「雨はキライよ」
―――――あの襲撃を思い出すから。
声にしなかった場面が、記憶という名の薄暗い闇の中にぼうっと浮かび上がる。クレセントにとっては嫌悪と憎悪と恐怖そして希望がない交ぜになった、色がごっそり抜け落ちた記憶。
あの日も雨だった。
思い出したくも、考えたくもない。そんな忌まわしい思い出が、頭の中でじりじりと勢力範囲を広げ、クレセントを追い詰めようとする。それに比例して、服の下の肌がぷつぷつと粟立つのを否が応でも自覚した。
この鳥肌は雨で低くなった気温とこの部屋の温度の所為なんだから、と妙に言い訳じみた理由に取り敢えず納得したクレセントは、冷えた身体を温めるかのように左手で右腕をさすった
窓辺に立ち、硝子の向こう側をぼんやりと眺める。
剣と剣がぶつかり合う金属音、肉が切り裂かれ、骨が砕ける音。怒号と罵声と断末魔の叫び。襲撃の喧騒が、雨音を殺した。
あの日、衣裳部屋の奥のすみっこに隠れていたクレセントは、自分の口を自らの両手で塞いで声を出さない様にしてせいで、それらの音を全て聞いた。いや、聞かされたというべきか。
小さな肩で荒い息をする。両目からは涙が止めどなく溢れて、幼い手に沿って流れた。
土から拒否された雨が未練がましく地面を流れるように。
雨は止みそうにない。
昼間と夜が混じったような仄暗い窓の外。その濡れた景色を睨む様に眺めながらクレセントはきつく眉を寄せた。
左手は右腕を握ったまま、自由な右手の人差し指を立てる。
人差し指の腹で、窓の外の景色をガラスごと押し潰そうとした。キュッ、と甲高い音をたてて硝子が抗議の声をあげる。
尚も潰そうと指に力を込めるクレセント。桜色をした爪が白くなり指が反る。これ以上すると指を痛める、と痛覚でもって手が訴えた。
剣でお金を稼ぐ身にとって怪我は収入に直接跳ね返るし、何より行動を共にする存在の足手まといには絶対になりたくない。
だから―――――
ぎりぎりと歯を食いしばってクレセントは指を窓硝子から離した。波立つ感情を抑えるためにぎゅっと目を瞑り、ふぅ、と息を吐く。息がかかった硝子が白く曇った後、明るい闇にさあっと溶けていった。
どのくらいの時間が流れたのか。扉が開く音でクレセントは我に返る。
「エーレン!」
結っていない淡い金髪がうすら寒い部屋に翻る。それは一瞬の光の奔流。
彼女は、大切な人へと真っ直ぐに駆け寄り、まるで子供のようにその胸に飛び込んだ。
「わ」
ビックリして手を持ち上げたエーレンの腰にクレセントは両腕をまわす。そして安心したように全身の強張りを解いた。
エーレンの胸に顔を埋めたクレセントは、エーレンの顔は見えない。
相変わらずの外の暗さをいいことに、窓硝子の表面は鏡の様に室内を映していた。鈍く光る硝子はエーレンに、彼がどんな表情を今しているのかを容赦なく突きつける。
無言で真っ直ぐに前を見つめているエーレンは微動だにしない。
彼の視界の先にあるものは、エーレン自身なのか、それとも雨に煙る風景なのか。
五月闇だけが、その答えを知っている。
「命令が下りる、クレセント」
「うん。大丈夫だよ、エーレン」
俯いたエーレンの緑の瞳に映り込むのは、顔を上げたクレセントの鮮やかな笑顔。彼女はあの日とは違って、泣いてはいなかった。