桑山千雪とかいうやべー新人アイドル
俺は283プロに勤めるプロデューサーだ。
入社してまだ数ヶ月程度しか経っていないが、なんとこんな俺でも実際にアイドルをプロデュースすることになった。
そのアイドルというのが、今俺の目の前に立っているジャージ姿の彼女——桑山千雪さんだ。
彼女と出逢ったのは約一週間前。
俺がアイドルのスカウトのために街に繰り出していた時、偶然彼女に声を掛けられたのだ。
曰く『ボタンが取れかかっているのが気になった』らしく、彼女は手慣れた仕草で俺の袖のボタンを見事に直してくれた。
実際に話してみて感じた抱擁力、優しげな雰囲気に惹かれた俺は彼女をアイドルにスカウトしたのだった。
今日はそんな千雪さんの記念すべき初レッスンの日だ。
俺は入念に準備体操をする千雪さんに話し掛けた。
「随分準備体操するんだな」
「レッスン中に足を挫いたりするといけませんから」
「ははっ、千雪さんはしっかりしてるな……」
そこまで言ったところで、俺は思わず口を覆った。
自分が犯した失態に、事が終わった後でようやく気付いたのだ。
千雪さんは少しだけ不機嫌そうな素振りで俺に言った。
「だから、千雪“さん”だなんて呼ばないでください!」
だから、会って一週間も経ってないのに、そんな馴れ馴れしく接するのはダメだろ……。
喉の奥から湧き上がった言葉を俺はグッと押し込めた。
彼女は初対面の頃からそうだった。
俺に他人行儀で振る舞われることを極端に嫌がり、まるで気心の知れた親友同士か長年連れ添った夫婦のような距離感で接してくる。
俺はまだ彼女のことを深く知らないのであまり言えたものではないが、これがアイドルとプロデューサーとして適切な距離感なのだろうか?
少なくとも、千雪さんは俺に一定の信頼を寄せてくれていることだけは確かだった。
アイドルとしてプロデューサーのことを信頼してくれるのは嬉しいが、今の俺が彼女の信頼に応えているとは到底思えない。
もっと頑張らないとな、と思いつつ俺は苦笑を漏らした。
「分かったよ……千雪」
「はい、満点です♪」
「……あのな、千雪。千雪はアイドルで、俺はプロデューサーなんだ。もっとこう……ちょうどいい距離感とかは考えな——」
「プロデューサーさん」
全身が凍り付くような、極寒の声に俺は震え上がった。
「アイドルだから、プロデューサーだから。そんな風に勝手に線引きをして、あらかじめ距離感を設定するのは逆効果です。円滑なコミュニケーションのためにも、最高のアイドル活動のためにも、私たちはお互いに最高のパートナーとして接しないといけない……違いますか?」
「い、いやでも……」
「私はそうじゃないとイヤなんです」
「え、えぇ……?」
それがアイドルとの正しい距離感なのか?
ただ千雪がアイドルについて誤解してるだけじゃないのか?
でも、ここで千雪の言う通りにしないと今後の活動に影響が出るかも……。
そんなことを考えている間にも、千雪はゆっくりと俺の方へ歩み寄ってくる。
その口元には薄い笑みを湛えているが、目が笑っていない。
俺の眼前まで歩み寄ってきた千雪が、愛おしげに俺の頬に手を当てようとしたその時——
「おはようございまーす!」
ダンスレッスンを担当するトレーナーさんがレッスンルームに入ってきた。
最初のレッスンはプロに見てもらうのが一番だろう。と言って、社長がこの日のために呼び寄せたのだ。
——助かった。
千雪は俺からパッと離れて不満そうな顔をしていたが、遂にレッスンが始まった。
今日は基本的な運動能力を測ることが目的の簡単なダンスレッスンだ。
振り付けも簡単で、十数分ほどトレーナーさんから教えられると実際に音楽に合わせてダンスをすることになった。
初めてだからまぁ様子見だな、と高を括っていた俺は、背中を壁に預けて千雪の様子を眺めることにした。
だが俺は数十秒後、自らの目の前の光景に絶句することになる。
スピーカーから音楽が流れ始めた瞬間、千雪の雰囲気が一変した。
ただ振り付けを完璧にこなすだけの無機質な動きではない。
一挙手一投足に『楽しい』という感情が詰まった、見る者の心を一瞬で鷲掴みにするような動き。
「……なんて動きだ」
手先まで意識が行き届いた、『魅せる』ためのダンス。
まるで何年も稽古を積んだプロダンサーのように洗練された動きに、 俺はひたすら圧倒されていた。
少なくとも、初心者の動きではない。
ダンスの腕前はトップアイドルの域に達していると言っても過言ではないだろう。
やがて音楽が終わると、千雪はこっちを向いて満面の笑みを見せた。
「どうでしたか、プロデューサーさん!」
「……凄い、完璧な動きだったよ」
「ふふっ♪ ありがとうございます」
そう言って柔和に微笑む彼女に、俺は思わず尋ねた。
「なあ、千雪って雑貨屋さんで働いてたんだっけ?」
「そうですけど……どうかしたんですか?」
「いや、とても良い動きだったからさ。前にダンサーとかスポーツ関係の仕事に就いてたのかなって思ったんだ」
「ふふっ、褒めてくださってるんですか?」
「ああ」
あのダンスは、アイドルを読み漁るなどして勉強をしているとはいえ半ば素人同然の俺から見ても凄まじい気迫を感じた。
それに振り付けの一つ一つも洗練されていたし、物怖じしている様子も無かった。
まるであのダンスを知っていて、既に何度も何度も練習したかのような——。
「それにしても、そのダンスってどこで習ったんだ?」
「自分で頑張って身に付けました」
「……え、独学でそのレベルに……?」
千雪の返答に俺は言葉を失った。
ふと視線を動かすと、千雪の肩越しに俺と同じように絶句しているトレーナーさんの顔が見えた。
「いつくらいから、練習し始めたんだ……?」
「えっと……四歳、くらいでしょうか」
「四歳から、ずっと……?」
「はい。
……だって、ずっとずっとずーっと待ってましたから」
「…………えっと、それは、アイドルになるのを?」
「はい」
それなら他の事務所が定期的に開いているオーディションに行けばよかったのに。
そう言おうとしたところで、踏みとどまった。
俺をじっと見つめる千雪の眼の中に、何か執念にも似た恐ろしい感情の片鱗を見たような気がしたからだ。
あれほどの完成度なら、どんな事務所だろうと千雪のダンスを見た瞬間、一瞬で千雪に合格通知を叩き付けただろう。
だがそれを千雪がしなかったということは、それ相応の理由があるというわけで——
「……と、とにかく凄い上手で驚いたよ。これならすぐにでも本格的なレッスンに入れそうだ」
なんだかそれが、絶対に触れてはならない秘密であるような気がして、俺はその理由を訊けなかった。
「……プロデューサーさん」
「な、なんだ?」
「私を見つけてくれて、本当にありがとうございます」
「あ、ああ……」
その後日行われたボーカルレッスン、ビジュアルレッスンでも千雪は凄まじい技術と卓越した実力を見せた。
これなら基礎を固める基本的なレッスンを一気に飛ばして、手頃なオーディションに参加してみるのもいいかもしれない。
——とんでもない逸材をスカウトしちゃったな。
そんなことを考えて、俺は早速オーディションの応募を探すことにした。
幼い頃から、私には前世の記憶があった。
正確には言えば、前世ではないのかもしれない。
記憶の中の私も『桑山千雪』だったし、お父さんやお母さんも、幼稚園から出会ってきた友達の顔も名前も全部一緒だった。
前世のことの全てを覚えている訳ではないけど、沢山の記憶の断片を集めてみると、一つ分かったことがあった。
それは、『桑山千雪』がアイドルだったこと。
可愛い双子の女の子とユニットを組んだり、ライブで歌ったり、水着を着て写真を撮ったり、番組に出演したり——まるで夢のような時間を過ごしていた記憶が、いくつも私の頭の中に転がっていた。
そんな中でも一番記憶に残っていたのは、私の隣にいつも寄り添ってくれていた男の人のこと。
背が高くて、カッコよくて、どんな時にでも側にいてくれる、世界で一番大好きだった人。
それがプロデューサーさん。
『桑山千雪』はアイドルを引退した後彼と結婚したらしく、朧げながらも息子か孫に囲まれて幸せそうに笑う私たちの記憶が残っていた。
私は小さい頃からそんな幸せな記憶を何度も何度も思い返して、その度に思っていた。
もう一度アイドルになりたい。
もう一度彼と添い遂げたい。
そう強く願い続けているうちに、私は23歳の誕生日を迎えた。
そして遂に、私はあの日を迎えることとなる。
記憶に深く刻み込まれた、忘れもしないその日に、私はあの場所へ向かった。
裁縫道具をカバンの中に入れて、可能な限りおめかしをして、記憶の通りに彼と巡り会えるように。
故も知らない、前世の記憶。
断片的にしか覚えていない記憶に信憑性は無いかもしれない。
でも、また彼と出会い、同じ夢を見れるなら。
そんな細い一縷の希望にもしがみ付きたかった。
不安と期待を抱えて、記憶通りの場所に到着すると、私は人混みを見回した。その中に、見知った顔があることを祈って。
ふと、息を飲んだ。
人混みの中に紛れていた、見覚えのある顔。
彼だった。
同じ日付、同じ場所、同じ瞬間に彼はそこに立っていた。
袖のボタンが落ちそうなシャツを着て。
身体が震えた。
初めて会ったはずなのに、私は彼がどんな人かを知っている。
かつて私をあのキラキラ光る大舞台へ導いて、そして一生を添い遂げた大事な人。
仕事に真摯に取り組んでいて、誰に対しても優しくて誠実で、コーヒーと牛丼が好きな、ちょっと抜けたところのある青年。
私は見えない何かに——記憶の中の『桑山千雪』に——背中を押されて歩き出した。
胸が高鳴り、顔が真っ赤になって熱を帯びる。
私は深呼吸をして冷静さを装うと努めながら彼の元に辿り着くと、震える唇で言葉を紡いだ。
「——あの、すみません。袖のボタンが落ちそうで、気になってしまって……」