冬にしては暖かい夜だった。
寝台で眠っていたエルドは寒さで目を覚ました。
ここ何ヶ月、当然のごとく自分の隣にあった暖かい存在が今はない。自分に温もりをもたらす人物を探すように、半分眠った状態でエルドはさわりと手を動かすのだが、そこには布の感触しかなかった。
エルドは反射的に上半身を起こしてすぐさま布団をめくる。だが確認できたのは布と布に染みついた体温の残滓のみ。
完全に目覚めたエルドは、髪を掻き上げながら自身のそばと未だ暗い寝室を見回した。けれどもエルドより先に寝台で眠っていたはずの人物、蒲公英色の髪をした彼女の姿は自分の隣は言うまでもなく、寝室にもなかった。
エルドは掻き上げたそのままに、髪をくしゃりと握る。眉が寄ってどんどん不機嫌になっていった。
フィレスが隣にいない。何故いないのかと思うと感情が無性に苛つく。おまけにこの程度の事で不機嫌になる自分自身にも同時に腹が立った。
昨晩より気温は高いとはいえ、冬の空気が冷たいことには変わりない。上半身が裸の身に冷気が遠慮なく突き刺さる。寒さが苦手なエルドは、この不機嫌が冬という季節の所為だけではないと自覚する。
ずいぶんと長い間、暗殺を生業としてきたエルド。彼にとって自分以外の人間と寝ることはあっても、眠るなどとは絶対に考えられないことであった。
数か月前に遡るが、フィレスと寝台を一緒にした始めのころ、当然エルドは一睡も出来ずじまいだった。
どこかの誰かの温もりは、エルドにとっては相容れないものであったはずだ。
それがどうだ。今は一緒にあるのが当然になってしまっている。フィレスがいない事で自分の目は覚めてしまう。
自分以外の存在がもたらす温もりを、エルドは受け入れたくないと願い、受け入れられないと強く思う。
なのに突きつけられた現実は、無くて当たり前だったものが、知らない間になくてはならないものになっていた。
以前のエルドなら不自然な状態が自然となってしまっているという。
残酷な現実だ―――――
頭で理解しても感情が拒否をする。エルドはフィレスが眠っていた場所で手を広げてみた。どんどん熱を奪われて下降するシーツの体温はまるでエルドの感情を表すかのよう。
広げた自分の手と冷めてしまうものを暫しの間見つめていたエルドは、まだほんのり暖かいシーツをぎりりと握り込む。
「チッ」
小さく舌打ちした音が寝室の隅に向かってころころと転がる。
中性的な容貌と小柄であるがゆえに侮りがちだが、そこは男性だ。しっかり筋肉が覆う体で小さく伸びをすると着替える為に寝台から降りた。
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時折ふきつける海風と潮の匂いが立ち込めるゾルデの砂浜に、フィレスは立っていた。
夜明け前の暗闇の中で、目が覚めた。
抱き合う格好でエルドの体温をしばし堪能していたが、昨日が一つの年が終わる日だったことに気付く。
新しい年の夜明けが見たい。そう思ったら居ても立ってもいられなくなったフィレスは、エルドを起こさないように静かに着替えて家を出た。
寄せては返す波は、途切れることなくいつまでもいつまでも続く。その先には、ほんの少し前まで「ディパン」と呼ばれていた国があった。
フィレスは祖国が滅びゆく様子をまざまざと見せつけられた。
頭の中には今でもはっきりと亡びが焼き付いている。それは同じくエインフェリアであった自分の姉も、自分を守った騎士達も同じだ。
祖国を守る為に戦った。戦争は勿論だが、経済、外交、情報戦。ありとあらゆる手段を講じて戦い、最終的に勝利を収めなければ、文字通り国が亡くなってしまうのだ。
幸運にも祖国と嫁いだ国の滅びを生前は経験せずに済んだ。しかし幸か不幸かエインフェリアに選定された後に、それを目の当たりにした。
国が壊れる。あの瞬間と胸の真ん中で渦巻いた感情を、フィレスは今でも鮮明に覚えている。
永遠などないのよ。
絶対なんて尚更で。
人からエインフェリアに。
見た目に相反してしまった、生きて積み重ねた年齢。
そして消化しきれない諸々。エインフェリアから再び人間(ひと)となり、止まっていた年齢も動き出し月日を重ねている今も持て余している。
旧い年から新しい年への移ろいは、目の前の波の様だとフィレスは思った。
潮風がフィレスの真横を通り抜け、風の冷たさに思わず身震いした。
はあ、とかじかんだ手に息を吹きかける。温もりを求めて両手をこすり合わせた。
空が徐々に色を変える払暁の刻と共にフィレスの両手もじわりと温もりが染み入る。
「おい」
かけられた少し低い声。我に返ったフィレスは後ろを振り返る。そこには仏頂面のエルドが立っていた。
返事の代りにフィレスが笑う。
「海をね、見ていたの」
エルドは沈黙したままだ。
「ごめんね、黙って出てしまって」
苦笑するフィレスに対して無言のまま、エルドは歩み寄りフィレスの横に立つ。
「…起こせよ」
おそらくエルドは「俺を起こして、ちゃんと告げてから家を出ろ」と言いたいのだ。
一緒に暮らしていると、色々なことがわかるようになるものね。エルドを見上げながらフィレスから笑みがこぼれる。
「気がすんだから、もう帰る」
聞くだけ無粋な科白だが、エルドはどうしても確認したかったからフィレスに言った。
どこに?と。
白い息と明るい声がかえってきた。
「家に決まってるじゃない」
昏い閨に小さな花がポツリと咲いて微笑んだ。
返事を聞くやいなや、エルドはフィレスの両手首を握ると自分の方へと引き寄せる。
勢いよく引っ張られたものだから、フィレスすこし仰け反りながらはエルドへと飛び込んだ。全身で受け止めるエルドの肩口にフィレスの頬が触れて、二人の身体は密着した。
互い体温が、ぶ厚い布越しにエルドとフィレスの全身にゆっくりと沁み渡る。
「何をみていた?」
言えよ、と続いた言葉。どうやらフィレスの目の前の相手は追及の手を緩める気はないらしい。頭を動かして額を預けて小さく吐く。
「滅びを見ていたのよ」
エルドはフィレスの声と体の僅かな震えを逃さなかった。
手首を離すと冷たい両手の指先を守るように包むように握る。そのままエルドは握ったふたつの手を、乱暴に外套の両脇のポケットに突っ込んだ。
身体は密着しているのに、手は触れあっているのに、外套が邪魔をすると言い訳をして互いの背に腕をまわして抱きしめることはしない。
一番近くて、どこかしら遠いこの距離は、いまの二人の関係そのままで。
それでも何かが変わるのかもしれない、と波音が繰り返す。
旧い年から新しい年へと移ろうように。
触れ合う二人を払暁が抱き、時と共に空の色と温度は移ろう。
夜は離れ朝が近づくように。
小さな波に浸蝕されて岩が形を変えるように。
なにかが去りゆき、なにかが出づるだろう。