魔法少女イデアル☆ことはICONOCLASM 作:エステル
「聞いていただきました、新曲『聖なる夜の魔女集会』! 次で最後の曲です! 『Heil Devil King』!」
観客たちはいっせいに「えー」とお決まりの歓声を上げる中、尻尾を踏まれた猫のような金切り声でコトハは絶叫する。百合牡丹の音楽はプチサタズムと呼ばれ、ポップでキッチュなラブソングの歌詞にさりげなく反キリスト的な要素をちりばめた曲ばかりで、コトハを発狂させるには十分な威力を持っているのである。隣にいた友人の青堀聖子は、今にも舞台に駆け上がらんと立ち上がるコトハを無理矢理引っ張り倒し、わめき続ける口を自分の唇で封じた。この大歓声、誰にも聞こえないというのに。
だが百合牡丹がサタンを称えることは出来なかった。ノリの良いイントロをかき消すように、電信柱に付いてあった自治会のスピーカーが大音量でサイレンを鳴らしたのだ。1万人近い観客の大歓声を打ち消すほどの、悪魔的な圧力をもって。
数分前。日本連邦共和国首都、京都特別区。大統領官邸である京都御所のシチュエーションルーム。サマーズ安保担当補佐官は、ヒメリカ合衆国オバマ=ビン=ラディン大統領との直通回線が開設したことを告げる。CISCOと表示された画面は、合衆国史上初の黒人大統領の姿に切り替わる。日本初の女性大統領エミリー=ピーチフィールドは、超大国の大統領を見下すように睨み付けた。
「では小笠原上空の所属不明機、B-29の大編隊は貴国のものではないということか」
エミリーは挨拶も抜きにいきなり本題に入る。ラディン大統領はその通りだと言って頷くと、小笠原上空の衛星画像を映し出した。
「信じがたいことだが、我が国の分析ではこの所属不明機はマリアナ諸島と小笠原諸島の中間付近から突然出現したものだ。我が国とは何の関係もない」
「では撃墜しても構わないのだな?」
インターセプトを行った日本連邦海軍のF-14戦闘機が撮影した写真には、明らかに合衆国空軍の国籍マークが写されている。エミリーはそれを指でつつき、やはりラディン大統領を高圧的に睨み付ける。
「その通りだ、プレジデント・エミリー。合衆国政府を代表して、我が国が日本連邦共和国に敵対する意図はないことを保証しよう。必要があれば、在日ヒメリカ空軍と第7艦隊も助力しよう」
「ありがとうラディン大統領。だがその必要はない」
エミリーは短い首脳会談を終えると、サマーズに近畿地方全域に空襲警報を発令する用意をするように命じた。
西摂津基地と泉州基地から飛び立った空軍のF-17とF-15の大編隊は、先行する海軍のホークアイに誘導されて小笠原上空に到達した。この日、連合艦隊が小笠原で演習を行っていたのはまさに僥倖であった。空母山本五十六と南雲忠一から飛び立ったF-14は既にB-29との戦闘を済ませており、百機近くを海の藻屑に変えていたが、ミサイルはもちろん機銃弾まで撃ち尽くして帰還していた。損害はゼロ。B-29はジェット戦闘機の敵ではない。だが落としても落としても数は減らず、第2次大戦中の最高傑作機の大編隊は、確実に日本本土に迫りつつある。
100年ぶりに、日本に空襲警報のおどろおどろしいサイレンが鳴り響く。空襲警報が鳴ったのは予防のためではない。B-29による空襲が現実味を帯びてきたからだ。空軍は確かにB-29を全機撃墜を確認した。だが彼らが帰路に付こうとしたとき、第2波が出現したのである。空軍機はほぼ弾丸を使い果たし、連合艦隊の対空駆逐艦部隊がミサイルを撃ち尽くしてなお、B-29の進撃は止まらなかった。
サマーズ補佐官はホークアイから直接報告を受け、ありのままをエミリーに報告する。敵機の進路は近畿地方を向いていた。エミリーは関西全域に避難命令を出したが、バンカーに向かうのは断固として拒絶したため、関係閣僚は未だに地上のシチュエーションルームに集められている。
「つまりスタンド・アローンの無人機ということか?」
空海軍の将官達から戦闘結果の報告を受けたエミリーは、眉をひそめて言った。
「間違いありません。イージス艦三川軍一によるジャミングが通用しないことから、あらかじめプログラミングされた飛行経路を自律飛行しているのではないかと思われます」
海軍の田村大将はF-14戦闘機が撮影したコックピットの画像をファイルを開く。憎きヒメリカ人が乗っているはずの席は確かに誰も居る様子がない。
「敵の目的地は分かりそうか?」
「京・大坂もしくは……」
田村は遠慮がちに地図に指をなぞらせ……その街を指さした。山戸撫市。彼女の3人の娘が住んでいる街を。
「計算結果が出ました」
田村は部下から一枚の紙を受け取ると、娘ほどの年齢の大統領に、恐る恐るそれを見せる。
「敵の目標は、山戸撫市です」
戎宮神社は大混乱に陥るかと思いきや、平静そのものだった。オタク達は急遽中止となるライブに文句を言うでもなく、係員の指示に従い、粛々と退場を行っていた。なにしろ、空襲警報である。
「日本連邦共和国大統領官邸より、山戸撫市民の皆様に緊急の放送です。小笠原上空に出現した国籍不明機の編隊約400機が、現在山戸撫市上空に接近中です。海軍及び空軍が迎撃中ですが、市域上空に到達するものと思われます。ただいま時刻は20時51分であります。到達予定時刻は21時。直ちに屋内に避難し、テレビ・ラジオを付けてください」
こんな馬鹿げた放送、誰も信じはしなかったのである。弾道ミサイルが発射されても動揺する人間は稀。ましてや国籍不明機の編隊が接近中などと、誰が信じるというのだろう。
西摂津基地の地対空ミサイル部隊が花火大会を始めたときでさえ、多くの人間が立ち止まってスマートフォンのレンズを南に向けていた。B-29が市内上空に到達した時には、まだ半分近い人間が神社に残っていたのである。コトハと聖子は関係者のよしみでさっさと帰り、神社から数百メートル南下したところにある夜の浜辺で呑気に花火大会を鑑賞していた。
「あらやだ。これガチな空襲っぽいわよ」
双眼鏡を手に、地対空ミサイルに撃墜されるB-29を見ていた聖子は、百合牡丹に説教しに行かなきゃとぶつぶつ呟いていたコトハに言った。
「まさか! だって小笠原からだよ? イ連の爆撃機がそこまで大回りする必要性がないよ。それに400機って、大東亜戦争じゃないんだから」
「合衆国の爆撃機ならグアムから飛んでくるじゃない」
「なんで同盟国が日本を爆撃するの? 意味踏み絵!」
「あなたのママが外交交渉失敗したんじゃないの?」
「それだったら核ミサイルが飛んできて終わりだよ。今の時代に空襲って……」
B-29は不気味な重低音を響かせながら確実に市内に迫っている。今や肉眼でもその姿が確認できた。
「山戸撫市より、市民の皆様に緊急のお知らせです。当市はまもなく敵の爆撃を受けます。直ちに屋内に避難してください。繰り返します。当市はまもなく……」
そしてB-29の胴体下部の爆撃倉がゆっくりと開くのを、聖子はあんぐりと口を開けてみていた。
「あらあら、こりゃ、何万人死ぬかしら」
「……」
コトハも今度は反論できなかった。B-29の編隊からは、鉄の塊が雨のようにパラパラと降ってきたからだ。
「ま、ここに居りゃ安全でしょ。下手に動くよりはビーチに居た方がいいわ」
「そ……そういう問題なの? 逃げようよ」
鋼鉄の雨は二人の頭を通り越し、街のど真ん中に突き刺さった。壁のような音の圧力が山戸撫市を襲う。連続で破裂した爆弾が、津波のように音の壁を作って2人を押し流した。夜空に閃光が走り、雷鳴が轟き、そして炎が巻き起こった。
「ジーザス……ジーザス! なんてこと、戦争が始まったんだ!」
コトハは半狂乱状態になり、呑気に空を見上げている聖子を砂防林まで引きずっていく。なぜ彼女がこれほどまでの落ち着いていられるのか、コトハには理解できなかった。確かに、爆撃機は西の方に向かっており、まだ戎宮区に着弾してはいない。つまり彼女の家が破壊されているわけではない。ないが、自分に家に爆弾が降ってこない保証などこの状況においてある訳がない。
「大げさねぇ。人類が滅亡するわけでもなし」
「大げさ!? 人が死んでるんだよ、今! あそこで! というか、私達だってもうすぐ死ぬかもしれないよ!」
「私は、あなたが無事なら別にそれでいいもの。死ぬとしても、一緒に死ねるならそれでいい」
「聖子ちゃんはそんなことばっかり言って!」
「騒いだところで私達にB-29が撃墜できる訳でもなし。ジョセ、出来るの?」
「それはぁ…………」
んにゃんにゃと口ごもるコトハ。
「せ、せめて怪我をした人の看護をしに行こうよ!」
「山戸撫市の制空権が回復した後でね。今市街地に行くってんなら、ボコボコに殴って気絶させるけど、どうする?」
「にゃぁ……」
だがもちろん戎宮の浜辺が安全かというともちろんそんなことはなく、迎撃に上がった空軍機に撃墜されたB-29の機体が、炎を上げながら2人に目がけて真っ逆さまに落下してくるではないか。
「ほら! だから逃げようって言ったのに!」
聖子もようやく現実を認識したらしく、コトハに引きずられていた足が次第に自らの意志をもって回転し始めて、砂浜に足を取られて扱けた。
「聖子ちゃん!」
「私なんか放っておいて逃げなさい!」
「そんなことできる訳がない」
コトハは砂浜を蹴って踵を返す。翼が折れたB-29の巨大な胴体は啓示のように夜空に煌々と輝き……
アリス=セーラ=ピーチフィールドの朝は早い。ピーチフィールド三姉妹の長女であるアリスは、次女フェイスと三女コトハだけでなく、エミリーの面倒まで見なければならなかった。朝食の準備をし、エミリーからコトハの順番に起こし、その上大学の一時限目に遅れず出席しなければならない。
フェイスとコトハはまだいい。起こせば起きるからだ。問題はエミリーだ。彼女は元軍人だというのに除隊してからすっかり自堕落になり、張り手を食らわせても起きないくらい深く眠るのだ。それでもアリスはエミリーを起こさなければならない。なぜなら文字通り国家の安全にかかわる事態が起きかねない。エミリーはこの国、日本連邦共和国の大統領なのだから。
「エミリー=ピーチフィールド、起きなさい!」
耳元で怒鳴りつけても起きなかったので、ご近所全員を叩き起こすほどの大音量で起床ラッパを吹きならし、エミリーはようやく片目を開けた。
「朝から騒がしいな。私は忙しいんだ。もう少し寝かせろ」
「起きてママ。いえ、マダム=プレジデント! 起床時間よ。もうシークレットサービスが迎えに来る時間よ」
それでも起きなかったので、結局アリスはシークレットサービスを迎え入れなければならなかった。大統領護衛官のクリストファー=ヨセフ=ハーバードは、朝食のエッグベネディクトを食べていたコトハとフェイスに、哺乳類すべてを恋に落としそうな爽やかな笑顔で挨拶すると、エミリーの寝室に向かい彼女を抱きかかえ家を出て行こうとして……空襲警報が鳴り響いた。
お姫様抱っこされていたエミリーはクリストファーの両手から飛び上がると、食事中のコトハとフェイスを両脇に抱え走り出す。
「アリス、早く車に乗れ。ハーバート護衛官、今すぐ防空壕へ向かってくれ」
「待ってお母さん。聖子ちゃんを迎えに行かないと。きっとまだ寝てるよ」
「黙れコトハ=ジョセフィーヌ。自分の命を心配しろ」
有無を言わさずコトハをリムジンに押し込み、大統領専用車は焼夷弾の降り注ぐ住宅街を全速力で駆け抜ける。もうこの空襲は日常茶飯事になっていた。当初は一目散に逃げ出そうと車に乗って逃げる市民達が酷い渋滞を引き起こし、渋滞ごと焼夷弾の雨に撃たれて大勢命を落としたものだが、今や車で逃げようとするものは少数派だし、そもそも車を持つ市民自体が少数派になりつつあった。B-29はなぜかこの街しか襲わないし、何百機迎撃しようと必ず街を爆撃して消えていくのだ。今まで全機迎撃に成功した事例は一度もないし、ミサイル製造ラインをフル稼働していたため国家予算が圧迫されるほどになっていた。経費節減のために八甲山脈に長射程の誘導弾対空砲なども配備されつつあるが、まだまだ数が足りなかった。
国民の一部には、どうせ山戸撫市しか狙われないのだと決めつけ、街を放棄してはどうかという意見も出る始末。野党議員が国会でそのような発言をしたため、与党議員やエミリーと大乱闘を繰り広げる騒ぎを起こしたほどであった。
国が山戸撫市を見捨てられない理由は、当然のことながらエミリーの家があるからではない。瀬戸内海油田という、地球最大の産出量を誇る大油田が稼働しているからだ。海底パイプラインで大坂に原油を運ぶルートは建設中であったが、元を断たれれば元も子もないので街を守る以外の選択肢などないのである。山戸撫市の防衛は世界的課題にであり、現在は在日ヒメリカ軍を始め、ローマ連邦軍、香港条約機構軍といった西側諸国の連合軍が派遣されてきており、各国空軍が共同して防衛に当たっている。中には疎開する住民もいたが、疎開先で空襲を呼ぶ者だと謂れもない理由で差別を受ける事件が多発していた。巨大な石油産業もさることながら、山戸撫市は世界第2の金融センターであるフォール街を有し、世界最大の都市圏である近畿大都市圏の中心地であるため、未だ市内に留まっている住民も多い。
様々な理由はあるが、大枚を叩いて大都市にマイホームを買ったのに、今更それを捨てて田舎に移住できる余裕のある者はそういるものではないのである。そのため、現在は都市のいたるところに防空壕が作られていた他、自宅に核シェルターを作るのもブームとなっていた。
大統領官邸は京都から八甲山に移されていた。八甲山にはヨークシャー&アムウェイ社という多国籍企業が、フォール街の象徴的建造物としてガーデンズ=ビルという3000メートル級の建物を建設しており、強度も十分な地下壕も備えていた。エミリーはここを臨時の大統領府として日常の執務を行っていた。これは日本政府は決して山戸撫市を見捨てないというエミリーの宣言でもある。これに深く感銘を受けたY&A社の若き社長、オリビア=エステル=ロートシルトは1人で10年分の国家予算に匹敵する臨時国債を買い受け、日本連邦共和国の大軍拡計画に協力することになった。
その日、コトハ=ジョセフィーヌは戎宮前公園で、聖隷教会の行う炊き出しに参加していた。貰う方ではない、作る方である。自宅が焼かれ、地方に親戚もいない人々が多数存在するうえ、予算が圧迫され生活保護の支給要件も厳しくなっていたから、現在山戸撫市ではストリートチルドレンやホームレスが多数発生していたのだ。姉のフェイスと、クラスメイトの千早恋苺狩愛も参加している。聖隷教会とはコトハ達の通う聖隷大学付属小学校に併設された会衆派の教会……というよりも聖隷大学の大本というべきプロテスタント教会で、その規模とネットワークを生かして復興支援や炊き出しを積極的に行っていた。
次から次へとやってくるホームレス一人一人に声を掛けながら豚汁を注ぎ、ちょっとした世間話をしたりしていたのだが、当然ながら彼女に好意を抱いしている人間ばかりではない。
「なにへらへらしとんねん。お前の母親が無能やから俺がホームレスになったんやろが!」
ボロボロのスーツを着た、証券マンか銀行員だったと思われる生真面目そうな男が、コトハに暴言をぶつける。庇って言い返そうとしたフェイスを制して、コトハは男の手を取った。
「あぁ、ごめんなさい。でもコトハには豚汁を作って、みんなに振る舞うことくらいしかできないの。冷めないうちに食べて」
「うるさいんじゃ、こんなもん食えるか!」
感情の行き場を失った男は熱々の豚汁をコトハに向かって投げつける。瞬間湯沸かし器みたいにブチ切れてて殴りかかろうとしたフェイスや騒然となる周りの男達を、やはりコトハが制した。
「でもコトハ、こんなの許せない!」
「そうや、こんな奴いてこましたるわ!」
「山本さん、フェイスちゃん。聖書にはなんて書いてある? "自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している"」
「ルカ書6章32節……だけど」
「だけどじゃないよ。ちょっと濡れただけで怒ってちゃ、磔にされたイエス様に顔向けできないよ。コトハは平気だから。さぁ、零れた分を入れなおさなきゃ。はい、どうぞ」
「……」
コトハは豚汁まみれになってなお、男に向かって微笑みかける。そして豚汁を持たせるとその手をとってキスをした。
「おじさん、お名前は?」
「……渡邉や」
「渡邉さん、辛いことがあったんだね。誰にも相談できなくて、一人で全部悩みを抱えて……あぁ、コトハに出来ることがあったら何でも言って欲しいな」
「……妻と娘が焼け死んだんや。家も焼けてもうて……帰るところもあらへん」
「あぁ、なんてこと……」
コトハはその場で涙を流し、渡邉というホームレスを抱きしめる。
「食べ物や寝る場所に困ったらいつでも私達の所に来てね。遠慮なんてしなくていいんだよ」
「すまんな、お嬢ちゃん。ちょっと気が立ってたわ。豚汁、ありがたく頂かせてもらうで」
こんなことをコトハは大まじめにやっており、しかもそれは優しさや博愛からではなく、純然たる信仰心から来るものなのだ。そう、彼女はとても信心深いクリスチャンなのである。
「コトハ、あんまり男の人に抱き着いたりしたら駄目だよ。聖子に見つかったら、あの人殺されちゃう」とフェイスは呆れるように言った。
「聖子ちゃんはそんな悪い子じゃないよ、フェイスちゃん。さぁ、みんな並んで。豚汁はまだまだあるからね。おかわりもいいよ」
空襲警報が鳴り響いたのはその時だった。
「またか! 行くよ、コトハ」
フェイスはコトハの手を取り防空壕に駆けだそうとしたが、コトハはその手を逆に引っ張った。
「そんなことよりフェイスちゃん! 避難誘導するよ!」
有無を言わせずフェイスに誘導灯を押し付けると、両手を振り乱しながら走って行く。その上空を西摂津基地から上がってきた小型のF-17戦闘機、通称グリペンが8機編隊を組んで旋回し飛んでいく。
公園の地下に掘られた防空壕に全員が避難したのを確認した頃には、既にB-29の腹の底に響く重低音が二人の鼓膜を震わせていた。
「さぁコトハ、早くこっちへ来て。あぁ! 君、外へ出ちゃだめだ!」
フェイスは防空壕の扉から顔を出して叫んだ。小さな女の子が防空壕から走り出て来て、明後日の方向へ向かって向かって小走りで遠ざかっていく。
「フェイスちゃんは動かないで、コトハが連れ戻すよ」
「間に合わない、嬢ちゃん、扉を閉じろ!」
その日、何かが違っていた。妙な音が急速に接近していたのだ。コトハは思わず空を見上げる。小さな点がいくつも編隊から離れ、街に向かって急降下してくる。それが戦時中に作られたヒメリカ海軍のレシプロ機、グラマンだと分かった頃には、時すでに遅し。グラマンは公園の真ん中に走り出していた女の子目がけて機銃掃射を仕掛けた。
「……間に合って!!」
6門のM2機関銃が弾丸を地面に叩きつけ、固い砂が奥から手前へと、順番に爆ぜていく。女の子は地面に座り込んで、そこにあったものを見つめた。十字架だ。コトハはふと、自分の首に手を当てる。十字架のネックレスが外れていた。もう古いものだ。チェーンが劣化していて落としたのかもしれない。それはコトハの十字架なのだ。その十字架が原因で、今目の前で女の子が死のうとしていた。
「ジーザス……どうして……!」
あらゆるものが意味を持ってコトハに語り掛けていた。時間は重い粘液のように歩みを緩める。地面を爆ぜる銃弾、十字架に手を伸ばす女の子、走り出そうとするコトハ。静止した時間の中、コトハの後ろから一羽の白い鳩が飛んできて、彼女の十字架に止まった。
「"初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は、初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった"」
脳に直接響くような声。そんなことが出来る存在を、彼女は何というか知っている。けれど彼女の良識が、認められない。
「は、鳩さんが喋った? 鳩さんに見えるインコさん?」
「僕は神様の使いさ。コトハ、君が求めるのなら、君に言葉の力を授けよう。君にからし種一粒ほどの信仰があれば、君にできないことは何もないよ」
十字架が輝き出す。鳩は輝く十字架を足で拾い、飛び上がってコトハの前にそれを放り投げた。十字架の真ん中にはめ込まれたからし種が眩いほどの輝きを放っている。コトハは目を逸らさない。目もくらむような光を凝視し、そこにあるものを見定めようとする。
「これは……?」
銀の十字架を手にしたコトハ。明らかにそれはただの象徴ではない。何かしらの力、それも強い力を持った何かだということは彼女にも分かる。
「マスタードシード、魔法の杖さ。それを掲げて、僕に続いて。"主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」
コトハは十字架を胸に抱きしめ、白鳩の言葉を繰り返す。詩編37章3節、もちろん彼女は知っている。だからもう白鳩の言葉に続く必要などなかった。
「答えよ、マスタードシード! あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを! ホサナ!」
心の底から力が溢れてきた。とても強く、圧倒的な力の奔流がコトハを包み込む。白鳩は言った。からし種一粒ほどの信仰があれば、できないことはないと。その通りだ。からし種一粒ほどの信仰さえあれば、"この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう"。
気づけば彼女が手にしていたのはハート形の魔法ステッキ。何故かフリフリのピンク色の衣装の身を包んだ、からし種一粒の信仰を持つ魔法少女が顕現していた。
コトハはグラマンを見定める。時がゆっくりと動き始め、M2機関砲は新たな弾丸をチャンバーに送り込み、雷管を叩こうとしている。
「イデアル・マジカル……」
コトハはマスタードシードを振り上げ、魔法の呪文を唱える。力は光となり、光は質量を持ったエネルギーとなってこの地上に現出する。眼前には丸い魔法陣。桜色の光の弾丸は、自身の雷管を放たれる合図を今か今かと待って、
「ミストラール!!」
放たれた。時間が完全に元に戻る。空に大爆発。重金属さえ分解しそうな、超特大の大花火が燃え盛っていた。
「こ……これが……神様の力……」
コトハは魔法少女と化した自身の姿を見て、自分の信仰が間違っていなかったのだという万感の思いと共に呟いた。白鳩が彼女の肩に止まり、微笑んだような気がした。
「そうだよ。君は魔法少女 - ラジョン=ヴィアージュ - になったんだ。愛と正義のために、君の力を使うんだよ」
「あぁ、なんて素晴らしいんだろう! 私の力で全人類を救済できるなんて! 世界中の人達が主を信じ、主のために生きる、そんな一途で素晴らしい人たちの世界を、私の、この手で作れるなんて!」
コトハは魔法のステッキを握り、しみじみとその野望を口にした。
「……え、ちょっと待って」
「君、名前は?」
「アビゲイルだけど」
「アビー君! 私、頑張るよ。この力で全世界を教化するその日まで! 主の御名によりて、アーメン、アーメン! そのためにはまず、あいつらをやっつけなきゃ! いくよ、マスタードシード! イデアル・マジカル、ムーシュッ!!」
桃色の魔法少女が、対空砲弾のようなすさまじい勢いで空に駆けた。こうして始まった。コトハ=ジョセフィーヌの、世界を教化するための戦いの日々が。それを知っている人は、今のところまだこの街には誰一人としていない。