いざ、神の山がまかり通る 作:ニンジンデース
牧場暮らしの日々にトレーニングが加わったクロマツは新年を迎え、このたび2歳となった。
どうやら馬は皆一律で生まれた時から1歳で数えられ、翌年の1月1日になると2歳と歳が加算されるようだ。
そっちの方が管理しやすいからだろうか? 人間だった頃は誕生日に歳が加算されてきたクロマツは、自分が動物として管理されている要素をまた一つ知って少し複雑な気持ちになった。
そして季節が流れて秋、クロマツに朗報が来る。
競走馬として無事登録が為されたのだ。
競走馬としてレースに出るにはまず競走馬登録をしなければならない。
なのでクロマツは登録の為に馬体検査をする必要があるので、トレーニングセンターへ入厩したのだが、その際大勢の人間達から驚かれた。
その頃のクロマツは更に馬体が成長し、体重が979kgとそろそろ1tにさしかかる程になっていた。
明らかにサラブレッドを上回る巨体を見た係の者達はクロマツを疑った。本当にサラブレッドなのか? と。
【日本中央競馬会競馬施工規定 第82条 競走を出走させる事が出来る馬は、軽種の馬とする】
軽種馬以外は競走馬登録をする事が出来ない。
そういう規定があるので中央競馬会側は異常に巨大なクロマツを重種馬と疑ったのだが、そこで馬主の万世側が提出したのが日本軽種馬登録協会で血統登録し、発行された血統書である。
血統登録とは、生まれた仔馬の両親を確認し、品種や血統などを登録する馬版の戸籍のようなものである。これによってクロマツは紛れもなくサラブレッドである事が証明されるのだ。
中央競馬会の人間達はその血統書を見て本当にサラブレッドだと驚き、更にその両親を見てなお驚愕した。とんでもない良血馬だったのだ。
結果、クロマツは立派な軽種馬と見なされたのだ。体重979kgの軽種馬に。……軽……種馬……?
その登録に立ち会った係の人間達は、軽種馬ってなんだったっけ? と皆が宇宙を背景にした猫のような顔をして混乱する事になった。
同時に、競走馬としての馬名も決まった。
競走馬として登録するにあたって競走馬の名前も必要になるわけだが、クロマツはあくまで幼名。既に馬主が決めていた名前が登録される。
その名は、バンセイフガク。
母バンセイフジと同じ冠名のバンセイを頂き、富士山の別名である富嶽を加えたものだ。
漢字にすれば万世富嶽。馬主の苗字である万世という意味ではなく、文字の意味そのものを込められているらしい。ちなみに、バンセイフジを漢字にすると万世藤というそうだ。
万世の意味は永遠や永久という「時の流れ」に関わる言葉。直訳すれば永遠の富士山。富嶽の方にも意味が込められているらしいが、そこまではクロマツ改めバンセイフガクは聞いていない。
何の皮肉だと、バンセイフガクは自分の馬名に鼻息を鳴らした。
人間だった頃の最期の場所が富士山の山頂。
そこで死に、馬として輪廻転生を果たして名付けられたのが富士山の異名である富嶽とは。
どうやらつくづくあの山とは縁があるらしい。
前は趣味の一環で登っていただけの山に過ぎないのに。こうなって来ると、何か因縁めいたものを感じるバンセイフガクだった。
それはそれとして、晴れてバンセイフガクは競走馬である。
今まで牧場で運動をするだけだったが、競走馬として本格的な訓練を行うために、今度は育成牧場にて各種訓練を行う事になったのだ。守松牧場は生産牧場なので訓練を行うのにはどうしても限界があるのだ。
「クロマツー、しっかりやってこいよー、お前がどうにかなるとは思えないけどな」
「牧場の馬達と喧嘩しないようにな。……いやこいつなら舎弟とかにしそうだなぁ」
『お前ら少しは俺の心配をする気持ちはないのか』
行き先の育成牧場は母バンセイフジも世話になった場所なので、手続きなどはすんなり終わって、競走馬としていつも世話になっている守松牧場の皆に見送られているバンセイフガクだが、谷森と杉の散々な言い草に鼻息を荒くした。
皆から応援の言葉を送られながらバンセイフガクはその巨体を馬運車に収め、守松牧場を後にした。
(ちっとばかし狭いか?)
馬運車に運ばれるバンセイフガクは頭が天井に付いてしまうので、それを良い事に天井近くに設けられた格子付の窓から外の様子をみながらのドライブと相成った。
馬運車へ乗せる際、運転手や移送中の面倒を見る育成牧場側から派遣された厩務員がバンセイフガクをみて思わず「え、ばんえい馬ですか?」と馬主に聞き返してしまっていたが、彼らは悪くないだろう。
そうして着いた先は守松牧場とは趣が違う牧場だった。
本格的に走るためのトラックや競馬のレースで見た事のあるゲートがあり、人を乗せて走っている馬が見える。
他にも用途は分からないが守松牧場では見た事のない施設が建っていた。
馬運車から降りたバンセイフガクは見慣れない育成牧場の風景を見渡しながら、視界に入った馬達を観察する。
(こいつら全員競走馬候補か)
それすなわち、いずれレースで競う相手になるかもしれないと言う事だ。
さしずめここは競走馬になるための学校のような場所で、自分はいま入学したての新入生。
卒業するその日まで学べるものは全て吸収していこうと思っているバンセイフガクの周りに、気が付けばこの育成牧場のスタッフ達が何人か集まっていた。
バンセイフガクの事を事前に知って見に来たのか、それとも入厩した馬に対するこの牧場ならではの歓待の仕方なのか。皆一様に驚いた顔でこっちを見ている。
(何を素っ頓狂な眼で見ているんだこいつら)
そんな気持ちを乗せてじとっとバンセイフガクが四白眼の目で見下ろせば、何人かのスタッフが後ずさった。
「あ、あはは。じゃあこの仔を馬房に連れて行きますんで」
そうしていると、馬運車に同乗していた厩務員が苦笑いを浮かべながらバンセイフガクを綱で引いて馬房へと連れて行く。
少し離れた場所まで行くと、厩務員が溜息をつきながら見上げた。
「おいおいここに喧嘩しに来たわけじゃないんだから、仲良くやってくれよ?」
(それは此処の連中の態度次第だな)
鼻息を鳴らすバンセイフガクに、大丈夫かなぁと厩務員は心配そうだった。
道中すれ違うスタッフや馬達が信じられないものを見るような眼で見てくるのを無視しながらバンセイフガクが辿り着いたのは、これから数か月間の仮初の馬房だ。
「ここが今日からお前の住む場所だよ。中々悪くないだろ?」
ちょっとお前には狭いけど。そういう厩務員はバンセイフガクと馬房を見比べてそう溢した。
(……ちゃんと手入れはしているみたいだな。まぁ、カプセルホテルだと思えばいいか)
守松牧場の時のバンセイフガクの馬房は、親離れする前にいた二つの馬房を一つに繋げた大型部屋仕様をそのまま利用していた。
それと比べてしまえばここの馬房は確かに狭く見えるが、常識的な大きさの馬房であり、ここのスタッフ達が綺麗にしているのでバンセイフガクに不満はなかった。
試しに厩務員がバンセイフガクを中へ入れれば特に文句なくすごしはじめたので、それならまぁいいかとそのまま馬房に住まわせる事にした。
バンセイフガクの育成牧場生活の始まりである。
競走馬になるための初歩的な訓練の事を馴致と言うらしい。
極めて初歩の場合は人に慣れさせることから始める事もあるが、それは守松牧場で済んでいるし、そもそも前世が人間だった事もあって手慣れたものだから手順は自ずとスキップされた。
「お前全然動じないっつうか凄い筋肉だな……鉄とか入っちゃいないよな?」
『そりゃ全部自前だ』
担当のスタッフが挨拶代りに首筋や体を撫でると、その皮下に詰まった筋肉の発達具合と感触に毎度驚いていた。
――あの、前いた牧場で物凄い訓練でもしたんですか? え? してない? あ、そうですか……。
後に馬主が様子を見に来た際にスタッフがそれとなく訊ねてみたら、常識の範囲内の運動と大量の食事としこたま寝ていた事でこの肉体が出来上がっている事を知らされ、未知の生物を見るような顔になったそうな。
次に、人を乗せるための馬具を着けられる様にしなければならない。。
普通の馬の場合、それを嫌がる事が多く、馬によっては長い日数をかけて教え込ませなければならない馬もいらしい。
『装着御苦労』
「……何だろう、すげーあっさり終わった事に驚いたけど、俺、着付けの召使いだと思われてる?」
ものの数分程度で完了してしまった。
巨体故に暴れられたら堪らないと慎重に着けてみたら、大人しく馬具を取り付けられるとスタッフへ軽くひと鳴きした後まるで装着具合を確認するかのように馬房の中をぐるぐると動き、その後満足したのかスタッフの前で止まった。
「もしかして馬具が必要だって理解してるのか?」
『競走馬に必要なんだろう?』
問えども相手は馬、バンセイフガクは野太く鳴くだけでスタッフの求める答えは人間の耳には返ってこなかったが、本馬は一応鳴き声で返事は返していた。
「よう、ここ空いてる?」
「ん? おう」
バンセイフガクが入厩してから少し経った育成牧場の休憩室。
昼休憩時間に入って一息ついているスタッフ達のなかで二人のスタッフ達が昼食に入ろうとしていた。
一人はバンセイフガクを担当しているスタッフ。もう一人は別の馬を担当しているスタッフ。
空いている席に座ったスタッフは、既に座って昼食に入っているバンセイフガクの担当スタッフへ興味津々と言った様子で尋ねて来た。
「どうだいそっちの黒い大将は?」
黒い大将、とは最近育成牧場に入って来た2歳馬、バンセイフガクの事である。
バンセイフガクは入厩する前から牧場内が話題でもちきりになっていた。日本史上最高記録の七冠を無敗で手にした生ける伝説、バンセイフジの子供が入厩すると。
父親はかの高名な神馬の異名を持つあの五冠馬。必ずしも血統だけで馬の能力が決まるわけではないが、両親のネームバリューだけでも話題性は十分にある。
更に、その馬は何やら凄いらしい。
曰く、既にバンセイフジの馬体を越える巨体を持ち、一目見れば忘れない姿をしている。
曰く、走る様は巨体に似合わない程に軽く速く、既に名馬の片鱗を見せている。など。
いくら両親が凄い名馬でも、ちょっと大げさすぎなんじゃない?
バンセイフジ以上の馬体? それもまだ2歳馬が? 冗談きついぜバンセイフジは680kgの巨体だぞ? まさか700kg以上? もしかして800kg越えているとか? いやいやまさかー。
そんな感じで件の馬が入厩するのを待ち、到着した馬運車から出て来たその姿を一同は見て――――絶句した。
馬運車の背面タラップがゆっくりと倒れ、中から姿を現わしたのはサラブレッドが小さく見える程に巨大な暗黒の馬。
馬体を染めるどす黒い体毛は、信じられない事に太陽の光を浴びても光沢を生まず、飲み込む程に深く黒い。爪先から頭や尻尾の先までそんな黒一色で、真昼時の育成牧場へと降り立つ姿はそこだけ暗闇が生まれたかのように錯覚させる。
そんな暗黒の巨体の中でひときわ目立つのは、白目が極めて目立つ刃物のような眼光を放つ四白眼の双眼。
その眼は視界に映る育成牧場の風景を睥睨するように一瞥すると、今度は眼下のスタッフ達を見下ろした。
悠然と立ちながら人間達を見下ろす黒い姿は、御伽噺に現れる怪物のようであり、その猛獣のような眼差しや貫録のある様は、二歳の若駒が出して良いものではない。まるで肉食獣を前にしたような緊張感がそこに生まれていた。
ヤバい、何かとんでもないのが来た。
想像以上にでかい馬体で本当にサラブレッドであらせられるのですか? とか、本当に七冠馬と五冠馬の御子息様でしょうか? だとか湧いて来た疑問は馬の睨みつけるような眼力で全て黙らされた。
その後馬運車からつきっきりだった厩務員が馬房へ連れて行ったことでその場にいつの間にか充満した緊張感が霧散して、その場にへたり込みそうになった。
――え、あれ本当にサラブレッド? 競走馬になるの? 中央競馬で走るわけ?
――あれと一緒に暮らしてた生産牧場の馬達大丈夫? 酷い事になってない?
――どうやって調教するんだよ。逆に調教されちまいそうなんだけど。
牧場の人間達はこれから数か月の間、あの化け物じみた馬を育成する事になるのか、と言いようのないプレッシャーが一同にのしかかった。
そして白羽の矢が立ったのが今バンセイフガクを担当しているスタッフだった。
同僚に訊ねられたスタッフは口の中で咀嚼していたものを飲み込むと、少し考えながら答える。
「……いや、まぁ、うん。凄え馬だよあいつ」
「そりゃあ見てくれからして凄いってのは分かる。でもそういう事を言いたいんじゃないんだろ?」
あの黒い巨大馬が見た目だけではないというのは既に育成牧場内の者達も知る所だが、詳しい事を知らないスタッフは、バンセイフガク担当のスタッフから詳しく聞きたかった。
「そうだな。一度教えた指示はすぐに覚えるし、場合によっちゃあこっちがやろうとしてる事を察して動く。頭の良さが並の馬じゃない。人間の脳味噌でも入ってんじゃねえかって思う時があるくらいだ」
「へぇー、話を聞く限りじゃ結構従順のように感じるな。案外大人しいのか?」
「大人しいっちゃあ大人しいんだが、あいつ絶対気位高いぞ。何て言うんだろうな。体育会系の物静かだけど怖い先輩に接している様な感覚っていうか、丁重に相手をすれば平気だけど、雑な対応をしたらヤバいっていう感じの」
「あー、気難しそうな顔してたもんな――それで、走れそうか?」
「それは大丈夫だと思う。騎乗訓練はあっさり出来るようになったし、体格と足腰が良いから人を乗せても全然ふらつかねえ。少なくとも競走馬並に走れるのは間違いない。どれくらい走れるかは、本格的な調教に入らないと何とも言えねえけど」
「ほぉん」
「あとな」
「うん?」
「俺、召使いか何かと思われてるみたいなんよ」
「……ま、がんばれ」
少し煤けて見えるバンセイフガクの担当のスタッフを同僚は慰めながら、自分も昼食にありつく事にした。
育成牧場に入厩してから一週間が経過したバンセイフガク。現在施されている最中の馴致は順調に進んでいた。
最初はハミと言う専用の馬具を口に装着するのに違和感があったが、既に慣れたものである。
ただ、バンセイフガクは他の軽種馬よりも一回りも二回りも巨体で、自ずと顔の骨格も大きい。それに従いハミも既存の物では合わず、スタッフが馬主と相談して重種馬サイズのハミを用意してくれた。何もかもが通常の軽種馬より遥かに大きいので、それを都合するのが少し手間ではあった。
最近は背中に調教員を乗せて、そのスタッフが手綱で前進後退などの指示を出してそれにあわせて動く訓練に入ったが、細かい指示があるわけではないので人間の頭脳を持ったバンセイフガクならば問題なくこなせる。
強いて問題を挙げるのならば、バンセイフガクが普通の馬よりも体高がずっと高いのでスタッフが乗る時しんどそうだった。
現在バンセイフガクは本日のメニューを終えて放牧中だ。
秋空を見上げていたらアゲハチョウが鼻先に止まり、首を振って散らそうとしたら耳に止まり、耳をピコピコ動かしたら今度は鼻筋にぴったり貼り付いてしまった。まっ黒な馬体にアゲハチョウはとても目立つ。
『俺に止まってどうする。花に止まらんか、花に』
何だか梃子でも動かない様子の蝶に溜息をついて再び秋空の雲を眺めようとしていたら、バンセイフガクのいる放牧地がやにわに騒がしくなった。
『ん?』
喧騒の元凶へと眼を向ければ、一緒に放牧に出されていた馬の群れが一頭の馬と何やら言い争っているのが見えた。
入厩している馬の顔はそれとなく観察して覚えているが、その一頭は明らかに見ない顔だった。最近入って来た馬なのかもしれない。
聴覚をその喧騒へと傾けると、どうやらその一頭の馬が他の馬達に対して挑発しているのが分かった。離れた場所だがバンセイフガクの耳には馬の言葉がよく聞こえる。
『ハッ! 聞こえなかったのか? ならもういっぺん言ってやろうか? どいつもこいつも腑抜けたツラをしてるもんでな。本当に此処が競走馬になる奴が集まる場所か疑っちまったって言ったんだよ』
『レースで恥をかく前に別の生き方でも考えた方が良いんじゃねえか?』
『まったくここは駄馬だけ集めた吹き溜まりかよ!』
そんな挑発の数々が余程頭に来たのか、先に入厩している馬達の表情は険しく、怒りで今にも飛び掛かりそうである。
(……面倒くさそうな奴が入って来やがった)
あの手の輩は人間の世界でも調子付かせると場を尽く乱す不穏分子になる。
少なくともバンセイフガクはこの育成牧場の空気は悪くないと思っているので、居心地を悪くさせられるのは勘弁ならない。
一体どういう心算であんなに貶しているのか知らないが、甚だ迷惑だ。
『馬鹿が』
険しい表情を作ったバンセイフガクはイラつきながら吐き捨てると、件の喧騒の場へと足を運んだ。
顔に止まっていた蝶は既にどこかへと飛び去っていった。
『……んあ?』
最初にそれの接近に気が付いたのは、馬達の群れの中でも一番背後の方にいた馬だった。
背後から感じる圧力に思わず振り向くと、そこにいた馬に思わず目を見開いた。
『ひぃっ!?』
その馬の悲鳴に周りの馬達もようやく気づき、振り向いた途端それに気づいて悲鳴とともに馬体が跳ね上がる。
『何だお前、どうし……ひぃん!?』
馬達が振り向くその先にいるのは、自分達よりも倍は大きく暗闇のように黒い馬だった。
『バ……バンセイ……フガク』
見て分かる程に発達して隆起した筋肉で巨大な全身を覆い、同じ馬とは思えない猛々しい肉食獣の如き相貌と眼差しを持つ馬の名は、バンセイフガク。
今牧場内の人間達や馬達の間で噂される将来の競走馬候補。
その身には、日本競馬界に伝説を築いた偉大な競走馬達の血が流れ、将来を期待された良血馬。
その生まれ、その威容、その佇まいが、今まで他の馬達が近寄る事を躊躇わせてきた。
そんな馬が、諍う馬達のもとへやって来たのだ。
バンセイフガクが無言で渦中へ近づくごとに、前に立つ馬達が慌てて道をあけていく。
モーセが海を割るが如く、馬達が道を作るその中を我が物顔で通り、喧騒の中心地へと到達する。
先にいたのは二頭の馬。
一頭は前から育成牧場にいた馬。
そしてもう一頭は、最近この育成牧場へと来た馬だ。
二頭は周りの馬達の様子がおかしくなった時点でバンセイフガクの接近を知り 驚愕した様子で見ていた。
二人の前に立ったバンセイフガクがじろりと二人を見回しながら、地に響くような声で問うてきた。
『さっきから喧しいぞ、何があった』
『そ、それが。この新しく入った奴が俺達の事を大したが事ない駄馬の集まりだってふざけた事言うから……』
答えたのは前から牧場に入厩していた馬の方。
バンセイフガクの問いに狼狽えながらも、その馬は最後に新しく入って来た馬を睨みつけた。余程腹に据えかねたと見える。
バンセイフガクは鋭い眼光をそちらの方へと向ける。
新しく入って来た馬は見るからに威勢の良さそうな、額の白い流星が目立つ鹿毛の馬だった。
バンセイフガクの睨みに数歩後ずさっている。
『な、なんだよ、てめえ』
狼狽えながらも鹿毛の馬は強気な態度で見上げるように睨みつける。
バンセイフガクの馬とは思えない猛獣めいた眼が、新しく入った馬を蹄の先から頭の上まで値踏みする様に一瞥すると、ふんっと鼻息をついて白けた様に視線を外した。
『どうやら、この牧場に躾のなっていない間抜けが紛れ込んだようだな』
『……あ゛ぁ゛?』
バンセイフガクの蔑むような言葉に、鹿毛の馬の様子が一変した。
今にも怒りで爆発しそうな形相でバンセイフガクを更に睨み上げる。
『てめえ……そりゃ、誰に言っている? 俺の事言ってるんじゃねえだろうなぁ?』
『お前以外に誰がいる。もしや理解できる頭もないのか? お前の方こそ来る場所を間違えたんじゃ無いのか? もしや乗馬用の馬が迷い込んできた口か?』
吐き捨てるように言ったバンセイフガクの言葉に、鹿毛の馬の感情が爆発した。
『ほ、ほざきやがったなてめええぇーー!!』
馬体差にも怯まず鹿毛の馬はバンセイフガクに飛び掛かった。
しかし。
『ふん!!』
鹿毛の馬が飛び掛かるよりも早く、バンセイフガクが巨体からは想像もつかない踏み込みで鹿毛の馬に近づいて、その顔面に頭突きを叩き込んだ。
『ぶがぁっ!?』
避ける事もかなわず鹿毛の馬はバンセイフガクの頭突きを額へもろに直撃。
後ろへよろけて最後は尻餅をついて眼を回した。
バンセイフガクはそこへ更に進み、鹿毛の馬の顔に自身の顔を勢いよくぶつけながら鋭さをさらに増した眼で睨みつけた。
その衝撃で鹿毛の馬は正気に戻るが、目の前に広がる巨馬の刃のような眼力を向けられて、眼を大きく見開いで呆然とする。
『何の実績もない奴が垂れ流すでかい言葉ほど滑稽で惨めなものはないな』
『な、にぃ?』
『己が優秀な馬だと思っているのなら、競走馬として結果で証明して見せろと言っている』
突きつけた顔を上げ、その体格から見下ろすバンセイフガクの眼は何処までも冷たかった。
それこそ、その視界に映る馬が、どこまでいっても価値が無いと言いたげな眼差しだ。その視線に気づいた鹿毛の馬の顔が感情で酷く歪んだ。
バンセイフガクは下らないものを見たとでも言わんばかりに鼻息を鳴らして身をひるがえし、元いた場所へと戻ろうとしていると、背後から怒声が響いた。
『待てよてめえッ!!』
バンセイフガクの背後で、鹿毛の馬が脚を震わせながら立ち上がっていた。
その形相は怒りに染まり、耳は後ろへ絞られてその馬の怒りの度合いを表していた。
『てめえ抜かしやがったな。結果も残してねえ奴が偉そうなこと抜かすなって……だったら、てめえはどうなんだよ!!』
バンセイフガクの脚は止まらない。最早鹿毛の馬の言葉にすら価値を見出していないように。
そんな姿から察したのだろう。鹿毛の馬は眉間に血管が浮かび上がり、絶叫する様に啖呵を切った。
『上等だ……上等だぜこの野郎! そこまで言うなら強くなってやる! てめえよりもな!! このシリウスシンボリを! ここまで虚仮にした事を死ぬほど後悔させてやるってんだよぉッ!!』
バンセイフガクと鹿毛の馬――シリウスシンボリ。
今はただの競走馬候補でしかない二頭だが、この先何度もレースでぶつかり、後に日本の競馬界の歴史にとてつもない伝説を刻む事になるとは、この時誰も思わなかった。
1t並の馬を競走馬にする場合実際問題どうすりゃいいのと調べていたら競馬施工規定に軽種馬なら良いよみたいな文面が書かれてあったので、じゃあ血統がサラブレッドなら1tでもいけるのか……? という理屈で正式に競走馬になる様な筋道を作って登録させてみました。
今後長い付き合いになるであろうシリウスシンボリの登場です。性格はシンデレラグレイを参考にしてます。
この作品内でのシリウスシンボリは正史とはだいぶ違う事になると思います。
なお現在の2頭の互いの認識は以下の通りです。
・バンセイフガク→シリウスシンボリ
面倒くさいチンピラ。
・シリウスシンボリ→バンセイフガク
プライドを踏み潰されて何かがブチ切れる。
レースで勝負する事になったら負かせた後徹底的にコケおろしてやる。
ざっくりした出会いのイメージはあしたのジョーの特等少年院内での力石徹と矢吹ジョーのみたいなノリです。