「ふんふ〜ん♪」
陽気に鼻歌なんかを歌いながら、私は大通りを歩いていた。
今日は三日振りのレッスンの日——つまり、プロデューサーさんに会える貴重な日。
前世では、特に歳を取って二人で私の故郷である山口に引っ越してからは朝起きた瞬間から眠る瞬間までずっと一緒だったから、何日も会えない日が続くというのは新鮮だった。
まだ恋人になってすらいないこの人生で言うのは奇妙だが、その関係はまるでロミオとジュリエットのようだった。
最近は兼業で働いている雑貨屋さんでのお仕事が立て込んで、事務所に顔を出す暇が無かった。
三日振りに彼に会える——そう思うだけで、私の胸は少女のように高鳴っていた。
283プロの前に到着すると軽やかに階段を登って、事務所の扉の前に立つと手鏡を出して髪型を整えた。
入念なチェックを済ませると、息を整えて私は扉のドアノブを捻った。
「お疲れ様です♪」
「おう、千雪か」
プロデューサーさんはデスクでパソコンを操作していた。素早いタイピングの音から書類か何かを作成しているのだろう。
ああ、仕事をしてるところもカッコイイなぁ。
真剣な表情でパソコンと向き合う彼の姿を横目で観察しながら、私はソファに座った。
するとその時、彼は突然手を止めてパソコンから視線を上げた。
「あっ、そうだ千雪!ちょっと来てくれ!」
「はい、どうしました?」
私が彼の声に呼ばれてデスクの元へ向かうと、彼は興奮した様子で机の中から二枚の茶封筒を取り出した。A4サイズの書類が入る、角形2号の封筒。
プロデューサーさんはそれらを束ねて手に取ると、満面の笑みでそれを私の眼前に突き付けた。
「ほらこれ、283プロに入りたいっていう女の子が送ってきてくれたんだよ!」
「…………へ?」
「あ、言ってなかったっけ。今、新人アイドルの募集を掛けてるんだ。千雪だけじゃなくて、もっともっと沢山のアイドルが欲しいっていうことになってさ実際に募集し始めたのが一昨日なんだけど、なんと早速二通届いてたんだ!」
「まぁ!」
「千雪が来たら開けようと思ってたんだ。なんせ、千雪の初めての後輩だからさ」
どうやら私が事務所に来ない間にオーディションの募集を掛けていたらしい。
「千雪はスカウトだったけど、ほとんどの事務所はこんな風にオーディションを経てアイドルを見つけるんだ」
そんなこと、とっくの昔に知ってますよ。
だって、私はそのオーディションで受かった子達とアイドルをしていましたから。
私がアイドルだった時に現役で、オーディションに合格して事務所に入ったのは確か……灯織ちゃん、めぐるちゃん、恋鐘ちゃん、夏葉ちゃん、霧子ちゃん、智代子ちゃん……そして……。
…………?
「…………え?」
次の瞬間、頭に激痛が走った。
刹那、遠くから誰かの声が聞こえてくる。
『——たちはプロデューサーさんと結婚します!』
『にへへ……幸せにしてね? プロ……いや、——さん……』
それは記憶だった。
積み重なっていた過去の記憶の海。その最深部から突然、浮上する何か。
「ぅ……ぁ……」
純白のタキシードを着たプロデューサーさんの両隣を華やかなウェディングドレス姿の女性が挟み、三人でバージンロードを鷹揚とした仕草で歩いている。
赤茶けた長髪を半透明のベールで覆い隠し、その表情は穏やかな微笑に満ち満ちていた。
普通なら男女一組で歩くべき場所を三人で歩いているという、その異質な光景。
だが周りを見渡すと、出席者全員が笑顔で彼らの新たな人生の旅路を祝福している。皆、この異様な関係に納得しているのだ。
そこでようやく、私はその光景が何を指すのかを理解した。
それはかつての『桑山千雪』が体験した、前世の記憶——ではない。
『うっ……ぐすっ……ひぐっ……なんで……なんでぇ……!』
かつての人生で、私はこれほど惨めな思いで子供のように咽び泣いたことは無かったから。
「まだこの書類開けてないんだよ。先輩アイドルとして千雪の意見も貰いたかったからさ」
「レッスンまでまだ時間もあるだろ?一緒に書類に目を通さないか?もちろん、個人情報は見せないけど自己アピール書とかをさ」
「一体どんな子達なんだろうな、見るのが楽しみだよ!」
ダメ。
それだけは嫌。
だって彼は、私のものなんだから。
「……ち、ゆき?」
気付いたら私は手を伸ばし、プロデューサーさんの手首を強く握り締めていた。
まるで彼がその書類の封筒を開け、その中身を覗き込むことを拒むように。
ああ、ごめんなさい。
私が弱いばっかりに。貴方を信じれないばっかりに。
「私が」
自分でも恐怖を感じるほど冷たい声で私は言い放った。
「私が他のアイドルの分のお金も稼ぎます」
「……へ?」
「五人雇いたいなら五人分、十人雇いたいなら十人分、私が全部稼ぎます。事務所にお金も沢山入れます。だからお願いします。他のアイドルなんて、雇わないでください。貴方の視界に入れないでください」
私は彼の手首から手を離し、深々と頭を下げた。
幼稚な独占欲に駆られた面倒な女の所業だとは自覚している。
出会って数ヶ月の、今はまだ同じ職場の同僚が言うような言葉ではないとも理解している。
面倒な女だとも自覚している。
だがそれでも、彼が他のアイドルを見てしまうくらいなら恥を捨てた方がマシだ。
彼が昔から好きだったように、全裸のまま地面に這いつくばって土下座しても構わない。
前世と同じように23年間守り抜いてきた純潔を今ここで散らしても構わない。
都合の良い女でも構わない。
だからどうか——
「ずっと私だけの側にいてください」
長い沈黙。
カチカチ、と壁掛け時計が秒針を刻む音だけが部屋に響き渡っていた。
何分経っただろうか。あるいは数秒。もしかしたら数時間経ったかもしれない。
胸を押し潰すような静寂——それを破ったのは、プロデューサーさんだった。
「……いつもにまして情熱的だな」
プロデューサーさんが含み笑いと共に言った。
顔を下げたままなので、その笑みが表しているのが侮蔑なのか、好奇なのか解らない。
私はただ、唇を噛み締めたまま自分の靴のつま先を凝視することしか出来なかった。
「…………うん、分かったよ」
顔を上げて、と言ってプロデューサーさんは私の右肩にポンと手を置いた。
「……へ?」
私は彼の言葉が一瞬理解出来ず、呆然としたまま少しだけ顔を上げて、目線だけを彼の顔に向けた。
窓から差し込む太陽光の逆光になっているが、彼が口元に湛えていたのは穏やかな微笑みだった。
「……正直言って、安心したよ。千雪がこんな風に不満を口にしてくれてさ。今まで千雪って仕事もレッスンも全部完璧にこなしてて、躓くこととか失敗することも無かったから……」
プロデューサーさんは気恥ずかしそうに頬を掻いて目を逸らした。
「……千雪が俺を頼ってくれて嬉しい」
その言葉を聞いて、突然ポッと顔が熱を帯びた。
彼に愛を囁かれた回数は優に五桁は下らないとは思うけど、それでも久し振りに聞く彼の感情の吐露は私の身体を一瞬で沸騰させた。
「あー、ごめん忘れてくれ!」
どうやらそれは彼も同じだったみたいで、勢いよく椅子から立ち上がると、まるで私から距離を置くみたいに窓の方へズカズカと歩いていった。
「やべぇ……社長に何て言おう……全員不合格って言うか?でも納得させられるっていう保証は無いしなぁ……」
整髪料で整えた髪が乱れるのも気にせずに、自分の頭に手を置いてウンウンと唸る。
それが彼が、本当に悩んだり焦った時に見せる癖。
確かそれを見たのは……家で陣痛が始まった時、長男が学校で大怪我をした時、長女がアイドルになりたいと言った時、お義父さんが倒れた時、そして彼に末期がんが見つかった時。
やっぱり変わらないなぁ。
やっぱり彼は、私が世界で一番愛した人なんだ。
二回目でも彼は、私のプロデューサーさんだ。
私はクスリと笑みを溢すと、頭を抱えたプロデューサーさんの元へ歩み寄ると、その肩に腕を回してそっと彼を抱き締めた。
「大丈夫。私も一緒に社長にお話しするから。きっと分かってくれる……」
「……千雪」
プロデューサーさんは私の腕に手を掛けたけれど、払い除けようとはしなかった。
「…………私ね、ずっと怖かったの」
彼の肩に顎を置いて、私はそっと語り始める。
23年間、誰にも一度たりとも打ち明けたことのない不安を。
「誰かに知られたら気味悪がられるんじゃないかって思って、お母さんにも、お父さんにも、誰にも何も言わずに……ずっと『想い』続けてた。23年間ずっと……。でもね、やっとあなたに会えたから……」
私は彼を離さないようにと更に腕に力を込めた。
スーツ越しでも感じる彼の温もり。
思わず目尻に涙が浮かぶ。
ずっとずっと大好きだったこの匂い、この体温、この鼓動。
それらは記憶の中に残っていたものよりも鮮明で——ずっと温かかった。
「…………ねえ、——さん」
私は彼を肩書きではなく本名——呼び慣れた名前で呼んだ。
「私には誰にも話したことのない、すっごく大事な秘密があります。今はまだあなたにも打ち明けられないけど……いつか夢を叶えた時は、私の秘密を聞いてくれますか?」
「…………ああ、約束するよ」
そう言ったきり、プロデューサーさんは押し黙って何も言わなくなった。
それ以上言葉が見つからないのか、それとも恥ずかしがってるのを隠したいだけなのか。
でも鼓動はすごく早いし、耳もリンゴみたいに真っ赤っか。
(ふふっ……やっぱりこの人は……私の愛した人……)
私は目の前に立つこの人がとても愛しく思えて、ありったけの力で彼を抱き締めた。
ふとその時、視界の端にデスクの上に乗った封筒が見えた。
少し膨らんだその表側には大崎の文字。
それが二枚。
(……甘奈ちゃん……甜花ちゃん……)
きっとあの封筒に入った書類はあの二人——かつての人生で共にユニットを組んでいた、大崎姉妹が送ったもの。
この事務所にはスカウトじゃなくて、オーディションを受けて入ったと言っていたのを今でも覚えている。
もしこの人生でも二度目のアイドル人生の中でもそれが同じなら、二人がこの事務所にやって来る機会は二度と訪れない。
二人は本来受かっていた筈のオーディションで落ちることになるのだから。
ごめんなさい。
この人生でもまた二人とお仕事をしたかった。
でも大丈夫。
二人の分も、私がプロデューサーさんを幸せにするから。
圧巻。
それが千雪の五年に及ぶアイドル人生を端的に表すのに、最も相応しい言葉だ。
W.I.N.G、G.R.A.D。
その見る者全ての心を一瞬で奪い取る圧倒的なパフォーマンスで数々の障害をいとも容易く乗り越え、成功を重ね、いつしか千雪はトップアイドルの中のトップアイドル、『アイドルマスター』と呼ばれるようになっていた。
その活躍の幅は全世界に及び、今やそのファン数は1000万を優に超えるだろう。
歴代最高、最強のアイドル。
千雪はたった五年という歳月でそこまで登り詰めてしまったのだ。
俺は凄まじい活躍を見せる彼女の傍に寄り添い続けた。
もちろん、かつて千雪から言われた言葉を守るために。
俺は周りからどんなことを言われても、一度もアイドル志望の子をオーディションに掛けなかったし、街中でスカウトもしなかった。
283プロは社員二人、アイドル一人、アルバイト一人という凄まじい体制でこの五年間を突っ切ってきたのだ。
社長は「ここは個人事務所じゃないんだが」と愚痴を零していたが、この事務所で唯一かつ最大の稼ぎ頭である千雪の前ではそんなことも言えず、ついぞ他のアイドルを採用することは無かった。
もしかしたら、自分以外のアイドルが来ることを拒絶するという千雪の態度に、薄々勘付いていたのかもしれない。
やはり社長は凄い人だと心の中でいつも感服している。
千雪はアイドルとして第一線で活躍し続けた。
だが、千雪にも年齢というタイムリミットが近付いていたということは俺にでも分かっていた。
——だから、アイドルを引退したいと千雪が申し出た時もそこまで驚かなかった。
舞台袖の薄闇の中で、俺は千雪のアイドル人生を思い返していた。
想像も付かないスピードで頂上まで駆け上がってきたこの五年間の思い出を振り返っていたその時だった。
「緊張しますか?」
俺の隣でずっと手元の紙に視線を落とし、歌詞を確認していた千雪が顔を上げて俺の顔を覗き込みながら訊いてきた。
「俺なんかよりも千雪の方が緊張してるだろ」
「はい……でも、なんだかプロデューサーさんの方が緊張してるように見えますよ?」
「それはそうだろ……担当アイドルの引退ライブなんだから」
そう。
今日は千雪の引退ライブ。
何がどう転んでも、今日という日がアイドル桑山千雪の最後の晴れ舞台となる。
俺は未だにその実感が湧かなくて、今の今までどこか夢心地でいる。
「あっ、そうだ」
そんな俺を見ていた千雪は突然、何かを思い付いたかのように手を叩いた。
そして彼女は誰にも見えないように身体の影で俺の手を握ると、指を絡ませた。
恋人繋ぎ——アイドルとプロデューサーの垣根を越えた、愛する男女の心を繋ぐ方法だ。
「えっ、ちょっ!ここじゃマズ……」
心臓が跳ね上がり、慌てて手を離そうとするが千雪は手に掛ける力を強めて更に俺の手を強く握り締めた。
まるで俺を逃がさないかのように。
「大丈夫ですよ、——さん……私は絶対にやり遂げてみせますから」
「分かってるよ。千雪のことは信じてるから……でもさ、流石に外で手を繋ぐのはちょっと……」
「ふふ、嫌なんですか?」
「嫌じゃない、むしろ嬉しい。でもな、こんな所誰かに見つかったら……」
「見つかりません。前にやった時も誰にも見つかりませんでしたから」
……前にやった?
事務所の中ならまだしも、出先で手を繋いだのはこれが初めてだろ?
一瞬混乱しかけたが、すぐに『いつものこと』だと結論付けて疑問を脳内から押し除けた。
自分と俺が夫婦だと偽る。
俺の傍に居させてくれと必死に頭を下げる。
付き合ってすらないのにハグをしてくる。
千雪が時々見せる突拍子も無い言動に最初の頃は混乱ばかりしていたが、千雪のプロデュースを始めて一年経つ頃にはすっかり慣れ切っていた。
……だからこそ俺は千雪の人柄に心を惹かれ、千雪からの告白を受けてしまったのだろう。
プロデューサーとしては赤点以下の最低な行為。
だが俺はあの承諾に、仕事仲間を超えた今の関係に後悔していない。
だって、俺は千雪を愛しているから。
「……ねぇ、——さん」
「どうした?」
「…………このライブで私、引退するんですよね」
「……あぁ」
「…………このライブが終わった後、伝えたいことがあるんです」
「……それは、昔言ってた『誰にも打ち明けたことのない秘密』か?」
千雪が頷いたのを認めて、俺は静かに息を吐いた。
「……そうか。楽しみにしてるよ」
「……はい!」
その時、観客席の方から地響きのような歓声が聞こえてきた。
きっと前座の、約5分間に纏められたアイドル桑山千雪の軌跡が纏められたムービーが終わったのだろう。
遂に千雪の出番が、千雪の最後の舞台が始まる。
千雪は握っていた手を名残惜しそうに離すと、俺の方をじっと見つめて言った。
「それじゃあ、行ってきます」
「ああ。頑張っておいで」
「はい……!」
クルリと回って俺に背中を向けると、千雪は真っ直ぐステージの方へ歩き出した。
小さな背中が——偉大なアイドルの背中が眩い極彩色の光の中に溶けていく。
千雪の姿が完全に光に吸い込まれた瞬間、爆発音にも似た大歓声が湧き上がる。何十倍もの倍率を勝ち抜いた猛者達の感情が爆発した瞬間だった。
俺は舞台袖の薄闇の中で立ち尽くしたまま、光の中にいる千雪の姿を真っ直ぐ見つめる。
「俺も…………伝えたいことがあったな」
スーツのポケットに隠した、小さな箱の硬い感触を感じながら。
次回からは『もしプロデューサーが封筒を開けていたら』というルートに入ります。
というかそちらが正規ルートです。