「戦いの最中に考え事とは」
細い爪痕がはしる頬に落ちた低い声にシルメリアは我に返る。ゆっくり顔を動かし上を見ると、そこには何の感情も宿していない一対の真紅が、冷徹に光る宝玉があった。
「余裕ではないか」
悠然と腕を組んで下を覗く不死者王は興じているのだ、とシルメリアは知った。猛獣が獲物を嬲るが如く、どこまで抵抗するのか、いつまで耐えられるのか試している。自分の生殺与奪はあちらが握っていて、つい先程潰されて使い物にならなくなったこの手には既に無い。いや、最初からそんなものは自分にはなかったのだ。圧倒的な実力差を始めから解っていたくせにまるで対等であるかのようなブラムスの物言い対し、シルメリアは何を言うのかとの思いが怒りと共に一気にこみ上がってきた。
「余裕などない。有るように見えるのなら、それは」
途切れ途切れではあるものの何とか声を出したはいいが、荒い呼吸のせいで声が続かない。一旦切った言葉の先を、沈黙でもって真紅の玉が促した。
促されたから唯々諾々と従って続きを口にするのではない、とシルメリアは強く思った。取るに足らない下位の神族の矜持だけれども、何人たりとも、例え我が主神であろうとも潰せない、潰させない。
不死者王でさえも踏みにじれないものがあると知れ、との思いが形を取る。だからシルメリアは笑った。息を飲むほどに凄まじくも美しい表情(かお)からでた言葉は。
「不死者王の目が節穴だからだ」
闇も、笑ったような気がした―――――
組んだ腕を解いて、一方の手を腰にあてながら片方の眉を器用に上げるブラムスから、地を這う様な重低音がした。
「神族、名は?」
名乗る気など全くないシルメリアは、視線を合わせたままで呼吸を再開した。挑発的な笑みは徐々に苦悶の表情へと変化する。ブラムスの問いかけに対しての無言こそが返事であった。
強情なのか、頑ななのか。だが、意志の強さは本物だとブラムスは思った。此方の加虐心を煽る程度には、その強さと矜持は好ましい。故に徹底的に踏み潰したくなる。だからもう一度問うた。
「名は?」
「うあぁああーー!!」
ボロボロの身体のシルメリアは、断末魔のような悲鳴を発しながら大きく仰け反る。無理矢理に視線を固定されてるでもなく、真上の双眸が魅了の術を使っている訳でもないのに、シルメリアは真紅の双眸から視線を離せないでいた。
視線は緑の眼を通り意識へと無遠慮に入り込んでくる。自分の精神に他人の手が入り掻き回す感触がした。とてつもない異物が入り込んきた嫌悪感が心と体に広がる。追い出そうにも相手の力があまりにも圧倒的で、どうにもならない。心が壊されそうになる。精神に入り込んだ手が探すのは自分の名前だ。名乗ってしまえと苦痛に耐えられずに心のどこかが何度も何度も狂ったように叫ぶ。さっさと楽になれ、ブラムスに屈せよと。
これ以上の抵抗は正気を失うと、精神の中でほんの僅かに残った冷静な一部分が判断してけたましく警告をする。それでもシルメリアは抵抗を止めなかった。いつ終わるとも知れぬ状況下で、そうか私は正気を失うのだな、とシルメリアが思った瞬間、ふっ、と緩む視線。
手を踏みつけた足はそのままで、ブラムスは膝を折った。予想外の行動にシルメリアは無防備な上に反応することも出来ない。二人の距離が一息に縮まる。ブラムスの片手が動いて離れた所にあるシルメリアの剣を拾うとこれ見よがしに刃先を下にして持ち上げた。ブラムスが持つ剣の動きをシルメリアの眼が追い、そのシルメリアの動向をブラムスは視界の端で捉え続ける。
「今のお前には無用の長物だ」
言い終えるや否や、剣は黒い粉末の塊となり音も立てずに霧散して闇と同化した。
シルメリアの潰れた手に、更に圧し掛かる砕けない程度の重みと痛み。それで相手もかなり手加減していることがわかる。何故ブラムスがこんな行動をとるのか、シルメリアは理由を知りたくてまじかに迫った強面でありながら端正な顔をじっと注視する。
ぴた、と真紅と緑が合わさった。
「我が名はブラムス。お前は?」
「……私…は、シルメリア…」
不死者王が名乗るなんて予想外だ。驚きの表情をするシルメリアの唇から出た微かな声は、荒れ狂う呼吸音に邪魔されることなく不死者王ブラムスに確かに届いたようだ。くつり、と嗤う声がした。
ブラムスの上がった口端から研ぎ澄まされた犬歯が現れたのを認識した瞬間、シルメリアの本能が危険だと大音量で警告する。今すぐ離れろと。逃げようと痛む体を動かすより先に踏まれた手が自由になった。同時に背中と後頭部に屈強な手と腕が周り込む。
恐怖に大きく眼を見開くシルメリアは拒絶の言葉を叫ぼうとするが、喉に何か詰まってしまった時のように声を出すことができないでいた。魅入られたように眼を合わせたままで呼吸さえも忘れてしまう。
嗤う形の口から、鋭くて物騒な犬歯が闇で艶やかに光った。
「褒美だ、受け取れ」
「…何を!!」
一方的な、逆らう事を許さないそれは命令。さらりと傲慢な科白を吐いた後、不死者王ブラムスはこれ見よがしに徐々に口を開く。ひゅう、とシルメリアが息を呑むのを確認した後、無防備な染み一つない白い喉笛に遠慮なく獰猛な犬歯を立てた。ゆっくりと、時間をかけて、味わうように。
押し退けようと鋼の様な筋肉が覆う肩口に触れていたシルメリアの手が、噛みつかれると同時に濃厚な瘴気にあてられ、だらりと下がった。瘴気の中に潜んだ神界とは対極の場所に位置する甘く快い毒に、犬歯の冷たい感覚に、酩酊にも似た恍惚に、じわじわと浸蝕されてゆく自分の心と身体を畏怖と共に感じた。悪意が悦楽の表情(かお)をしてほくそ笑みながら此方を窺っている、そんな錯覚。
首からブラムスが離れる気配を感じ、何とか逃れよう抗おうと手を動かす。金の髪が闇に翻り、そして訪れる背中と後頭部にひやりとした冷たい感覚。シルメリアはいとも簡単に押し倒されてしまった。
真上からの真紅と深紅は恐ろしいまでに美しくて、そして昏い。先程シルメリアを発狂寸前まで追い込んだ至宝とも見紛う双眸は、威圧感を従えてシルメリアの視界を問答無用で塗りつぶす。
シルメリアに服従を迫る、双眸。
「シルメリア、我が名は?」
あぁ、なんて、あかい、アカイ、朱い、紅い、赤い、赫い―――――
不死者王が求める言葉を口にしてしまったら引き返せないと、何故かシルメリアは思った。服従ではない。全く違う。だが茨の道を往くことになるだろうという予感めいた、それは確信だった。
運命の女神は自身の運命を識りうることは出来ない。ではこれは何なのだろう。本能が発する警告?それとも本当に私の運命?思考はぐるぐると回るだけで明確な答えは出てこない。シルメリアの全身を奔ったそれに対する答えは、シルメリア自身は無論のこと、主神オーディンをはじめとして、おそらく誰も持ってはいない。
輝かしい存在である神族の惨めな抗いを、闇は大切な玩具を扱うようにとても丁寧に触れてくる。今は深いこの闇夜も、階を一段一段を上るようにゆっくりと浅く薄くなり、やがて払暁が訪れる。でもそれは遠き未来の話だとでも言いたげに、時は足を止めて息を殺し、じっと様子を見ていた。
「…ブラム…ス……」
抵抗なのか、諦観なのか。おそらくシルメリア本人も理解らないまま紡いだ小さな声を掬い上げた闇が嗤う。
ブラムスはシルメリアの顔にかかった金色の髪をゆっくりとのけて整えると、ふたたび傷だらけの身体を抱き上げる。首で艶やかに咲き誇る赫い大輪、すなわち犬歯の痕へ、弧を描いた口から出した舌をこの上なく丁寧に押し付けた。
「は、…ぁ」
ぬらりとした感触が首を撫でながらゆっくりと蠢く。眩暈のような感触が脳髄を犯したちまち思考が停止する。吐息ともため息ともつかない、湿り気を孕んだ息をシルメリアはたまらず零した。
不死者は神族ではないのだから、当然慈悲などいう御大層なものはこれっぽちも持ち合わせてはいない。だからブラムスはもう一度噛みついた後、シルメリアの耳元にギリギリ触れない距離まで唇を寄せる。吐息のような声で同じことを尋ねた。唆すような、誑かすようなそれは、白々しい甘さをのせて今度はシルメリアの精神を篭絡せんと傍若無人に暴れる。
視覚と聴覚と触覚と。敵を察知すべきわが身の感覚器官が、このような形で相手の攻撃手段にされるというなんとも悪辣なやり口に、絶対に屈するものかという思いが強くなる。ブラムスへの抵抗に比例してシルメリアの呼吸も段々と荒くなり、引き絞るような苦悶の声を闇が呑み込んだ。
現在の状況で尚も抗う気概と精神力は、ブラムスに愉悦をもたらす。久しぶりに城を訪れた、潰し甲斐のある数少ない、しかも上等な獲物。相手に相応しい対応をしないと失礼というものだ。だから舌を這わせたまま、無駄な抵抗を止めない肢体を抱き直す。
ブラムスからしてみれば、シルメリアに己が名を告げさせるだけの事だから、別段急ぐ必要はない。烏が告げる夜明け迄にはまだ間がある。だからたっぷりと時間をかければいい。答えを促すように頸の犬歯の痕を舌と唇で蹂躙した。
ようやくこの城の主が誰なのかを、主が喉笛に痕を刻み込んだ城の主ではない神族のしかも戦乙女が、抗いきれずに口にした。よくできましたと言わんばかりに今度は甘噛みをしてみる。すると腕の中で面白いように小さく跳ねる傷だらけの肢体。ブラムスは頬に走る鉤爪の傷もついでに舐めてやった。
頬から耳へゆっくりと覚え込ませるように舌を移動させる。ヴァルハラとは正反対の暗闇を肌で直接感じながらも呑み込まれまいともがく手中の戦乙女。或いは正気の光を失わない運命の女神の名を、文字通り口にして、舌触りの良い敏感な白い耳朶と共に食む。
「シルメリア」
もっと私を愉しませろ、と続きの言葉を舌と一緒に耳に差し入れた後、ゆっくりと堪能した。
「…ふざけ、る…な!」
ブラムスの声を聞いたシルメリアは、怒りを感じるより先に絞るように声を出していた。敗者だから仕方がないと解っているが、それでも自分を勝手に扱うブラムスに対して激しい憤りを感じた。簡単に命を奪うことが出来るのに、それをしないで弄ぶというのは、少なくとも認めた相手にする態度ではない。格下以下の扱いだ。
泣いて喚いて許しを請えば、あっさりと命を断たれて全てが終わる。意趣返しとしてはこの上ないやり方だが、死んだ後何をされるかわからないという、とんでもなく恐ろしいことが待っている可能性が絶対ないと言い切れない。この城にいるのは、不死者王だけではないのだから。
シルメリア自身も、死んでも不死者王の言いなりになどならないという意志がある。その意志を自尊心ごと相手は壊しにきているのだ。理解しているからこそ、どうあっても正気を手放せないし、そもそも手放す気など毛頭ない。
不死者王ブラムスは勿論全てを承知の上だ、と理解っている。丁寧に見せかけたぞんざいな扱いをブラムスから受けていいようにされ、ろくに抵抗できない自分自身に対してもシルメリアは非常に怒っていた。思い通りに動かない手足や身体がとても腹立たしい。そんな自分が何より惨めで無様だとの思いが喉をせり上がってくる。にがくて苦しいカタマリを止めて嚥下しようとしたら、双眸を熱と共にじわりと覆うもの所為で歪む視界。せめてもの反抗で拒絶の言葉さえも口にしまいと決めた。滲んた涙は何とか踏みとどまり、流れる事はなかった。
未だ正気を手放さずに光を湛えた緑の双眸を、離れようと無駄な足掻きを止めないボロボロの手や剥き出しになった傷だらけの足を、迫った服従を拒み懐柔を跳ね除けた強靭な焔の意志を。それらを視界で捉えたブラムは、満足そうに真紅の両眼をゆっくりと眇める。未だ弱弱しく抵抗を続けるシルメリア細い手首をひどく優しく掴んで、彼女に残された数少ない自由の一つを、奪った。
あらゆる意味で危険極まりないこの場所から、一刻も早く離脱せんと冷静な判断と激しい感情のままに持ち上げたシルメリアの足は、あまりの痛みに耐えきれずに固い音を立てて無情にも床に落ちる。
カツン、と踵が鳴る。絶望の音が鳴る。どこか遠くで烏も、鳴いた。