いざ、神の山がまかり通る 作:ニンジンデース
クラシックレース二回目のレースを直前にまで控えたその日、バンセイフガクは東京競馬場へと運ばれる。
馬運車に乗り込むバンセイフガクが見たのは、表情を強張らせた舞田厩舎の人間達の顔だった。
皐月賞の時も皆緊張していたが、今回はそれに輪をかけて強くを感じるのは、それだけこれからバンセイフガクが挑むレースは絶対という言葉が存在しないレースなのだと言う事だろう。
同時にそのレースに勝利すると言う事は、日本競馬で最高の栄誉を賜ると言う事にもなる。それだけ重大なレースであるから人間達は只ならぬ雰囲気を放つのだ。
(東京優駿、日本ダービー、日本最高の栄誉あるレース……気が付けば俺もダービー出走か)
馬運車に納まり、厩舎の人間達から祈るように見送られて出発する
去年の秋口に新馬戦でデビューをし、その年の末に関東3歳チャンピオンへと君臨、その翌年にはクラシックレース。
まだ一年も経っていないと言うのに中々濃密な日々を過ごしたものだとバンセイフガクはこれまでのレースを思い返す。
だが、バンセイフガクの挑戦はまだ序盤、これからの展望を考えれば少なくとも数年はレースで駆け続ける事になるだろう。
その為にもこの4歳馬最大の檜舞台、圧倒的な勝利で以てダービー馬の仲間入りと当初は予定していたが、そう易々とはいかないだろうとバンセイフガクは睨む。
いつの間にか自分を脅かし得る存在として視界に入るようになった鹿毛の馬が脳裏をちらついたバンセイフガクは、荒く鼻息を吐くと立ったまま馬運車に揺られながら、競馬場へ到着するまで眠りにつく事にした。
そして当日、バンセイフガクが既に到着した日本ダービーのレース会場となる府中の東京競馬場に関係者の人間達も続々と到着していった。
「又さんよ、気持ちは分かるんだがもうちょっと落ち着いちゃどうだ。何もこれが初めてのダービー出走とかじゃないだろうに」
「わかっている、つもりだ」
馬主席にはドレスコードに定められた服装を着込んだ万世楽之助と又則がレースが始まるのを待っていた。
一連の準備が終わって一息ついた又則を万世の好意で馬主席にまで連れて来たのだが、さっきからずっと落ち着きが無い。それを見かねて万世が声をかけるが又則の耳にはあまり届いていないらしい。競馬界では今やその名も轟く調教師の一角に数えられた男とは思えない、まるで初めてダービーに参加したかのようなその姿に万世は困ったようにスキンヘッドの頭を掻いた。
「日本ダービーの優勝経験なら結構あるだろ?」
「……確かに、俺が手掛けた馬が日本ダービーを勝った経験はある……」
開業して初めて手掛けたダイゴホマレの産駒タビノホマレ。
シンザンと競い合ったウメノチカラの産駒マツノロウカラン。
クリフジの子孫にして日本競馬史上初の牝馬によるクラシック三冠制覇、無敗七冠に至ったバンセイフジ。
トウショウボーイとシービークインの産駒、無敗六冠を達成したミスターシービー。
いずれも歴史に名を遺した名馬達だ。彼ら彼女らによって手に入れたダービーの数は計4回、そんなダービー馬を生み出したこの記録を越える調教師は又則の師匠である7回優勝経験を持つ東方富蔵ただ一人だけ。
それほどの実績を持つ又則でも、今日行われる日本ダービーには緊張せざるを得なかった。
「……だが、俺の息子が、クリフジの子孫に乗ってダービーに出るのは、これが初めてなんだ」
尊敬する叔父を目指し、されども騎手としての才能を持たぬが故に夢は一度断たれ、調教師としてクリフジの様な名馬に育てる方向と形を変え、今、その夢に最も近い状況にまで漕ぎ着ける事が出来た。
無敗七冠の母を上回るポテンシャルを持つ怪物じみた馬と、自分には無かった騎手としての才能を持った息子の騎手、彼らは8戦8勝の無敗で此処までやって来たのだ。多くのホースマン達が夢見てきた栄誉ある大舞台へ。
バンセイフガクと恵護のコンビならやれる。これまであのコンビが駆ける姿を間近で見て来たから分かる、あの一人と一頭ならどこまでも行けると。日本国内だって、世界にだってその力を轟かせる事が出来る筈だと、又則の直感は告げている。
しかし、それでも尚不確定要素を残すのがこの東京優駿、日本ダービーなのだ。
誰が最初に言ったか「もっとも運のある馬が勝つ」レース。単純な実力だけでは勝敗が付かない魔物の潜む競走の奥深さと恐ろしさを何度も間近に見て来たからこそ、又則は緊張で体の震えが治まらない。
絞り出すように不安を吐露した又則に万世は言葉が詰まる。
万世も又則の夢に感化されて馬主になった男だ。又則がどれだけその夢の為に情熱を傾けて来たのかを知っている身なので、ここまで参るのも仕方がないと理解出来るのだ。あれから30年以上、思えば遠くまで来たものだと過去を思い返した万世。
長年来の友人の隣で、万世は目の前の巨大なガラス窓の向こうに広がるレース場へと目を向けた。
「信じて待っててやろうぜ、俺達が送り出したコンビをよ」
1985年5月26日の日曜日、府中の東京競馬場。そこでは日本で最も名誉あるレースが行われようとしていた。
かの英国の首相は言う、「ダービー馬のオーナーになることは、一国の宰相になるより難しい」と。
4歳サラブレッドのチャンピオンを決める競馬の祭典、競馬に携わる数多の人間達の夢が詰まった大レース。日本競馬界最高位の栄誉。
東京優駿、またの名を、日本ダービー。
第52回となるこの栄光のレースで、人は未知の領域を垣間見る。
《凄まじい大観衆の集う東京競馬場で行われる第10レースは第52回日本ダービー、一生に一度の栄光を勝ち取るために挑む26頭の本馬場入場です。1枠1番ゴッドウナバラー、1枠2番ロッテリーキングダム、1枠3番ゲルマンキング、2枠4番ワイエムハチヤマ……》
その日の東京競馬場は、今までにない数の来場者数を記録した。
後に確認されたその数は18万2913人。未だ嘗てない観客数が押し寄せた東京競馬場はぎゅうぎゅう詰めのすし詰め状態になった人間達の発する熱気で凄まじい事になっていた。
ここまでの人数が大挙して来たのには幾つか理由があるが、その大半はこのレースに出走する一頭の競走馬に起因している。
パドックが終わり、ダービー出走に選ばれた競走馬達が本葉場へ姿を現していく中、件の馬への唯一の対抗馬と目されている競走馬が姿を現した。
《皐月賞では惜しくも2着、しかし叩き出した記録は1分55秒2とワールドレコードが確認されましたその実力は間違いなく時代に名を残せる無冠の帝王! 宿敵との五度目の対決で雪辱を果たせるか!? 6枠16番シリウスシンボリ、騎手は城戸公一。単勝オッズ2.3倍の2番人気です!》
観客達は他の馬達よりも一回り大きい馬体とその身体を纏う筋肉の発達具合に仰天する。その馬体はパドックで紹介された時の馬体重540kgと前回の皐月賞から+2kg増。
しかしその馬体は皐月賞の時よりも更に磨きがかかったのではないかと見る者に思わせる程に筋肉の仕上がりが尋常ではない。初めて競馬を見に来た人間でも他の馬とは明らかに何かが違うと思わせる迫力があった。
歩く姿は極めて静粛だった。何の感情も読み取れない無の様な表情で本馬場に入り、粛々と返し馬に入る姿に覇気が感じられないと思う者もいるが、馬の機微に聡い者はシリウスシンボリを見て汗を垂らしながら息を飲む。
シリウスシンボリの静けさは、起爆寸前の爆弾を目にしている様な恐ろしさを感じさせる静けさだった。このレース、それが爆発した時どうなるのか、一部の敏い観客達はこのレースにも何かが起きそうな予感を感じた。
観客がざわめく中を次々と競走馬が入場していくと、ついに多くの者達が目当てにしていた馬が姿を現した。
《さあ真打の登場、山の入場です。日本競馬に歴史を刻んだ偉大な父と母も通った栄光を勝ち取れるのか、若き天才ジョッキーを乗せて今日も行くのは8戦8勝全てがレコード勝ち、先の皐月賞ではシリウスシンボリと共にワールドレコードを刻みました7枠21番バンセイフガク、騎手は舞田恵護。単勝オッズ1.7倍堂々の1番人気!》
艶のない暗闇の様な馬体にサラブレッドを遥かに上回る巨体が本馬場へ脚を踏み入れると、割れんばかりの歓声が轟く。
バンセイフガクの存在は勝ち進んでいくごとにその存在が広く知れ渡り、テレビ実況や新聞など数々のメディアを経由して、今や日本国民の多くが知るものとなっていた。
異様な姿と凄まじい戦績に加え、去年末頃に週刊少年雑誌で掲載されている大人気の漫画に明らかにバンセイフガクがモデルであろう馬が登場し、人伝にバンセイフガクの存在がその読者達の間にも広まっていき、噂の馬を一目見に行こうとレースをその姿に惹かれて競馬に興味を持つ若者が増える様になってきたのだ。
その結果、今の競馬界にはかつてのハイセイコーの時のようにブームが巻き起こっていた。前代未聞の珍獣見たさに、漫画とほぼ変わりのない姿と迫力を持つモデルの馬を見るために、東京競馬場は近年でも類を見ない数の人間達が押し寄せ熱狂している。
バンセイフガクは歩きながら今までに見た事のない夥しい数の観客の山々が響かせる歓声に目を細め、鞍上の恵護が驚いて見渡した。
「凄い観客の数だ……ダービーを見るために何人集まったんだ……?」
『呑まれるなよ恵護。逆に観客達を呑んでやるとするか』
今まで見た事のない観客の数と大音量の歓声に気圧されていた恵護だが、バンセイフガクが首を回して重低音の嘶きを一つ吹かせると、恵護の顔が引き締まる。
「……ああ、そうだよな。ダービーを獲りに行こう、フガク」
気合の入った己の騎手を確認すると、バンセイフガクはちらりとシリウスシンボリを見た。
今日のシリウスシンボリはいつものようにバンセイフガクを睨みつけるどころか目もくれず、前だけを静かに見つめて返し馬を行っていた。
(……少しは根性が据わってきたか)
バンセイフガクは鼻息を吹かすと、自分達も返し馬に入った。
今日の芝は重馬場だ。ここ最近の梅雨入りした影響による悪天候続きで、競馬場では濡れた馬場を走るレースが多くなってきた。
可能であれば良馬場でダービーを走りたかったが、競走馬達の頂点に立とうとする馬ならば馬場状態が変わっても勝ち進まねばならない。その為にあらゆる馬場に対応する走法を編み出したのだ。
(問題は蹄鉄の方だ。結局社長達の申請は間に合わなかったか)
バンセイフガクは今年に入ってから強力になっていく自分の脚力に耐え切れず砕ける蹄鉄の存在を懸念した。
又則や万世達がバンセイフガクの脚力に耐えられる素材の蹄鉄を使えるように色々と動いてくれているが、この日本ダービーまでに競馬会から返事は返ってこなかった。
今蹄に取り付けられているのはバンセイフガク用に特注で用意しているレース用のアルミニウム合金製の蹄鉄だ。
だが、やるしかあるまい。如何なる条件下であろうともこの身はただ駆け抜け、勝利する。バンセイフガクは意識をレースへ切り替えて出走の準備に入った。
輪乗りが終わり、ゲートへ順番に競走馬達が入っていく。各馬、騎手ともに気力は十分だが、どこかその表情は硬い。
その原因となる馬と騎手が二組ゲートへ納まる。
一組は今もなお沈黙を保つシリウスシンボリと覚悟を決めた表情の城戸公一。
もう一組は、ぎっちりとその巨体をゲートへ納まったままターフの先を見続けるバンセイフガクと静かに手綱を握って構える舞田恵護。
《全26頭がゲートへ納まって係員が離れていきます。未だ嘗てない大観衆が見守る中、第52回日本ダービー……ゲートが開いてスタートしました!》
ゲートが開く音と同時に馬達が駆け出す。重馬場を踏みしめる蹄の音が唸るように東京競馬場に聞こえ始める。
《先頭はやはりこの馬バンセイフガク、その背後をぴったり貼りつくシリウスシンボリ、続くのはトップシュンベツですが既に先頭の2頭が大きく引き離しています!》
スタートダッシュを決めた2頭は他の馬達と隔絶した速度で後続を離しながら2400mの芝を疾走する。
2頭は既に第1コーナーを越え、第2コーナーを回る。
シリウスシンボリは元々濡れた馬場を得意とする脚質の馬。そしてこれまで課した並の競走馬を超越した調教量を見事やり遂げて仕上がった肉体が、バンセイフガクのペースに付いて行けるまでに至った。
バンセイフガクはコーナーと直線で歩幅を調整しながらバランスとスピードを保ちつつ、レースの先頭を走り抜けていく。
考案し、練習を重ねた走法は既にバンセイフガクの走りに馴染んで意のままにその歩幅をレースの展開に合わせて変える事が出来るようになった。その効果は今こうして重馬場であろうと快速で走るバンセイフガクの姿を見れば明らかだ。
ここまでは前回の皐月賞と同じ展開、否、違いがあるとすればシリウスシンボリか。
皐月賞の時よりも強烈なマークをバンセイフガクにかけて走るその姿は皐月賞の時よりも気力とスタミナが感じられる。この調子ならば最後の直線では凄まじい猛攻が予想されるだろう。
それを背後からビリビリと感じる強い圧力で以て予感したバンセイフガクと恵護のコンビは、バックストレッチの直線で更に加速する選択をとった。更に確実な勝利で以てこのレースを終わらせようと。
バンセイフガクだからこそ可能な暴虐的なまでの大逃げからの再加速。シリウスシンボリが仕掛ける余地すら与えず圧倒的な差で以て千切り捨てるつもりだ。
「再加速、いくぞフガク」
『クラシックの頂点が誰か教えてくれるわ』
第2コーナーからバックストレッチ直線へ切り替わるそのタイミングで恵護はバンセイフガクへ手綱さばきで加速の指示を出す。バンセイフガクも歩幅を切り替えて最もスピードの出るストライドへと移行した。
だがその時、バンセイフガクの両前脚から異音が鳴る。
バキンッ
『何っ?』
「え?」
いや違う、正確には、バンセイフガクの蹄の下、蹄鉄の方からだった。
破砕音と共に、バンセイフガクの蹄から蹄鉄がふっ飛んでいく。
途端、バンセイフガクの走るフォームががくんと乱れ、そのスピードが落ちた。
《おっと!? バンセイフガクどうしたのでしょう!? 突然態勢が崩れました! 速度が落ちてシリウスシンボリが先頭に立ったぁ!?》
思わぬ展開に実況も見ていた観客達も困惑とどよめく声があがっていく。
馬主席では、レースを見ていた万世が目を見開き、又則が顔を青ざめながら身を乗り出した。
《まさかの故障発生か!? いや、バンセイフガクは走っています。これはどういう事でしょうか!?》
バンセイフガクの脚に故障はない。現にバンセイフガクは走り続ける事が出来ている。それはバンセイフガクが一番よく知っている事だ。
『おのれ、ここでか!?』
「な……落鉄っ!?」
突然走り方が乱れたバンセイフガクを鞍上の恵護は驚き困惑するが、先の脚から鳴った鉄の砕ける音でその正体に気付いた。
蹄鉄はレース前に新しいものを新調した物を取り付けた。
だが、かねてより懸念されていたバンセイフガクの脚力の強さと運の巡り会わせが重なって、この大一番で砕けてしまったのだ。
失速したバンセイフガクをシリウスシンボリが速度を上げて追い抜いて行く。その際、馬と鞍上の眼が交差した。
シリウスシンボリが沈むバンセイフガクと並んだ時、一頭と一人がちらりと二組の眼を向けてくる。
その眼にあったのはただただ勝利する事への渇望と、バンセイフガクと舞田恵護への警戒が混ざり合って燃える火が宿っているのをバンセイフガクと恵護は見た。
バックストレッチの直線に入るとシリウスシンボリはそのまま芝を駆けていく。
《先頭がバンセイフガクに変わってシリウスシンボリに! これは予想外の展開です! バンセイフガクはようやく落ち着いたのか速度は安定しましたが、シリウスシンボリとは大きく離されていきます!》
バンセイフガクの位置はシリウスシンボリと、自分達の後続を走る集団の中間あたりを走っている状態だ。
蹄で走る感覚を何とか覚えて態勢を立て直したバンセイフガクだが、その間にシリウスシンボリとの差が大きく生まれてしまった。
「やっちまった……! こんな、ダービーでっ」
鞍上の恵護はあのタイミングで加速させた事が騎乗ミスだったと自責の念にかられた。
今年に入ってからバンセイフガクの蹄鉄の消耗が激しい事は恵護も調教で乗っていたので良く知っていた。
しかし、レース前に新品に取り換えたからこのダービーの間ならば大丈夫だろうと、頭の隅に追いやって驕りが出てしまった。
このまま走らせればバランスを崩したバンセイフガクの脚にどれだけの負担がかかるのだろうか。それを思うとこれ以上バンセイフガクを走らせる事に対して危機感が湧いて来る。
今の速度を保つ事が出来れば2着は確実。しかしバンセイフガクの安全面を考えれば……最悪は棄権という選択肢がちらついてくる。
継続して2着か、棄権か。このダービーの晴れ舞台で。バンセイフガクに乗っていながら。頭の中でぐるぐると思考が堂々巡りに入った恵護は顔を俯かせて究極の選択を迫られてた。
そんな時、前から強烈な視線を感じて恵護が顔を上げると、自分が乗っているバンセイフガクが首を回してこっちを見ていたのに気が付いた。
バンセイフガクは鋭く血走った眼光を恵護に向けて睨みつけていた。
バンセイフガクは今、生まれて初めて自分が認め、信じた騎手を怒りで睨んだのだ。
『止めてくれるなよ恵護! もしここで止めたら、お前を一生恨まねばならなくなる!!』
恵護には馬の言葉は分からない。しかし、バンセイフガクが何かを強く訴えているのは理解できた。
この馬は、勝ちたいのだ。この日本ダービーに。一生に一度しか走れない栄光の中を、例え落鉄していたとしても、駆け抜けて勝利するつもりでいるのだ。
恵護は自分が乗るこの異端の馬の事を何も理解していなかったと痛感する。ポテンシャルとその気質を知って、それだけで全てを知った気でいた己を恥じた。
バンセイフガク、この馬は勝てる馬であり、勝つために生まれた様な馬であり、そして勝ちたいが為に走る馬なのだ。
恵護は手綱を短く引き絞ると両脚を引き締め、覚悟を決めた目で前を向いた。
「……ごめんフガク。行こう、付き合う!」
『よくぞ言った』
現在バンセイフガクはバックストレッチの直線の中間を越えた地点。
先頭のシリウスシンボリは最終コーナーから最後の直線に差し掛かっていた。
本来ならばこの差は絶望的だ。しかし一頭と一人はこの状況を打破するつもりで勝負に出る。
今、バンセイフガクは己の秘められたポテンシャルの全てを引き出し、その先を行く覚悟を決めた。
もうこのレースにかける執念には自分のプライドだけではない、多くの人間達と、母から夢を託されているのだ。
『天もご照覧あれ! このバンセイフガクが、運に見放されようとも力尽くで埒を明けるその姿を!』
シュオオオオオォォォォ……ッ!!
まだ第3コーナーにも入らない地点でバンセイフガクの鼻が凄まじい音を立てて空気を吸い込み始めた。
時間はおよそ数秒、激しい吸引音を立ててバンセイフガクが息を吸い込むと、恵護が衝撃に耐える様に体を縮こませて身構える。
バンセイフガクの吸い込みが止まる。次の瞬間、バンセイフガクは全身に力をみなぎらせて芝を蹴り飛ばした。
東京優駿、日本ダービー、もっとも運のある馬が勝つと言われているこのレース。
1985年の第52回。もし人の理外に運命という見えざる超越的な力が存在するのであれば、この時、間違いなくその運命によってシリウスシンボリは勝利へと導かれていた。
(もっとだ……もっと加速しろ……後ろを引き離せ……脚を緩めるな……“奴”が来る!!)
シリウスシンボリと城戸公一は必死の形相で最先頭を駆けていた。その表情に喜びも油断も慢心もない、ただただ背後にいる存在からの埒外の強襲に巻き込まれぬよう、1着でゴール板を越えるために全てを出し尽くそうとしていた。
バランスを崩して失速する宿敵、変わって先頭を走る自分達。
そこに見えた絶大な勝機。あれは戦略ではなく偶発的に起こったアクシデントだ、沈みながら眼が合った相手騎手の困惑した表情がそれを物語っている。視界の端で何かが大外へふっ飛んでいったものが見えたので、もしかしたら落鉄の可能性がある。
だからシリウスシンボリと城戸は勝負どころだと直感して早めにスパートをかけた。
ラストスパートは最終コーナー付近でかけるのが大体の定石だが、このシリウスシンボリにその定石はもはや通用しない。
あの皐月賞での敗北の後、シリウスシンボリはそれまで以上に鍛え上げた。その姿は勝利に飢えた獣ではなく、勝つ事のみを求め続ける機械の様だった。
調教量を増やせといつもは暴れていたのに、暴れる事すら止めて……暴れる労力を無駄だと学習したシリウスシンボリが無言のまま拒む姿があまりにも痛ましく、厩舎の人間達はどうしようもなく悔しくなった。
あれだけこの馬は我が身を苛め抜く様に鍛えたのに、それでもあの化物には勝てないのか。
人間達はあの皐月賞での敗北で心が折れかけた。しかし、シリウスシンボリだけは勝ちたいと言う気持ちを捨てていなかった。勝つために必要なものを研ぎ澄まし、要らなくなったものを捨てる事を学習して。
そうまでして勝ちたいのか、この馬は。
あの怪物に負けっぱなしでいるのが、そんなに嫌なのか。
苦悩の末、柳原厩舎の代表、調教師柳原仁平はシリウスシンボリの馬主へ事の次第を報告し、調教量の増加の打診を行う事を決断した。
相談を受けたシンボル牧場のオーナーは柳原厩舎へやって来て、シリウスシンボリの調教内容を確認し、今のシリウスシンボリの状況を見た。
その結果、シンボル牧場のオーナーはある条件を出して調教の続行を許可すると言った。
厩舎の人間達は条件内容に驚愕し、困惑した。だが、その条件を提示した理由を聞いて納得も出来た。
柳原厩舎はオーナーの条件を飲んで日本ダービーに向けて調教を開始した。
前の調教量が地獄的であるならば、ダービーに向けて行われて来た調教は何と言い表せばばいいのか。
周りの人間達から鬼畜生を見るような目で見られる柳原厩舎が課す調教をシリウスシンボリは文字通り死に物狂いで続けてきた。
へばるな、体を作り変えろ、修羅悪鬼をその身に宿す様に。
だが決して壊れるな、折れる事も許されない。お前が、真に勝利を得るその時まで。
そうしてシリウスシンボリは新たにその身体を作り変えた。ダービーに勝つために、あの恐ろしい怪物を越えるためにだ。
「行け、ダービー馬になるんだシリウス。俺達がお前にしてやれるのは、これしかねえんだよ!」
鞍上の城戸が激情を噛み締めながら、自分が乗り続けて来た馬を勝たせてやるために騎手としての全能力を振るう。
これが、日本で走る最後のレースになるかもしれないのだ。
勝機を見出して先頭を駆けるシリウスシンボリ達。
だが、どうしても安心出来ないでいる。奴がこのまま終わるとは、到底思えないのだ。
だから奴が何かを起こす前に、出来るだけ先へ、ゴールへ向けて最終スパートをかけて逃げ切ろうとしている。
《シリウスシンボリ大きく差を開きながら最終コーナーを曲がってラスト直線! 後ろからはまだ何……も……っ!?》
シリウスシンボリ達が直線を残り全ての力を使って走りきろうとしていた時、実況の声が絶句するように閉口した。
観客達も同様だ。大番狂わせに叫んでいた声がどよめき、そして掻き消える。
「き、来たっ」
『クソったれ……!』
シリウスシンボリ達も異変に気付いている。
あるいは、同じコースを走っているからこそ人馬ともに聞こえてくるものがある。
芝で聞くものではない轟音が、はるか後方から聞こえる。
その音は、シリウスシンボリ達の背後に近づきつつある。
《何だあれは……あり得るのか? これは競馬のレースだぞ……!?》
実況が目に写る光景に困惑して普段仕事で使う口調すら忘れて素が零れ落ちる。
そら、来たぞ。
あれは奴の蹄の音だ。
日本競馬史上最大の絶望が、俺達から勝利を奪うために、唸りを上げてやって来る。
《あ、ば、ば、バンセイフガク、物凄い速さでコーナーを曲がるしかしこれは……ッ!?》
実況がハッと気を取り直して普段の口調に戻るが、それでも今目の前で起っている出来事が信じられない声色だ。
観客達ですらその走る姿をあり得ないと、競馬を知るものほど絶叫していた。
失速して2番手にいたバンセイフガクは第3コーナーから第4コーナーにかけて普段濡れた馬場では決してやる事のない速度で爆走していたのだが、その走る様が常軌を逸して競馬関係者が発狂しかけた。
「あり得ないだろ! なんで馬があんな走りをしているんだ!?」
その遥かに巨大な馬体でバンセイフガクは、重馬場の芝をまるで自動車がコーナリングを走る際行う走行技術、ドリフトのように横滑りを起こしながらコーナーを曲がったのだ。自動車と違って四つ脚を物凄い回転数で回しながら、濡れた馬場で生じる滑りをそのままにバンセイフガクが往く。
その際、バンセイフガクの脚が蹴り上げた芝が凄まじい水しぶきと共にその一部を吹っ飛ばしていく姿は、とても馬の脚力のそれではない。
バンセイフガクがドリフト走行を敢行する中、鞍上の舞田恵護は全身をコーナーの内側へと、バイクのライダーがカーブするときのように荷重を加える様に傾けながら体全部でバンセイフガクの走るバランスをとっていた。
こんな走りは近代の競馬、否、古代にだって存在しないだろう。前代未聞の光景だ。
《馬がドリフトをしながら内ラチギリギリをえぐるように曲がり切ったぁ!? そのまま直線に入ってシリウスシンボリを猛追!! こ、この速さは……!!》
コーナーを曲がり切ったバンセイフガクは内ラチ沿いの直線に入るとピッチ走法からストライド走法へと切り替わり、最後の直線で更に加速してシリウスシンボリを追いかける。
「グオアアアアアアア――――ッ!!」
バンセイフガクが怪物の如き形相で咆哮をあげながら、通常ではありえない速度で爆走する。既に眼前には急坂を上り切ったシリウスシンボリを視界に捉えている。
《急坂を飛ぶように駆けてもう越えた!? これは府中3歳で見せた走りだ!!》
バンセイフガクの現在の最高速度は去年の府中3歳ステークスで競馬界隈に度肝を抜かせた時速110kmの領域に到達していた。
落鉄して普段よりもバランスの乱れたフォームだった。しかし、それでも全身の頑強な骨格と筋肉で以て力づくでバランスを調整しながらバンセイフガクは走るのだ。
『こ、の……くたばりぞこないがぁ!!』
「う……うおぉぉぉ! シリウス行け! 行けぇーッ!!」
背後から迫るバンセイフガクの悍ましい程の圧力を感じて城戸が叫びながら鞭を振るい、シリウスシンボリもまた死力を尽くしてゴール板を目指す。
その距離は100mを切り、バンセイフガクが距離を詰めていく。8馬身、7馬身、5馬身、3馬身、そして――
《フガク並ぶか!? シリウス先頭! ゴール目前!! 行けるのかシリウス! 届くのかフガク!?》
『“俺のダービー”! 寄越せぇぇぇぇーーーーッッ!!』
いつか、どこかで、ありえたかもしれない可能性の世界。
シリウスシンボリが勝ち取った可能性の光景。
それを見たのか、あるいは感じ取ったのか、シリウスシンボリは人知れずに肺が悲鳴を上げる中で、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
二頭の馬がゴール板を越える。
その着差はほんの僅かに差が生じでいた。それが勝敗を決した。
《勝ったのは! ハナ差で! バンセイフガクゥゥゥーーッ!!》
しんと静まった次の瞬間、爆発するような巨大な歓声が東京競馬場に激しく響いた。その声は、競馬場を越えて遠くの場所にまで届いたという。
「ゲフッ! ゴフッ! ガフッ!………………ブシュウウゥゥゥゥゥゥゥ!!」
脚を緩めながら全身から尋常では無い量の汗を流し、口から泡を吐き、涎を垂れ流しながら何度もえずいてようやくバンセイフガクは排熱するように鼻息を吹いた。
全身で息をしながら、今まで見せたことも無い程に疲労する姿を大衆に見せているバンセイフガクの鞍上でもまた、舞田恵護が体力を消耗してバンセイフガクの背中で崩れ落ちる様にしがみ付いていた。
「はぁ……はぁ……げほっ…………どう、なった?」
バンセイフガクの制御にのみ全集中を傾けていた恵護はゴールした時の状況を正確に把握できていない。息を荒げながら体を起こし、電光掲示板を見上げて口が半開きになった。
ようやく息が整いはじめたバンセイフガクも電光掲示板を見上げてその結果に深々と鼻息を吐いた。
《なんと言う事……! なんというレースでしょう! あの、あの距離から巻き返して逆転ゴールを果たしたバンセイフガク、これで無敗の2冠達成!! そのタイムは2分19秒34! レースレコード! 栄光ある日本ダービーに新たな伝説が刻まれましたー!!》
自分達が勝った事をようやく実感した舞田恵護は、激情を噛み締めながら握り拳を高々と天に突き上げた。
《そして今日、このレースの勝利を以て史上2番目の最年少ダービージョッキーの誕生です! 舞田恵護21歳、そして現在記録されている最年少のダービージョッキーの1番は何と、彼の大叔父にあたる舞田永良当時20歳! その時勝ち取った馬はバンセイフガクの高祖母にあたるクリフジであります!!》
観客達からどよめきと歓声が轟く中、恵護はバンセイフガクの鬣に顔を埋めた。そのゴーグルの下から涙が流れ落ちる。
「ありがとう……ありがとうフガク。本当に……」
『…………どうだ恵護、お前のお手馬は、強いだろう?』
疲労でぼんやりとするバンセイフガクの頭に、日本ダービーに勝ったのだからウイニングランでもするかと考えがよぎったが、よく考えたら自分は落鉄をしている身なので大人しく検量室へ向かう方が良いだろうと本馬場から出る事にした。
バンセイフガクは去り際にちらりとシリウスシンボリの方を見た。
シリウスシンボリはさっきのバンセイフガクと同じように疲労困憊で歩く事も億劫そうで、顔を俯かせながら息を荒げている。鞍上の城戸は両手で顔を覆ってその身体を無念で震わせていた。
『ち……くしょう』
シリウスシンボリは、顔を俯きながら涙を流して泣いていた。
悔しさと、怒りと、無念が渦巻き、今まで耐えきっていたものが堰を切って鹿毛の馬の両目から涙を流させていたのだ。
『何でだ……何で、勝てねえんだよ……』
これまでのレースで一度も漏らした事の無かった、シリウスシンボリのむせび泣きがバンセイフガクの耳に届く。
シリウスシンボリがここに至るまでどれだけの調教を受けて来たのかはバンセイフガクも同じトレセン所属故に、それを時折見る事があったのである程度は理解している。
その別の生物のように発達した筋肉の具合を見れば、これまでにどれ程の調教を積み上げて来たのかは誰が見ても想像を絶するものだと分かる。それだけこの日本ダービーに勝ちに来ていた事を物語っていた。
だからこそ、この敗北はシリウスシンボリの心の芯としていたものに、大きな衝撃を与えるには十分に足る威力があった。
今、シリウスシンボリは、心の底から折れかけていた。
『ちくしょう……ち、くしょおぉぉ……』
シリウスシンボリを両の眼でじっと見た後、バンセイフガクは検量室へ向かう。
競馬の世界は勝負の世界。誰かの勝利の足元には、多くの馬や人間達の夢や願いを踏み砕いて出来た残骸が積み上っている。
だが、それがどうしたと言うのだ。
俺は勝つために競走馬としてレースを駆けているのだ。
相手が誰であろうと、運命が俺を否定しようと、例え神が邪魔をしようと俺は抗って勝ち続ける。
それが、この体で生まれた自分が競走馬になると決まった時に誓った事なのだ。
(それが気に食わないのならば、何度でも挑んで来い、チンピラ。それまでターフで待っていてやる)
この身を初めて脅かした競走馬よ。
バンセイフガクは鹿毛の馬の泣く声を背にしながら本馬場を後にした。
後日、シリウスシンボリの海外遠征が柳原厩舎陣営とシンボル牧場のオーナー達によって発表され、競馬界隈の人間達は驚愕する事となる。
これより、日本競馬で生まれた波紋は世界へと波及していく。
シリウスシンボリを苛めたい気持ちなんて無いのですけど、後の事を考えてどうしても入れたかったのでこんな形になりました。
あとシリウスシンボリのスイッチが完全に入ります。
ちょろっと本文で登場した競走馬マツノロウカランは架空馬です。
再びストックがなくなったのでまたでき次第投稿します。