いざ、神の山がまかり通る 作:ニンジンデース
トキノミノル記念から数日が経ち、バンセイフガクは元気に調教に勤しんでいた。
一日休みがあれば元々殆ど消耗が無かったバンセイフガクは心身ともに元気になり、この体に生まれ変わってからは走っている方が楽しいので、ジッとしているよりも調教コースをダートだろうが坂路だろうが走っている方が気晴らしになる。
それをこれまで管理してよく理解している調教師の又則は、一日の休みを与えた翌日には普通の競走馬ならば地獄に感じるような調教メニューをバンセイフガクに課して走らせることにした。無論、バンセイフガクの体調を入念にチェックする事を前提にしてだ。
「……まったく、気を揉んでいるこっちが馬鹿らしくなるくらい気持ちよさそうに走りやがって」
調教スタンドで又則が呆れ半分、苦笑半分の表情を浮かべながら双眼鏡で見る先には、調教コースを他の馬よりも速く走っているバンセイフガクがいた。
他の競走馬だったら間違いなく潰れるような距離を調教コースで走らせようが、坂路を何本走ろうともバンセイフガクは難なく走って見せる。それどころか、走り終わった後は機嫌良さそうに尻尾を振っているので実に余裕そうである。
体中入念にチェックをしても、全く故障の気配も予兆すらない健康体そのものなので、なんでこれだけ走っても平気なのだろうかいつも不思議に思う。
もっとも、それをいえばサラブレッドなのに1t越えていたり、そんな馬体重で時速100km以上で走っても耐えられる骨格とか筋肉とは何なのか、という謎が既に存在しているので、今更ではある。
以前馬主の万世や自分達の所へバンセイフガクを研究したいと言ってきた競走馬総合研究所の職員達の気持ちも、今なら少し理解する事が出来きた。
バンセイフガクの次走は3月3日の報知杯弥生賞。
クラシック三冠最初のレース、皐月賞のトライアル競走でもある大事なレースだ。
スペック的に言えば他の競走馬達を圧倒しているバンセイフガクだが、万が一の敗北を許さず、更にベストの走りを追及するべく舞田厩舎で調整が行われていた。
前回のトキノミノル記念で見せたピッチ走法、その更なる練度向上と新しい走法での鞍上の恵護との息の合わせ方が厩舎陣営側の目下調教方針となっているのだが……
「……またか」
又則は、双眼鏡の向こう側でバンセイフガクの走りに異変が生じるのを見た。
今年に入ってからバンセイフガクは従来からのストライド走法と最近習得したピッチ走法を、馬場の状況に合わせてレース別に切り替えて走らせていた。
しかし今日調教で走らせたところ、走り始めはピッチ走法で走っていたのだがコーナーを曲がっていくにつれて歩幅が徐々に広がり、ストレートに入った時にはバンセイフガク特有の長いストライド走法になっていたのだ。
最初は足運びが乱れたのかと怪しんだが、それにしては足の動きに規則性があり、何度見ても同じタイミングで走り方が変わっているのは偶然では無く意図的に行われているとはっきりわかる。
又則は調教スタンドから出てコースへ近づき、バンセイフガクと鞍上の恵護を呼んだ。
又則のもとへ来た恵護も何か言いたそうにバンセイフガクの鞍上で困惑している。
「恵護、フガクの走りについてだが……お前が指示した訳じゃないんだな?」
「はい、俺は何も。フガクが自分でやってるみたいなんですけど……」
又則は唸りながら思案すると、恵護達を人気の少ない場所へと移動させた。
他の馬や人間達から距離をとった隅へ着くと、又則はバンセイフガクの向かいに立ち、その眼を見上げた。
「フガク、お前走ってる途中に自分で走り方を意図的に変えたのか? そうなら右前脚で2回、違うなら左前脚で2回地面を叩け」
「テキ? 何を……」
恵護が困惑するのも無理からぬことで、この問答の仕方は以前シンザン記念の前の調教の時以降やった事がない。知っているのは当時その場にいた又則、バンセイフガク、そして調教担当をしていた槇村だけである。
又則の問いにバンセイフガクはじっと見つめ返した後、確かに右前脚で2回地面を叩いて見せた。
一人と一頭のやりとりを見た恵護は表情を硬くし息を飲んで己の父を見る。
「テキ……親父、フガクは俺達と……」
「やめろ恵護、後は事務所で話す。どこで聞かれるか分からんからな。……それでフガク、まさかお前はレースの最中、状況によって走り方を変えられる様にしようとしているのか? 返事はさっきと同じで頼む」
バンセイフガクはその問いに右前脚で2回地面を叩いてきた。
やはりか、と又則は眉間にしわを寄せながら考える。
シンザン記念の前の時は、苦手な濡れた馬場を克服するためにあのピッチ走法を独自に編み出したのだと思っていた。
しかし今日この走りを見て、それを意図的にやっていると言うバンセイフガクの返答で又則はある可能性へと思い至る。
「……あらゆる条件下やレース展開にも対応して最適な走りを可能とする走法だと?」
噂では聞いた事がある。かつてアメリカではコースやレース展開によって複数の走りを使いこなす化け物のような強さの競走馬がいたと。
その馬は並のサラブレッドを上回るスタミナと筋力、ばねを持っていた事からその走りを可能にしていたらしい。
対してバンセイフガク、こちらもサラブレッドの常識を超えた巨体と凄まじい筋力やスタミナとバネを有している。条件で言えば合致はしている、筈。
「おい恵護」
又則は未だに困惑している恵護に声をかけて正気に戻させた。
はっと気が付く恵護にさっきまでの調教について訊ねる。
「走らせていて何か問題はあったか? 走り方が変わったタイミングでぐらついたり、スピードが落ちたりはしたか?」
「……コーナー辺りで走りが切り替わる時に速度が落ちてたと思いますが、バランスを崩した感じはありませんでした」
又則は腕を組んで思案する。
クラシック三冠のトライアルレースの一つ、バンセイフガクが出走予定の弥生賞まで一か月を切っている。
だが、この馬は今年初めの調教時に独自にピッチ走法を編み出し、およそ一か月後のトキノミノル記念の時には実用段階まで漕ぎ着けていた。
今日初めて見せたときのあの切り替えの遅さは、又則が自分の眼で走りを見て、恵護からの証言も参考にすれば、まだ慣れていないが故の失速と感じられる。
ピッチ走法の方は大体ものにしている。あとは走る際の切り替えへの習熟が問題と見た。
「…………恵護、フガクの走りはこのままの調子で続行させてみるぞ。だがな、もし危ないと思ったら即座に止めろ。フガク、お前もだ。もうクラシックは間近なんだ」
「了解、です」
「グウォォォン」
緊張した様子の恵護が硬く返事を返し、バンセイフガクは嘶きながら右前脚で地面を2回叩いた。
そうしてふたたび調教コースへと戻る一人と一頭だが、又則はバンセイフガクの鞍上の恵護の背中をじっと見つめていた。
そんなバンセイフガクの周りはますます騒がしくなった。
4歳馬になってから2戦を経て、その戦績や強さに姿、血統など話題に事欠かないバンセイフガクの存在が一気にメディアへと広まりだしたのだ。
【無敗の新星バンセイフガク、クラシック三冠への視界は良好!】
【影すら踏ませない快速の競走馬は前代未聞の1t越え!? その血統はかつての日本の名馬達の結晶!】
【驚愕! バンセイフガクは北斗の拳に出ていた!? その名は黒王号!】
未だかつてない旋風を日本競馬界に撒きおこすバンセイフガクは時の人ならぬ時の馬となっていた。
取材は勿論の事、その特異な巨体などでテレビの放送まで行われた。
そこに加えて現在大人気の連載漫画の影響も出てきている。
件の漫画に登場している有名な巨大な馬が、バンセイフガクをモデルにしている事が判明し、一部の読者達が競馬に興味を示し始めたのだ。
現にこうしてファンレターや差し入れをくれる人達の中には、明らかに漫画の方からやって来た者が増えてきているのだ。
中にはとんでもない代物を贈って来る人もいた。
その日舞田厩舎に送られて来たバンセイフガク宛てのプレゼントの中に、一際高級なラッピングで包装されている箱があった。
差出人は不明、しかしあまりに高そうな雰囲気があって尚且つ危険な様子はなさそうだったので、厩舎の人間達が丁重に包装を取って箱を開けてみたら、 造形は軍馬や式典に出る際の装飾を思わせる明らかに上質な作り込みの豪奢な馬具が入っていた。
「なんだ、馬具? フガクのか? 随分と作りが良い……おいまさかこれ錦か?」
「金属の装飾品も重みがありますね、これメッキじゃなくて本物の……ん゛? あれ!? み、溝峰さん、これもしかして」
一緒にプレゼントの開封作業をしていた若い厩務員が何かを察して、声を震わせながら馬具を指差した。
それを見た他の厩務員達も何かに気づいたらしく、眼を見開いて馬具を凝視している。
「何だお前ら、これが何か知ってるのか?」
「いやだってこれ……ちょ、ちょっと待っててください!」
そう言って慌てて部屋から出て行った若い厩務員だが、すぐに戻って来た。
片手には最近厩舎の休憩室に置かれる様になった週刊少年雑誌が握られ、若い厩務員はそこからページを開いて溝峰や他の人達に見せた。
「これですこれ、この馬具ってこれなんじゃないですか!?」
そう言って見開かれたページに描かれたものを見て一同は驚愕した。
載っているのは北斗の拳の黒王号。その黒王号が身に纏う馬具と、今開封したプレゼントの中に入っていた馬具が瓜二つだったのだ。
「こ、黒王号の馬具ぅ!?」
「おいまさか、この送り主わざわざ作ったってのか?」
しかも材質はチャチなものではなく、どれもが素人目に見ても明らかに高級材質だった。
溝峰達は思わずサッとテーブルの上に置いたその馬具から距離をとってしまった。果たしてこれにはいくら製作費がかかっているのだろうか、想像するだけで恐ろしくなってくる。
「まずい……俺素手で触っちゃった……あれ絶対貴金属使ってる……俺の指の跡付いちゃってる……」
「俺雑に梱包開けちゃったんだけど、これやばかったのかな……」
「落ち着けお前達、手紙も入ってるからそっち読むぞ」
狼狽える若い厩務員達を宥めながら溝峰が手紙を読んだ。
【バンセイフガクの強さと姿に惚れ込み、このような品を贈らせていただきました。見事三冠馬になった暁には是非着けてみてください】
溝峰が読み終わった後の部屋の中はしんと静まり返っていた。
若い厩務員達は、ますます顔を青ざめた。
「み、溝峰さん、これ万が一フガクがクラシックで負けるような事があったら、やばいんじゃないですか……?」
「元からフガクは三冠を狙う予定だったんだ。俺達がやる事は変わらんだろうよ。精々、フガクが三冠馬になった後に“おめかし”をする予定が増えただけだ」
と、若い衆達に強気で言って見せた溝峰も内心ではこれから始まるクラシック三冠路線に対して緊張せざるを得なかった。
いかに従来の競走馬とはモノが違う化け物のポテンシャルを誇るバンセイフガクでも、万が一と言う可能性がゼロと言える自信が溝峰には無い。
願わくば、バンセイフガクには母バンセイフジを越えて、彼女が掴めなかった夢を叶えてもらうべく、まずはクラシック三冠を制して欲しいと願うばかりだった。
その後、馬具の件について溝峰が又則へと伝えると、溜息をついて馬主の万世楽之助へと連絡。その後、舞田厩舎で厳重に保管される事となった。
この差出人不明の謎の馬具が後に世に出るかが分かるのは、未だ誰も分からない。
《さあ第4コーナーを越えてラスト直線、先に入ったのはやはりこの馬バンセイフガク! 衰えぬ脚で一頭独走を維持する先にはゴールは間近! クラシック三冠が見える!》
3月3日、第22回報知杯弥生賞。そのレースの先頭は、多くの者達が分かり切った予定調和のレースとなっていた。
単勝オッズが4歳馬になってから全レース1.0倍と、「この馬が走るレースは単勝の馬券が機能しない」と言われ始めて来た黒い巨馬バンセイフガクが、今中山競馬場の最後の直線を一人旅をしてゴール板を越えた。
《バンセイフガク圧勝ッ!! デビューしてから無敗の7連勝! やはり強いぞこの黒い馬! 一頭だけ走る世界が違う! これはもはや一種の横綱相撲!》
ウイニングランでコースを一周するとゆっくりと速度を落としてバンセイフガクが電光掲示板を見上げる。そのタイムは1:50:8。レコード勝ちだ。
首を回して観客席方面、馬主席や関係者席をその図抜けた視力で見た。
馬主席の方では万世楽之助が両手を挙げて涙を流しながら喜び、隣では息子の駆も観に来ていた様で、父の泣く姿に呆れながらも此方を見て驚いている。
関係者席ではスーツ姿の又則が胸をなで下ろしていた。バンセイフガクと鞍上の恵護を首にさげた双眼鏡でしっかりと見ていたようだ。
《全戦全レコード勝ち!? 凄い、何だというのでしょうこの馬! これがかつての三冠、優駿達の血統を束ねて生まれた馬だと言うのでしょうか!?》
「クラシック三冠……」
バンセイフガクの鞍上で恵護が噛み締める様にその名を口にしながら手綱を強く握った。
舞田恵護は騎手になって新馬戦、未勝利競走、一般競争、オープン特別競走、重賞を若い身でいくつも勝利してリーディングジョッキーにも選ばれた身だが、八大競走やそれに類する大レースで勝利した事は未だ一度もなかった。
故に様々な感情が込み上げてくる。自分が今まで乗って来た中でも最強の馬に乗っているからこそその感情は強くなる。
己の騎手の心情を察したバンセイフガクが横に首を回して恵護を見つめ、ブォンと鼻息を鳴らした。
『おう我がジョッキーよ、これで晴れて俺達はクラシック路線に殴り込みが出来るわけだ。ぼんやりしとる暇はないぞ』
口の端をにやりと笑うかのように器用に吊り上げるバンセイフガクを見た恵護が、何となく励ましてくれている様な気がしてその黒く太い首を撫でた。
しかし、その手が震えていたのを、バンセイフガクは敢えて気が付かないふりをしていた。
同月30日、中山競馬場。その日皐月賞のトライアルレースの一つ、若葉賞が行われていた。
《400の標識を越えまして最後の直線を駆け抜けるは一頭の独壇場! 先頭は我が指定席と言わんばかりの加速で後続をはるか後方へと引き離して行きます!》
芝の2200mを走る馬達の中で、一頭だけが次元の違う走りを見せていた。
他の馬達が第3コーナーにようやく入り始めた頃にその馬は直線に入り、悠々とゴール板を眼前に捉えている。
《今、皐月賞へ向けてゴールイン! 目も覚めるような強さで若葉賞を制し、皐月賞への切符を手にしたのはシリウスシンボリ!!》
大歓声に迎えられながらウイニングランをするのは額に流星をもつ鹿毛の牡馬、シリウスシンボリ。
レースに勝ってもなおシリウスシンボリの表情は険しいままで、鞍上の騎手は勝利に喜びながらもその様子に苦笑した。
「シリウス、お前も皐月賞に行けるぞ。……“奴”と戦えるんだ」
シリウスシンボリにとってこのレースはあくまで通過点、いずれ再びレースでぶつかる怨敵を打ち負かすための試金石に過ぎない。そうやってシリウスシンボリは、己の脚を研ぎ澄ませてきたのだ。
《とんでもないタイムが出ました! なんと2分10秒2! このタイムは同じ距離の宝塚記念のレコードすら塗り替える圧倒的なタイムであります!!》
観客のどよめきと更に勢いを増す歓声が中山競馬場を轟かせる。
前代未聞の大記録を更新した馬が“もう一頭”現れたのだ。
《堂々と皐月賞への進出を決めましたシリウスシンボリ、宿敵バンセイフガクもレコードを記録して皐月賞へと駒を進めております。これは凄いレースになる事でしょう! 今年のクラシックも目が離せません!》
(待っていろデカブツ野郎……今度こそ、今度こそ思い知らせてやる……!)
勝ち続けていけば、いずれまたあの馬とぶつかる。そしてその時こそが、このシリウスシンボリの力を見せつける時。
喝采で沸き立つ競馬場の中で一頭、心に満たされぬ渇望を抱きながらシリウスシンボリは歩いて行く。