いざ、神の山がまかり通る 作:ニンジンデース
支援絵は執筆活動の燃料と誰かが仰っていましたが、それを身をもって理解しました。
感想欄で送っていただいたねむりぬこ様にはこの場を借りて改めてお礼申し上げます。
あの後バンセイフガク達が検量室へ向かうと、舞田厩舎陣営の人達がいつも以上にニコニコ笑顔で出迎えた。
舞田厩舎が手塩にかけて育てて誕生した無敗七冠馬の初仔の記念すべきクラシック三冠皐月賞制覇だ。色々と思い出深かった馬の仔故に喜びもひとしおだったのだろう。
調教師の又則と馬主の万世とその息子もやって来て、珍しい事に又則が万世と共に満面の笑みを浮かべていたバンセイフガクと恵護を祝福してくれた。
バンセイフガクが会話を聞いてみるに、あの普段は物静で朴訥な又則がバンセイフガクが1着になった瞬間人の目をはばかることなく唸りながらガッツポーズをしたと言うのだからその喜びは相当なものだったといえる。
恐らく、バンセイフガク以外にも自分の息子がクラシック三冠の一冠目を手にした事が要因だろう。又則はかつて騎手だった頃は目立った活躍が出来ずに調教師へと転向したらしいので、息子が活躍してくれたことが親としてとても嬉しかったようだ。
口取り式は流石クラシックレースなだけあって、集まった観客や記者の人数は朝日杯3歳ステークスこれまで走って来た重賞レースと比べても目に見えて多かった。
肩にかけられた優勝レイに書かれたのは【優勝 第45回 皐月賞 1985年】。今ここに、バンセイフガクは確かに最初に一冠目を手に入れる事が証明されたのだ。
それからつつがなく美浦トレセンの舞田厩舎へ帰ったバンセイフガクが最初に声をかけるべき馬がいた。
溝峰に手綱を引かれながら戻った馬房の隣にいる黒鹿毛の馬へ向かって結果を告げておく。
『皐月賞、獲ってきたぞ』
『ああ、トレセンの馬達の間でお前の話が持ちきりだからな、こっちの耳にも入っている。まずは一冠目って所か。結構結構』
ミスターシービーはバンセイフガクからの報告を受けると愉快気に笑っていた。
馬達は独自のネットワークでこの競馬と言う存在を知っている。レース名や専門知識や用語はそこからきているという。
人の言葉がある程度理解出来る知能を持った一部の馬達が広めたものなのか、もうそれを知る者は誰もいない。気が付いたら皆がそういう知識を持ち、それらを使う様になっていったのだ。
『だがクラシック三冠は始まったばかりだ。更に次は日本ダービー、皐月の時とはわけが違うぜ? 気張って行けよ』
『あんたこそ肝心のレースでしくじるなよ』
『んなもん分かってら』
ミスターシービー苦笑しながらも返す言葉はどこか鋭かった。
ミスターシービーが知る由もない事だが、ミスターシービーの最後のローテーションは、重賞をあと3つ走った後、秋の天皇賞を最後のレースに引退するというスケジュールで進んでいる。というのをバンセイフガクは聞いている。
現在の戦績は3月末の大阪杯で3着。次のレースは7月の七夕賞、更に次は10月の毎日王冠、秋の天皇賞のトライアルレースであるそこで2位以内に入れば出走可能となるのだ。
『なぁフガク』
『なんだ』
『俺は、もう期待されてないのかね』
『……何だと?』
沈んだ声にバンセイフガクが眉間にしわを寄せながら聞き返した。
『3着なのに人間達はさほどがっかりしたようには見えなかった。あれは、俺はもう終わった馬だって事なのかと思っちまうと、な』
ミスターシービーは自分がもう期待されていない競走馬なのだと思っているようだ。それを聞いたバンセイフガクは鼻息を深々と吹かせる。
人間達の会話を盗み聞きしたバンセイフガクは人間達の思惑を知っていた。大阪杯は復帰後の手ごたえ確認、その後の秋の天皇賞まで控えた二つのレースも慣らしと調整の意味合いが強かったようで、初戦の大阪杯3位入着は想定内だと言っていた。無敗記録が破れたからこそ踏み切れた敗北も想定とした戦略だった。
最終目標は秋の天皇賞優勝。このレースの距離は2000m、ミスターシービーが最も得意とする距離である事から選ばれた。ここで勝つために人間達は布石を打っているらしい。
そのローテーションを組む上で人間達が警戒しているのは、ミスターシービーを負かした今期の三冠馬、皇帝と呼ばれるほどの強さを誇るシンボリルドルフが秋の天皇賞に出走する事だ。
シンボリルドルフを抱える陣営もバンセイフガクの母バンセイフジが打ち立てた無敗7冠越えをめざしているので、まず間違いなく出走すると思われる。
ポテンシャルで言えば双方共に優劣を決めるのが極めて難しい位に拮抗していると言うのは舞田厩舎の調教師舞田又則の見解だ。前回の有馬記念でミスターシービーが負けたのは、ミスターシービーの蹄への負担に加えて双方の距離適性の相性が決め手だったと言われている。
しかし2000mまでであればミスターシービーが有利と目されている。だからこそ必勝を期したローテーションなのだが、相手は無敗五冠まで記録を更新しているシンボリルドルフ、侮る事など出来よう筈もない相手なのだ。
人間達のやり取りを思い返したバンセイフガクは、言うべきか、言わざるべきか悩んだ末、隣の馬房で沈んでいるミスターシービーに声をかけた。
『人間達はあんたの事を見限ってはおらん。秋の天皇賞に出るまでの間にあと二つレースを入れて、そこで調整させてあんたを天皇賞で勝たせるらしいぞ』
『なんだって…………いや待て、なんでお前はそんな事を知っているんだ?』
希望を見出したようなミスターシービーがすぐに不思議そうに訊いて来る様子を、バンセイフガクはまぁ当然の反応だろうな、と一人納得。
まぁ、この馬に知られた所で別に構やしないか。バンセイフガクはこの暗くなった無敗六冠馬の先輩に自分が隠している事を一つ打ち明ける。
『俺は人間の言葉を理解できる。だから人間達があんたの事で話していたのを偶然耳にした』
『え! お前人間の言葉理解できるのか!? すげえな!?』
(……あっさり信じよったぞこの馬)
思わずミスターシービーのいる馬房と隔てる壁を絶句した表情で見るバンセイフガク。
これがもし人間だった頃に「馬の言葉が理解できる」と言えば、疲れているのか失恋でもしたか、はたまたこの厳しい競争社会に耐えきれず頭が壊れたのかと思われるのだが、馬の世界ではそうでもないのだろうか。
『……自分でこう言うのも何だがな、あんたは信じるのか?』
『いや、お前今本気で言ってただろ? こんな時にお前は嘘言うとも思えない、そうだろ?』
どうやら知らない間に信頼を得ていたらしい。
バンセイフガクは苦虫を10匹ほど噛み潰した表情を浮かべて今にも舌打ちをしたい気持ちになった。
『……とにかく、あんたが秋の天皇賞に勝つまでのレースは、天皇賞直前の毎日王冠以外は全部あんたの病み上がりの脚を調整する為のレースだから想定内だと人間達は言っている』
『…………そうか、俺はまだ期待されているんだな。……そうか』
『付け加えれば、天皇賞ならシンボリルドルフが出る可能性も高い』
酷く安堵したような様子だったミスターシービーにバンセイフガクが補足を入れると、ミスターシービーの気配が馬房の壁越しでも変わるのが分かった。
『それ早く言えよ! そうかそうか、あの優等生野郎に再戦できるお膳立がされてるってのなら話は早い、天皇賞までに万全な脚になるようにやってやろうじゃねえか』
ふんふんと鼻息荒くミスターシービーのテンションが一気に上がり出したので、どうやら気を取り直したらしい。
全く世話が焼ける、と思ったバンセイフガクだが、それも今年中で終わるのかと思えば何だか妙な寂寥感を感じてしまう。
随分とこの馬に情が湧いたな、と昔を思えば信じられない様な心境の変化だった。恐らく、この馬なら引退した後も種牡馬として子孫を沢山拵えた後は功労馬としての安全な余生が待っているだろうから、気楽に話せるのかもしれない。
ナーバスになっている先輩の問題が済めば、今度は自分の事だ。
(あのチンピラ、競りあうたびに強くなっているようだな)
厩舎の人間達の話によれば、デビューした時から徐々に力を付けていったらしいが、今年に入ってからは更にその成長ぶりが加速して、バンセイフガクと同じレースを走るまでは今年は無敗でレコード勝ちもして来たと言う。
敢えて視界から外している間に随分と成長したようだ。散々大口を叩いた馬が、レースで自分の影を踏む領域にまで到達したのは認めねばなるまい。
皐月賞の時の力量差を鑑みれば、このまま日本ダービーで競り合っても勝ちは固いと、判断したい所だが、この一か月間の間に成長しないとも限らない。
その為にもトレーニングに加えて新走法を完璧なものに仕上げたい。今のピッチ走法でも問題なくレースで勝ちに行けるようになったが、バンセイフガクが最大スピードを発揮出来るのはやはりあの超ロングストライド走法なのだ。
ここ最近は梅雨入りしはじめて天気が不安定なので、頻繁に雨が降っては馬場が悪くなるレースが散見される。そうなると新走法が役に立つが、最後の直線で最大速度を出せる走りに切り替えられれば理想的だ。
ダービーまでに新走法を完成させる。という目標が出来たバンセイフガクは、ミスターシービーを宥めながら休みであろう明日以降の調教へ燃えていく。
その後、厩舎の人間達はミスターシービーが機嫌良さそうにしている事を不思議に思ったが、レースで負けた事を引き摺ってモチベーションが落ちているよりは余程いいと前向きに解釈する事にしたらしい。
『なぁなぁ、さっきの厩務員俺の事なんか言ってなかったか?』
『知るか、何回俺に訳させる気だ』
『えー、良いじゃんかよー、お前しか人間の言葉ちゃんと理解できないんだからよー、無敗の六冠馬の先輩の頼みくらい聞いてくれたっていいじゃんよー』
ついでに、バンセイフガクはミスターシービーから自分の事について人間が何か話していないか翻訳をちょくちょく頼まれるようになり、非常に面倒くさそうな顔をしていたそうな。
なんの憂いも無く日本ダービーへ向けて調教に励むバンセイフガク、といきたい所だったが、ここで少し問題が発生する。
前々から少し懸念されていた事なのだが、今年に入ってからそれが顕著になってきたので、舞田厩舎陣営一同も見過ごせない問題だと認識しはじめた。
「また駄目になったのか」
「前に装蹄してから10日くらいは経ったんですがね……」
厩舎の外には又則、溝峰の他に馬の蹄に蹄鉄を取り付ける専門の技術者である装蹄師の三人、そして当馬であるバンセイフガクもいる。
人間達が深刻な表情で見る先にはバンセイフガクの上げた片前脚の蹄、そこには真っ二つに割れた蹄鉄がくっついていた。
いよいよ対策を立てなければならないと浮上したバンセイフガクの問題、それは装蹄した蹄鉄の消耗頻度であった。
バンセイフガクが装蹄している蹄鉄はばんえい馬も付けている鉄製の大型の蹄鉄である。
しかし最近は1tを越えた超重量の馬体と並の競走馬を上回る筋力から繰り出される走りに蹄鉄の方が耐え切れなくなるようで、時折その蹄鉄が砕けるという事態が起こる様になってきたのだ。今回もそんな事態の一つである。
片脚を上げているバンセイフガクから割れた蹄鉄を取り外して、蹄の状況を見ている装蹄師へ又則が訊ねる。
「フガクの蹄の方はどうでしょう?」
「蹄も脚も異常は見られません、大丈夫です」
装蹄師の見立てを聞いてとりあえずは安堵する又則と溝峰。
バンセイフガクはその蹄もまた頑丈なため、装蹄師が削るのに難儀し他の競走馬の時以上に作業時間を要する程だ。その頑強な蹄質のおかげで心配する事無く釘が打てると装蹄師は言う。
しかし、それで問題が解決したわけではない。
「やはりもっと頑丈な蹄鉄を用意してやらなければならないですかね」
「……で、しょうねぇ。脚力に蹄鉄が耐えらずに砕けるなんていうケースも無いわけじゃないですが、ここまではっきりとわかりやすく割れるのは初めてですよ」
とりあえず今日はいつもの奴を取り付けますよ、と装蹄師が言うと又則はそれを了承して作業に取り掛かってもらった。
バンセイフガクの蹄に削蹄を行っていく装蹄師を見ながら、又則達は溜息をついた。
「不幸中の幸いだったのは調教中に発覚した事ですね」
「ああ、これがレース中だったらと思うとぞっとするな」
レースの際にはバンセイフガクの蹄に見合ったアルミニウムの材料の特注品を用意して取り付けるのだが、アルミニウム製の強度は鉄製の蹄鉄よりも低い。幸い一度のレースでしか使わないからか、今の所レース中に破損する事は今までなかった。
「かつてはフガクの親父も自分用の蹄鉄を用意して付けていたが、まさか息子のこいつまで似たような事になるとはな」
「しかしフガクに見合った頑丈な蹄鉄ですか、どうしましょう?」
「今の蹄鉄じゃ材質的に強度不足って話なら、単純な話もっと強度のある奴で作るしかないが……」
どうしたものかと思案した又則達、すると今まで作業に集中していた装蹄師が顔を上げた。
「……それなんですが、もしかしたら何とかなるかもしれませんよ?」
それに顔を見合わせる厩舎陣営の二人。
どういう事だろうかと装蹄師に話を聞いてみた。
「私も小耳に挟んだ程度なんですがね。いつも利用している蹄鉄のメーカーなんですが、前に鉄よりも頑丈な材質の金属で蹄鉄を試作した事があるらしいんですよ」
「それは、一体?」
「何でも、チタンを使ったらしいですよ」
チタンとは、1970年代頃から日本でも民生利用が始まった新しい金属だ。
鉄よりも軽く頑丈で腐食性にも強く、主に工業や建材に使われているが、未だその性質には未知の可能性が秘められており、今後は更に広い分野での活躍が期待されている。
装蹄師が言うには、そのチタンは加工が難しい金属なので自社の技術力を示すためにそれで蹄鉄を試作した事があるらしいのだが、実際にかかったコストの高さから製品としての展開が見送られていたそうだ。
「……これは万世さんにも話を通したほうが良さそうだな」
装蹄師から話を聞いた又則は厩舎内だけでとどめておく話ではないなと感じ、時間を作って直接万世と話をする場を設ける事にした。
「なるほど、チタンかぁ。そりゃフガクの脚にも耐えられそうだな。出来るのなら試したいが……」
美浦トレセン内の応接室に足を運んできた万世楽之助が又則からの話を聞いてバンセイフガクへの新素材の蹄鉄について肯定したが、何か懸念があるように言葉を詰まらせている。
言いよどむ万世の言わんとするところを理解した又則が、その続きを代弁した。
「中央競馬会に申請が通るかどうか、か」
チタンを使った蹄鉄でレースを走るなど前代未聞だ。故に事前に日本中央競馬会へ事の次第を報告して新素材の蹄鉄使用の許可を貰うべく申請をしなければならないのだが、そもそもそれが通るのかもまだ分からないのだ。
更に、申請が通ったとして今度はメーカーとの打ち合わせや製作期間など、諸々の時間的コストは結構かかるだろうと二人は見ている。
「こりゃあ……ダービーは間に合わんか」
「日本ダービーへは従来の蹄鉄での出走を想定しておいた方が良いだろう」
「なるべく不安要素は取り除いてやりたいんだが、そう上手くはいかんなぁ」
かくして、二人は装蹄師の紹介を経て件のメーカーと話し合いを行い、中央競馬会へ新素材の蹄鉄使用についての申請を出した。
二人が予想した通り、中央競馬会の方も前例がない事だったので困惑気味の様だ。メーカーの好意で資料までしっかり用意して一緒に提出したのだが、それでもなかなか話は進まない様子。
これは二人が予想した通り、日本ダービーはアルミニウムの蹄鉄で出走する事になるだろう可能性が濃厚となり、せめてダービーのレース中は蹄鉄が耐え切ってくれる事を祈るばかりであった。
後の未来、テレビ番組でバンセイフガクの特集が組まれて当時の日本ダービーについて取材を受ける事となった又則は「人生で一番心臓に悪い日本ダービーだった」と思い返して溜息をつく事となる。
バンセイフガク、蹄鉄の材質を変更予定です。
ネットで調べてみましたら、蹄鉄に使われている材質に特殊な例でチタン製もあるような事が書かれていたので案に入れたのですが、いつから作られるようになったかが調べきれていません。そもそも特殊な例ってどういう状況で使われたのでしょう。
そこら辺の歴史がよく分からなかったので、当作品内では申請が通った際はバンセイフガクが初めて使ったと言う事にさせていただこうと思います。