名状し難き烏賊と人類種の天敵な山猫は呪いなんて信じない 作:犬(ゆきいろ)
「月が……月が追いかけて来る!どこまでもどこまでも!ずっと見てるんだ!!」
そんな悲鳴を上げた者がいた。
最初はよくある話。
閉院し、廃墟となった山奥の精神病院へ行くと帰ってこれない。なんてそんなありきたりな噂。
しかも実際は精神病院ではなく、静かで空気の綺麗な山間部に建てられたホスピス病棟。すぐ麓には今も運営がされている大元の病院がある。ただ施設の老朽化と利便性を考慮し、病棟を移しただけだ。
死が重なった廃墟には違いはないのだが、怪談としての雰囲気はだいぶ変わる。
曰く、その山奥(実際はしっかりと道があり、暇を持て余した免許持ち大学生が易々と辿り着ける)の(便宜上)精神病院の更に奧、謎の(謎でも何でもなく緩和ケアの一環として設けられた)礼拝堂へ足を踏み入れると二度と帰って来れなく(小さな礼拝堂の存在が広がって居る時点で、確認し、帰還し、吹聴してい)る。
本当に、よくある怪談話だ。
ただ、ごく稀に、本当に帰って来なかった者も居る。道はあるとは言え、老朽化を理由に閉鎖された山中の病棟だ。事故だってあり得る。
などと言っている間に事情は変わった。
いつの間にか、そこを訪れた人間はもれなく正気をなくすようになった。
どこまで行っても、建物の中でも、窓が無くても、布団を被っても、自分の目玉を繰り抜いても、月が見ている追って来ると喚くのだ。
存在しない視線から逃げようと暴れ、周囲の眼球を抉り、自身の眼球を抉り、人の言葉を忘れて尚怯え叫び続ける。
以前の噂のおりに調べられた範囲では、廃墟となった病棟内に四級やら三級程が4、5程。と言っている内に件の全員発狂キャンペーンに切り替わったらしい。
それが発覚したのが丁度、ここ数日先輩方にしごかれていた伏黒と釘崎が現地に到着したと同時にキャンペーン開催の一報が入った。
あまりの間の悪さに顔を顰めたが、病傷ならともかく身内の気狂いなど余りに表には出したいものではない。隠しおおせない深刻さになって、漸く露呈したのだろう。
踏み込む病院の敷地は厭に静かだった。
山の中だと言うのに、鳥の声も風が木の葉を揺らす音も聞こえない。何の気配も存在しない。
現実味が無いほどに何もない。細部が粗雑な夢でも見ている気分に成る程に、無い。
索敵を命じた玉犬さえ、困惑し、妙な耳の角度に成ってしまう位、何も無い。
いや、幽かに音がする。
どこか不気味な、だが子守歌のように穏やかなオルゴールの音がする。
不思議と危機感さえない。
ない。ない、無い?
だってゆめだもの。かりゅうどのゆめはあんぜんなんだもの。
そのか細い音源を辿る。
建物の至る所に落書きがあり、一階の窓ガラスは無傷の物を探すのが難しい程だ。
変に現実味が無い以外は本当に、マナーとかモラルを疑う連中が良く訪れる肝試しスポットといった有様。件の小さな教会等も酷い有様で、いっそう下品な落書きに、扉は無理にこじ開けられ蝶番の壊れてほぼ用をなしていない。
子守歌はそこから響いて居た。
二人は目配せし、そっと扉の先を覗き込む。
中も同様荒れていた。
お決まりのエロ本やら、ツマミや酒のゴミが散乱している。まさかの屋内で火をたいたのか、花火の残骸まであった。どこまでいっても肝試しスポット感が満載だ。
ただ一角だけが絵画のようだった。
小さな、よくても五歳程度の男の子がぽつりと座って居る。古い肖像画のモデルのような衣装に、きっきちりと銀髪を撫でつけているのが年代物の油彩といった雰囲気を作って居る。
その子が抱えたオルゴールから、子守歌が響いて居た。
日本人には見えない出で立ちに、非現実的な光景を作って居る子供だが、間違いなく『人間でしかない』。
まあ、ゆめなのだからげんじつみなんて、さいしょからなかったけれど。
ぱたり、と小さな手がオルゴールの蓋を閉じると、当然のようにどこかおどろおどろしい曲が止む。
「おや、驚いた。またこんな所を訪れる物好きか」
小さな子供に有るまじき行儀の良さで、破壊を免れた木製の長椅子に腰掛け、隣には子供が両手で抱きしめるのに丁度良さそうな、女の姿をした縫いぐるみが座らされている。
子供は両の瞼はおろしたままに、顔だけを向けてこくりと小首を傾げた。
幼ない少年の声の筈なのに妙に重い。それはどことなく古風な装いのせいなのかもしれない。
声を掛けられたのだから仕方ない、と二人は教会内に進む。
すぐ傍まで近寄って、やっと子供は目を開く。
すっと持ち上げられた瞼の向こう、覗いた瞳が青い。
海の、底の底、ずっとずっと遠くの未知の青さ。
または、空の先、ずっとずっと遠くの星々の青。
或いは、月の青褪めた光の色。
見つめ続けてはいけないような、悪寒を伴う色の瞳が、じっと二人を見詰める。
「あんたこそこんなとこで何やってんのよ。親に怒られても知らないわよ」
できるだけ、気負う事なく、それが当然であるように、廃墟の中で小さな子供を見つけた年長者としての言葉を選ぶ。
何だかほんの少し前に、子供に警戒された様な気がしないでもないが、敢えて小さな子供に向けるにしてはざっぱりとした物言いをする。
できるだけ、(無意識にだが)子供の瞳も、(こちらは意図して)その背後も見ないように。
後ろに居る『モノ』を子供が気取らないように。
気付いている事を隠すように。
そこに、礼拝堂の奥に居るのは『Lynx』。哺乳綱食肉目ネコ科オオヤマネコ属オオヤマネコ。別名ユーラシアオオヤマネコ。
金茶の地に黒の斑点を持つ筈だが、その山猫の体毛は白い。目前の子供も少年少女も気にした風もなく、獣がよくやるように伸びをする。くぁっと大きく開けられた口とは対照的に、鮮やかに過ぎる緑色の目を細める。一通り伸びをした後も、まだ眠いのか目は細められたままぼんやりと『お座り』の体勢を取っている。とてもじゃないが、警戒心の強い野生動物には見えない。
現に、何かの冗談か赤い首輪を着けていた。
だが問題はそこではない。
本来のオオヤマネコは大きなもので体高70㎝程。超大型犬と呼ばれる辺りはそれを越える種もある。あり得ない程大きな生き物でもない。
ないはずなのだが、その、礼拝堂の奥に座り込んでいる大山猫の凡その体高さは3M程。
身を低くし牙を剥く玉犬にさえ反応せずに、ぼんやりと座り込んでいる。
毛足の長い、真っ白なふかふかの動物に見えるそれは、間違いなく呪いなのだ。
何故目視するまでこれ程のものに気づかなかったのかと息を飲む。それ程異質な『獣』がそこ居る。
高次元に存在する烏賊がマジで厄介だから、早く鯉の餌にしたほうがいいかもしれない。