緑の地面に横たわる、小さな身体。
エーレンの視線の先には、息絶えたクレセント。
二人の間の距離。この程度の距離だったらクレセントはエーレンに気づいて名前を呼びながら花が綻ぶような笑顔を向ける。だが、今はクレセントはエーレンの方を向くことはなく、笑顔を浮かべることも弾む声で名前を呼ぶことも出来ずに。真っ直ぐに無言で空を凝視していた。
景色を映すだけの瞳は、何かに抗うかのように、何かを拒むかのように、そして何かを待ち焦がれているかのように。
闇に沈むのではなく、ただひたすらに世界を映していた。
クレセントの淡い金髪は、まるで降り積もる雪のようであった。仄暗い世界の隅で、穢れを跳ね返してひたむきなまでに白く。まるでそこだけが別世界であり、だが現実離れした光景は残酷な事実をエーレンに突きつける。
「クレセント」
不意に口をついてでた、感情も感傷もどこかへ置き去りにした乾いた声。
エーレンは自分の声を聞いた。しかし、それは意識的にではない。聴覚器官が正常だから自分自身の声が聞こえただけで。言葉がエーレンの耳から侵入し脳を犯し始め、言葉の意味と事態を脳が理解する。心臓の音と共に感情が徐々に脈打つのを自覚したエーレンが、ぎりっと拳をきつく握りしめた。
エーレンはクレセントの横で膝を折ると、膝頭を地面に付ける。魔物に襲われ、致命傷を負い、そこから溢れ出た命の欠片。戦場で飽きる程見た赤い色が年若い彼女の最後を華の様に彩る。ほんの少し前まで確かに生きていた証を全身にちりばめた、物言わぬクレセント。彼女を静かに抱き上げ、少し開いた口元に指を伸ばす。
エーレンの指先は震えていた。それはエーレン自身も気づいていない。仮に他者が注意深く見ても気付かないであろうほんの僅かなそれは、動揺なのだろうか、それとも慟哭なのだろうか。あるいは動揺であり慟哭なのかもしれない。
クレセントの口元にこびり付いた血は既に凝固していた。はじめは軽く拭ったのだが、それでは駄目だと気付いたエーレンの眉間に深くしわが寄る。
「クソッタレ」
彼にしては珍しい悪態をついた後、力を込めて、だが優しく何度も何度も根気強く指の腹で拭いた。
腕の中で既に冷たくなってる存在と、時には繋ぎ時には絡めたエーレンの指。丁寧に動く優しい指の腹は、こびり付いた血ともども記憶を痛みを跡形も残さずにクレセントからきれいさっぱりと拭い去った。
夜明け前の蒼い空は鳥の影の如く何処へと飛び去って行き、間もなく夜明けが世界をじりじりと覆い尽くす。
クレセントの瞳をエーレンは静かに見つめた。
あの、雨の日の襲撃の時のように、恐怖と同居しながらも目を逸らす事をしなかった瞳がそこにある。しかし襲撃の日と違うのは、今のクレセントの瞳に感情は存在せず、微動だにしない。ひたすらにエーレンを映すだけ。
時代の歯車が軋みながら高らかに歌い、そして壊れゆくだろう。
大きなうねりのただなかで、二人で一緒に過ごした決して長くは、さりとて短くもない、例えるなら宝物のような、まぶしい貴重な時間が意味するところは。
「楽園だったよ、クレセント」
言い終えたエーレンはクレセントを抱いたままで、ゆっくりと地面に背をつける。
真っ白で冷たい雪を抱くように、華を愛でるように、全てを与えるように、何もかもをまるごと奪うように。
エーレンの大きな懐に抱かれたのは、全てを抱きしめた抜け殻、何もかもを失った亡骸。
止まる事を知らない、流動する世界から隔絶された場所で身体を重ねた二人を、木々の間から零れ落ちた光が少しの熱と共に包み込んだ。
ついさっきまで血なまぐさい戦場で命のやり取りをしていたエーレンは、現在の非現実的な風景と光の眩しさに、思わず目を細めた。
エーレンは心の中でこっそり訂正をする。
過去だけではない。今この時も確かに楽園なのだと。
間近な未来に思いを馳せると、抱え込んだ大切な存在にエーレンの指が否応なしにぎりぎりと喰いこむ。
エーレンは指先に力が籠るのを自覚すると、細い息を静かに吐いた。