いざ、神の山がまかり通る 作:ニンジンデース
皐月賞を間近に控えた美浦トレーニングセンターの舞田厩舎は緊迫した空気に包まれていた。
バンセイフガクに関わってきた調教師、調教助手、厩務員、騎手が一つの部屋に集まり緊張した面持ちで顔を見合わせている。
いつもより一際殺気だった又則が皆を見渡した。
「ついにクラシック最初のレース、皐月賞は目と鼻の先だ」
「天気予報ではレース当日は朝から一日中晴れの様ですけど……」
そう言って溝峰が窓の外を見ると、しとしとと雨が降り続けている。今日は皐月賞二日前、昨日の夜から降り始め、予定では明日いっぱいまでこの空模様が続くらしい。
「当日の馬場は期待しない方が良いですね」
「レースは第10レースの15時35分、予報通りなら朝から晴れた場合の芝の乾き具合は良くて稍重、悪くて重馬場と考えておいた方が良いな」
バンセイフガクのポテンシャルを最大限に引き出すのならば良馬場が一番望ましい。
だが今年に入ってからバンセイフガクが独自に走法を編み出すと言う異常事態に見舞われたおかげで、重馬場だろうが不良馬場だろうがバランスを崩さず走れるようになったので安定感が段違いに増している。
このままフガクが万全の状態で走れば皐月の冠は確実……と、言いたい所だったが、舞田厩舎陣営は同じく皐月賞に出走するある馬が気になっていた。
「シリウスシンボリ、この馬は警戒しておかないと厄介な事になるぞ」
去年の3歳馬の時、バンセイフガクと芙蓉特別、府中3歳ステークス、朝日杯3歳ステークスと三度に渡って戦い、バンセイフガクの後塵を拝してきた馬だ。
だがこの馬もまた間違いなく強い競走馬である。バンセイフガクと競ったレースでは他の馬達が数十馬身引き離されていく中、シリウスシンボリだけは数馬身以内でバンセイフガクに追い縋ろうとし続けて常に2位で入着している。
さらにバンセイフガクとかち合わないレースでは常に1着。今年に入ってから京成杯、きさらぎ賞、若葉賞と三度のレースを出走したが、いずれもシリウスシンボリは恐ろしくも圧倒的な強さでレースレコードを塗り替えて勝利していた。
「若葉賞の芝2200でタイムが……2分10秒2ぃ!? なんですか? 同じ距離の宝塚記念の優勝馬だってこんなタイム出しませんよ!? 何なんですかこいつ!?」
資料を見ていた調教助手の槇村がとんでもない記録に愕然とした。
若葉賞は皐月賞のトライアルレースの一つ、なおかつ経験豊富な古馬達がしのぎを削る宝塚記念と同じ距離で同レースでも見た事のないレコードを叩きだしたシリウスシンボリは皐月賞の優勝候補に上げられていても何らおかしくは無い。
「まさかあの馬がここまで化けるなんて……」
「いや、兆候はあった。これまでずっとフガクの出たレースではフガクに何度も食らいついて来た根性の持ち主だ……そう、何度もだ」
あまりにも隔絶した実力差があると、馬はその相手とのレースを恐れたり嫌う事がある。
バンセイフガクの走るレースでも似たような傾向にある。バンセイフガクが圧勝したレースに出走していた馬の中には、バンセイフガクを見ただけで怯えて同じレースを走る事を恐れるようになる馬が出ていた。
しかしあのシリウスシンボリはどうだ。何度負けてもバンセイフガクに追い縋り、決して折れていない。それどころか、ますます敵愾心をむき出しにして挑み、強くなっていくではないか。
又則はふと、自分がかつて手掛けたとある競走馬とシリウスシンボリを重ねて見てしまい、慌てて顔を振って話を戻した。
「あの馬の気性と調教が上手くかみ合えば、十分化ける余地はあったんだ。それがとんでもない花を咲かせちまったようだな」
「……以前調教の様子を見た事ありますけど、まるで物の怪が憑りついたように取り組んでいました」
調教助手の槇村がその時の様子を思い出して怖いものを見た様に顔をこわばらせた。
シリウスシンボリは舞田厩舎と同じ美浦のトレセン内の厩舎で管理されている馬なので、その走りを見る機会はいつでもあった。
その調教の光景を見る者は誰もが絶句し、青ざめ圧倒される。並の競走馬の数倍、下手したら10倍にも値する狂気の調教量、普通なら間違いなく潰れてもおかしくない調教量だった。
しかしシリウスシンボリはその鬼という表現も生温く感じる、まさに地獄的なまでに過酷な調教を嫌がりも恐れも、なにより潰れずに黙々とこなしているのだ。
体は大丈夫なのかとそれとなく観察してみても、不思議と故障した様子は無い。まるで、鍛えた分だけその身体が強靭さを増している様なフシすらある。
そんなシリウスシンボリへ調教を課す厩舎の人間達も、ある意味異様だった。
鞍上の調教助手や騎手、厩務員達のシリウスシンボリへの対応は、まるで張り詰めた糸がいつ切れてしまわないか、或はいつ爆発するか分からない爆弾を取り扱ような慎重さがあった。
間違いなくシリウスシンボリの厩舎陣営はシリウスの状況が分かったうえであの無茶な調教をしている。
その結果が最近のレースのタイムだ。いずれも重賞をレコードタイムで勝ち抜くほどまでにシリウスシンボリは仕上がったのだ。
まるで進化の如き成長度合いは驚異的だ。他の世代であれば紛う事なき頂点に君臨できる力だろう。だが、シリウスシンボリの時代にはバンセイフガクがいる。
「あちらがどれだけ強くなろうが、俺達のフガクはその先を行く。……皆、クラシック三冠、まずは皐月賞を獲りに行くぞ」
同じ美浦トレーニングセンターの柳原厩舎。
シリウスシンボリを管理している此方の厩舎では、緊迫した様子でシリウスシンボリを手掛けて来た面々が一同に会していた。
「テキ、とうとう来てしまいましたね、皐月賞」
「これだけ出走させるのが怖く感じる皐月賞なんて生まれて初めてだ」
柳原厩舎の調教師、柳原仁平は深々と溜息をつきながらテーブルに置かれた出馬表を睨みつけた。
より正確に言えば、その出馬表に表記された一頭の馬をだ。
「バンセイフガク、あの化け物と戦う為にシリウスは強くなった。……恐ろしいくらいにな」
もはや同年代ではバンセイフガクを除けばシリウスシンボリの脅威となる馬はいない。そう断言できるほどに、シリウスシンボリは強くなった。調教を施した柳原が身震いするくらいに。
朝日杯3歳ステークスの後、シリウスシンボリのこなしてきた調教メニューの量は今までよりも更に増加し、もはや従来の競走馬では考えられない様な量となっていた。そのあまりの過酷さに、美浦トレセン内で虐待疑惑のうわさが一時広まってしまうほどだった。
柳原厩舎の人間達だって理解しているのだ。こんな事、普通の馬にやらせたら潰れて死んでしまうと。
だが、それを望んだのが何よりシリウスシンボリ自身だった。
朝日杯3歳ステークス後のシリウスシンボリはいつもバンセイフガクに敗れた時のように荒れず、逆に人間達が近付く事を恐れ躊躇ってしまう程に顔から表情が抜け落ちていた。あまりの物静かさがその時は非常に不気味だった。
しかし、それは嵐の前の静けさだったのだろう。シリウスシンボリが溜めに溜めた鬱憤は、後日の調教にて炸裂する。
いつもの習慣となっているハードメニューをこなして切り上げようとした時、シリウスシンボリは乗せている人間を振り落して暴れ回る程手が付けられなくなるくらい暴れ回った。
一体何が原因なのかと皆で考えた結果、これまでの傾向的にまさか調教量が足りないと訴えているのか? と思い至る。
かくしてその予想は的中した。いつもより更にメニューを増やして調教を試みた所、シリウスシンボリは嘘のように大人しく調教を受けていた。それを見た柳原は馬主と相談の上、シリウスシンボリを更に鍛え上げる事を決断した。
壊れる直前の限界点を細心の注意を払って慎重に見極め、少しずつ、少しずつそれに合わて絶妙なバランスを保ちながらシリウスシンボリだけの調教メニューを作り上げて行ったのだ。
そうして繰り返し続けてきた結果、今のシリウスシンボリが出来上がる。
1985年の4歳馬になってからの強さは劇的だった。クラシックでぶつかる事が確実であろうバンセイフガクと敢えてかち合わない重賞の京成杯、きさらぎ賞、若葉賞を走らせればその強さは他の出走した馬達とは別次元の強さを見せつけた。
これならあの化物に勝てるかもしれない。そう柳原達が希望を見出すほどにシリウスシンボリは極上の仕上がりを見せたのだ。
今のシリウスシンボリならば、例え同じシンボリで無敗三冠から更に記録を更新しているあの「皇帝」であろうと越えられる。そう胸を張って言える柳原厩舎が手掛けた最高傑作なのだ。
何故ここまでやれるのか。従来常識とされてきた馬のポテンシャルではありえない成長具合は、シリウスシンボリの勝ちたいと言う渇望とそこから生じる精神力が可能とさせた。そうとしか言いようがない。
「城戸、シリウスの手綱は頼むぞ。バンセイフガクを見たら掛かりかねん」
「分かってますよテキ。俺だって、今度こそシリウスを勝たせてやりたいですからね」
シリウスシンボリの主戦騎手、城戸 公一(きど きみかず)が力強く頷いてみせる。
城戸は去年、シリウスシンボリが3歳馬の時にバンセイフガクと三度に渡って競って悉く敗北し、その強さに圧倒されてしまった悔しい思い出が今も強く脳裏に刻まれている。
今年のシリウスシンボリは去年とは違う、そして自分もまたレースで腕を磨いて来た。今度こそ雪辱を果たすために。
柳沢厩舎一同が胸に抱くのはただ一つ。打倒、バンセイフガク。
人間達が気を引き締めている時、一方バンセイフガクは馬房内で隣のミスターシービーと話をしていた。
『なあフガク、いよいよ皐月賞が直前らしいが、ブルっちゃいないだろうな?』
『やる事は変わらん。全てを引き千切って勝利するだけよ』
『お前はからかい……じゃなかった、励まし甲斐の無い奴だねまったく』
何か言おうとしていた様だが、バンセイフガクが馬房内で黒い巨体を寝っ転がらせて寛いでいる気配を察してつまらなさそうに鼻を鳴らしていた。
『そう言うあんたはどうなんだ』
『え? 何が?』
『脚に決まっとるだろうが』
ミスターシービーは3月初頭に放牧から戻ってから蹄に負担がかからないように調教を行い、3月末に行われた大阪杯で3着に納まった。
更にバンセイフガクは人間達の会話を盗み聞きして、ミスターシービーの脚の状態があまり芳しくない事を知る。
あと3回くらいならレースで走れるだろう、だからそれを踏まえてローテーションを組もうと、そしてそれを目途に引退させよう。そう馬主と厩舎側で相談して決まった。
ミスターシービーにその事は知らされていない。知るわけがないのだ。人間の言葉を、本来馬は正確に理解する事など稀なのだから。
しかし、自分の体だからこそ直感的に理解しているのだろう。もう自分は、競走馬としては長くないのだろうと。
ミスターシービーはバンセイフガクの問いに答えるのに、長い沈黙が続いた。
『……あんまし沢山はレースに出れないかもな。俺の脚だ、何となく分かる。多分、数回走って俺は引退だろうよ。だからせめて奴ともう一度走りたかったが……』
ミスターシービーが固執する奴と言う馬は一頭しかいない。バンセイフガクは今最も新しい三冠馬を思い返した。
『シンボリルドルフ、か』
人間達の噂を聞けば、クラシック三冠に加えてジャパンカップ、有馬記念の計五冠、更には現在まで無敗を維持して勝ち続ける現行最強の競走馬と言われている。無敗六冠を記録したミスターシービーを下したのだ、当代最強と言われても誰も文句は言うまい。
『ああそうだ。あの野郎ともう一度同じレースで走らなきゃ気が済まねえ。今度こそ、この俺の最高の走りで千切り捨ててやる』
ミスターシービーにも意地がある。その時代の頂点に立った競走馬としての誇りと意地が。負けっぱなしでいる事を許容出来ないのだ。
バンセイフガクは決して口にする事はないが、ミスターシービーにそんな感情を持たれたシンボリルドルフの事を、羨ましいと思ってしまった。
そんな感情を抱いてしまった自分は、かつては人間ではあったけれども、今はもう競走馬なのだな、とミスターシービーに悟られないようにバンセイフガクは口元を皮肉気に歪める。
『ミスターシービー』
『あん?』
『気つけ代わりにまずは皐月の冠を獲って来てやる』
『……』
一瞬時が止まったようにミスターシービーの気配が動かなくなった。馬房は完全に壁で仕切られているので様子は見えないが、気配でバンセイフガクは何となく察した。
なんと返せばいいのか困惑していたらしいミスターシービーだが、最後は笑って返して見せた。
『…………はっ、なら先輩の格好良い所を見せてやらねえとな』
『まぁ、俺は馬だからレースなんて見れないがな』
『出鼻をくじくような言い方止めてくんねえかなあ!?』
とりあえず大丈夫らしい、と感じたバンセイフガクは寛いだ態勢から完全に寝る態勢へと移行し、そのまま目を閉じて眠りについた。
『もうちょっとよぉ、引退を間近に控えた先輩を立てようって気配りしてくれたっていいんじゃねえか? ……おい聞いてんのかフガク……フガク? …………まさか寝やがったのか!? 信じられねえこの馬鹿言うだけ言って寝やがったッ!!』
隣でミスターシービーが騒いでいるが、バンセイフガクは既に夢の中へ意識を飛ばしていったのである。
1985年、後に競馬を語る人々はこの年のクラシックを「日本競馬の転換期」「伝説と神話の始まり」「日本競馬の世紀末」と様々な呼び方で語り継がれる事となる。
日本競馬の栄光が生み出した、勝利への執念が形となった魔物。
日本競馬の優駿の血統を一身に集めて生まれたかのような奇跡の生物。
サラブレッドの遺伝子に神の悪戯が働いたとしか言いようがない真性の怪物、或は鬼子。
黒い霊峰バンセイフガク。あらゆるホースマン達の常識を、ひいては生物学をも覆してレコードを刻み続けて走るその姿に、人は人知の及ばぬ神を見た。
その怪物に何度も食らいつく馬がいる。
3歳馬でかの馬と相対した結果は3戦全敗、されどもその強さは件の馬以外には影すら踏ませない。
クラシックで相対するその時まで牙を研ぎ澄ませ続けて来た勝利を渇望するターフの餓狼。4歳馬になってからは負けなしのレースレコードを叩きだし続けたシンボル牧場の新星。
シリウスシンボリ。狙うはただ一頭、バンセイフガク。
4月14日、クラシックシーズンの幕開けとなる最初の舞台である中山競馬場は10万を超える来場者達でひしめき合っていた。
最も早い馬が勝つクラシック三冠最初のレース、皐月賞。
昨年の優勝馬はシンボリルドルフ、その一昨年はミスターシービー。いずれも無敗で三冠を勝ち取り、更なる無敗の冠を勝ち取って見せている。
そして今回出走する二頭の馬に、観客達は新たなる三冠馬誕生の可能性を期待していた。
今年のクラシックは何かが違う。何かとんでもない事が起こるかもしれない。そんな予感をさせる馬が、皐月賞を走るのだ。
《晴れた春の日差しを受けて、クラシックに挑むのはこの22頭。皐月賞のパドック、馬体重の増減です》
パドックに現れたのは、年間約7000先頭の競走馬達の中から幾つものレースを勝ち抜いて出走権を手に入れた者達。
馬番の順通りに入場していくと、本命の片割れが姿を現した。
《11番、シリウスシンボリ。4歳馬となってからは無敗の3連勝を続けております。今日は538kg、増減プラス2kg》
入場したシリウスシンボリの姿を見て観客達は感嘆の声を上げた。
他の馬よりやや大きめの馬体は、その身を覆う筋肉の発達具合が他の馬達の比ではない。
首から肩、背中、胴体、トモ、脚、皮の下から盛り上がった筋肉は一つ一つが盛り上がり、デビュー当時のシリウスシンボリの姿を知る者は、「これがあのシリウスシンボリなのか……?」と戦慄した。
続いて12番の競走馬の紹介が入り、その後にやって来た馬の姿に観客達から歓声が上がる。
《13番、バンセイフガク。7戦7勝、バンセイフジとシンザンの仔。本日は……せ、1089kg、増減ゼロ》
パドックにその馬が正装した厩務員に引かれて姿を現すと、観衆達から歓声が上がった。
現れたその姿は他の競走馬より一回りも二回り以上も大きく、その馬体は晴れた空に昇る太陽を浴びても艶光を起こすどころか日の光を吸い込む程に黒く、白目の目立つ眼だけが鋭く眼光を放っている。
異様に発達した筋肉で覆われた巨体でパドック内へと足を踏み入れば既に入った競走馬達が一斉にバンセイフガクを見た。
ある馬は敵意を、ある馬は恐れを噛み殺しながら、様々な感情の籠った眼差しを向ける中で、一際人間達から見ても分かる程の感情を込めて睨む馬が一頭。
耳を後ろへ引き絞りながら歩く鹿毛の馬はシリウスシンボリ。
眼前の相手の存在そのものが許せないと、激情が濃縮された血走った眼が訴えている。
厩務員が宥めようと首を撫でるも効果はあまり期待できないらしく、暴れないのならそれ以上は望むまいと溜息をついてそのまま歩かせている。
そんなシリウスシンボリからの視線に既に気付いているバンセイフガクは、どこ吹く風と一人マイペースにパドック内を回っていた。
《お待たせいたしました、第10レース第45回の皐月賞の本馬場入場です。芝の2000m、三冠へ向かいますまずは第一関門“最も速い馬が勝つ”このレース、出走するのは1番ミドリノタイフーン、2番ラビットテスト、3番ブラッキーボード、4番ニューフィリップ、5番サクラアサヒテン……》
中山競馬場の本馬場へ出走馬達が観客達の大歓声に迎えられながら入場する。
天気にこそ恵まれはしたが、馬場の状況は乾ききらない稍重。湿り気を含んだ芝を踏みしめて馬達が芝へ入る。
《4歳馬になってからは3戦3勝全レコード記録、3歳馬時の宿敵を越えられるか。5枠11番、シリウスシンボリ。鞍上は城戸公一騎手。単勝オッズは2.7倍の2番人気》
《出ました本命、お出ましです。デビュー戦から無敗、全レースのレコード更新を続ける日本競馬史上最大最重量にして最速。5枠13番、黒い霊峰バンセイフガク。鞍上は舞田恵護騎手 単勝オッズは1.3倍、1番人気であります》
2頭の登場に観客席が一気に沸いた。
ある客は「皇帝」に続く同じシンボリの名を持つ馬のクラシック制覇を。
ある客は親子による無敗三冠、そしてその先を。
様々な願いと夢を2頭に見た人々の熱が中山競馬場を包み込みながら、続々と各馬達が入場し、返し馬に入っていく。
その最中バンセイフガクの背後から濃密なプレッシャーが襲ってきた。
それに鞍上の恵護も感じたらしく、思わず背後を見て出所を知る。
「シリウスシンボリか、朝日杯から見違えたな……」
(あんのチンピラまだやっとるのか)
バンセイフガク達からやや離れた後方をシリウスシンボリが凄まじい形相で睨みつけているのを知って、いい加減バンセイフガクは辟易してきた。
シリウスシンボリの心情は大体察する事が出来る。大方、育成牧場からこれまでのレースでコケにされ続けてプライドが酷く傷ついているのだろう。
だが、そんな事知ったこっちゃないバンセイフガクにとっては、いちいちガン垂れてくるシリウスシンボリはただただ鬱陶しいチンピラだった。
こちらが大人しくしていればつけ上がりやがって……そんなに構ってほしいのなら相手をしてやる、と輪乗りが終わった所でバンセイフガクはシリウスシンボリへ近づいた。
「お、おいフガク止せって、そっちはシリウスシンボリがいるんだぞ」
『悪いが恵護よ、俺の忍耐にも限度というものがあるのだ』
恵護が手綱で止めようとするが、今回ばかりは我慢の限界にきたバンセイフガクはそれを無視した。
シリウスシンボリは今まで無視をされ続けて来たのとは全く違う反応をされて一瞬驚くが、すぐにまたバンセイフガクを睨み始めた。
『おいチンピラ』
『な!? ち、チンピラだとぉ!?』
出し抜けにチンピラ呼ばわりされたシリウスシンボリは呆気にとられ、すぐに怒り顔を浮かべるがバンセイフガクはそれを鼻を鳴らして切って捨てる。
『会うたびに睨みつけおって、クラシックレースに出れる力量はあるようだが……』
バンセイフガクは顔を近づけ、瞳孔の小さい四白眼の眼でシリウスシンボリを睨みつけた。
『お前は俺に勝てん、このバンセイフガクの尻を特等席で拝みながらゴールする権利をくれてやる』
言われたシリウスシンボリは一瞬呆けたように目を見開いたが、次の瞬間には顔面と眼球に血管が浮き上がり激昂寸前にまで至るが、直前で踏みとどまったらしく怒りに震える声で挑発に答えた。
『のぼせ上がるのも大概にしろよ……てめえこそ負けた時の言い訳でも考えてろ』
二頭が剣呑な様子で険しい表情を浮かべながら睨み合っているのを鞍上の騎手や周りのスタッフ達が慌てて宥めながら離したのだが、しかしその頃にはもう話す事も無いと言わんばかりに二頭は向きを変えて自分のゲート枠へとまるで分かっているかのようにさっさと入っていき、それを見た人間達は狐につままれたような顔をしていた。
発走委員が赤い旗を振り、中山競馬場の本馬場にファンファーレが鳴り始めた。
発走時間が迫り、本格的にゲート入りが始まったのだ。
《今年は何かが違うと予感させる第45回皐月賞、皐月賞の栄冠を手にするのはどの馬になるのか――》
ゲートインが完了すると、程なくしてゲートが開かれた。
《――皐月賞、スタートしました! 全頭綺麗にスタートを切りましたが、この二頭だけ飛び出す勢いが違います!》
一斉に駆け出す馬達を抜いてロケットスタートを決めたのはバンセイフガクとシリウスシンボリ。
馬群を抜けて先頭を走る二頭だが、途中から様相が変わった。
《シリウスシンボリ、バンセイフガクの背後にぴったりくっついて追走します。凄いマークです!》
スタート直後の坂道でも減速せずにシリウスシンボリが、バンセイフガクの後ろに貼り付きそうな近距離を維持して走っているのだ。
第1、第2コーナーを回り、向正面の坂道を駆け下りながら8のハロン棒が見えた時点でも、シリウスシンボリはバンセイフガクの背後を取り続けていた。
『ぬ……!』
「まさか、フガクの脚に付いてきている!?」
これに驚いたのはバンセイフガクと鞍上の恵護。
4歳馬から驚嘆に値するほど強くなっているとは聞いていたが、ここまで接近を許したのは生まれて初めての経験だったバンセイフガクは、四白眼の眼を見開いた。
《シリウスシンボリ、バンセイフガクの背後をとったまま第3コーナーにまで入りました。恐るべきは二頭から後続の馬の差が凄まじい事になっている事でしょう》
ターフの先頭は既にバンセイフガクとシリウスシンボリだけがぽつんと走る独壇場と化して、レースを中継しているテレビ局のカメラでも二頭しか映らない。
それだけのハイペースで第3コーナーを抜けても未だスタミナが切れる様子の無いシリウスシンボリ、しかもバンセイフガクは新走法を編み出して重馬場のコースを更に早く走れるようになったと言うのにそれに追い縋れているのだ。この調子で行けばゴールまで足を十分残して走り切れるだろう。
背後で今も仕掛ける時を狙ってマークし続けるシリウスシンボリの力量を推し量った鞍上の恵護が、ある決断の為にフガクへ語り掛けた。
「フガク、全力で勝ちに行くぞ。今日は“使う”」
『往くか、恵護』
第4コーナーを回ったその地点、背後のシリウスシンボリが勝負に出た時、バンセイフガク達もまた勝負に出る。
左手でガッチリと手綱を掴んだ恵護が自身を固定するように、右手に持っていた鞭をバンセイフガクの脚へいきおいよく振り下ろしたのだ。
バシンと鞭打つ音をスイッチに、バンセイフガクの脚が更に加速する。
《最終ストレート、真っ向勝負のここで舞田恵護が鞭を入れます! 今まで入れた事の無かった鞭を、クラシック皐月賞ラストの直線勝負でとうとう振るいました!》
そう、恵護はバンセイフガクとのレースで、今まで鞭を入れた事が無かった。全て手綱さばきとフガクへの声掛けで速度調整を行ってきたのだ。
だが、この皐月賞は今までのレースとは違う。バンセイフガクを脅かし得る存在が、とうとう現れたのだ。
鞭の入ったバンセイフガクの走るフォームが変わる。それまではピッチ走法並の歩幅と脚の回転で稍重の芝を駆けて来たが、ラスト直線に入った事で歩幅を大きく広げ、本来の超ロングストライド走法へと切り替わる。
『舐めんじゃねえ! 前とは違うんだよぉッ!!』
更に加速が入ったバンセイフガクへ、背後からシリウスシンボリが強襲する。
《シリウスシンボリもラストスパート! バンセイフガクへジリジリ近づく! 行けるのか!? 残り200、間に合うのか!?》
二頭の眼前を阻んでいた約2.2mの急坂をものともせずに駆け上がり、バンセイフガクとシリウスシンボリの差は1馬身にまで縮められていた。
『あともう少し、あと少しなんだ……ッ!』
城戸の鞭でスパートが掛かったシリウスシンボリは、確実にバンセイフガクを捉えていた。
そして、シリウスシンボリの執念がついに彼我の差を1馬身以内にまで縮める。
10馬身近くまで引き離された芙蓉特別で。
勝利を確信していた最後に抜き去られて7馬身近くの差を付けられた府中3歳ステークスで。
4馬身から差を縮められなかった朝日杯で。
重ねた敗北と共に膨れ上がる悔しさを燃料に、流した汗と跳ねた土に顔を汚しながら肉体を鍛え上げ、ただただ己の肉体をあの馬を越えるためだけに作り上げる日々。
それが今、間近にまで届きかけている。
「行け、シリウス!」
『勝つのはこの俺だぁぁぁーーー!!』
シリウスシンボリとバンセイフガクの差が半馬身にまで迫ろうとした。
シュオオオオオォォォォ……
そんな最中、謎の吸引音がシリウスシンボリの耳に入る。
これが空気が何かに吸い込まれる音だとすぐに気付いた。
ほんのわずかな時間だった。1秒行くかいかないかの短い瞬間。
シリウスシンボリはその音の出所を馬の聴力ゆえに気付いた。それは、自分の斜め前方を走る黒い馬から聞こえた音なのだ。
次の瞬間、黒い馬の、バンセイフガクが更に加速してシリウスシンボリとの差が再び広がった。
『な、あ……ッ!?』
驚き、眼を見開くシリウスシンボリと城戸はそのままゴール板を越えた。しかし。
《ご、ゴールイン! バンセイフガクゴール直前で加速し、シリウスシンボリを引き離して1着ぅッ!!》
全身から夥しい汗を流し、息を荒げながら脚を止めて呆然とする馬と鞍上。
バンセイフガクはシリウスシンボリ達よりも先の方で脚を止めると電光掲示板を見上げていた。
それにつられて騎手の城戸がよろよろと見上げる。
《無敗でクラシック一冠達成バンセイフガク! そのタイムは1分55秒ぴったりのレコードタイム!! 皐月の花が富士の山に咲き申したぁーッ!!》
「ブシュウウウゥゥゥッ!」
「はぁ、はぁ……あ、危なかった。あのままフガクが加速してくれなかったら……フガク、大丈夫か?」
「グフオォォォァァ……」
騎乗の疲労と冷や汗で顔を濡らす恵護がバンセイフガクへ語り掛ければ、若干息を荒くしながらも元気そうだったので安堵している。
バンセイフガクはラスト100m位の地点で、以前府中3歳ステークスの際にやってみせたように息を入れ、脚を溜めて解放したのだ。府中3歳の時とは違ってゴール直前で行ったので、あそこまで爆発的な加速は起きなかったが、おかげでシリウスシンボリを突き放す事が出来た。
「やったぞフガク。俺達、クラシックを獲ったんだ……皐月賞、俺達が……」
少し落ち着いてから恵護はこのレースで勝利した事を強く噛み締める。
騎手人生で初めて八大競走、それもクラシック競走での勝利。それも、21歳という稀に見る若さで。
鞍上で感極まっている恵護の様子を見ていたバンセイフガクだったが、方向転換してのしのしと目的の場所へ歩いて行く。
進んだ先には、未だに呆けた様子のシリウスシンボリがいた。
バンセイフガクの接近に気付くとハッとして睨みつけてくるが、怒り以外にも様々な感情が入り混じって表情がぐちゃぐちゃに歪んでいた。鞍上の城戸もバンセイフガクに乗る恵護と眼が合い、複雑な表情を浮かべている。恵護も何と反応すればいいのか分からず、気まずくなっていた。
バンセイフガクは険しい表情でシリウスシンボリを睨み返しながら鼻を鳴らした。
『……一応は競走馬のツラか』
『な、に……?』
バンセイフガクはシリウスシンボリに言うだけ言うと、身をひるがえして検量室へと向かって行った。
(生まれて初めて本気で競った相手が、まさかあのチンピラになるとはな)
今までのバンセイフガクは、普通に走るだけで他の競走馬達を後方へと置き去りにできる。そうやって勝ってきた。自分の体のポテンシャルが他の馬とは隔絶している事を自覚している。
しかし今回の皐月賞では、精々が並み居る馬の一頭程度の認識でしかないなかった馬が、自分の影を踏み越えて肉薄してきた事に密かに驚いた。
(奴と次にぶつかるのはダービーか)
あれほどの強さならば日本ダービーにも出走してくるだろう。だがその前に、バンセイフガクは自身を更に研ぎ澄ませる必要性を感じた。
今までの要領でやっていれば足元をすくわれる。より確実に勝利するために、バンセイフガクもまた覚悟を決める。
頭の中で四隅に追いやっていたシリウスシンボリの位置が変わる。
自分に突っかかる気に入らない馬が、自分が粉砕しなければならない競走馬になったのだ。
(上等だチンピラ、クラシック三冠の勝者は一頭だけだと言う事をお前にはっきりと思い知らせてくれるわ)
バンセイフガクは大歓声の中を険しい表情を浮かべながら、次のクラシックレースへ静かに燃えていた。
書き溜めていたストックがとうとう尽きました。
思いのほか評価をいただきましたので、折を見て続きを書いてみようと思います。