いざ、神の山がまかり通る   作:ニンジンデース

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タグのR-15が活躍するお話です。
ただ、主人公達お馬さんがどうこうなるのではなくて、山から下りてきた誰かさんがという事になります。サブタイトルでもろバレですけど。


第7走 熊殺しの馬

 デビュー戦まで時間があるので、バンセイフガクと舞田厩舎陣営はその期間を利用してじっくりと調教を行う事にした。

 舞田厩舎の人間達がバンセイフガクと言う今まで見た事のない性質の競走馬を理解するための準備期間という意味合いが強かったが、おかげでバンセイフガクの事について人間達も色々と分かった事がある。

 

 

 パワーは外見通りと言うかそれ以上で、いつも調教でダートコースを走らせているのだが、その時タイムを計ってみたら同じ距離の重賞レースの今年優勝した馬のタイムより速い記録が出て、一同は計り間違えたのかと目を疑ってしまった。

 場合によってはダートへの転向も可能という選択肢が又則達の脳裏をよぎるが、もう一つの可能性も浮上する。海外遠征である。

 海外――西欧の競馬コースに使われる芝は日本の芝とは質が異なり、走る際はダートの様にパワーを要すると言う。気の早い話だが、今後の活躍次第で海外遠征に赴いてもこれならパワー負けする事はないのではと一同に期待が持たれた。あとはこのでかい図体でも出走させてくれるかなぁと言う不安も同時に各々の胸にちょっと湧いた。

 

 スピードは並の重種馬以上の巨体からは考えられない速度を叩きだした。全身の発達した筋肉がそれを可能としているのだろうが、それでダートの重賞レース優勝馬より早い記録を出したのは驚異的である。

 調教場には芝のコースもあるので走らせてみても速度が落ちるどころか、更に速くなったので厩舎のスタッフ一同の口元が引き攣った。こちらも同じ距離の芝の重賞レースの今年度優勝馬の記録を越えていたのだ。

 そんなバンセイフガクの走る様から「レーシングカーみたいに走れる重戦車」という評価が与えられ、同時にバンセイフガクには芝とダートの両方への適性が確認された。

 

 スタミナはちょっと競走馬とは思えないレベルだった。

 初日に1200mから1800mまで難なく走れたことでマイラー(中距離が得意な馬)並にはあるだろうと確信していたが、その後試しに将来を見据えて入念に体調をチェックをしながら2000m、2400m、3000m、更には3200mも走らせてみた所、力尽きる事無く元気よく完走してみせた。

 走らせた後も「もっと走らせろ」と言いたげに調教場から離れるのをごね、慎重に走らせてみてもちっともへばらない事から短距離のようなペースで長距離を走っても平気と言う底なしの体力を有している事が判明する。

 更に、走らせるたびに脚回りを中心として入念に馬体に異変が生じていないか確認してみたが、馬体は健康そのもので獣医にも確認してもらった所、とんでもなく体が頑丈だと言う事が分かった。

 恵護はこの話を聞いて「こいつ心臓がエンジンで、血がガソリンなんてことはないですよね? しかも骨格が超合金の」と訊ねられた又則は返答に窮し、「多分前世の両親はスポーツカーと戦車だったんだろう」と思わず返してしまうと、何故かバンセイフガクが変な顔で又則を見ていた。

 

 知能の方も馬とは思えない高さを見せた。

 担当厩務員である溝峰が呼べば手綱で引かなくても自分でやって来て、又則達が調教内容について打ち合わせていると顔をじっと向けてきて、調教が始まると溝峰や恵護が指示を出さなくても目的地へと向かって行く。入厩してからトレセン内の設備の場所を把握していたのだ。

 あまりに人の言葉に対する理解が深いので、恵護が調教場で走らせている時に手綱を捌かないで言葉だけで指示を出してみたらそれに見事従って走って見せた時の恵護の混乱は如何ばかりのものだっただろうか。

 普段は軽やかに乗り降りするのが嘘の様によろよろとずり落ちるようにして降りるや「親父、俺は馬に乗ってるんだよな? 未来のマシンに乗ってるんじゃないよな?」と思わずプライベート仕様の口調でトチ狂った事を言う息子を又則は責められなかった。

 

 

 

「……怪物と呼ばれる馬は何頭か見てきたが、こいつほど怪物って言葉が似合う馬は初めてだ。間違いなく突然変異なんだろうが、こんなケースは見た事が無い」

 

「そこはテキ、フガクを生んだバンセイフジの努力の賜物だとでも思って素直に喜んでおきましょう。良かったじゃないですか、こんな優秀な馬を任せてもらえたんですから」

 

 常識外れなポテンシャルに困惑する又則に、舞田厩舎所属の調教助手を務める槇村(まきむら)が笑って宥める。

 実際バンセイフガクは馬よりも厳つい顔と睨みつけるような眼光と、気位の高さを感じさせる所があって近寄りがたい雰囲気を放つが、基本的に聞き分けが非常に良い馬だった。

 だが言われるがままの従順というわけではなく、その指示がこの場で正しい事なのだという理解して従っている。

 以前若い厩務員がバンセイフガクが頭が良くて人間の言う事をよく聞くから、冗談でちょっとした芸でも覚えないかと仕込ませようとした事があったのだが、汚物を見るような冷たい目で眼で睨みつけながら鼻息を吐き付けてそれ以降その厩務員は無視されるようになった。加えてその厩務員は又則達に怒られた。

 

「しかし困ったのは併走相手がいない事だ。あの様子じゃ他の馬が駄目になってしまう」

 

 ポテンシャルの高いバンセイフガクだが困った事がある。調教の際に並走相手になる馬がいないのだ。

 前に厩舎内の管理馬と一緒に併走させてみたのだが、根本的に速さやスタミナも違い、更にはあの威容も相まって最終的に相手の馬が怯えるようになってしまい、闘争本能の引き出しや競走感覚を養わせる所ではなくなってしまったのだ。

 なので現在のバンセイフガクは単走での調教のみで行わせている。幸いな事にバンセイフガクが真面目に鞍上の人間の指示に従っているので調教は上手くやれている。

 

「もし相手が務まるとしたら、うちじゃミスターシービーくらいしかいませんね。二頭とも見た感じ仲は悪くないみたいですし、やろうと思えばやれると思います。ですが……」

 

「ああ、危険だな。ミスターシービーの脚に負担をかけさせたくない」

 

 ミスターシービーはミスターシービーで、他の馬と併走させようとすると荒れる癖がある。

 他にもミスターシービーの体質な理由があって、下手に競争根性を出させて走らせるのはリスクが高い。

 加えて、ミスターシービーは無敗で連勝を重ねて、今六冠目に挑もうとしている大事な時期だというのも大きかった。

 

「フガクは単独での調教を続ける。元々の身体能力の方は高いから、走りのバランスとフォームの改善を重点的にやるぞ。あいつはまだまだ強くなれる」

 

 そうしてバンセイフガクへの理解を深めながら、それを基に調教メニューを組んでいく又則率いる舞田厩舎一同。

 だが、まだ人間達はバンセイフガクの事を完全に理解しきってはいなかった。

 それを思い知る事になるのは、8月に入ってからの事である。

 

 

 

 

 8月に入っていよいよ夏真っ盛りの暑さを迎えた美浦トレーニングセンター。

 馬達への暑さの負担も考慮して、調教の開始時間が最も早く、終わるのも早い時期になった今日この頃。

 

 恵護が手慣れた様子で体高200cmのバンセイフガクの背へ乗り込み、ウォーミングアップで厩舎の周りを回った後に森林馬道を歩かせていた時の事だった。

 

 他の厩舎の馬もまばらに歩いている中をバンセイフガクものしのしと悠然と歩いていたのだが、突然その脚が止まった。

 

「? フガク、どうした?」

 

 普段こんな事が無かった恵護はバンセイフガクに呼びかけるが、当の馬は林の並ぶ茂みの方へ顔を向けたまま恵護に何のリアクションも返してこない。

 それを見た恵護は怪しんでバンセイフガクと同じ方向に目を凝らす。

 

 するとその視線の先の茂みの方がガサガサと音が鳴り、ソレが現れた。

 

「は?」

 

 茂みから姿を現した存在に恵護は呆然とし、血の気が引いた。

 

 黒い毛皮に胸元だけ白い三日月状の斑紋、地に付けた四つ足の先に備わった鋭い爪、顎の強さを感じさせる太い顔。

 そして立ち上がれば人間並みに大きな体格を持つ猛獣、ツキノワグマがいたのだ。

 

「く、熊……ッ!?」

 

 恵護は叫びそうになる口を慌てて片手で塞いだ。叫んで熊を刺激させないために。

 

(嘘だろ……熊の出没警報なんて出て無かったじゃないか……っ)

 

 馬という動物を取り扱う競馬関係者の人間にとって熊のような猛獣の存在は死活問題だ。人も馬も襲われれば怪我は免れないし、最悪食い殺されてしまう。

 そう言う関係上もし美浦近辺で熊が出没すれば即座に情報が出回って来る筈なのだが、今回に限ってそれが無かったのだ。

 

(まずい、下手に刺激しないように逃げないと――)

 

 恵護がバンセイフガクへそっと逃げるように指示しようとしたその時だった。

 恵護達の近くを歩いていた馬が熊の存在に気が付いて、悲鳴を上げて暴れ出してしまったのだ。

 

『うわあ! 熊だ! 熊だぁぁぁっ!?』

 

 その叫びが周りにいた馬達にも伝搬し、森林馬道は混乱の只中に陥った。

 

『何ぃ!? 熊だって!?』

 

『逃げろー! 喰われちまうぞー!?』

 

『冗談じゃねえ! でかいレースも走ってねぇ内に死んでたまるか!!』

 

『やだぁ! 助けてえぇーー!』

 

「うわ!? なんだ、どうした!?」

 

「おちつけお前……ぐおっ!?」

 

 恵護達の近くにいた騎手は事態を理解して馬を必死に宥めながらもその場から退避してみせ、遠くにいた騎手も逃げる馬達の鞍上の騎手から話を聞いて血相を変え、馬を必死に操りながら一緒に逃げて行った。

 

 

 その中でもっとも出遅れたのは、よりにもよって熊に一番近い位置にいる恵護&バンセイフガクペアだった。

 

――グウゥゥ……グアアァー!!

 

 一組の前には、馬達の悲鳴に刺激されて興奮状態の熊が一頭。

 興奮のあまりに唸り声を上げ始め、口から涎を垂らして今にも襲い掛かってきそうな気配を放っている。

 

「フガク、逃げるんだよ、何で動かないんだ!?」

 

 恵護は手綱と言葉でバンセイフガクに逃げるように指示を出すが、一向に動く気配が無くて焦る。

 

 まさか、恐怖のあまり動けないのか?

 恵護はそんな可能性が浮かんだが――

 

 

 

 ――バンセイフガクは怒り狂っていた。

 光を吸い込む程の黒さ故に見づらいが、怒りのあまりに顔面の筋肉が隆起し、血管が浮き上がって馬からかけ離れた悍ましい形相を浮かべていたのだ。

 

『おい、馬糞(まぐそ)野郎……誰に汚いツラを向けている』

 

 目の前の熊は、バンセイフガクの事を食いでのある獲物としか見ていなかった。それ以上の感情を持たず、ただ食欲を満たす為だけに目の前に置かれた活きの良い食料としか見做していなかったのだ。つまり、舐められているのだ。

 それを眼前の熊の表情から目敏く察したバンセイフガクの機嫌が急降下し、怒りが徐々に殺意へと変換されていく。

 

 熊がバンセイフガクへ駆け出した。鞍上の恵護がバンセイフガクを必死に逃がそうと指示を出すが、微動だにしないバンセイフガクに絶望の表情を浮かべる。

 

 熊とバンセイフガクの距離が縮まり、いよいよ3m内にまで近づいて来た。極限状態の恵護の瞳孔が揺れ、呼吸が荒くなる。

 

 そこで初めて、バンセイフガクはゆらりと右前脚を高く上げた。

 

 とうとう、熊はバンセイフガクへと飛び掛かった。

 

「フガクゥーーーッ!!」

 

 

 

 

『頭が高いわぁッ!!』

 

 恵護の叫びが森林馬道を木霊する中で、それは決まった。

 熊の爪牙が届くより早く、バンセイフガクの右前脚がぶれて見える程の速さで振るわれ、それが熊の顔面へと叩きつけられたのだ。

 

 ボギャァッ! と骨肉が潰れ、砕ける音が鳴り響くとともに、熊の体が横に吹っ飛んだ。

 敷き詰められたウッドチップの上を熊がボールのように転がっていく。

 

 

――あ゛ぎゃあ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!?

 

 熊が絶叫しながらその場で狂ったようにのたうち回りだした。

 その顔は、左半分が目に見えて拉げ、下あごは千切れかけでだらりとぶら下がるような形で何とか顔と繋がっている無惨な姿を晒していた。

 熊はバンセイフガクが繰り出した右前脚の一撃で、その頭部を半壊したのだ。

 最早バンセイフガクに対する敵意などなく、自分の身に降りかかった事態に錯乱して狂った人形の様に手足を振り回して地面を転げ回るしか出来ないでいた。

 

『大人しく故郷の山で木の根でも齧っておれば良かったものをなぁ』

 

 バンセイフガクが狂乱する熊へとゆっくりと蹄を踏みしめながら近づく。

 そして一定の距離まで近づくと、今度は勢いよく跳び上がった。

 

『このド畜生がッ!!』

 

 2m近い高さを軽々と跳んだバンセイフガクの着地先は、今まさに仰向け状態で暴れる狂う熊そのもの。

 1tを越えるバンセイフガクの全体重をかけた四つ脚が、凄まじい着地音とともに熊の胴体と頭を踏み砕いた。

 

 

 バンセイフガクの重量、そして跳躍した高さ、更に全身の卓抜した筋力が加味された踏みつけは熊の肉体を容易く粉砕し、その勢いで辺りに血と内臓、脳漿が盛大に飛び散った。

 返り血を浴びたバンセイフガクは、それに不快気に鼻息を吹かすと前脚で絶命した熊の死骸を蹴り転がして退かした。

 

『ふん、イモ臭い血が付きよったわ……ん?』

 

 そこでようやく頭に昇った血が下がり、鎮まったバンセイフガクは鞍上の騎手の事を思い出して背中を振り返った。

 

「…………」

 

 恵護はバンセイフガクに必死にしがみ付いたままだった。

 手綱を手に持ったまま、バンセイフガクの背中に手足を使って全力でしがみ付いていたのだ。

 顔もフガクの背に埋めている形なので前が見えよう筈もなく、バンセイフガクは背中から僅かに震えを感じている。

 

『お前、逃げなかったのか』

 

 競馬の騎手と言う人種をバンセイフガクはまだよく知らないが、本当に命の危険に晒されたら馬から降りてでも逃げるものだと考えていた。

 しかし、この男は違った。自分も熊に襲われるかもしれないのに、逃げずに自分の乗る馬にしがみ付く選択を取ったのだ。

 

『……ふふ』

 

 先程まで魔獣もかくやと言う恐ろしい形相で怒り狂っていたバンセイフガクは、破顔した。

 

『く、ふふ……ははは……っ はぁーっはっはっはっは!!』

 

 バンセイフガクは笑った。人間には地鳴りのような雄叫び声を上げているようにしか聞こえないだろうが、その時バンセイフガクは生まれて初めて笑ったのだ。

 

『気に入った! いいぞ気に入ったぞ! 舞田恵護!!』

 

 バンセイフガクにとって、恵護とはレースで走るために必要な人種で、今までビジネスライクな付き合い程度の認識でしかなかった。

 だが今は違う。この男の為した事がとても嬉しく、この男になら背中を預けたいと心の底から思ったのだ。

 

『俺の騎手を務める男なのだ! 俺と地獄まで心中しようって腹の据わった奴でなくてはなぁ!!』

 

 バンセイフガクの馬体がはねる。まるで生まれて幼い仔馬が無邪気に跳ねまわるように。

 

『決めたぞ! 俺はお前を背に乗せて世界の頂点に立ってやる! そこからの眺めは最高だろうなぁ!!』

 

「ん、んが、ぐ、んご――――おあっ? あれ?」

 

 バンセイフガクが跳ねているとようやく恵護がよろよろと顔を上げるが、その表情は寝ぼけた様にぼんやりとしていた。

 どうやら意識を失っていた様だ。眼が覚めたばかりで意識が混濁したまま視線を彷徨わせていると、恵護が起きた事に気が付いて振り向いたフガクと眼が合った。

 

『よう、御目覚めか大将』

 

「あぁ、フガ……くー!? くま、熊どこいった!?」

 

 恵護の意識が一気に覚醒し、慌てて周りを見渡すと、近くに頭が砕けて中の体液を垂れ流している熊の亡骸が目に映った。

 

「し、死んでる!? 何で!?」

 

『なに、躾けのなっていない田舎者をちょいとひっぱたいてやっただけよ』

 

 バンセイフガクが機嫌よく嘶きながら返すが、勿論その言葉を人間が理解できるはずもなく、そもそも恵護はそれどころではなかった。

 

「そ、それよりフガク、お前体は大丈夫なのか!? 怪我とかは無いのか!?」

 

『ふふ、心配してくれるのか? ご覧の通り、この程度で怪我する程軟には出来とらんのさ』

 

 

 それから間もなく又則やトレセンのスタッフ達が慌てて駆け付けて来た。

 又則はバンセイフガクの脚回りが血で濡れている事に気が付いて青ざめるが、バンセイフガクの様子と近くにあった熊の死体から何が起こったのかを察して信じられない様子で恵護へ何があったのか問いただすが、当の本人がその時気を失っていたので詳しく説明しようがなく、誰も真実を知る者はいなかった。

 

 

 その後通報で駆けつけて来た熊対策を施した警察達がやって来るも、すでに熊は頭と胴体が潰された死体となり、現地のトレセンの関係者達の証言から馬が殺した可能性が高いと聞かされた時は誰もがあまり信じていなかった。

 しかし、バンセイフガクの姿や前脚の蹄鉄に熊の毛や肉がこびり付いていた事や現地の状況からそれが真実である事が判明して、警察一同が仰天していた。なお、警察が最初に熊の死体を見た時「どうすればあんな死に方になる?」と口から漏れたとか。

 

 馬主の万世も当日の内に連絡を受けて驚き、仕事を片づけて慌てて美浦トレセンへと飛んできた。

 怪我が無いらしいのは聞いていたが、流石熊に襲われたと聞かされたら気が気ではなかったので、バンセイフガクの無事が確認できると心底安堵し、警察の事情聴取を受けていた。

 

 そしてこの件は美浦トレセンからその母体であるJRA(日本中央競馬会)へ即座に報告が上がってちょっとした騒ぎになった。

 美浦トレセンの敷地内に熊が現れた事は大問題だが、競走馬がその熊を無傷で殺したなど前代未聞の事態だった。

 最初は中央競馬会側も馬が熊を殺すなど何かの間違いではないかと信じていなかったのだが、警察も現地を検証して確認しており、中央競馬会側から人間が派遣されて現地で警察やトレセン関係者達から改めて詳細を聞かされて、中央競馬会側の人間は絶句していた。

 それから当事者である馬を直接見に行き、その姿から「あぁ、これなら殺せるな、うん」と表情が死んだ顔で納得しながら帰って行った。

 尚、警察は今回の件で誰それに何か措置をとるという事はしなかった。

 野生動物の熊が美浦トレセンで管理している馬に襲い掛かって来たのを、馬が自衛で殺してしまったという事で咎める理由にはならないという形におさまったのだ。

 むしろ茨城県警の方から今回熊の発見が遅れてしまった事でこの事件が起きてしまったと、舞田厩舎や美浦トレセンに対して謝罪があったくらいだ。

 

 だが、JRAからバンセイフガクに対して二週間の謹慎処分も兼ねた検疫馬房行きが下される。

 理由としては、前者は熊を殺せるほどの力を持った馬が本当に安全なのかを確認するため。後者は、野生動物の熊に直接接触――しかも脳漿や血液が体に付着していた事で感染症や寄生虫の存在が危惧されたから。

 舞田厩舎と馬主の万世も前者の理由だけなら敢然と抗議していたが、後者の感染症などの対策も兼ねた措置となれば文句を言うに言えず、素直にその指示に従う事となった。

 

 

「野生動物経由の感染症か、盲点だった……フガクが熊を殺した事実だけに眼が行き過ぎて肝心な事を見落としていた」

 

「まぁ良いじゃないか。人も馬も被害が出なかったし、文句垂れて時間が巻き戻ってくれるわけでもないんだ」

 

 JRAから沙汰が下った数日後、美浦トレセンの打ち合わせスペースの一角で又則と万世が缶コーヒーを飲みながら黄昏るようにぼやいていた。

 調教のスケジュールが二週間もおじゃんになった又則ががっくりとうなだれる様を万世が苦笑しながら宥めている。

 

「そう落ち込むなって又さん、そんでフガクの調教具合はどうなんだい? 前訊いた時は順調だって言ってたろ?」

 

「……フガクが素直に従ってくれているから問題なく進んでいた。検疫明けの後もレースまで余裕があるから追い切りも出来る。しかし、二週間、もったいない、嗚呼、もったいない……」

 

「不幸中の幸いはデビュー戦を9月にしていた事だな。これが早い日程で組んでたら面倒くさい事になってたぞ」

 

 熊の襲撃が起きたのは8月の初旬、そこから二週間の謹慎があっても9月9日の新馬戦まで時間があるので、調整には十分間に合う。

 

「しかしフガクめ、熊をぶち殺すとはやるじゃねえか。……熊殺しのフガクとかで有名になったら面白いって思うのは俺だけかね?」

 

「有名になってどうする。熊殺すのとレースで走るのじゃ全然関係ないだろうが。俺達は闘犬育ててるんじゃないんだぞ」

 

 万世も電話で又則からバンセイフガクが熊に襲われたと聞かされた時は流石に肝を冷やしたが、現地で詳しく聞いてみればバンセイフガクが熊を無傷で返り討ちにして踏み殺したというので思わず笑ってしまった。

 熊を前にして臆さない気骨と傷一つ負わずに熊を殺してみせた事がツボに入ったらしい。

 

「それで、フガクは今検疫馬房の中か?」

 

「ああ、しかも機嫌良く過ごしてる」

 

「機嫌が良い? 隔離されてるのにか?」

 

 万世は又則の話に怪訝そうに聞き返すが、又則は目を細めて何かを思索する仕草を見せながら話を続ける。

 

「あの一件からそんな調子でな。原因がよく分かっていないんだが……」

 

 るんるんと担当の係に連れられるがまま足取り軽く検疫馬房へ行くものだから、舞田厩舎一同は顔を見合わせてしまったものである。

 その後も機嫌が悪くなったり暴れたりする様子もなく、粛々と検疫を受けて大人しく過ごしリラックスした様子で馬房内で寝転んで10時間近く爆睡している事もあると言う。全くの謎であった。

 

「……まぁ、問題を起こしてこれ以上スケジュールが狂うよりはマシだと思っておく事にした」

 

「うーむ、デビュー前から逸話を作るとは流石はフジの仔、将来大物になるなこりゃ」

 

「…………楽さんのそういう所が羨ましいよ」

 

 

 

 

 多くの人間達がやきもきしながら時は経ち、バンセイフガクは無事に検疫を終えて舞田厩舎へ戻って来た。

 検査の結果、バンセイフガクの馬体に感染症や寄生虫の反応は無し、極めて健康体だとの太鼓判付だ。

 検疫馬房に入る前と変わらないバンセイフガクの様子に厩舎の人間達はホッと胸をなで下ろしながら迎えた。

 

『よう恵護、二週間ぶりだな』

 

「う、おぉぉ? フガク、元気そうで良かったけど、どうした? やけに懐いてくるな」

 

 バンセイフガクが一緒に出迎えに来た恵護に尻尾を振りながら機嫌よく鳴いて鼻を摺り寄せて来るのに、恵護が当惑しながらも鼻筋を撫でた。。

 普段バンセイフガクがここまで誰かに懐くようなしぐさをするなど馬主の万世やその家族くらいだったので、ここまで恵護に対してバンセイフガクが信頼の表現をするなど初めての事だった。

 

 そんな一人と一頭の姿を意外そうに厩舎の人間達が見る中、又則が気を引き締めるように本題に入った。

 

「フガクが無事に戻って来たのは不幸中の幸いだ。何せ検疫で二週間も時間が潰れている。デビュー戦までまだ時間に余裕はあるが、だからこそ万全に仕上げておきたい」

 

 新馬戦までまだ3週間近くはある。色々と予定していた調教スケジュールが二週間分消えてしまったのが悔やまれるが、バンセイフガクのポテンシャルならばロスタイム分を取り戻すのは十分可能だと又則は見ている。

 だが、と又則は腕時計を見てため息をつく。

 

「調教するには時間が経ち過ぎてるし、フガクも検疫明けだ。今日は馬房で休ませて、明日からいくぞ」

 

『何だ、走らんのか? 俺は暇と力が有り余っているんだが』

 

「テキ、何かフガクが走りたがってるみたいなんですけど……」

 

「……明日まで我慢しろフガク。明日はみっちりやるから今日は休め」

 

『……しょうがないなまったく』

 

 拍子抜けしたバンセイフガクが不満を訴えるように鼻を鳴らしはじめるのを見た又則が困った様子でそう言うと、バンセイフガクは一際大きな鼻息を吐くと大人しくなった。

 

「……今、テキの言葉に従いましたよね?」

 

「やっぱりこいつ絶対人間の言葉理解してるよ。しかも会話が分かるくらい」

 

「芸とか教えたら覚えそうだよなぁ」

 

「何を抜かすかお前ら、俺達の仕事はレースで勝てる競走馬に鍛える事だ。各自仕事に戻れ、溝峰はフガクを馬房へ連れて行くように。以上、解散!」

 

 ざわつく厩舎の人間達を又則が一喝。集まった者を仕事に戻らせ、バンセイフガクが溝峰に馬房へ連れていかれるのを見送ると、一人呟いた。

 

「言葉を理解する、か」

 

 馬の中にはまれに頭の良い馬がいる事は知っている。

 だが、人間の言葉を正しく理解して行動に移せる馬がいるかと言われたら又則は聞いた事がない。

 バンセイフガクは、人間の言葉を理解して反応している事が良くある。偶然ではなく、確かに反応していたのだ。

 更には、その言葉を理解して人間側が求めた事を指示が出る前に先んじて動く、何て事もやってのけている。

 

 もし、そんな馬がレースでその頭脳を活かす事が出来たらどうなるのだろうか。

 並み居る競走馬をものともしないポテンシャルを肉体に秘め、その身体に高い知性が……人と同等の頭脳が加わったら。もし、そんな馬が現れたとしたらそれは――。

 

(――競馬界が、競馬の歴史がひっくり返るかもしれない)

 

 心の内でそう結論付けた時、脳裏にバンセイフガクの姿が浮かんだ又則は掻き消す様に顔を横に振ると溜息をつき、自分も仕事に戻っていった。




変だな、これ競馬のお話で、もっというと元々はウマ娘プリティーダービーを書こうとしていたんですのよ?

最初とどめは噛み殺すで考えてましたけど蹄でぶん殴ったり踏みつける方がリーチ的にも理に適っていそう(?)なのでこの様な形で熊殺しを成し遂げました。
でも実際に競走馬が正当防衛で熊とか猪を蹴り殺すなりした場合はどうなるんでしょう。何らかのペナルティが課せられたりするのでしょうかね。

あと実際美浦トレセン周辺にクマが出没するのか調べてみましたら、どうやら過去に美浦近辺で出没した事があるそうなので、不可能じゃないかなと思い脳内でGOサインを出しました。
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