になってまだ浅い恵護には緊張を強いる判断だった。

 

(ぐふっ……体がビックリしてやがる。恵護が上手くタイミングをとってくれたか)

 

 人間達が頭を悩ませていた中で、バンセイフガクも今まで使わなかった全速力による疲労と安堵の混じった深い鼻息を吐いていた。

 自分の全速力の速さには自信があった。ただし、この速度を出すには条件が必要になるが。そしてレースで使うのは今回が初めてだった。レース終盤の最終コーナーでその準備をするまで、本当に大丈夫か? と心配が心の中にあったのは否定出来ない。

 

(こいつは……濡れた馬場に対する走り方を対策しておく必要がありそうだな)

 

 無理やり力技でねじ伏せに行くのも嫌いではないが、それで事故って鞍上の騎手を怪我させたくはない。

 これがもし今以上に馬場が荒れている様な状況だったら、その可能性はさらに高まるかもしれないと思えば、決断は早かった。

 バンセイフガクは、己の弱点の改善を今後の調教で模索する事にした。

 

《またしてもレコードを記録! バンセイフガク、東京競馬場の3歳芝1800mで1分43秒1を叩きだしました! 強い! この馬は限りなく強い!》

 

 電光掲示板に映るレコードタイムに観客達からどよめきと大歓声が上がる。

 それを見送りながらバンセイフガクが芝の馬場から退場していく。

 

「お前にはいつも驚かされるよフガク。……このまま勝ち進んでいこうな」

 

『俺は課題ができた。調教中、ちと迷惑をかけるぞ』

 

 届きはしないが声はかけておく。

 バンセイフガクは検量室前へとそれまでの加速が嘘のようにゆっくりと歩いて向かって行く。

 

 そんなバンセイフガクを、シリウスシンボリとその鞍上の騎手が呆然と見ていた。

 

 

 

 

 

「や、や、やり、やりやがったあいつッ」

 

 観客席の中で、慄きながら手に持ったストップウォッチを見ていた観客がいた。

 その観客は、いつもレースで気になる競走馬が走っていたら、そのタイムを持参したストップウォッチで特定の距離や全体距離を独自に計測する趣味を持っていた。

 

 今回の府中3歳ステークス、その観客が注目するのは新馬戦と次のオープン競走でレコードタイムを記録したバンセイフガク。

 あれほどの巨体で今度はどんな記録を出すのかとワクワクしながらストップウォッチ片手にレースを観戦していたのだが、スタートから最後方で始めたバンセイフガクに最初はがっかりしてしまった。

 考えてみれば、今日の馬場は稍重、あれほどの滞空時間を生み出すロングストライドのバンセイフガクには苦手な状況かもしれない。

 このレース、負けちゃうかなとストップウォッチの計測をリセットしていた時、状況が変わった。

 

 バンセイフガクが最後の直線に入った時、とんでもない速度で走り出したのだ。

 6頭を瞬く間に抜き去り、もうシリウスシンボリに追い付いて、あっという間に抜いて行ってしまった。

 観客は咄嗟にストップウォッチを構え、ラスト200のハロン棒の所からゴールまでの計測を行った。

 

 そこからゴール板を抜けるタイミングでストップボタンを押す。

 そこに出た数字をみて、眼を疑った。

 

 押すタイミングを間違えたか? だが、目の前であの黒い巨馬が恐るべき末脚で全てを抜き去ったのは、間違いなく本物だ。

 

 バンセイフガクがラスト200mで刻んだタイムは6.5秒。時速に換算すると、およそ110km。

 競走馬が出してはいけない速度を叩きだした。その事実にその観客は興奮とも恐怖とも判別の付かない震えに襲われた。

 

 

 この計測を行っていたのはこの観客だけではない。

 競馬関係者の中にも、同じようにあの異様な速度のタイムを計測した者はいるのだ。

 そして同じようにそのタイムと割り出した速度に慄く。

 

 1984年に行われた府中3歳ステークス、それは競馬界にとって大きな意味を持つレースとして後世に語り継がれる事となる。

 同時に、一頭の黒く大きな馬の存在が本格的に世間に知れ渡る契機にもなった。




※この時シリウスシンボリのタイムは1:44.2。

馬がチーター並の速度で走ってたまるかって話でした。
調べていたらアメリカで短距離で時速84kmが記録された事があるそうなので、じゃあラスト500m直線はその3割増しくらいで走らせてみようとか酒の勢いに任せたような思考でこうなりました。
ただスタートからゴールまであの速度で走らせるのはさすがにアレなので条件は付けはしましたが……。


繁殖牝馬と他の牡馬(その繁殖牝馬の産駒も含む)の接触って実際どうなんでしょう。
ネットでざっと調べて書いているのですが、そこら辺についてピンとくるものが見当たらなかったので、繁殖管理や色んな手続きとか行ったりするから牡馬と牝馬は分けるのかなって感じで解釈してます。
それ考えると、競走馬の牝馬と牡馬はどういう馬房の管理をしているのでしょう……?
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