猫が好きだ。
動物は大体好きだけど、僕はその中でも猫が一番好きだ。
理由を求められても、僕には答えられない。『どうやって地球に生命が誕生したのか』くらい難しい、根源的な問いだ。
強いて言うなら、猫は可愛いからだ。カッコいいものだって好きだけど、やはり可愛いものの方が好ましい。
そんな感じだから、僕は子どもの頃からずっと、猫と暮らしたいと思っていた。
しかし母は、道端の野良猫をぼうっと眺めている僕に向かってよく言ったものだ。
『
『何かを育てることに、愛は必要ない。重要なのは『責任』だ。幼いお前には、こういう話は難しいだろうけどね』
『だから、大きくなってからにしろ。いろいろ学び、経験して、それでも猫を自分の手の中に引き取りたいと言うのなら、あたしは止めないさ』
それを聞いた僕は、猫を飼えるような、ちゃんとした大人になろうと決心した。
現在19歳。『ちゃんとした大人』の定義が分からなくなってくるお年頃。
子どもの頃は、二十歳になれば、自動的に『ちゃんとした大人』になれるのだと信じていた。誰しもそうだろう。
買い物からの帰り道、シャッターが降りた店をぼんやり見る。
ここは、先月までペットショップだった。よく買い物帰りに、ショーケースの中でコロコロ走る子犬や子猫を眺めるのが日課だった。
けれども、悪質なブリーダーとの取り引き、店の裏で行われていた動物虐待が発覚し、すぐに店はお取り潰しとなったのだ。
笑われるかもしれないが、僕はこの年になるまで『動物好きに悪い人間はいない』と無邪気に信じ込んでいた人間である。
看板が下げられ、ガラスの中身は空っぽになり、灰色になった店の前で、今でもつい立ち止まってしまう。
いつか猫を飼うときは、保健所から引き取るか、このお店で貰うか、どちらにするかを真剣に迷っていたのに。
野菜やら魚やらがぎっしり詰まったエコバッグよりも、さらに重い足取りで、僕は元ペットショップに背中を向けた。
今日はいつもとは違う道から帰る。生鮮食品があるから早く帰らなくてはいけないのだが、それでも、何だかまっすぐ帰宅するのが嫌だった。
僕が住んでいる町は、都会とも田舎とも言えない。ショッピングモールなどがあって賑わう駅前からちょっと歩けば、そこに田んぼが広がっている。
だから、商店街から少し逸れれば、ススキが生えて荒れ放題の土地に行き着く。
小学生のとき、散歩中にこの辺りに迷い込み、道が分からず泣いた覚えがあった。今では、どうしてこんな近所で迷ったのだろう、と不思議でならない。
大人になると、視界は広くなるけれど、何か大切なものが狭くなる気がする。
それでも、やはり僕は19歳の若造だ。まだまだ身近に知らないこと、知らないものがある。
ふと見渡した先に、古い小屋があった。
ススキ野原の中に伸びた道の先に、ポツンとある、木造の小屋。
「あんなの、あったっけ?」
誰かが所有する物置だろうか。それにしては古いというか、放置されている感じがあるというか。
足が勝手に動き出す。
扉が閉まってたらそれで終わり。開いてたら……ほんの少しだけ、中を確認する。
僕の心は空っぽだった。あの、元ペットショップのように。
あそこにいた動物たちは、どうなったのだろう。ちゃんとした人たちに引き取られたのかな。
……それとも。
小屋のドアは、触れただけでいとも簡単に開いた。
一歩、後ずさる。
周りを見回す。誰もいない。太陽も隠れている。
────ちょっと、見るだけ。中には入らない。
中に何かがあるってことを、確認したいだけ。
ギィ、と悲鳴のような音を立ててドアが完全に開く。
真っ暗闇の、その向こうにあったのは。
古ぼけた井戸、と。
「……猫?」
闇の隅からこちらをまじまじと見つめる、白い『ねこ』だった。
じめじめした、暗い部屋はまるで地の底へ続く大穴のようで。
その中でもクッキリ姿が見えるほど、いっそ眩しいくらい真っ白な『ねこ』が、こっちを見ていた。
三角の耳。細い手足。まさに猫のフォルムって感じだけど、一番目立つのは『目』だ。
つぶらでもない、釣り上がってもいない、人間の目と同じように見開かれた両目。
鼻も口も、その目の存在感には勝てず、とても薄いように思える。
「猫の隠れ家だったんだ」
こんなところ、滅多に人は来ないだろう。暗くて静かだし、雨風は凌げそうだし、確かに野良猫の隠れ家としてはピッタリだ。
しかしこの『ねこ』、さっきから僕に見られているのに微塵も動かない。1秒だって目を逸らすことなく、堂々としている。
一歩も退かないし、媚びもしない。なんていうか、猫でしかないというか。
「……かわいい」
この『ねこ』は、一般的な可愛さの基準からはズレているかもしれない。でも、猫だ。猫なのである。
撫でたい。写真撮りたい。抱っこしたい。
この町には動物を飼っている人が少ない。ペットショップも閉まってしまった。バイト先のコンビニの近くにある病院で飼っている熱帯魚さえ、この間ご臨終となった。スズメもカラスも鳩も、すぐ空へ逃げてしまう。
それに、ネットの動画じゃ限界がある。
つまるところ、僕は、本当に久々に“生”の動物ってやつと会ったのだ。
おいで、と呼ぼうとして、慌てて手を引っ込めた。
駄目だ、ダメダメ。飼うつもりがないのに、無闇矢鱈と野生動物に手を差し伸べるのは無責任極まりない。
さっさと帰らないと、魚が腐ってしまう。
「……お邪魔しました」
『ねこ』に見つめられながら、僕はゆっくり扉を閉めて、小屋を後にした。
背を向けた。
目の前に『ねこ』がいた。
「……はい?」
正確には視界の端から、あの『ねこ』が、こちらを覗いていた。
猫はすばしっこい。そしてしなやかだ。扉を閉める直前に、するりと出てきたに違いない。
「ごはん、あげられないんですけど」
『ねこ』は鳴かない。ただ僕を見ている。
まずいぞ。このままだと、この視線に負けて、『ねこ』を抱っこして家に帰ることになる。
急いで目を逸らすと、その先にまた『ねこ』がいた。
「マジか」
歩き出す。小屋から離れる。『ねこ』がついてくる。
草の原を抜ける。商店街に戻る。『ねこ』がついてくる。
住宅街に入る。『ねこ』がついてくる。
まずい。この猫、めちゃくちゃ人馴れしている。
そうやってずっと着いていけば、視線で訴えかければ、一晩の飯と宿が保証されることを学んでいるらしい。
これは熟練の野良猫だ。僕が保健所に連絡するつもりが全くない、性格の甘さまで見抜いている。
どうする? どこかで猫避けスプレーを買うか? というか、もしかするとこの『ねこ』、お店の中までついてくるつもりでは?
『ねこ』を見る。相変わらず黙って僕を見上げている。
この、滝に打たれたって揺れなさそうな佇まい。たとえ僕の向かう先が国会議事堂だろうが、遠慮なく進入するだろう。猫だから。
ふと、赤い光が目に入る。
見ると、ゴミ捨て場に積まれた袋の山の上に、無造作に放られたペンダントがあった。
大きな紅い宝石のついた、不思議な輝きのアクセサリー。それが、ゴミとして捨てられていることに違和感がある。
とはいえ、捨てられているものを勝手に触ってはいけないので、すぐに僕はゴミ捨て場を離れた。
『ねこ』は、まだついてくる。
そうこうしている内に、家に着いてしまった。
「入ってきちゃ駄目ですよ」
その言葉が聞き入れられているのかすら、判別し難い。猫の思考は、人間如きが読めるものではないのである。
とにかく、鍵を開けて家に入る。玄関で靴を脱ぎ、上着をポールハンガーにかける。
やはり『ねこ』は、ついてきていた。
「ちょっと待ってて。タオル持ってくるので、それで足拭いてからにしてください」
最早、『ねこ』が家に上がる前提で話を進めていることに、我ながら甘いなぁと呆れた。
しかし、『ねこ』は僕を待たず普通に玄関に上がってきて、普通に歩いてくる。
「あー……まぁ後で拭けばいいか」
言ってから、僕は少し目を見張る。
床が汚れていない。
ススキ野原を歩いて、コンクリートの上を歩いてきて、それなりに肉球の裏が汚れていてもいいはずなのに。
流石はベテランの野良猫だ。歩き方がスマートとは恐れ入った。
「あの、来てすぐになんですが、ここはつまらないところですし、出せるごはんも貧しいですから、居着く意味がないかと……」
母が建てた家をそんな風に卑下するのも心が痛むが、ここは仕方ない。
まぁ、当然『ねこ』は全く聞いてないんだけど。
じっと目を見る。
目を見てくる。
吸い込まれそうな眼力だ。
「……出汁用の煮干しありますけど、食べますか?」
根負けした。
でも仕方ない。
だって、相手は猫なんだから。
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