シルメリアは町外れの小さな丘に立っていた。
夜だというのに、明るいのは夜空に浮かぶ満月の所為であろう。夜空の支配者が放つ月光は小さな星々の輝きを呑み込んだ。か弱き光は強者に平伏す。弱肉強食の理は夜空にも即するのであろうか。見上げる戦乙女は答えを知っているのだろうか。
剣を収めた右手を持ち上げてシルメリアは額飾りを少し乱暴に外した。そして自身に降り注ぐ光のあまりの明るさにようやく気付き、戦女神はふと頭上を見上げた。
今宵の夜空の支配者を見上げる。
月は満月をとうに過ぎ居待月を過ぎた頃であったが、満月もかくや、という明るさであった。シルメリアの薄く開いた唇から嘆息と共に出た声はしじまを小さく波立たせた。
「美しい。」
日中の太陽の光とは真逆の光は熱を持たない。
冷たく、ありのままに、無言で風景を染め上げるのみ。
町外れの小さな丘に立つ戦乙女は片方の手で鞘を押さえ、もう一方のだらりと下げた手は額飾りを握っている。蒼穹の長靴の足元には既に事切れた人間が血を流して倒れていた。
月光は容赦なくシルメリアに降り注ぐ。蒼穹の鎧は、昼間とは別の輝きを持ち、金色の髪は白銀の艶を帯びた。深い緑の瞳には紗が懸かり白い肌は陶器の様な滑らかさで、シルメリアの横顔をだけ見れば首から下の鎧がむしろに不釣合いに見える。
じっと月を見つめるシルメリアの背後から足音も立てずに悠々と近付く、一つの影。
堂々たる体躯で深紅の双眸を持つ夜の王は、気配を隠そうともせずに前方の戦乙女へと進む。戦乙女は気配に気付いたが、余りにも美しい月から目を話す事が出来なかった。
ブラムスはシルメリアの背後に立ち、静かに手を伸ばし、指を髪へと入れる。
耳をすっと掠めた指は静かに上へと髪をかきあげてゆく。髪から離れた指は再び戻ってきて指の間に金色の髪を通してゆっくりと梳り、シルメリアの頭を撫でる。
不死者王が取る行動は、時に言葉より雄弁だ。その不死者王を完全ではないが、多少なりとも理解しているシルメリアは、何者をも切り裂き或いは完膚なきまでに叩き潰すその手は今この時、自分を傷つける意思が無いと知っている。
「月が、な・・・」
「どうした?」
「とても美しいのだ。だから・・・」
シルメリアの手がぎちぎちと額飾りを握り締める。不死者王ブラムスはそれを見たのか、それとも見なかったのか。
「そうか。」
言い終えるとブラムスは左手で金色の頭をそっと引き寄せ、頭頂部に唇を落とした。
背後に立つ圧倒的な存在。自分の頭に時々触れる手も、頭のてっぺんに落ちた唇も、冷たい。
だがシルメリアは、触れている部分からあるはずの無い温もりを感じた。
例え理不尽であろうと、神族であればオーディンの命には逆らえない。だから一人の人間を殺めた。今回が初めてではない。今まで何度もそうしてきた。命を奪ってエインフェリアとしてきた。
今、蒼穹の足元に横たわる人間は天命を全する運命であった。それを捻じ曲げたのは、まさしく自分が「運命の女神」だからだ。または「運命の女神」だから続くはずの生命を断ち切る事が出来た。
いつからだっただろうか、そんな自分を厭うたのは。
いつからだったであろうか、命を奪う事に躊躇いを覚えたのは。
せめてもの抵抗に、ほんの少し前に断った人間の魂をエインフェリアとして選定、召喚はしなかった。
それが精一杯だった。
髪に触れている口唇が動き、低くて重い声がシルメリアの全身を振動させる。
「シルメリア、お前は月の所為にしたのだな。」
笑いを含んだその声はやけに優しく聞こえた。手から力が抜けて額飾りが草の生えた地面へと、ぽとり音を立てて落ちた。
ブラムスの左腕は細い腰にへと伸びて崩れる身体を支えた。
「見るな!」
叫んだシルメリアは額飾りを離した手で顔を覆おうとした。白くて細い指をブラムスが絡み取る。
自分は今どんな表情をしているのか。随分と無様で情けないに違いない。
顔を隠したくても左手は鞘を握った状態であり、左手の上に被さる大きな腕はそのまま腰に絡まっている。右手は指の間を節くれだった指がすり抜け、拳を握る事も出来ない状態だ。
右腕を動かしても、体を捩って逃れようとしても、全てが徒労に終わる。
シルメリアの後ろに立つブラムスの体勢は、シルメリアの全てを容赦なく暴いて行った。
腕を動かした反動で視線が動き緑の双眸は金色の髪を引き連れ上から下へと動いた。シルメリアの両眼は自分が「殺した」人間を捉えた。
その瞬間、押さえていた感情が荒れ狂い堤防を打ち破り氾濫する。
「うあああぁぁぁぁぁーーーーー!!」
私は弱い。だから月の所為にした――――
獣が喚き散らす様な、或いは断末魔の叫びの如く、慟哭が静寂を切り裂き響き渡る。
シルメリアの全てを、その慟哭さえも月光は無情に照らし出す。
仰け反ったシルメリアの金髪と緑の双眸から溢れた水滴が、月の光を跳ね返しながら空を舞う。シルメリアはブラムスに囲われたまま、小さな太陽の様に金色の光と熱を放出しながら暴れた。
本当は命を絶ちたくなどなかった。
しかし神族として、オーディン様の命令には逆らえない。仕方の無い事だ。
いや、違う。
最終的に、命令を受けて実行したのは、私自身だ。
私は、認めたくなかった。
一人の人間の命を奪った理由を、私以外に押し付けたかったのだ。
だから、月の所為にした。
惨めで、哀れな戦乙女。
このまま崩れてしまえば、どんなにか楽だろう。
このまま見放されれば、どれ程に自由だろう。
大声で喚いても、抵抗しても、囲われた体は堕ちない。
惨めで哀れな自分を誰にも見せたくなかったのに。
嘆きも、悲しみも、惨めな自分の姿も、それら全てを覆って隠したかった。
全てを押さえ込んで、何事も無かった様に神界へと帰るつもりだった。
なのに、それを背後の不死者王は赦さい。
声を上げて泣くシルメリアの細い腰に絡まっていた逞しい腕が弛み、絡まっていた右手を引かれる。鎧がゆっくりと回転して、不死者王と戦乙女は向き合った。
尚も頭を垂れて嗚咽を零す白い顎に凶器の手が伸びる、
つい、と強引に上を向かされシルメリアはブラムスを見上げた。その顔には如何なる表情も浮かんではいない。だが、シルメリアは凪の様だ、と思った。
そしてまた涙が浮かぶ。
誰にも見せたく、見られたくなかったのに――――
不死者王は、ブラムスは、残酷だ。
そんな思いが顔に出たのか、ブラムスの口角がゆっくりと上がる。
冴え冴えとした光が犬歯の切先を濡らす。
「誰にも見られたくない、か?」
ブラムスは右手を解放しながら聞いた。
シルメリアは返事をしない。それが答えだ。
声と涙を堪えながら、泰然とした態度で自分の真正面に立つブラムスを見た。
額に細く輝く小さな線。それは王の印。
涙で滲んでぼんやりとした視界で、王の印は月の光を従えているかのようだ。
「ならば、隠してやろう。」
小さな顔は広い胸に押し付けられ、腰に廻した腕がブラスムとシルメリアの身体を密着させる。
ブラムスの名前を嗚咽と交互に腕の中の存在が呼ぶ。
ブラムスは「何だ」と金色の頭を撫でながら聞き返す。
シルメリアの細い腕はブラムスの首へと伸びて、呼び声と一緒に絡みついた。
支えて、堕とし、潰す事など赤子の手をひねるより容易いとブラムスは思った。
だが、それをしないのは――――
「月の所為か。」
煌々たる月の光は、崩れそうな神族と微動だにしない不死者王に降り注ぐ。
抑えきれずに溢れた感情も、隠す事を赦さなかった感情も、全てを冷たい光が照らす。無慈悲に、冷酷に、だがあるがままを曝け出す。
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ブラムス城の最深部である玉座の間。中心に座するのは、不死者王ブラムス。
そして豪奢な天井には、冷たい光を放す結晶があった。
結晶が抱くのは金色の運命の女神だ。
それはブラムスが守護し、ブラムスを守護する唯一の存在。
ブラムスは肘を付き、手の甲に乗せていた顎を静かに持ち上げながら、随分と古い記憶だと思った。
今宵の夜空はあの時と似て異なる、これから満月へと向かう十三夜である。
しかし煌々たる月光は、記憶の底に沈んでいたあの夜の月光と同じであった。
だから思い出したのだろうか。
そして静かな追憶の一時を中断させたのは・・・。
明るい月の光をかさに、複数の神族がブラムス城目掛けて降下して来た。
その数、二十余り。
神族の来襲に、ブラムス城の住人達は沸き立つ。
「いい実験材料が手に入るわい。」
「武器の素材の解析がしたいぞえ。」
「うふ、誘惑しなくちゃあ。」
「俺のスピードにどこまで付いてこれるか、試してやる。」
「体も素材だ、ちゃんと残せよ。」
言いたい放題やりたい放題の住人達は、だが一つの気配でその場で沈黙した。
静な闘気が玉座の間よりゆらり、と立ち上る。
我等が王が、動く。
彫刻みたいに静止した不死者達には、先程とは別の興奮が湧き上がる。
王が闘気を纏って玉座より立ち上がるのを目にするのは、彼等にとっても久し振りである。
ブラムスは歯向かう者には容赦の欠片もないが、打って出る事は滅多に無い。
だか決して「好戦的に非ず」という訳ではないのだ。が、戦う王を目にする事もごくごく僅かであり、そうそうお目にかかれるものではないのも事実である。
しかし、今宵は違う。
不死者達は王の戦いぶりを、あの鮮やかな深紅の闘気をまじかで見れる興奮と期待がブラムス城を静かに満たしていった。
肘掛を握り、ブラムスはゆっくりと玉座から立ち上がる。
双眸と同じ深紅の闘気が立ち上り、体の周りを覆う。
ブラムスの意識は静かなる時を引き裂いた、おそらく此処に在る結晶を目的とする神族達へと向かう。
ついさっきまでの追憶は、静寂と共に彼等によって破られた。
その代償は――――
「高くつくぞ、神族共。」
重低音の声は空間に波紋となって響く。
ブラムスはほんの僅かに眉を寄せ、次の瞬間には不敵な笑みを浮かべていた。
ゆっくりと玉座を離れ、天井で沈黙するシルメリアの近くまで来た時、足を止めた。
静かで冷たい僅かな光。
当事者ではない者が見たら、それは冷冽な棺に閉じ込められた運命の女神であり、この城の王がこれ見よがしに、或いは盾の如く利用し所有権を主張していると映るに違いない。
「ふらふらと飛んでいかれるよりは、マシだな。」
白い翼はシルメリアと何処と無く運んでしまう。
結晶より解き放てば、この城に止まる事は無いであろう。
何より、大禍時(=ラグナロク)に、この結晶の中にいる運命の女神はミッドガルドを支える。ブラムスはそれを助ける約束をした。
一瞬で永遠の時、かけがえのない言葉と共に。
「だから此処に留め置く。」
誰がお前を所有しているのか。
誰に目にも明らかだ。
重く低い声と想いは鎖の様に結晶に纏わり付き、雁字搦めに容赦なく縛り上げる。
止めた足を再び動かし、静かに開いた扉を通り抜けながらブラムスは言った。
「私が潰す。」
ざわり、と城の空気が総毛立つ。
そして煌々たる月光は、神族達の断末魔の叫びを、哀れな命乞いを、不死者王に潰された凄惨な身体を、容赦なく暴き立てる。
無慈悲に、冷酷に、あの夜と同じく今宵も降り注ぐ。