とある昼下がり、アドニスがヴィルノアの自宅の鍵を開けて入った時、
セレスは床にぺろんと横になっていた。
アドニスがいつ帰るかセレスは知らない。服装はいつもと同じ地味だ。
「大層なお出迎えだな、おい。」
小さく上下する肩を見ながらアドニスは呟いた。
寝ているセレスは起きる気配が全く無い。
アドニスは鍵を閉め、荷物と大剣を床に置いてソファーに座る。
今年の夏は暑い。そして確かに床は冷たい。
ひんやりした床で気持ち良さそうに昼寝する斬鉄姫。
アドニスは背もたれに肘を付き、もう一方を伸ばしながら室内を見廻した。
室内はきれいに掃除がしてあった。
窓も床も拭いて、扉や家具の取っ手は磨いたあった。
台所のテーブルには本が数冊置いてあり、筆記用具も見える。
室内を確認したアドニスはソファーから立ち上がり、水を浴びるための着替えを取りに寝室へ入った。
明るい日差しが寝室中に満ちていた。
布団は日に当たるように寝台の上で横に置いてあり、洗ったシーツはその横できちんと畳んである。
開けた窓から熱を含んだ風が寝室に吹き込んだ。
着替えを肩に掛けたアドニスが寝室から出てきた。しゃがみ込んでセレスを見る。
居間の床で寝そべるセレスはさっきとは反対を向いていた。
体温で熱くなった床から逃れて冷たい床へ避難しているのだ。
長い睫毛は動かず、表情は小さく微笑んでいる様にも見える。
白い鼻先をちょいよいと撫でながら、アドニスは言った。
「ゾルデの猫よりだらしねぇぞ。」
面白そうな声が床に落ち、そして欠片となる。その欠片は光を反射しながら辺り一面に散らばる。
光の中を黒衣が立ち上がり、小さな足音は浴室へと向かって行った。
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小さな物音でセレスは目を覚ました。
顔が熱い。夕日がセレスを染めていた。
「あ・・・寝過ごしたわ・・・。」
床から起き上がり、物音のする方を見ると黒い頭が見えた。
テーブルに向かいセレスは歩き出す。
近くまで行くとアドニスは背中を向けたまま、自分が座る横の椅子を指し示した。
セレスは何も言わず、黙ってアドニスの横に座る。
アドニスは白い首に顔を埋めた。
帰還の合図。
セレスは濡羽色を撫で付ける。
「おかえりなさい。早まったのね。」
「賊が出なかったからな。」
「御免なさい。寝過ごしたわ。」
テーブルには簡単な夕食が並んでいた。
それを食べながらアドニスは言葉を続ける。
「オマエ、静かにイビキをかけ。」
「かいてないわよ・・・。」
「寝言もやめろ。うるせぇぞ。」
「言ってないわよ・・・。」
「寝ている間の事が分かるのか、あぁ?」
黒刃の恫喝する眼と声がセレスを刺す。だが、斬鉄姫は怯まない。
「寝言はともかく、イビキは今まで言われたこ」
ぐうぅぅぅぅーーーーーー。
掃除と洗濯に夢中だったセレスは昼御飯を食べていない。
「すごいイビキだな、おい。」
「・・・これは、イビキじゃないでしょ・・・。」
アドニスを睨んだまま、セレスは言った。
「じゃあ、何だ?言ってみろ。」
「・・・腹の虫だわ。」
真面目に答えるセレスの声を聞いた瞬間、アドニスはセレスの肩に顔を埋めて笑い出した。
感情が笑いの形で溢れ出す。
斬鉄姫が腹の虫を鳴らす。オマエ、やっぱり俺を笑い殺す気だろ。
「ちゃんと答えたのに、何故笑うのよ。」
くっくっくっ・・・。
返事の代わりにアドニスの肩が小さく上下する。
「笑いすぎだわ・・・。」
止まらねぇんだよ。
「アドニス・・・。」殺気を感じてアドニスは止めを刺した。
「だったら寝言は言ってたのかよ。」
ヴィルノアの空は赤錆色から濡羽色へと移ろう。
人々の日常の欠片は、そんな空の下で今日も小さく眩しく輝くのだ。