鏡の国のアイリスの2巻を求む・・・・
一度だけ────本当に一度だけ、財団職員の誰かに露見すると自分の立場が危うくなりそうな、不謹慎な妄想をしたことがある。
石棺から出てきたアベルが大暴れして、どんなに屈強な機動部隊も蹴散らして、財団はめちゃくちゃになる。
でも、私だけは奇跡的に助かって、塀の外へ逃げ延びることが出来る。
そうして、まずはお腹が空いたからフライドチキンでも買って、ショーウィンドウのマネキンをそっくり真似した服を一式揃えて、公園の鳩が飛び立つ瞬間を写真に撮るのだ。
きっと、どんなに爽やかな心地だろうって。
勿論、現実はそう上手くいかない。
財団はそんなにヤワではないし、あの悪魔じみた元同僚が私を見逃すとは思えない。
私は一生ここから出られないだろう、と諦めていた。
それでも、もし、財団が本当にめちゃくちゃになって、私は生き延びたら、外に出られるんじゃないか。
だから、それまでは希望を失わずに生きよう、強くなろうと決心した。
しかし、ああ神様、私をお助けください。
どうしてよりにもよって、アベルが私の部屋に踏み入ってくるのでしょう。
「……何をしに来たの? ノックくらい、してくれてもいいんじゃない?」
シールでも剥がすみたいに壊された、自動ロック付きドアを見ながら言う。
そこで私は気付いた。
アベルの外見は、いつもと変わらなかった。兄とよく似た精悍な顔つき、不可思議な刺青、黒い大剣。
────でも、決定的に欠けているものがある。
“血”が、ない。
彼は大抵血を纏っていた。場合によって、相手のものだったり自身のものだったりしたが、それがアベルの惨い戦果の象徴だった。
他人の部屋に入る前にシャワーを浴びようだなんて、一度でも考える人間ではないことは把握している。
「……私が最初の犠牲者ってことね?」
頬のあたりから急激に血の気が引く。
私の恐怖も焦燥も知らないアベルは、簡潔に答えた。
「いいや」
「なら、ここに来るまでに何人殺したの? あなたが収容されている場所からここまで、かなりの距離があるはずよ」
「誰もいなかった」
「────なんですって?」
「今日、ここでお前に会うまで、私は生きた人間に会っていない」
何を言っている? ────そんなわけない。彼は残虐で憐れな怪物じみた人間だから、私に嘘をついている。
本当に? そんな嘘をつくメリットがアベルにあるとでも? ────でも、彼の心理プロファイルに『相互理解不可能』と記された、その原因たる事件を私は知っている。彼の精神構造は、並の人間と同等じゃない。
だとしても。
いや違う。
きっとそう。
『これから暫くの間、正式な決定が下りるまで、何があってもこの独房から絶対に出るな。脱走なんて考えたら、二度と写真を撮れない身体になると思え』
そうよ、最後にやってきた職員はそう言っていた。
財団は収容違反への意欲を持つ私を危険視して、前よりも厳重な警備を施した施設に移送した。
それが、たまたまアベルの近くだっただけ。
『食事はこれでのみ摂取しろ。それから、このSCPオブジェクトの監視を遂行するように』
ピザボックスとジョーシーを押し付けられたのも、そういう収容プロトコルだっただけ。
『この箱にはSCP-105-2と、これまで撮影された全ての写真が入っている。だが、誰かがこの部屋の鍵を開けるまでは、一瞬でも写真を閲覧することは許されない』
わざわざ、重要なSCPオブジェクトであるポラロイドカメラを持ち主に返却したのも。
『いいか? ドアの向こうから爆発の音がしても、誰かの悲鳴が聞こえても、血の匂いがしても、絶対にここから出ないでくれ』
『SCP-105……いや、アイリス・トンプソン』
『どうか、君だけでも────』
上半身だけの猫が、前足だけですたすた歩く。
アベルのことなんて、彼女は気に留めない。
ただ、久しぶりに外へ出られる好機を見つけたことしか気にしていない。
「私を殺しに来たんでしょう」
アベルの殺意の矛先は、人類だけだ。それ以外の哺乳類には憎悪を持たない。
それを、ジョーシーは知っていたのだろう。だから普通に彼の足元を通り過ぎて、部屋を後にする。
彼女に血を見せなくていいのは好都合だ。
「いいわ、もう終了させて」
「……」
「痛みがないようにしてね。私たちはそんなに健全な関係性じゃないけれど、そのくらいしてくれてもいいでしょう?」
アベルは、4分半くらい私を見つめる。この世で一番心臓を圧迫した4分33秒だ。
それから彼は、手も足も首すらも、ちっとも動かさずに告げた。
「いいや。お前を殺す必要性を感じられない」
耳を疑った。
何だって? 殺す必要性、だと?
アベルが、人間を殺す必要性について、考えたのか?
あり得ない。これは私の夢に違いない。
「私はここに来る前、外の世界を見てきた」
彼はとびっきり残酷で冷酷で、永遠に尽きない薪を燃やし続けている。それは人類であり、傷つけられた平穏な性質であり、人類への怒りと憎しみだった。
ずっと燃えている。ずっと苦しんでいる。
それを心から楽しんでいる。楽しまなくては、燃え尽きて灰に戻ってしまう。
彼は理解から遠い存在だった。しかし矛盾はないはずだった。
「草原は抉り取られ、人間の屍の畑が出来ていた。痩せ細った家畜の羊は、それらを食べることすら拒絶した」
アベルの眼差しは、空虚だった。
どうして、そんなにつまらなさそうにしているの?
憎い男の子孫が無惨に死に絶えていたのに。
「笑ってよ」
乾いた声が溢れる。自販機が吐き出してくれた……もうどこにもないだろうコカ・コーラを飲んだばかりなのに。
「笑ってよアベル。やっと見つけた人間なんだから、爽やかに思い切り笑って、殺せばいいのよ。いつもと同じことをすればいい」
アベルは首を横に振った。
「出来ない」
「あなたに容赦って感情があったのは知らなかったわ。でも、戦友だったのはもう随分昔の話」
「違う────ここにいたのが、例え財団の研究者たちでも、私の兄弟であっても、私は剣を捨てた」
言った直後に、黒の大剣が床に落ちた。あんなに悍ましい武器なのに、音は普通の剣と同じなのだな、と思う。
「もういい。私は帰る。お前は好きに生きろ」
帰るって、どこへ? 私が尋ねる前に、彼は行ってしまった。
それから、どれくらい経ったのだろう。
アベルによく似た顔立ちの青年が、ジョーシーを抱いて私の部屋に来た。
「遅かったようですね」
ドアの残骸を見下げて、カインは泣きそうな表情をしていた。
外はどうなっているの、と聞くと、カインは私にジョーシーを返してから伝える。
「……原子爆弾と毒ガス兵器が多用された、と聞きました。アベルはともかく、ジョーシーが生きていけるとは思えず、あなたのところへ戻すのが最適と判断しました」
込み上がってくるドロドロした熱いものを、抑えることはできなかった。
その間ジョーシーは、ずっと私の顔を舐めていて、カインは何も言わずにそばに座った。
いつか外へ出られるんじゃないかって、夢見ていた。希望を失わずに生きていた。
どれだけ頑丈な鍵を掛けられても、箱はいずれ壊れるんだ、と楽観視していた。
それがどうだ。
箱が壊れても、外の世界そのものがないなら、私はどこへ行けばいい?
フライドチキンもマネキンも公園も、私が取り戻す前に、外の人間が勝手に壊した。
財団は危険なもの、異常なものを封じ込めていたんじゃないの? そのために私はここにいるんじゃないの?
こんな、SF小説みたいな、馬鹿馬鹿しい終焉は異常でも何でもないって?
写真の向こうを触れるだけの私は許されないのに、自然を犯して、文明を侵して、兄弟同士殺し合う虚しい世界大戦は全人類が容認したって?
「ふざけないで……返して……私の日常を返してよ……」
炎は誰のためにある?
人類の発展のためだ。
けれど、プロメテウスの祈りを、人類は自分たちで踏み躙った。
私の炎は奪われた。きっとアベルの炎も。
明かりを灯して暗闇を遠ざけても、みんな松明を振り翳して争うなら意味がない。
3日後、地下シェルターの出口でカインは言った。
「私は、弟を探しに行くつもりです」
止めはしない。私にその権利はないから。止められる人がいたとしたら、それは財団職員か、彼のもうひとりの弟だ。
「アテはあるの?」
「ありません。しかし、必ず見つかるでしょう。私は大地に嫌われましたが、今は大地は失われ、その上に生えた文明もない」
彼は最後に、「あなたの頭に触れてもよろしいでしょうか」と丁寧に乞う。
私が頷くと、固い手が頭頂部を緩く撫でた。仕事に出る大人が、見送りに来た子供にするように。
「……戻ってきて。ここに私とジョーシーを残さないで」
「善処します。……私は、人類初の嘘つきで殺人犯ですが、あなたの約束は必ず守りましょう」
結論から言うなら、彼は戻ってこなかった。
戻ってくる前に、世界は真ん中から忽ち崩壊した。
今回の戦争だけじゃない。それよりも前に蓄積された、様々な汚染、破壊、搾取により世界は限界を迎えていた。
世界は
滅びに呑み込まれる中、心臓がゆっくり止まっていくのを感じながら、ただ上半身だけの猫を抱きしめながら泣いた。
無力を痛感していた。私は、自分の涙すら止められないんだ。
そのとき、どこかから音がした。
何かをかき混ぜるような。
どうしたことだろう、混沌が纏まってゆく。森羅万象が渦を巻いて、一箇所に固められる。
今生最期に聞いたのは、誰かの声。
歯車が規則正しく回るように訴える声。
────なかったことにしないで。
────私たちを忘れないで。
────繁栄のルーチンワークは、これで、もう、最後に。
私は意識を失った。
その後目覚めて、それから20年近く経った頃。
世間はゴールデンウィークを明かし、来たる梅雨に向けて憂鬱を抱えている。
私はいつものように、家を出て、バスに乗って、校門をくぐり抜けた。
「もしもし……はい。帰りに買ってきますね! お塩さんのことよろしくお願いします。あとバークレーさんに伝えてほしいんですけど、布団はやっぱり客用じゃなくて新しいやつを……」
ベンチに座って電話をする青年の前を通り過ぎる。
鳩が飛び立つ音は爽快だ。
平和で愛おしい、ずっと恋焦がれてきた朝。
もう20年、同じような日を迎えているのに。
どうして、私はこんなに泣きそうになるのでしょう。
Q. なんで怪奇存在がメインの世界なのに、人間同士の争いで滅びてるんですか?本当はなんか裏があるのでは?
A. ないです。どれだけ奇妙で残酷な怪異が登場したって、舞台を廻すのは人間じゃないですか。
この作品はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承3.0ライセンスに基づき作成されています。
SCP-105 “アイリス”
著者 Lt Masipag
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SCP-529 “半身猫のジョーシー”
著者 Lt Masipag
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SCP-076 “アベル”
著者 Kain Pathos Crow
http://scp-jp.wikidot.com/scp-076
SCP-073 “カイン”
著者 Kain Pathos Crow
http://scp-jp.wikidot.com/scp-073
SCP-2000 “機械仕掛けの神”
著者 FortuneFavorsBold
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