シリカは心地よい秋風に吹かれながら、見晴らしのいいテラスに出てそこに置かれている椅子に腰かけた。小高い丘の宿屋のテラスから眼下に広がる第50層の街並みは雑然としていて美しくはない。しかし、シリカはこの風景が好きだ。なんか下町の風景といった感じで庶民的だし、それにここはあの人――キリトのホームタウンなのだから……。
シリカは届いたばかりの≪Weekly Argo≫を広げた。
『攻略組 第73層突破! ―今回も犠牲者ゼロ!―』
の文字が躍る。それを見て、シリカは深いため息をついた。
(また、一つ離されちゃった……)
キリトに助けられてからもうすぐ8ヶ月が経とうとしている。
いつかキリトと一緒に戦えるようになりたい。あの人の役に立ちたい。キリトに助けられたあの日からそれがシリカのひそかな目標になった。
二人が出会った時、シリカは第35層で戦い、キリトは第55層で戦っていた。今はシリカが第50層で彼は第74層。8ヶ月の間に差が20層から24層に広がってしまった。
がんばっても、がんばっても、絶望的な差が埋められない。それどころか、どんどん広がっていく。
暗い気持ちが湧きあがってきた時、左肩に乗っている使い魔の≪ピナ≫が「くるるぅ」とノドを鳴らしてシリカの頬を舐めた。
使い魔には単純なAIしか搭載されてなくて人の感情など分からない。というのが定説らしいがシリカはそれを信じてない。
ピナはいつだって絶妙なタイミングでシリカを励ましてくれていた。その事にどれだけ救われてきた事か。どれだけ、心を温められた事か。
「ありがとう。ピナ」
シリカはピナの小さな頭を撫でると気持ちを切り替えて記事の詳細を読み始める。キリトの活躍が載っていないかと……。
「シリカ」
ちょうど新聞を読み終わった時、同室のティアナが明るい声をかけてきた。
彼女は1週間ぐらい前からコンビを組むようになった。シリカより3つ4つぐらい年上の女の子で盾持ち片手剣のいわゆるタンクでとても頼りがいがあるお姉さんだ。
「Weekly Argo? 面白い記事あった?」
輝く金色のポニーテールを秋風に揺らせてシリカの隣に立った。
「73層突破したんですって」
シリカは笑顔で新聞をティアナに見せながら言った。
この世界の人はほとんどがシリカより年上だ。そのためか、つい敬語になってしまう。ティアナは敬語じゃなくていいと言ってくれているが、無意識のうちに丁寧な言葉になってしまっていた。
「あと27層かぁ。これが始まった時はゲームクリアなんて絶対無理! って思ってたけど最近は何とかなりそうって気がするね」
ティアナはシリカから受け取った新聞を読みながら笑顔を浮かべた。
「そうですね」
シリカはティアナの言葉に同意して頷いた。
来月でこのデスゲームが始まってから2年を迎える。このペースでいけばあと1年を待たずしてシリカたちプレーヤーはこのデスゲームから解放されるだろう。
(その時までにあたしはキリトさんの隣に立つ事ができるのかな? 安全マージンを十分すぎるほど取ってちゃ追いつけない……)
そんな事を考えているとティアナが「ねぇ」と語りかけてきた。
「シリカ。今日は迷宮区じゃなくってフィールドダンジョンに行かない?」
「え?」
「ちょっと難易度が高いみたいだけどさ、レベル上げにはいいみたいなんだよね。あたしたちならできるよ!」
ティアナがシリカを励ますように言った。
(そうだ、今までのようなやり方じゃだめだ。あたしはもっと強くならなくっちゃ)
シリカは心に決めて頷いた。
「はい。あたし、がんばります」
「よーし。レッツゴー!」
ティアナが明るい声で可愛らしく拳を上げた。
「おー!」
シリカもそれにならって拳を上げると、ピナも可愛い声を上げた。
ティアナの案内でシリカがやってきたのは廃寺風のフィールドダンジョンだった。
情報屋のデータを読んだところ、湧くモンスターはアンテッドや破戒僧。特に破戒僧はなかなか強いらしい。
注意事項として2つあげられていた。
一つ。破戒僧によく似た修行僧というNPCがPOPする。これを攻撃するとオレンジネームになってしまう。カーソルがグリーンなのでよっぽど焦らなければ間違えて攻撃する事はないだろうが、注意が必要だ。
二つ。本堂の中にいる地蔵尊は善属性なのに襲ってくる。それなのに反撃するとオレンジネームになってしまうというおまけつきだ。
この事を利用して一時期、MPKまがいのFPKが流行したらしい。
「シリカ。本堂には近づかないようにしましょ。お地蔵さんが出てきたら逃げようね」
山門の前でティアナは念を押すように言った。
「はい」
「じゃ、行こう」
シリカたちは頷きあうと山門をくぐって廃寺に入った。
ティアナがアンデットや破戒僧のターゲットを引き受ける事でシリカは安心してソードスキルを繰り出すことができた。ティアナと組むようになった1週間。モンスター戦で危険を感じたことはない。彼女の安定した戦い方はとても安心できた。
しかし、さすがに破戒僧は強かった。時折繰り出す体術によって、ティアナが麻痺状態になり集中攻撃を浴びた。
ピナがティアナを回復しようと息を吸い込むような予備動作をした。
「シリカ……ごめんね」
突然、ティアナがシリカに呟くように謝った。
「え?」
シリカが戸惑っていると、ティアナは盾で破戒僧を突き飛ばし、ピックを手にするといきなり近くで歩いていた修行僧に投げつけた。
たちまちティアナのカーソルはオレンジ色に染まり、そんな彼女をピナが回復した。その瞬間、シリカは犯罪者のオレンジプレーヤーになってしまった。
「どうして?」
シリカはティアナがなぜそのような事をしたのか全く理解できず、呆然とするしかなかった。
ティアナは剣を握り直し≪ホリゾンタル≫で破戒僧を一刀両断した。
「オレンジプレーヤー発見~」
妙に浮ついた男の声と複数の足音がシリカの背後に聞こえた。あわてて声のした方向に目をやると3人組みの男たちがいた。カーソルはグリーン。だが、その全員がシリカに狙いをつけていた。
「ごめんね。シリカ……」
シリカの背後で今にも泣きだしそうなティアナの声がした。
「そんな……。嘘ですよね。ティアナ……」
ティアナは悲しそうにシリカから目をそらした。
電撃のようなショックがシリカの中を駆け抜けた。――シリカは罠に嵌められたのだ。
(逃げなきゃ!)
シリカは山門へ向かって逃げ出した。あてなどない。とにかくここから逃げ出して身を隠さなければならない。
これはフラグPKだ。シリカがオレンジプレーヤーになってしまった今、グリーンプレーヤーは何のペナルティもなくシリカを襲える。傷つける事も……命を奪う事でさえ彼らは自由にできる。
(山門から外に出て森に隠れて……それから)
そんなシリカの計画は山門から出た途端に崩れ去った。
山門から出た瞬間、シリカは二つの人影に足を引っ掛けられた。宙に飛び、次の瞬間にはみじめに地面に這いつくばっていた。
シリカが慌てて身体を起こした時にはもう取り囲まれていた。
「安心してよ。殺しはしないからさぁ。命以外はいっぱいもらっちゃうけどねぇ!」
リーダー格の男が薙刀を片手に下卑た笑いを見せ、シリカは恐怖で震えた。
ピナが抗議の鳴き声をあげて、その男に体当たりをした。
「ぐはっ」
「なーにやってんだよ」
ピナの攻撃力はほとんどない。周りの男たちはそれを知っているのか余裕の笑い声をあげた。
「うるせー。てめえらはこのトカゲを押さえてろ!」
周りの男たちを視線で制して、シリカに薙刀をつきつけた。「さあ、まずは武装解除してもらおうかぁ」
(どうしよう、どうしよう)
シリカはどうしたらいいか分からなくなってノド元につきつけられた刃を見つめる事しかできなかった。
「ああん? 聞こえないのかなぁ」
薙刀がソードスキルで輝き一閃した。「脱げって言ってんだよぉ!」
シリカの右足にいやな衝撃が走った。
「嫌あぁぁぁ!」
シリカの視界が涙で歪む中、その右足が切断され細かいポリゴンとなって散った。
「ああ、ああああ」
シリカはうめき声をあげながら半狂乱になって這うようにその場から逃げようとした。しかし、右足を失ったシリカがこの場から逃げるなど不可能だった。
「どこに行こうっていうのかなぁ?」
シリカの目の前に薙刀の柄が振り下ろされてその行き先を閉ざした。
「ひっ」
シリカは息を飲んで震えた。
「まずはアイテムと金を出せよぉ」
男の薙刀が今度はシリカの左足を切断した。「あれぇ。日本語、忘れちゃったのかなぁ」
下卑た笑いがシリカの周りを取り囲み、彼女は絶望で壊れ言葉にならないうめき声と泣き声を上げながら首を振った。
突然、森がざわめき馬蹄が聞こえた。
「ん? なんだ?」
シリカを取り囲んでいた男たちがその音の出所を特定するために首をめぐらした。
「やめろ!」
凛とした女性の声と共に茂みから美しいユニコーンに跨った一組の男女が現れ、シリカを男たちから守るように立ちはだかった。
シリカは涙をぬぐいながら馬上の人を見た。二人が着ているその服は何度か≪Weekly Argo≫で見たことがある。血盟騎士団の制服だ。
攻略組ギルドの二人がなぜ、こんなところに? シリカは呆然とするしかなかった。
「大丈夫?」
背中まである長い黒髪を風になびかせながら少女がユニコーンから飛び降りて優しい言葉をかけてきた。全体的に儚げな顔立ちなのにその茶色の瞳から強い意志の力をシリカは感じた。
「おいおい。まさか、犯罪者に手を貸そうってわけじゃないよなぁ」
シリカが何も言えずおろおろとしていると、男は薙刀を血盟騎士団の少女に向けた。
「犯罪者か……」
ユニコーンに跨った青年が失笑しながら呟くのが聞こえた。「カーソルの色がなかったら200%君たちが悪者に見えるよ」
「なんだと! てめぇ」
シリカを取り囲む男たちが一斉に血盟騎士団の二人を口々に罵った。
「俺たちは犯罪者を取り締まってるだけだよぉ。いわゆる、治安維持ってやつぅ? だから口出ししないでくれよぉ」
リーダー格の男がクククと小さく笑った。「それとも、KoBって犯罪者をかばうわけぇ? そういうギルドだって思っていいのかなぁ」
「そっちのオレンジはいいのかな?」
血盟騎士団の男がティアナを指差した。
「こ、こいつはもう反省してんだよ」
「カーソルの色だけで僕たちは人を判断しないよ」
少女が男たちとは対照的な気品にあふれた声色で優しく言った。「犯罪者かどうかはシステムじゃなくってその人間の行動と心が決めるっていうのを僕たちは知っているから」
「カッコつけてんじゃねぇ!」
「君たち、FPKでしょ? この子は血盟騎士団が保護します」
きっぱりと少女が言いきって男たちを一瞥した。「オレンジプレーヤーと遊びたいなら……」
少女は左手でポーチから回復結晶を取り出した。
「ちょっと、コー」
ユニコーンに跨った血盟騎士団の青年がたしなめるように少女に言った。
「いいじゃん。どうせ、色つけるつもりだったし」
コーと呼ばれた少女はクスリと笑って、シリカに向かって優しく言った。「ヒール」
回復結晶が砕け、シリカのヒットポイントがイエローゾーンから一気に回復した。同時に少女のカーソルがオレンジ色に変わった。
「あ」
シリカはその事で思わず言葉を飲み込んだ。自分のためにこの少女はオレンジ――犯罪者となってしまったのだ。
「ジークはこの子を守ってね」
少女は馬上の青年に声をかけた。
「はいはい」
青年はあきれた顔でため息を一つつくとシリカの隣に降り立って、剣と盾を構えた。
「めんどくさいからさ。まとめてかかってきなよ」
先ほどとうって変わって平坦な声で少女は波型にうねっている刀を抜いた。彼女の発する闘志がシリカの身体を恐怖で震わせた。
あふれる闘志で人の心を怯えさせるなどというシステムはソードアート・オンラインには存在しない。だが、この少女から発せられる何かが男たちの身体を凍りつかせ、動きを止めさせた。
「かかってこないなら――こっちから行くよ!」
そう言って彼女が一歩を踏み出した後、シリカはその姿を見失った。
「ぐあ!」
男のうめき声がした方角を見ると、一番離れた場所にいたピナを捕まえている男の両手が切断されていた。
解放されたピナは一直線にシリカの左肩へ飛びついた。
「きゅるっ!」
ピナが短い鳴き声を上げてシリカの身を案じるように頬を舐めた。
「ピナ……」
シリカはそんなピナを抱きしめた。
少女の戦いぶりはまるで疾風、というより暴風だった。たちまち5人もの男を相手に一方的に利き腕を切り裂いて戦闘不能に追い込んだ。
(あの人……)
シリカはようやく目が慣れてその戦いぶりを追えるようになった時、気が付いた。少女の洗練された動きに似合わない右腕の動き……。慣性の法則に従うように彼女の右腕は振り子のようにあちこちへ動き回っている。(ひょっとして右腕が動かないの?)
「二度とその姿を見せんな。次は殺すよ」
少女は鋭い視線と剣先をリーダーの男に向けた。
「うわあああああ」
恐怖に駆られた男たちは叫び声をあげながら一目散に逃げ出した。
(ティアナ……)
シリカは男たちと共に逃げ去るティアナを目で追った。ティアナは申し訳なさそうな表情だった。
少女は剣を鞘に納めるとシリカに優しく微笑みかけた。
(この人、≪Weekly Argo≫で見たことある)
シリカは必死にその記憶をたどった。
「もう、大丈夫だよ」
少女はそう言って、シリカの前にしゃがむと頭を優しく撫でた。極度の緊張状態から解放されて再び涙がシリカの頬を濡らした。
「あ、ありがとうございます。コートニーさん」
シリカはあふれる涙を何度もぬぐいながら頭を下げた。
「あれ? 自己紹介したっけ?」
コートニーは首を傾げながら優雅に左肩の髪を払った。
「い、いえ! 新聞で……。プロポーズの号外!」
シリカはその号外の写真をはっきりと思い出した。美しい夕日に照らされた街並みを背景に呆然としている少女とそれにひざまずく青年。まるで映画のワンシーンを切り取ったかのような写真にシリカは自然と自分を重ねあわせ心を躍らせたものだった。
(ということは……)
シリカは隣で自分の身を守ってくれた青年に目をやった。(この人がジークリードさん)
「あ、あれかあ」
照れくさそうに頬を真っ赤に染めてコートニーは視線をジークリードに向けた。
「じゃあ、自己紹介の必要はないかもしれないけど、私はジークリードです。よかったら、名前を教えていただけませんか」
ジークリードは優しい微笑みを浮かべて丁寧にシリカに尋ねた。
「あ、あたしはシリカっていいます。助けてくださってありがとうございます」
シリカは頭を深々と下げた。そして、自分のためにコートニーがオレンジネームになってしまった事を思いだした。「でも、あたしのためにコートニーさんが……」
「いいよ。元々、色つけるつもりだったし」
「え?」
「それより、何があったの? シリカちゃんの場合、色をつけられちゃったんだよね」
「はい。さっきここに来てから――」
シリカは自分がどのように騙されたかを二人に語った。
「そっか……。信じてた人に裏切られちゃったのか……。つらかったね」
コートニーが自分の事のように悲しんで目を伏せた。
「シリカさん。もし、その人とフレンド登録をしているなら、すぐに消した方がいいですよ。こちらの場所が筒抜けになって狙われ続けちゃいますよ」
「あ、そうですね」
シリカはメインメニューを開いてフレンドリストからティアナを選択した。1週間の短い付き合いとは言え彼女の優しさの全てが嘘だとは思いたくなかった。シリカは一瞬ためらったが、ティアナをフレンドリストから削除した。
ティアナとの思い出を振り返り心を締めつけられていると、シリカの両方の頬が舐められた。
「ひゃっ!」
左頬はいつものピナの舌だったが右頬を舐めたのはユニコーンだった。今までに感じたことがない大きさの舌だったのでシリカは小さく悲鳴を上げてしまった。
「こら! ヴィクトリア」
ジークリードがユニコーンの頭をたしなめるように叩いた。「ごめんなさい。驚かせてしまって」
「まったく、飼い主に似て女好きだよね」
コートニーがあきれてクスリと笑った。
「え? 私はコー一筋……って何を言わせるの!」
ジークリードが顔全体を真っ赤にして言葉を荒げると、コートニーはしてやったりとニヤリと笑った。
そんな二人を見て、シリカはクスクスと笑った。そして、笑いのもとになったユニコーンにシリカは両手を伸ばした。するとユニコーンは甘えるような鳴き声を上げながら大きな顔をシリカに摺り寄せた。
「かわいい」
シリカが両手で自分の3倍の大きさはあろうかというユニコーンの顔を撫でまわすとピナが耳元で抗議の声を上げた。
「あ、やきもち妬いてる!」
コートニーがピナを指差しながら声をあげて笑った。
「もう、ピナったら」
シリカはなだめるようにピナを抱きしめた。
そうこうしているうちに部位欠損ダメージが明けて、シリカに両足が戻ってきた。
シリカはほっとしながら立ち上がって、その感触を確かめるようにその場で何度かジャンプを繰り返した。
「大丈夫そうだね」
コートニーがそんなシリカの様子を見て頷いた。
「はい!」
元気よく笑顔でシリカが答える。
「そうだ。シリカちゃん。一緒にスキル上げしない?」
「スキル上げですか?」
「うん。あの中にお地蔵さんいるじゃない。あれでスキル上げ」
コートニーは山門を指差しながら言った。
「でも、あれは……」
シリカはそこまで言って、自分がオレンジネームになっている事を思い出した。そして、コートニーが『どうせ色をつけるつもりだった』という言葉の意味を理解した。コートニーは最初から地蔵尊でスキル上げをするためにここにやってきたのだ。「なるほど、そう言う事ですか」
「うん。そういうこと。あれで完全習得までいけるらしいのよ」
コートニーは片目を閉じてシリカに笑いかけた。「それとも、カルマ回復やる? あれもめんどくさいみたいだから手伝うよ」
シリカは考えた。
自分の身の安全を考えればすぐにでもオレンジ色を緑色に戻さねばならない。けれど、コートニーが申し出てくれたスキル上げも魅力的だ。
今、シリカの短剣スキルは560だ。シリカはパーティーを組むとどうしても後衛に回る事が多く、レベルに比べてスキルの上りが悪い。コートニーのスキル上げに同伴すればレベルにふさわしい、いや、レベル以上のスキルを身につけるチャンスだ。
「スキル上げします!」
シリカは元気よくコートニーに答え、頭を下げた。「よろしくお願いします」
「よっしゃ。じゃあ、行こう」
コートニーはシリカの手を取って走り出した。
「え? ええ?」
シリカはそのスピードに驚きの声を上げた。コートニーに引きずられ、まさに空を飛ぶように廃寺境内を駆け抜け本堂に滑り込んだ。
遅れてジークリードがユニコーンに乗って本堂に入った。
最初に本堂に飛び込んだコートニーに地蔵尊1体と破戒僧5人が襲いかかってきた。
「シリカちゃんはちょっと待っててね。整理するから」
コートニーは抜刀してジークリードと視線を合わせて頷いた。
シリカが≪シャドウ・ダガー≫を構える間にたちまち二人は破戒僧を葬った。
「すごい……」
「すごくなんかないよ。レベル差があるからねえ」
クスリとコートニーは笑って地蔵尊に≪シャープネイル≫を食らわせた。「さあ、ここからが本番。がんばろ」
「はい!」
地蔵尊のターゲットはコートニーが引き受けてくれている。シリカは≪ファッドエッジ≫で短剣を輝かせると安心して地蔵尊を横殴りした。地蔵尊の装甲値は高くシリカとコートニーの連続攻撃を受けてもヒットポイントはほとんど減らなかった。
「めちゃくちゃ硬いでしょ!」
楽しそうにコートニーは地蔵尊の錫杖を軽く受け流して、反撃のソードスキルをぶつけた。
POPする破戒僧はジークリードが処理してくれるため、シリカとコートニーは地蔵尊にソードスキルを次々と浴びせスキル上げに専念する事が出来た。
シリカとコートニーがスキル上げを始めてから4時間が経過した。今戦っているのは2体目の地蔵尊だ。2時間かけてようやく1体を倒し、この2体目もようやくヒットポイントが赤色になってきたところだった。
「あ……」
シリカがソードスキルの立ち上げに失敗して通常の状態で地蔵尊を切りつけてしまった。
「休憩したら? 僕一人でも大丈夫だから」
そう言うコートニーの剣技は全く衰えていない。
「はい。では、お言葉に甘えて」
シリカは大きく後ろへ飛んで地蔵尊の攻撃エリアから離脱した。
スキルやレベルだけではない。シリカは攻略組と自分との違いを痛烈に感じた。
(集中力が違いすぎる……)
シリカはため息をついて床にぺたりと座り込んでしまった。
「大丈夫ですか?」
ジークリードが心配そうにシリカを見つめた。
「はい。……やっぱり、攻略組ってすごいですね」
シリカは再びため息をついてコートニーの華麗な剣技に目を見張った。「これじゃ、一生かかっても追いつけません」
「すごいって言ってもねえ……。あれは病気みたいなもので」
ジークリードが頭をかきながらコートニーに視線を送った。
「こらー、ジーク。聞こえてるぞ!」
「まずっ」
心底、失敗したという表情を見せたジークリードにシリカはクスクスと笑った。「そう言えば、『一生、追いつけない』って言ってましたけど、攻略組を目指してるんですか?」
「攻略組というか……。目標にしてる人がいるんです」
シリカは頭の中にキリトの姿を思い浮かべながら答えた。「けど、どんどん離されちゃって……」
「なるほど」
ジークリードは優しい顔で頷いた。「分かります。私もそうです」
「そんな。お二人とも攻略組じゃないですか」
そう言えば……。シリカの頭に疑問が浮かんだ。
(攻略組の二人がなぜここでスキル上げをしているのだろう?)
「攻略組って言ってもピンキリですよ。どんなに頑張ってもヒースクリフ団長には追いつけそうもないですし」
ヒースクリフの名前を知らない者はこのアインクラッドにはいないだろう。その圧倒的な強さは≪生ける伝説≫などと呼ばれている。
「ジーク!」
突然、コートニーが鋭い声を上げた。「なんかいっぱい人が近づいてきてる」
「さっきの連中か?」
「シリカちゃん。こっちきて!」
コートニーは地蔵尊にとどめを刺すと、左手で右手を握って動かしながら着替えた。その服装が血盟騎士団の制服から漆黒のフーデッドローブに変わった。
コートニーは近づいてきたシリカの手を取って本堂の隅に走った。そして、シリカを抱きしめるようにフーデッドローブの中に導き二人でしゃがみ込んだ。
「OK見えないよ」
ジークリードが二人のハイディング状態を確認して言った。「私はちょっと外に出てるね」
「うん。お願い」
コートニーはハイディングが解けないぐらいの小声で言った。
「任せておいて」
ジークリードは小さく手を振って本堂から出て行った。
「狭いけど、ごめんね」
コートニーが優しく囁いた。「このアイテム一つしかないもんで」
「はい、大丈夫です」
シリカは頷いて身体を寄せた。
この緊迫した場面なのにシリカは安心感に包まれていた。キリトもそうであったが、コートニーが醸し出す雰囲気はとても温かくほっとできる。温かいと言えば、こんな風に人と密着する事などこの世界に来てから……いや、現実世界でもあまりなかった。
シリカは一人っ子なのでよくわからないが、姉に守られる妹はこんな感じなのだろうか? 柔らかく暖かい空間に包まれながらシリカはぼんやりとそんな事を考えた。
「きた……」
コートニーがそう言うとたくさんの足音が聞こえてきた。
「コーバッツさん。馬に乗ったままで失礼します。降りると勝手にモンスターに走って行っちゃうことがあるもので」
ジークリードの声が本堂の外から聞こえてきた。
「ふむ。ジークリードか。久しぶりだな」
野太い男性の声がシリカの耳に届いた。声色からするとだいぶ年配のようだった。
「25層のボス戦以来ですね。どうしたんですか? こんなところに」
「オレンジプレーヤーが出没したという情報を聞いてな。治安維持は≪軍≫の仕事だからな。貴様こそ何をしてる」
「スキル上げです」
「攻略組ならもっと上でやればいいだろう」
コーバッツは鼻を鳴らした。
「まあ、ここならすいてるかなと思いまして」
「コートニーはどうした?」
「まあ、いろいろあって」
「いろいろか……。右腕は大丈夫なのか?」
「ご存知でしたか」
ジークリードの苦笑する声が聞こえた。「まあ、そのためのスキル上げなんですけどね」
(右腕……やっぱり、何かあったんだ……)
シリカはフーデッドローブの隙間からコートニーの顔を見上げた。
「ちょっと、動かないだけだよ」
コートニーはシリカに微笑みかけた。
「動かない……」
シリカはコートニーの右手に視線を移した。『ちょっと』どころではない。コートニーの右腕はほとんど動かせていない。「もしかして、それでスキルを取り直したとか?」
「正解」
コートニーはにっこりと笑って、シリカの頭を優しく撫でた。「槍は両手武器だったから使えないし、投擲は微妙なコントロールができないんだよね。左手だと」
(すごい……)
シリカは驚きで息を飲んだ。いくら攻略組でスキルの上げ方に精通しているとはいえ、ゼロからここまでスキルを上げるのにどれだけの時間と情熱をかけてきたのだろう。シリカにコートニーへの畏敬の念が湧きあがった。
「あたしが言うのも変ですけど、頑張ってください」
「ありがとう」
コートニーは優しい笑みを浮かべてシリカの頭をぽんぽんと叩いた。
「もし……」
外から再びコーバッツの声が聞こえてきた。「その事でKoBにいられなくなるようなら、軍に来ないか?」
「え? でも、軍はボス攻略しないでしょ?」
ジークリードがきょとんとした声で聞き返した。
「25層のダメージから時間も経った。そろそろ我々も動く時だ。レベルも装備も十分整いつつある。第一線で戦っていた君たちの力が加われば我々としては心強い」
「なるほど。でも、私もコーも血盟騎士団から戦力外通告を受けてるわけじゃないですから」
「そうか」
「コーバッツ中佐」
別の男性の声が聞こえた。「周辺に犯罪者はいないようです」
「うむ。ジークリード。十分気を付けるんだぞ。ラフコフがなくなっても蛆虫どもはいくらでも湧いてくるからな」
「はい。ご忠告ありがとうございます」
「では、撤収する」
コーバッツのその声で多くの足音は消えて行った。
ジークリードが本堂の中に入ってくると、シリカとコートニーに手で≪OK≫を作って微笑んだ。
シリカはほっと息をついた。
「よっしゃ! 休憩終わり!」
コートニーは元気よく立ち上がって左手で右手を動かしながら血盟騎士団の制服に装備変更をした。「シリカちゃん、続きやろう!」
「はい!」
シリカは元気よく返事をして愛用の≪シャドウ・ダガー≫を握りしめてコートニーの後を追った。
深夜の12時までシリカとコートニーはスキル上げを続けた後、フィールドの安全地帯で野営をすることになった。
「見張りは僕たちでやるから、寝てていいよ」
コートニーはベッドロールを実体化させてシリカに渡した。
「え? でも……」
「いいって、いいって。元々、僕たち二人でやるつもりだったんだからさ」
「疲れたでしょう。休んでいてください」
コートニーとジークリードに言われ、シリカはベッドロールに入った。
「武装は解除しないでね。寝にくいかもしれないけど、万一って事があるから」
ベッドロールに入ったシリカをコートニーが覗き込んできた。
「はい」
と、シリカが答えるとコートニーは笑顔でうなずいて小さく手を振った。
「おやすみなさい」
シリカは目を閉じた。濃密な一日だった。一日でこれほどスキルが上がった事はなかった。シリカは急速に迫ってくる睡魔にそのまま身を委ねた。
シリカはふと目を覚ました。視界の右下に意識を集中して時計を見た。4時だ。
微妙な睡魔にあらがってシリカはベッドロールの隙間から外を伺った。
二つの人影が見えた。コートニーとジークリードだとすぐに分かった。
(何をしてるんだろう)
目を凝らすとコートニーが何やら箱に両手をいれていた。そんなコートニーの右手をジークリードが動かしていた。
(リハビリ?)
シリカはまどろみながら二人の様子を見つめた。
「だいぶ動くようになったんじゃない?」
ジークリードがコートニーを見つめて言った。
「そうだね。結晶アイテムぐらい持てるようになったかな」
コートニーがふうと息を吐いて、箱から左手を出した。ジークリードが頷きながらコートニーの右手を箱から出した。「ありがとね。ジーク」
「どういたしまして。じゃあ、寝るね」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
そう言葉を交わした二人だがどちらも動かずに視線をお互いにからませていた。そして、その二つの距離が縮んでいく。
(あっ)
二人の情熱的な口づけを見て、シリカは漏れそうになった声を両手で抑え込んでベッドロールにもぐりこんだ。見てはいけないものを見てしまった。シリカはそう思って鼓動が高鳴った。
二人は夫婦だ。こんな事、当たり前。シリカは自分にそう言い聞かせて目を閉じた。
「おやすみ」
しばらく経ってからベッドロールの外で二人が交わす言葉がシリカの耳に届いた。そして、近くでベッドロールに人がもぐりこむ音が聞こえた。
(寝なきゃ……)
シリカはぎゅっと目を閉じて眠ろうとした。しかし、さっきまでのまどろみはすっかり消え去って眠れそうもなかった。
シリカは30分ほど悶々と過ごした後、意を決してベッドロールを出た。
「あれ? もう起きたの?」
動き出したシリカに気づいてコートニーが笑顔を向けた。
「ちょっと目がさえちゃって」
「そうなんだ。でも、まだ4時半だよ」
「前線……攻略組の事、いろいろ教えていただいてもいいですか?」
「ああ、目標にしてる人がいるんだっけ? いいよ。知ってる人のお話ならできると思うよ。誰の事を聞きたい?」
コートニーはシリカを手招きした。
「えっと……」
シリカはコートニーに招かれるままその隣に座った。
キリトの事を思い浮かべるだけで、シリカの胸は高鳴った。
「えっと、キリトさんの事をご存知ですか?」
「ああ、黒の剣士?」
「は、はい! そうです」
上ずって答えを返すシリカをコートニーはクスリと笑いながら見つめた。
なんだかシリカは全てを見透かされた気がした。ついシリカは頬を赤く染め目を伏せた。
「あの人はソロだから、あんまり交流ないんだ。だから、詳しい話はできないと思うけどね」
そう言うとコートニーはキリトの活躍を語り始めた。
シリカはキリトと時々メッセージのやり取りをする関係だが、コートニーが語るキリトはシリカが知らない姿ばかりで心が躍った。
特にこの第50層のボス攻略戦でラストアタックをキリトと争った事をコートニーが語るとかぶりつくようにシリカは時間を忘れて耳を傾けた。
二日の間のスキル上げを経て、コートニーは片手用直剣スキルを完全習得した。
コートニーはシリカも完全習得まで修行を続けることを主張したが、シリカはそれを辞退した。短い間であるが、コートニーが持っている攻略組復帰の願いの強さを理解したからだ。
シリカの片手用短剣スキルはわずか2日間で560から703まで上がった。レベル61の彼女にとって十分なスキルの高さになった。もう十分だとシリカは考えた。
そういう事でシリカとコートニーは色を落とすため、カルマ回復クエストを始めることになった。
カルマ回復クエストはいくつも用意されている。コートニーはもっとも効率がいいと噂されている第30層にある教会から始まるクエストを選んだ。
「結構、お地蔵さんをやったからなあ……。これで最後にして欲しいなあ」
コートニーはモンスターの群れを一気に葬り、捕らわれているNPC修道女を一瞥してうんざりしながら言った。「だいたいさぁ。この修道女、バカなの? 死ぬの? 誘拐されすぎでしょ」
フラグ立てで半日神父のありがたいお話を聞き、その後、誘拐された修道女をモンスターから救出する。この救出もダンジョンが迷宮区以上に深く、たどり着くまでに半日かかる。移動距離も長く、ジークリードのユニコーンは3人乗りができないため、厩舎に留め置かれたままだった。
こんな1日1回が限度のクエストを今回で3回やっているのだ。コートニーがうんざりするのも当然だ。
「コー。そこはゲームのお約束だから」
ジークリードはクスリと笑って、コートニーの頭を撫でた。
シリカはそんな二人をこういう関係っていいなとほほえましく見つめた。
コートニーに自分、ジークリードにキリトを重ねてみてシリカは頬を赤くした。
「えいっ!」
コートニーは修道女を拘束している鎖を剣で断ち切った。
「ありがとうございます! 剣士様!」
NPC修道女が≪!≫マークを点滅させながらコートニーに抱きついた。
「はいはい。シリカちゃんも早く」
コートニーはなおざりにNPC修道女の頭を2回叩き(これでNPCが離れて後ろをついてくるようになる)捕らわれているもう一人の修道女を指差した。
「はい」
シリカは短剣でその鎖を断ち切った。
「ありがとうございます! 剣士様!」
シリカは抱きついてくるNPC修道女の頭を2回叩いた。
「誰か来た!」
コートニーが緊張した声で叫んだ。「一人」
ジークリードが張りつめた顔をして抜刀した。NPC修道女を助ける前であればフーデッドローブで隠れる事が出来たが、この状況では無理だ。だが、相手が一人であればこちらは3人いる。ヒースクリフクラスのプレーヤー相手でなければ十分に戦えるはずだ。
NPC修道女が部屋にPOPした。という事は近づいてくるプレーヤーはシリカたちと同様にカルマ回復クエストを行っているのだ。であれば交戦してくる可能性は低いはず……油断はできないが。
シリカはつばを飲み込んで部屋の入り口を見つめた。
やがてオレンジカーソルが見え、そのアバターの姿がダンジョンの壁にかけられたランタンに照らされて明らかになった。
「ティアナ……さん」
シリカはその姿を見て絶句した。
「シリカ……」
ティアナもシリカの姿を認めると息を飲んだ。そして、泣き笑いの表情をシリカに見せた。「よかった……無事で……」
「ティアナさん。この間の事……理由があるんですよね?」
そんな姿を見て、シリカはティアナが悪い人間ではないと感じて尋ねた。
「あたしは……」
ティアナは首を振ってうつむいた。「いいの。もう、いいの。ごめんなさい」
シリカの隣をすり抜けて、ティアナは新たに湧いたNPC修道女を助けた。
「待って! 待って……ください」
再びシリカのそばを通り抜けようとしたティアナの腕をとった。
「シリカ……」
ティアナは苦しそうに表情をゆがめてその場に立ちつくした。
「二人とも、ここじゃなんだから、とりあえずダンジョンから出よう。そこでゆっくり話そう?」
コートニーが重い沈黙を振り払う明るい声で二人を外へ促した。
コートニーはダンジョン近くの安全地帯まで二人を連れて行った。
シリカ、コートニー、ティアナが修道女を連れているので7人の大移動となった。
「ここなら、モンスターに邪魔されずにゆっくりお話できるよ」
コートニーは二人に笑顔を向けてシリカとティアナの声が届かない場所まで離れた。
「ティアナさん。聞かせてください。なんで、あんな人たちと組んでるんですか?」
シリカはティアナが裏切った瞬間の顔を思い出しながら尋ねた。ただの悪い人ならあんなつらそうな顔はしない。
シリカは今まで多くのプレーヤーと出会ってきた。ほとんどは善良な人たちだったが、中にはひどい人たちもいた。オレンジギルドに狙われていた時もある。あの時はロザリアというグリーンネームの女性がシリカを含むパーティーを狙っていた。
コートニーが言った『犯罪者かどうかはシステムじゃなくってその人間の行動と心が決める』言葉はシリカにも理解できた。
ティアナはオレンジネームだけど苦しんでいる。シリカはそう思う。
「あたしじゃぜんぜん、助けにならないと思いますけど、力になります」
シリカは沈黙を続けているティアナの手を取った。
「シリカ……あたしは……」
長い沈黙の後、ようやく重い口を開いた。
その時、シリカの後ろで人が倒れる音が聞こえた。
「コー!」
続いてジークリードの鋭い叫び声がシリカの耳を突き刺した。
振り返るとコートニーが地面に崩れ落ちていてジークリードがその場に駆け寄っているところだった。パーティーを組んでいるコートニーのヒットポイントバーがグリーンの枠に囲まれて点滅している。
(麻痺毒!)
「ジークリードさん! あたしが解毒します!」
シリカは駆けだした。ここでジークリードがコートニーを解毒したら彼がオレンジネームになってしまう。
コートニーのもとにたどり着く直前、目の前に茶色のフーデッドローブを着こんだ男が突然現れた。緑カーソルだがその右手に握られている巨大中華包丁がソードスキルで輝いている。
(隠蔽スキル!)
シリカはとっさにバク転で後ろに飛んだ。シリカは≪軽業≫スキルを身に着けている。これぐらいの攻撃はかわせるはずだった。
しかし、その男のスピードは尋常ではなかった。シリカが飛んだスペースに踏み込むと一気に突進してきた。
(ラピットバイト? でも、速すぎる)
男が放ったソードスキルはシリカが知らないラピットバイトの上位突進ソードスキルだと思われた。次の瞬間にシリカの右腕は巨大中華包丁に切り飛ばされた。一気にヒットポイントバーがレッドゾーンに突入した。恐るべき破壊力だ。
「ひっ!」
右腕を切り飛ばされた痛みでシリカは着地に失敗して無様に地面を転がった。
ピナが鳴き声を上げて、シリカにヒールブレスを吹きかけた。ヒットポイントが2割ほど戻ったが、まだイエローゾーンだ。次の攻撃を受けたら死んでしまう。
その男は間髪入れずにソードスキルを輝かせシリカに巨大中華包丁を振り下ろそうとしている。フードの隙間からニヤリと笑う口元が見えた。殺人者の笑みだ。シリカは死の恐怖に囚われ何もできずに身を凍らせた。
「≪友斬包丁≫? まさかPoH!」
ジークリードが声を荒げシリカを守ろうと駆け出した。しかし、遠い。
(もう、だめだ……)
シリカは死を覚悟した。
「だめぇ!」
シリカへのとどめの一撃をさえぎったのはティアナだった。
ティアナはPoHのソードスキルを身に受けながら抱きつくようにして彼の動きを止めようとした。
「チッ!」
PoHは舌打ちすると友斬包丁を輝かせ連撃を放った。輝く刃がティアナを切り裂くたびに彼女のヒットポイントバーががくんがくんと幅を減らした。
4連撃の最後の一撃がティアナを吹き飛ばし、シリカの前に倒れた。
「ティアナさん! ヒール!」
シリカはあわてて回復結晶を取り出して叫んだ。しかし、回復結晶は砕け散らなかった。
(手遅れ……)
ソードアート・オンラインでは巨大すぎるダメージを受けた場合、実際のヒットポイントがゼロになっていてもヒットポイントバーの幅をなくすまでわずかなタイムラグが発生する。その場合は一切の回復アイテムが無効となる。
「逃げて! シリカ!」
ティアナは涙を瞳に浮かべてシリカに叫んだ瞬間、ヒットポイントバーが消え、そのアバターが砕け散った。
「ティアナさん……」
シリカは呆然としてその散っていくアバターの欠片を目で追った。
「シリカちゃん! 早く逃げて!」
今度はジークリードがPoHに立ちふさがっていた。「PoH。私にダメージを与えたら、オレンジに逆戻りだよ」
「ふっ。そんな事を気にすると思ったか」
PoHは言葉を言い終わらぬうちに激しい斬撃をジークリードに浴びせた。
ジークリードは剣や盾で受け流すがかわしきれなかった刃が彼の身を捉えた。
「お前はジークリードとかいったか……弱くなったな。それとも、あの女が死ななきゃ本気が出ないか?」
クククとPoHが笑うと左手に何かアイテムを取り出して腰でそのアイテムのスイッチを入れた。
(爆弾?)
シリカはPoHの左手に握られたアイテムを見た。ソードアート・オンラインの爆弾はスイッチを入れると5秒後に爆発する物だ。強力な爆弾であれば、今のシリカのヒットポイントを吹き飛ばすことは容易だろう。
「ヒール!」
シリカは慌てて自分を回復した。
PoHは笑みを浮かべたまま、無造作に爆弾を後ろへ投げた。最初から狙いはシリカではなかったのだ。
閃光と爆風が一瞬、シリカの視界を奪った。
「しまった」
「きゃあああああ!」
ジークリードの悔恨のつぶやきとコートニーの叫び声が重なった。コートニーのヒットポイントがたちまち半分になっていた。
「このおおお!」
ジークリードは雄叫びをあげて剣を振り下ろした。
PoHは余裕の笑みを浮かべながらそれを受け止めて、再び爆弾を左手に取ってスイッチを入れた。
コートニーに回復結晶を使うには距離が離れすぎている。このままでは……。その時、シリカの頭にアイディアが閃いた。
「ピナ!」
シリカはピナに指示を出しながら後ろに飛ぶと、ジークリードに向かって叫んだ。「下がってください!」
ジークリードも訳が分からないまま、後ろに飛んだ。
入れ替わりにピナがPoHにシャボン玉のようなブレスを浴びせて飛び去った。
「なっ……」
PoHが余裕を失った表情で固まった。PoHはピナの眩惑ブレスで硬直した。ピナの眩惑ブレスの効果は5秒と短い。しかし、爆弾が起爆するには十分な時間だった。
激しい輝きと爆風が再びシリカの視界を奪った。
「Suck! 転移! バッカニア!」
「おおおおおお!」
ジークリードが転移で輝き始めたPoHに斬りかかる。うまくいけばダメージで転移そのものがキャンセルされる。
だが、一瞬遅かった。ジークリードが放った≪ヴォーパルストライク≫は空を斬った。
「くっ」
ジークリードは歯ぎしりをして地面を蹴った。
(ティアナさん……)
シリカはティアナが死んだ場所に歩み寄ると、全身の力が抜けてその場に座り込んだ。
もっと、話がしたかった。分かり合いたかった。そんな思いがシリカの胸を締め付け、静かに涙を流した。
「ありがとう。シリカちゃん」
ようやく麻痺状態から回復したコートニーがそんなシリカの肩を叩いた。
「いえ……」
シリカは地面に落ちていくつも形作られる綺麗な円形のしみを見つめた。
死と隣り合わせのこの世界は最悪だ。なぜゲームなのに本当に死ななければならないのか。こんな世界でなければティアナといい関係を築けただろう。今となってはティアナがどんな苦悩を抱えてシリカを裏切る事になったのか知る事は出来ない。
――帰りたい。現実世界に戻りたい。家族や友達と無為な時間を重ねていたあの世界に……。
今まで心の奥底に沈めて忘れようとしてた願いが湧きあがり、シリカはそれを必死に元の場所に沈めようと歯を食いしばった。
「よしよし」
突然、コートニーの声と共にシリカは暖かい空間に包まれた。
「うっ……」
その暖かい空間がシリカの心の堰を一気に突き崩した。
シリカは慟哭した。後悔、悲嘆、絶望、苦悩、叶わぬ願い。あらゆる感情があふれ出し、シリカはその感情に押し流されるまま涙を流し声を上げて泣いた。
「ごめんなさい。あたし……」
すっかりまぶたを泣き腫らしたシリカは涙のしずくを払いながら、暖かい胸を貸してくれたコートニーを見上げた。
「落ち着いた? ごめんね、怖い思いをさせて」
コートニーは母親のような優しい微笑みを浮かべながらシリカの頭を撫でた。「泣ける時に泣かないと壊れちゃうよ。僕もよく泣いてる」
「え? コートニーさんが?」
シリカは意外に思った。いつも笑顔で明るい彼女が泣く姿が想像できなかった。
「ひどいなあ。僕だって絶望で泣いちゃったりするよ」
コートニーはクスリと笑いながら立ち上がって、シリカを左手で立たせた。「でもさ、一人じゃないんだよ。この世界。ここに来なかったら僕はジークと知り合えなかったし、シリカちゃんだってピナやキリトさんと出会えなかったでしょ?」
「はい」
≪キリト≫という名前を聞いてわずかにシリカの鼓動が高鳴った。それを押さえつけるようにシリカは胸を抑えた。
「さ、帰ろう。この修道女を連れて帰れば、きっと久しぶりに圏内でゆっくり寝れるよ」
「はい」
シリカたちはPoHの待ち伏せを警戒して、遠回りをしてカルマ回復クエストの起点である教会に戻った。
修道女を無事に神父に引き渡してクエストを達成し、シリカとコートニーは5日ぶりにグリーンネームに戻った。
「お疲れー!」
「ありがとうございます!」
コートニーが笑顔でシリカにハイタッチを求めてきたので、シリカはそれに応えた。「お別れですね……」
コートニーは攻略組に戻る事を願っていた。スキルを完全習得し、グリーンネームに戻った今、彼女は攻略組に復帰していくのだろう。
シリカはキリトと別れた時のような寂しさを覚えた。
「その前に、打ち上げやろう! シリカちゃんのホームタウンどこ?」
シリカの寂しい気持ちを吹き飛ばすような明るい笑顔を振りまいてコートニーは転移結晶を取り出した。
「え……。あ、アルゲードです」
「じゃ、キリトさんがよく食べに行ってる食堂に行こう。運が良ければ会えるかもよ」
「え? え?」
それは心の準備が……。そう考えるシリカなどお構いなしにコートニーはどんどん話を進めた。
ジークリードを見ると「やれやれ」という苦笑を浮かべて転移結晶を取り出しながら頷いていた。
「転移! アルゲード」
3人で転移結晶を使い、5日ぶりのアルゲードにシリカは戻った。
雑然とした街並みがとても懐かしい。キリトのホームタウンというだけだが、シリカはなぜだかほっとできた。
「シリカちゃん。アルゲードそば。食べたことある? 癖になるかもよ」
コートニーはそう言うとシリカの手を取って走り始めた。
「ひゃっ」
シリカはコートニーの全力疾走に必死について行った。
シリカの中に新しい目標が生まれた。
――今はこれが精いっぱいだけど、いつか、コートニーさんと最前線に立ちたい。
シリカはそう願いながらコートニーの左手を強く握って一人では絶対迷子になるアルゲードの街を駆けた。
あけましておめでとうございます。
お待たせしました。先週にアップを目指していましたがなかなかまとまらず長くなってしまいました。
その割には内容が薄くて申し訳ございません。
お気に入りが300件を突破しました。本当にありがとうございます。
まさかのシリカ回。らぶデスさんの感想がなければ生まれなかったお話です。でも、これで一応SAOのサブヒロインを一回りできたので区切りとしては良かったかなと思っています。
それにしても、原作でもシリカ回は微妙な3人称なんですよね。書きにくかったー。やっぱり自分は密着1人称があってるみたい。
シリカちゃん。コートニーに抱きついて安心感に包まれちゃってますけど、そいつ男だぞ! ってツッコミをいれつつ書いておりましたw
――話に出なかった設定などなど――
コーバッツさんが最前線を狙っているという情報をジークリードさんは団長に報告しております。
PoHさんはグリーンとなってあちこちをうろついているようです。アニメでキリトとクラディールのデュエルを見てたのってPoHですよね?(違うのかな?)
このあと、1週間ほどで『軍の大部隊を全滅させた悪魔を単独撃破した二刀流使いの50連撃!』なんていう記事をシリカは読むことになるんですね。
次でアインクラッドは崩壊するはずですが、コートニーとジークリードを75層ボス攻略に参加させるかどうか、ちょっと考え中です。今のところ9割がた不参加で考えてますが^^;
だって、キリト×アスナ、ジーク×コーのいちゃいちゃ二人組が二組いたら、75層ボス部屋の壁がなくなっちゃうでしょ(ぇ?)
戦闘シーンなしで非常に盛り上がりに欠ける最終回になりそうです。評価だだ下がりの予感がしますが、今後ともよろしくお付き合いくださいませ。