「真理の書はね、元々シフェルの構想なのよ」
フィレスが懐かしむ様に水色の目を細めた。テーブルの上のティーカップから熱い紅茶が湯気を立てている。
解放されてエインフェリアから人間へと戻った、いや戻されたというべきなのかしら?そんな事をつらつらと考えながら、フィレスはぼんやりと紅茶の水色を眺める。以前の様に高級品が自然と手に入る身分では、もうない。だけどたまの贅沢で、少しだけどいい茶葉を買って楽しむ。そんなささやかな幸せを楽しむ精神的余裕も出来た。
「お前の功績じゃないのか」
「名目上はそうだけどね、内情は違うのよ」
エルドの質問に対して即座にフィレスは否定した。午後の穏やかな日差しが窓から差し込む。休日の午後はこうやってのんびり過ごすのが少し前から当たり前となってきている。
エルドは皮肉めいた笑いを目の前の相手に向けながら言った。
「まあアレだ、ディパン出身のお前が魔術に詳しいとか、絶対にねーな」
「…相変わらず嫌なとこ突くわね、あんた」
口を尖らせながらティーカップに手を伸ばすフィレス。さっきは即座にした否定を今はししないのだから肯定なのだろう。
「優秀な魔術師を数多く輩出した魔術大国パルティアと武のディパンだと、魔術の知識一つ比べても雲泥の差があるだろ、フツーに」
ニヤニヤと笑うエルド。こういう毒を含んだ言葉を口にする時、彼は非常に生き生きする。目なんてキラッキラだ。甘さは一切ないけれども中性的で整った顔なのに、こんな時に輝くなんてなんだかなあと思いながらも、フィレスは律儀に返事をした。
「シフェルがずっと事業提案していたんだけどね、単にまとめるだけなら問題ないのよ。だけど系統立てるとなると、自国のみならず、他国にも協力を要請しなきゃいけなくなるでしょ?」
費用は大変な額で跳ね上がるし、金銭面だけじゃなく確実に外交が絡んで来るから多方面で問題アリと判断されて、予算が下りなかったのよ。フィレスは言い終えると熱い紅茶に口を付けた。
「ああ、それでお前の功績を利用したのか」
エルドの的を射た、それでいて容赦のない言葉を聞いてフィレスは思う。アレは、私自身の功績ではない。私は祭り上げられただけだった。基礎がおぼつかないのに、それに見合わないご立派な建物。
胸中に苦い思いが広がって染みを作る。
「魔術師達の悲願でもあったから。完成してかなりの間、門外不出だったけど」
本当に存在するのか、完璧に系統立てて編纂されたのか。
噂のみで現物を目にしていない者達は、真理の書の存在自体を疑った。普通に考えれば現実不可能なのだから無理もない。
しかし、真理の書は完成した。実際に協力してもらった他国には協力部分とその前後だけを証拠の意味も含めて開示をしたが、それ以外は一切を秘匿した。
考えてみて欲しい。完成までに長い年月を必要とし、文字通り魔術師達の血と汗と涙と手間と暇が莫大な額の費用と共にこれでもかと投入された国家事業の成果だ。そうやすやすと公開はしないのが普通である。どうしてもと懇願され、パルティアとしてつっぱねる事が出来ない相手に対しては、特例として結構な条件を付けた上にそれ相応の謝礼を相手に枯れた薔薇を包んで潰す要求した。
そんな過去を思い出しながらフィレスは両手でティーカップを包み込んだ。
「まるで砂上の楼閣だな」
抑揚のない、だけれども辛辣な声に、はっと顔を上げてフィレスはエルドを見た。こんな事を彼が言う時、いつもであれば意地悪い笑みを湛えているのだが、今日は違う。頬杖をついて窓の外を眺めるエルドの横顔は、穏やかだった。
「エルドの言う通りね」
エルドの横顔を直視して言うと、不機嫌そうに眉間に皺が寄るのが見えた。
ティーカップの持つ熱が、フィレスの両手をじんわりと温める。ぬくもりがゆっくりとフィレスを満たした。
「今だって似たようなもんだろ」
エルドの言葉を聞きながらフィレスはエルドと同じ場所を見る。窓は明るい陽射が満ち溢れていた。
―――――だから気にすんな。
そんな声が聞こえた気がした。