私は黒光りする木造の建物の前に立っていた。なかなかいい雰囲気の喫茶店だ。
入り口のドアには≪Dicey Cafe≫と書かれたダイスを組み合わせたクールなデザインのネームプレートが張り付けられている。
私がこの喫茶店に来たのは訳がある。
寮に戻って宿題を片づけている時にリズベットからメールが入ったのだ。
『勅使河原弘人君に会ってみない?』
その名前に私の心臓は高鳴った。
会った方がいいのか会わない方がいいのか決められないまま、私はメールに指定されていたこの喫茶店にやってきたのだ。
しばらくドアの前で逡巡したが、私は覚悟を決めてドアノブに手を伸ばした。
私がドアを開けると「カラン」と小気味いい鐘の音が鳴り、カウンターの方から渋いバリトンの声が聞こえてきた。
「いらっしゃい」
「エギルさん……」
私は驚いて声の主を見つめた。まさか、こんなところでエギルと会えるなんて思ってもいなかった。リズベットが学校から離れたこの店を指定した理由が「なるほど」と理解できた。
「お? リズに用かな?」
エギルは驚いている私の制服を見て、視線を店の奥に向けた。
その視線の先を追うと、リズベットが私に向かって手を振っている。そして、その対面に座っているのは、あの≪勅使河原弘人≫だ。
短い清潔な髪型の彼が本当にあの≪コー≫なのだろうか? コーの姿は5カ月たった今でも目を閉じればはっきりと思いだせる。長い黒髪。儚げな瞳。小さな唇。それでいて、太陽のように明るい笑顔を振りまく美少女。記憶の中の彼女の姿を思い浮かべるだけで私の胸は締め付けられる。
だが、今、視線の先にいる男の子はコーのイメージとまったく違う。少し神経質そうでやや暗い雰囲気を感じる。容貌も決してハンサムとは言えない。
私も彼も呆然としてお互いを見つめた。
弘人の表情がいきなり怒りに変わった。その怒りが私に向けられると思ったが、彼の怒りはリズベッドに向けられた。
「余計な事……余計な事しないでよ! リズのバカ!」
弘人はバンと机を殴りつけると左手で机の上のコーヒーカップを薙ぎ払った。
(ああ、彼はコーだ……)
そんな感情むき出しの彼の姿がコーと完全に重なって、私は確信した。
コーヒーカップが床に叩きつけられて砕け散った。まるで私のコーに対する幻想が砕け散る音のようだった。
弘人は立ち上がって私の横をすり抜けようとした。
手を伸ばせば弘人を止められる。だが、私にはそれができなかった。彼を引き留めたとして、その後は? そう考えると何もできず、指一本動かすことができなかった。
弘人はあっという間に私の横をすり抜け、店から飛び出していった。あの走り方、身のこなしが私の中のコーの姿と完全に重なる。
私は呆然と彼の後ろ姿を見送りながら今日起こった色々な事を思い返した。
この学校に入って初めて行われた体育の授業。
私にとってこの体育の授業はコーを探すチャンスだった。この学校は男女比率が非常に悪い。だいたい5対1ぐらいで圧倒的に女子が少ない。体育の授業は学年横断、学級横断で女子が集められる。女の子同士の情報交換のチャンスだ。
私は入学以来、コーの姿を求めて校内を歩き回っていた。私の手持ちの情報は少ない。≪勅使川原ひろ……≫という名前とあの美しい姿だけだ。
だが、私はあまり悲観していなかった。コーほどの明るい美少女ならとても目立つ。何もしなくてもいずれ噂に聞こえてくるだろうと考えていた。
体育の授業のため少し早めに体育館に入った私の目は椅子に座って松葉づえを抱いた少女に釘づけになった。
「アスナさん!」
私は思わず叫んでアスナに駆け寄った。
「え?」
アスナはきょとんとした表情で私を見た。
「生きていたんですね! よかった!」
ゲームクリアの直前、ギルドメンバーリストのアスナの名前が非アクティブになった。あの世界では非アクティブは≪死≫を意味していたからアスナはあの瞬間亡くなったものだと思っていた。しかし、命には別条なさそうなアスナの姿を見て私は驚いた。
「アンタ、誰? いきなりね」
私が猛然とアスナに近づいたためか、リズベッドがアスナを守るように私の前に立ちはだかった。
「あ……。ごめんなさい。私は望月螢って言います」
私はぺこりと頭を下げた。本名を名乗ったのはこの学校ではSAOキャラネームを出すのは推奨されていないからだ。それ以前に≪ジークリード≫なんて名乗って、二人の口からコーに伝わっては身もふたもない。
私がジークリードだという事は誰にも明かしてはならない。もちろん、コーにも……。
私の名前は自分で言うのもなんだがありがちの名前だ。もし、コーが私の名前≪望月螢≫を聞いてもジークリードと同じ名前の別人だと思うだろう。なにしろ、今の私は男ではなく女なのだから。
「リズ、大丈夫よ」
アスナはリズベッドの背を軽く叩きながら私に視線を向けて尋ねてきた。「なぜ、私が死んだことを知ってるの?」
「ゲームクリアの直前、たまたまフレンドリスト見てたら、お名前が非アクティブになったから」
まさか、同じ血盟騎士団にいたとは言えず、私はそう答えた。
「ああ。なるほど」
と、言いながらアスナは私の顔を見つめている。きっと私の顔を思い出そうと彼女の頭はフル回転しているのだろう。
当然、思い出せなかったのだろう。アスナは頭を一回振った。
「ごめんなさい。SAOの時のあなたを思い出せないわ」
そしてアスナは万人の心を溶かす完璧な笑顔を浮かべて「けど、あの世界でフレンドだったならメールアドレス交換しましょ」と言ってくれたので、私はその言葉に甘える事にした。
私はアスナとリズベットと学校で使用しているタブレットのメールアドレスを交換した。このメールアドレスは≪名前@学校ローカルネット名≫となっている。
アスナは結城明日奈。リズベットは篠崎里香。同時に私の望月螢という名前が二人に伝わった事になる。
「よろしくね」
と、3人で笑顔を交し合う。
アスナとリズベットがここにいるのだ。二人はコーの情報を持っているかも知れない。私はそう考えてアスナに尋ねた。
「アスナさん。同じギルドのコートニーさんはどこのクラスかご存知ですか? 私、あの人のファンなんです」
「コー……」
アスナとリズベッドの表情が暗く曇った。
聞いてはまずかったのだろうか? コーの身に何かあったのだろうか?
私は不安に駆られた。
「コーはこの学校にはいないわ。とても残念だけど」
アスナはとても寂しげな表情を浮かべて目を伏せた。
「え?」
コーがこの学校にいないという事は十分考えられた。この学校はSAO生還者全員を強制入学させたわけではない。希望者のみなのだ。それでも入学試験不要、卒業すれば大学受験資格ももらえるし、さらに入学金無料で学費も国費で援助してもらえるこの学校に入学した者は私も含めて多いはずだ。でも……。
「コーは海外にいるらしいのよ」
リズが腕を組みながらアスナの言葉を補足した。
「海外……」
私の目の前が真っ暗になった。「そうなんですか……」
コーは遠くに行ってしまったのか。親の都合かも知れない。コーはSAOで攻略組、トッププレーヤーの一人と呼ばれてあの世界を引っ張るほど輝いていた。だがこの現実世界では所詮非力な少女なのだ。親や様々な現実問題の障害を簡単に乗り越えられるほどこの世界は甘くない。私は改めてその現実の厳しさを思い知った。
私が呆然としていると体育の授業に参加する女子が徐々に集まってきた。
やはりアスナは人気者だ。彼女の周りはたちまち人だかりが形成された。
「篠崎さん!」
突然、男子の声が体育館に響いた。
視線を向けると少し線が細い神経質そうな男子生徒がリズに向かって駆け寄っていた。
「ああ、弘人。なに?」
リズは人だかりから抜け出して彼の方へ歩いて行った。それにしても彼のファーストネームを呼ぶとはなかなかいい関係を築いているのだろう。
弘人の表情がいきなり変わってアスナを見つめた。そしてなぜか、彼はアスナにすがるように手を伸ばして駆け出そうとした。
「アンタ! アスナに何するつもり?」
それをリズベッドが身を挺して止めて、弘人の胸をポンと突き飛ばした。
「ああ、いや、何も。いやー。あの閃光のアスナに会えるなんて思わなかったからさあ」
弘人は笑顔で頭をかいた。
なるほど、彼もアスナのファンだったのか。アスナの人気はアインクラッドでは断トツの1位だった。ソードアート・オンライン全男性プレーヤーの憧れの的だったのだ。だが、そんなアスナにはちゃんとしたお相手がいる。
「残念でした。アスナにはちゃんとキリトっていうお相手がいるのよ。わかってる?」
リズベットがニヤニヤしながら弘人に言った。
「もう、リズったら」
アスナが赤面して抗議した。
「キャラネーム禁止!」
アスナは周りにいた女子全員から総ツッコミを受けた。
「もう、わたしばっかりずるいわよ」
これも、リアルネームとキャラネームを一緒にした悲劇であろう。私は思わず頬をほころばせた。
「ちょ。アンタなに泣いてんのよ!」
リズがあきれた声を上げたので私は弘人に視線を向けた。アスナがキリトと結婚したニュースは新聞でも流れていたはずだが、彼は知らなかったのだろうか?
「な、泣いてない」
弘人は左手で目をぬぐって表情を改めた。「河原崎先生がアンケートまだかって。リズ、出すって言ってたよね」
「キャラネーム禁止!」
リズベットが勝利を確信した笑顔で弘人の顔に指をさした。
「ごめん。送っておいて。頼んだよ」
弘人はそれだけ言い捨てながら踵を返して走り出した。アスナとキリトの事がそんなにショックだったのだろうか? そんな事を考えていると周りの女子たちがヒューヒューとリズベットをはやし立てた。
「あれって、篠崎さんの彼氏?」
「えっ? 違う違う! 何言ってんのよ!」
リズベットが少し頬を赤く染めて全力で否定した。
「だって、苗字じゃなくって名前で呼んでたじゃん」
入れ代わり立ち代わり女の子たちはリズベットをからかうように問い詰めた。
「あいつ、苗字が長いのよ。≪テシガワラ≫よ。5文字よ。おまけに言いにくいでしょ! ≪ヒロト≫なら3文字よ!」
リズベットの言い訳の言葉に私は頭を殴られたような衝撃を受けた。
「僕の名前は……勅使河原ひろ……」
私の頭であの日、目の前でコーが光に変わりログアウトした姿が鮮やかによみがえった。
私はコーの本名は≪勅使河原ひろみ≫とか≪勅使河原ひろこ≫とかそういう名前だと思っていた。まさか、≪勅使河原弘人≫だったとは!
いや、これだけで彼がコーだと判断するのは早計だ。私は先走る気持ちを押さえつけた。
だが、勅使河原などという苗字の人はそう多くない。彼はコーの親戚ということも考えられる。彼の事を知ればコーにつながる情報を得られるかも知れない。
「里香さん。彼の事を教えて! キャラネームとか、なんでも!」
私は夢中で女子たちに取り囲まれてるリズベットの肩を掴んで問い詰めた。
「え? ちょ!」
リズベットはそんな私に驚いて目を丸くした。「あいつはシベリウスっていうキャラネームだったみたいよ」
「シベリウス!」
リズベットの言葉に私の頭の中でジグソーパズルの3つのピースがぱちりぱちりとかみ合った。
一つ目のピース。≪勅使河原ひろ……≫これは勅使河原弘人なのではないか。
二つ目のピース。≪シベリウス≫血盟騎士団のギルドハウス披露パーティー(結局は私とコーの結婚披露宴になってしまったが)の準備の時、コーはクリシュナに言っていた。「僕はシベリウスっていう名前でやってたんだよ。覚えてないかなあ?」と。
三つ目のピース。≪菊岡という政府の役人の言葉≫2月の半ば、菊岡という政府の役人が私の所に訪れた。彼は私に性同一障害に苦しまないようにカウンセリングを受けるように説明した後に口を滑らせていた。「君と同じ境遇の人に会うためにこれから名古屋に行く」と……。つまり、私のようにあのゲームの2年間、別の性で暮らしていた人がいるのだ。確率は低いかも知れない。だけど、ゼロではない。
先ほど、弘人がアスナに向かって駆け寄ろうとしたのも、彼がコーであれば当然だ。コーとアスナは親友といってもいい関係だったのだから……。我を忘れて駆け寄ろうとしたとしても何の不思議もない。
全身が震えた。
あの勅使川原弘人という男子がコーなのか。
信じられない。いや、信じたくない。
「アンタ。大丈夫?」
リズベットが心配そうに私を覗き込んでいた。
「あ、ごめんなさい」
私はずっとリズベットの肩を掴んでいた手を離して頭を下げた。
「アンタ。弘人となんかあったの?」
リズベットが腕を組んで尋ねてきた。
「いえ……。人違いかも」
私は視線をそらした。
そうだ、何かの間違いだ。きっと、この考えにはどこか穴があるはず。後でじっくり考えよう。
そう考えた時、チャイムが鳴って体育教師がやって来て授業が始まった。
体育の授業はバスケットだった。
最初にパスやドリブルなどの基本動作を行った後、三角形ローテーションのシュート練習になった。
最後にボールに触ったのはソードアート・オンラインに囚われた日の大会だった。だから約2年5カ月ぶりだ。教師に言われるまま、パスやドリブル、シュートをやってみると意外と体が覚えていて気持ちがよく体が動いた。
コーと弘人の関係について考えたくなくて、私は授業に集中した。バスケットボールがとても手になじむ。
私に向かってパスをしてくれる相手がミスしてとんでもない方向にボールが飛んだ。私は一気にダッシュをしてそのボールをキャッチすると振り向きざまにワンハンドでシュートを放った。
シュルッ。っと気持ちいい音を鳴らしながらボールがゴールに吸い込まれていった。
(よしっ!)
私は頭に描いた通りの動きができたので思わずガッツボーズをしながら列の最後尾についた。
「螢、すごいねー。なんか動きが全然違う!」
三角形ローテーションでボール待ちになった時、リズベットが明るい笑顔で私に話しかけてきた。
「昔、部活でレギュラーやってたからねー」
私はリズベットに笑い返した。「里香さんもナイスシュート」
「サンキュー」
私たちはハイタッチを交わした。
その後、リズベットとあれこれと話し合った。ジークリードの時は私が男性だったせいか会話に壁を感じたが、今はまったく感じられない。とても話しやすい女の子だった。
「よっしゃー、もう一回行ってくる!」
明るい声でリズベットが気合を入れた。
「がんばれ!」
「おう!」
リズベットがウインクしてパスを受けるために走り出した。
「あの……螢……」
と、怒った表情でいつの間にか私の隣に立花佳織がやってきて左手をとった。佳織は同じクラスでさらに寮で私と同室のボブヘアーがとても可愛らしい女の子だ。何か怒らせるような事をしてしまっただろうか?
「はい?」
「あまり、他の方と仲良くしてほしくないです」
佳織は真剣な表情でまっすぐに私の目を見つめてきた。
「ええっ? 佳織さん、御冗談を……」
私は冷や汗をかきながら彼女の手を振り払った。
「半分冗談、半分本気」
佳織はアハハといたずらっぽく笑った。「螢がとってもカッコよくて、わたくし、恋してしまいそうです」
「ええっ!」
私は絶句して思わず後ずさりをしてしまった。
そう言えば、彼女の引っ越しの時、荷物運びを手伝ったが、重い段ボールの底が抜けて百合系の漫画やら小説やらが大量に床に散乱した。見て見ぬふりをしながら段ボールに片づけたが、まさかそっち系の女の子なのだろうか?
私が呆然としていると、佳織は微妙な笑みを浮かべて、パスをもらうために走り出した。
「螢さん。モテモテね」
この様子を見ていたアスナが椅子に座ったままクスクスと笑っていた。
私は佳織が持っていた小説の主人公のように「やれやれだぜ」と言えばいいのだろうか。などと馬鹿な事を考えて私は自嘲した。
「その髪をみてると、コーを思い出すわ」
アスナが私の長い黒髪を見て呟いた。確かに私の髪はコーと同じようにストレートで絹のようにさらさらと風に舞う。
「顔も性格も違いますけどね」
私は腰まで伸びた髪を弄んで微笑んだ。
「それはそうよ。人それぞれなんだから。……ほんと、太陽みたいな子だったなあ。いつかまた会いたいわ」
アスナは体育館の天井を見上げた後、目を閉じてぽつりと言った。きっと、彼女のまぶたには輝くコーの姿が映っている。私はそう確信した。
「はい……私も会いたいです」
ほろ苦く私は言った。コーの輝く姿が脳裏に浮かび、その横に勅使河原弘人という男子生徒の姿が浮かび上がった。
本当にあの勅使河原弘人がコーなのだろうか?
私はその考えを放り出すため、パスを貰いに走り出した。
(ああ、こういう風に考えを放り出すのはコーの得意技だったな)
いつの間にかコーの考え方が私の中に息づいている。コーの一部が私の中にある。そう意識するととても嬉しかった。
火曜日はこの体育の授業が最後だ。
授業が終わり着替えをすますと、私と佳織は帰宅する事にした。
下足場で靴を履きかえると私たちは肩を並べて校門へ向かった。
「螢。手をつないでもいいかしら?」
佳織は私が返事をする前にぱっと私の左手をとった。
「今、聞く必要があったの?」
私はあきれてクスリと笑った。
「だって、断られたら1秒も手がつなげないじゃないですか」
佳織が私に顔を向けると遠心力で彼女のボブヘアーが可愛らしく広がった。「今、断られても手をつないだという事実は残りますから」
「まあ、いいけど。手ぐらいなら」
と、私が言うと佳織は顔をぱっと輝かせて握る手の力を強めた。
中学時代、仲のいい女子同士が腕を組んでたりする姿を見たりしている。これぐらいならかまわないだろう。そんな事を考えていると、上の方からリズベットの声が聞こえた。
「おーい! 螢!」
足を止めて、私は声がした方を見上げた。そこには手を振っているリズベットの姿があった。「もう、帰るの? いいなあ」
「火曜日だけよ」
うらやましそうに笑っているリズに手を振りかえした。
しかし、すぐに私はその笑いが凍りついた。リズのすぐ近くにあの≪勅使河原弘人≫が私を見つめている。
弘人はそっと左手を口元に持って行った。
(私の事、見破ってる……)
弘人の顔を見て私はそう感じた。
彼自身が違う姿、違う性でソードアート・オンラインを生きてきたのだ。望月螢という名前から私をジークリードだと見抜くのは容易だろう。
私がずっと偽っていた事を知った彼はどう思うだろうか? 怒り? 憎しみ?
そう考えると全身がこわばって動かなくなった。
「螢。帰りましょう!」
佳織が少し怒った口調で私の手を校門へと引っ張った。
私は背中に突き刺さっているであろう勅使河原弘人の視線を感じながら、何事もなかったように歩き始めた。
彼がコーなら私の歩き方だけで私がジークリードだと見破っているだろう。
彼がコーなんて……信じられない、信じたくない。
私の心は信じる、信じないの間で激しく揺れた。
「いったい、なんだ? あの女の腐ったような奴は」
あきれた口調のエギルの声で私は現実に戻された。
エギルは雑巾とチリトリを持って割れたコーヒーカップを片づけ始めた。
「アンタねえ。その言葉で、今ここにいる女子二人を敵に回したわよ」
リズベットがエギルに毒を吐きながら、片づけに加わった。
「お、おう?」
「奥さんに言いつけるわよ」
「なんでそこまで言われなくっちゃなんねーんだよ」
「手伝います」
私も二人の間に入って破片を集め、雑巾で床を拭いた。
3人で手分けをしたのであっという間に片づけは完了し、店の中は何事もない平穏な空気が流れた。
「ごめんね。弘人があんなにキレるとは思わなくって……」
リズベットがため息をつくとカウンター席に座った。
「いえ、すみません」
反射的に私は頭を下げて謝罪した。
「アンタが謝ることないわ。まったく、あいつどうしてくれよう」
リズベットは苦虫をかみつぶしたような表情で言った。
「あの。この事でかの……じゃなくって、彼を責めるのは冗談でもやめてください」
私はリズベットに近づいて哀願した。「コーヒー代もカップ代も私が弁償しますから」
「え?」
「多分、死ぬほど後悔してると思いますから」
彼がコーなら間違いなく我に帰った後、自分を責めるはずだ。そんなところにリズベットから冗談でも責められたら、コーはどん底まで落ち込んでしまうだろう。
「アンタ、弘人とどういう関係なの?」
「それは……言えません」
私は目をそらしてうなだれた。
「弁償はしなくていいぜ、お嬢ちゃん」
その声に私は目を向けると、カウンターの向こうからエギルがニコリと笑みを浮かべた。そして、片目をつぶって指を一本立てて言葉を続けた。「その代わり、コーヒーを一杯注文してくれ」
ソードアート・オンラインの中にいた時同様にエギルはとてもいい人だと私は思った。
「はい!」
私は微笑んでリズベットの隣のカウンター席に座った。「じゃあ、チーズケーキもお願いしてもいいですか」
「お、さすがお嬢ちゃん。ケチなリズとは違うな!」
エギルは高笑いをすると、リズベットが「ちょっと、アンタねえ!」と激しく抗議の声を上げた。
二人のそんなやり取りを見ていると、私の頭にソードアート・オンラインの世界が懐かしくよみがえった。カウンター越しに言い合う姿が、第50層のエギルの店でレア素材の取引をする二人の姿とだぶった。
この二人、いや、私とコー以外全員はSAO世界をよき思い出にして新たな関係を築いていけるだろう。だけど、私とコーは……。
こんな現実が待っているのなら、あの世界に死ぬまで閉じ込められたかった。もう、あの輝くような時間は得られない。
絶望で胸が締め付けられた。
「そうだ。螢。来月ここでオフ会やろうと思ってるんだけど、手伝ってくんない?」
リズベットが晴れやかな笑顔を私に向けた。
「オフ会?」
「そ! ≪アインクラッド攻略記念パーティー≫をね! もうすぐ、アスナが杖なしで歩けるようになるし。キリトがゲームクリアしてくれた感謝も込めて!」
「なるほど。いいですね」
「でしょ!」
リズベットはニコリと笑って、エギルも交えてオフ会について話し始めた。
私とコーの結婚披露宴になってしまったギルドハウス披露パーティーでも、きっと彼女はこんな感じで明るく準備に奔走してくれたのだろう。
今度は私の番だ。アスナやキリトに少しでも恩返ししたい。
それに、こうやって打ち込むものがあった方が気がまぎれていい。私はコーも弘人も忘れるためリズベットの話を一言一句聞き漏らさぬように意識を集中した。
打ち合わせを終え、寮に戻った時にはすっかり日が沈んでいた。
時間ができると、つい考えてしまうのはコーと弘人の事だった。考えていても一歩も進まない。分かっていても考えてしまう。
私はどうしたらいいのだろう。この感情はなんなのだろう。私をずっと騙してきた彼への怒り? それとも彼をずっと騙してきた罪の意識? リズベットの誘いに乗って≪Dicey Cafe≫へ行ってしまった後悔? コーがあんな男子だったという事実に対するいらだち?
多分、全ての感情が私の中で渦巻いているから、自分でもどうしようもないほどイライラしているのだ。
「おかえりなさい」
部屋に入ると、ベッドの上で寝そべって漫画を読んでいた佳織がこちらに視線を向けた。
「ただいま」
と、返事をしながら私はブレザーを脱いだ。
「螢。何かあったの?」
佳織が私の表情を見て起き上がるとベッドに腰掛けた。「なんか、とてもつらそう……」
「なんでもない」
私はブレザーをハンガーにかけた後、着替えのために部屋の中央の間仕切りカーテンを引いた。
「本当に大丈夫?」
佳織がカーテンから顔だけを出してこちらを覗き込んだ。
「佳織! ちょっと、一人にしておいて!」
私はつい激しい言葉を佳織にぶつけてしまった。彼女がたちまちおびえた表情に変わってしまった。
「ごめんなさい……」
佳織はそれだけ言ってカーテンの向こうへ消えた。
私は着替えを済ませるとベッドに自分を放り出した。
「ごめん。佳織さん。きっと、明日には元に戻ってるから」
私は右腕で目を覆いながら佳織に謝罪した。自分の感情がコントロールできないのがとてもつらい。
佳織に八つ当たりするような態度をとってしまった。本当に彼女に申し訳なかった。
「わたくしのほうこそ、ごめんなさい。螢にも踏み込んで欲しくない所があるよね」
カーテンの向こうから佳織のか細い声が聞こえた。ひょっとしたら泣いているかも知れない。
私は本当に小さい人間だ。だけど、どうしようもない。だって、私は駄目な人間なのだから。
もう、コーの事を考えるのはやめよう。彼女を追いかけなければいいのだ。コーは外国に行った。アスナもそう言っていたではないか。
勅使河原弘人の事は忘れよう。コーとは何の関係もない男子。そう考えよう。
すべては過去。コーも弘人も私には関係ない。だって、私は望月螢なのだから。
私はそう決めた。
しかし、そう心に決めたのに涙があふれてきた。
まるでジークリードが私に逆らって引き留めようとしているようだった。
(すべて流れ出てしまえばいい。ジークリードも、コーの思い出も)
私は感情のすべてを解放させた。
目覚めると、私は柔らかい空間に包まれていた。目を開けて目を走らせるとそこはコーの腕の中だった。私は優しくコーの胸に抱かれていたのだ。
視線を上げるとコーが優しく見つめてくれていた。
「おはよう」
コーが笑顔で私の頭を柔らかく撫でた。「よく眠れた?」
ここは第8層フリーベンの私たちの家のベッドだ。ベッドの感触も木造の部屋も全てが懐かしい。
(ああ、これは夢だ)
そう思いながら私はコーにしがみついた。
ずっと、ここにいたかったのに! 私はその感情に流されてコーの胸の中で泣き出してしまった。
「悪い夢でも見たの?」
くすくすと笑うコーの声がとても心地よかった。
私はコーの柔らかいふくらみに顔をうずめた。夢であろうがもうどうでもよかった。わずかな安らぎをむさぼりたかった。
「まるで赤ちゃんみたいだよ」
そのコーの声が途中から男の声に変わった。
「え?」
あわてて見上げると、それはコーではなく勅使河原弘人だった。
怒りが湧きあがった。
「コーをどこにやったの? コーを返して!」
私は彼の首を締め上げて叫んだ。
苦しそうにもがく弘人の顔がとても気持ちがいい。思わず、口元が微妙に歪む。
もっと、もっと締め上げて苦しませてやる! 抵抗する弘人の手をもろともせずに私は憎しみを込めて手に力を加えた。
ゴキッ。と鈍い音と嫌な感触が私に伝わると抵抗していた弘人の手は力を失った。
弘人の横に表示されていたヒットポイントバーが幅を失い消えた。
「ジーク。助けて……」
コーの声だった。顔もコーに戻っていた。目の前でその身体がポリゴンとなって砕け散った。
「ジークリードさん!」
後ろからアスナの声がした。そして、激しい糾弾の声が私を突き刺した。「なんで、コーを殺したの?」
「これはコーじゃない!」
「コーが、コーが死んじゃうなんて!」
その叫び声はリズベットだった。「アンタ! なんてことをしてくれたのよ!」
「兄ちゃん。いくらなんでも、これはねーだろ」
エギルの声も別の所から聞こえた。
「これは、夢! 夢だ!」
私は頭をかきむしって床に崩れ落ちた。
「ジークリードさん。……残念です」
これはテンキュウの声。
「ジークリードよぉ。俺はこんな事をさせるために≪還魂の聖晶石≫を使ったわけじゃねぇんだぞ!」
さらにクラインの声が私を責めたてる
夢だ。これは夢だ。早く覚めろ! 覚めろ!
私の下腹部に激痛が走った。見ると背後から剣で貫かれていた。
「よう、人殺し同士、仲良くやろうぜ」
背中からラップのような流れる口調でPoHの声が聞こえた。
「PoH! ふざけるな! 私は! 人殺しじゃないっ!」
私は愛剣≪倶利伽羅剣≫を抜いてPoHの首を斬った。
私を責めたてるアスナもリズベットもエギルもテンキュウもクラインも……すべてを斬り殺した。
「夢なら早く覚めてよ!」
私は誰もいなくなった家の中で剣を振り回して叫んだ。声がいつの間にかジークリードでなく本来の私の声になっていた。
突然、頬を濡らすものがあった。右手の甲でそれをぬぐってみるとそれは鮮血だった。ソードアート・オンラインではこんな事はないはずなのに!
「ひっ!」
液体がぽたぽたと頬を流れ行くのを感じた。逃げても逃げても、何かが頬を流れていく。これが全て血なのか?
「嫌っ!」
私は跳び起きた。辺りは真っ暗だった。外から洩れるわずかな光でこの空間が私と佳織がいる寮の部屋だと理解できた。
私はほっとしながら思わず視線を右下へやり時間を確認してしまった。現実世界なのだから当然そんな所を見ても時計表示はない。
私は首を巡らせて目覚まし時計を探し出した。
2時42分。
頬を流れる物を感じて私はびくりとしながらそれをぬぐった。早鐘のように高鳴る心臓を落ち着かせながら手を見ると、それはどうやら涙のようだ。
眠りながら泣いていたのだろう。
息を大きく吐いて少し落ち着くと、下腹部に鈍痛を感じた。
私は頬を濡らす涙をしっかりとぬぐうとペンライトのような小さな懐中電灯をつけた。そして、引き出しから生理用品を出して佳織を起こさないようにそっとトイレに向かった。
汚れていない下着を見てほっと胸をなでおろし、念のため下着に処置をしてトイレから出た。
それにしても最悪の夢だった。
コーの事を考えながら寝てしまったせいだ。それに体調のせいもあったのだろう。私はしくしくと痛む下腹部に手をやりながらベッドに腰掛けた。
壁に立てかけてある姿見に自分が映っていた。
長い黒髪。大きすぎる眼、ちょっとバランスが悪い鼻や口。どんなに嫌いな顔であっても、これが今の私。パジャマを着ていても分かる柔らかい曲線を描いている身体。自分は女の子だなと再確認するが、まだ違和感がある。2年もの間、男性として生きてきたのだ。時々、自分の身体に戸惑ってしまう。
私は倒れ込むようにベッドに寝転がって天井を見上げた。
現実世界では逃げ場はない。どんなに女の身体が嫌でも、顔が嫌でもリセットできないのだ。
コーの事にしてもそうだ。事実はもう変えられない。リセットできないのだ。
考えたくないのに勅使河原弘人の顔が思い浮かんできた。もう、彼の事は忘れようと思っていたのに。
コーを……というより弘人を私は許し受け入れることができるだろうか?
多分、無理……。彼をコーと同じように愛する事は出来そうもない。それどころかとても憎らしく感じてしまう。彼とコーは違いすぎる。何もかも。
彼の事は忘れよう、考えないようにしよう。
結局、考えは原点に戻って来てしまった。2回同じ結論になったのだから、きっとこれが正しい選択だ。
下腹部の鈍痛がじわじわと広がり、私は横向きになって体を丸めた。
ああ、この身体も嫌だ。できる事なら取り替えたい。あの時に帰りたい。
私は目を閉じてじっと痛みに耐えた。
次の日から私は勅使河原弘人という存在を忘れる事にした。
だが現実は、そう簡単に忘れさせてくれそうもなかった。
私自身意識していないのに、ふとした瞬間に弘人を探して目で追っているのだ。
休み時間の校庭。外で行われている体育の授業。学校での廊下。お昼のカフェテリアスペース。
たくさんの人がいるにも関わらず、私は一瞬でその姿を見つけ出し、無意識のうちに目で追いかけてしまう。
弘人の方も同様なのか、頻繁に彼と視線がぶつかった。
そんな事を1週間ほど続けている。いったい私はどうしたいのだろう。忘れてしまいたいのに。
お昼休みのカフェテリアスペースは人でごったかえしている。相席もしょうがないかなと考えていた所、偶然にも席が空いて私と佳織は四人掛けのテーブルに二人で座る事ができた。
「ラッキーでしたね!」
佳織は微笑みながら今日のA定食のチキンカツランチを前に置いて両手を合わせた。
「うん」
私はうどんとサラダを前に置いて手を組んで目を閉じた。脳裏に食事前の祈りをささげるコーの姿が鮮やかによみがえった。
私は小さく首を振って頭の中のコーを追い出し、カフェテリアを見回した。
こんなに人であふれているのに、私は無意識のうちに弘人を見つけ出していた。そして私は弘人が数人の男子生徒と談笑しながら食事をとる姿をじっと見つめてしまった。
弘人は私の視線に気づいたのかこちらに視線を向けた。私はあわてて目をそらして反対側の何もない壁に目を向けた。
我ながら挙動不審すぎる。
「はぁ」
と、向かいの席に座っている佳織がため息をついた。
「なに?」
私は弘人の視線を感じながら前に座っている佳織に目を向けた。
「何かのゲームでもやってるんですか? あっちむいてほい的な」
佳織はむくれながらフォークをランチのチキンカツに勢いよく突き刺した。
「佳織さん……怖いです」
私は苦笑して、チキンカツから佳織に視線を移した。佳織はぶつぶつ苦情を言いながらチキンカツを口にした。「そんなに食べたら、午後の体育で吐いちゃうかもよ?」
「やけ食いです。お気になさらず」
佳織はそう言ってぷいっと横を向いて窓の外を見た。
そういう仕草がとても女の子らしくて、私は可愛いらしいと思った。
(2年間男子として生きてきた私にはもうこういう仕草は出来そうもないな)
そう思いながら私は佳織の仕草を見てクスリと笑った。
この学校に入った時はコーとこんな関係になれたらいいなと思っていたのに……。
私は佳織から弘人に視線を移した。彼は再び男友達と談笑している。
「螢。隣、いいかな?」
その声に目を向けるとそこにいたのはリズベットだった。手にしたトレイにはサンドイッチとコーヒーが乗っていた。席が空いてなかったのだろう。
「ああ、里香さん。どうぞどうぞ」
「ありがと!」
リズベットはニコッと笑って佳織の隣の席に向かった。リズベットの影から髪を両サイドでリボンでまとめている愛らしい女子が現れた。彼女は……。
「シリカさん!」
私は驚きの声を上げてしまったので、シリカはビクンと身体を固まらせた。
「キャラネーム禁止!」
佳織の隣に座ったリズベットが私に指を突きつけた。「てか、知り合いだったの?」
隣の佳織から睨みつけられているのにリズベットはまったく動じていない。さすがの胆力と言うべきだろうか。
「いえ……中層ゾーンで、シリカさんを知らない人はいませんよ」
私は頭を振って、リズベットにそう答えた。まさかコーと一緒にカルマ回復クエストしましたよね? なんて言えない。
「ふーん。アンタ、いろんな人の追っかけでもやってたの? アスナもあたしも知ってたよね」
「あ。ええ。まあ」
私は言葉を濁らせて、お茶を口にした。
「珪子。螢の隣に座りなよ」
リズベットはシリカを手招いた。
「すみません。綾野珪子って言います。お邪魔します」
シリカが小さく頭を下げて私の隣に座った。
「私は望月螢。どうぞ座って。遠慮しないで。私たちはもうちょっとで食べ終わりますから」
私が『私たち』と言ったので佳織が嬉しそうにニコリと笑みを浮かべた。
私はそんな佳織に笑みを返しながら、視線は弘人に向けていた。
彼がコーのままの姿だったら……。このテーブルはソードアート・オンラインの昔話でさぞかし明るく盛り上がっただろう。もう、そんな未来は絶対来ないのだが……。私も彼も変わりすぎた。
再び弘人と視線がぶつかり、私はあわてて視線をランチに戻した。気が付くと、そんな私を佳織だけでなくリズベットも興味深く見つめていた。
佳織は再び怒りをチキンカツにぶつけた。
「アンタ。カルシウム足りないんじゃない?」
リズベットが佳織をからかった。
「余計なお世話です!」
佳織はリズベットに宣戦布告のような厳しい視線を向けた。
「牛乳飲んだら? カルシウムいっぱいだよ」
リズベットは佳織の視線をさらりとかわしながらいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「わたくし、あなたが嫌いです!」
「うん。知ってる」
ニカッと笑顔を浮かべてリズベットは頬杖をついた。そんな返され方を想像していなかったのだろう、佳織は二の句がつなげずに呆然としていた。
「佳織さん。仲良くしてください」
「螢がそう言うなら」
釈然としない表情で佳織がリズベットを横目で見た。
「そういうことで、よろしく! あたしは篠崎里香」
リズベットはそんな佳織の壁などもろともせずに握手を求めた。
「よ、よろしく……立花佳織です」
すっかり面をくらっている佳織はしどろもどろになりながらリズベットの手をとった。
「ほら、 珪子も」
リズベットに促され、シリカも佳織と自己紹介を交わした。
ソードアート・オンラインでつながりがなかった人たちはこうやって仲良くなれるのに……。
私は再び弘人の方に視線を向けた。しかし、もうそこに彼の姿はなかった。
午後の体育の授業が始まった。先日の授業と同様にパスやドリブルなどの基本動作を行った後、4つのチームに分かれてミニゲームが行われた。
今日の授業は体育館をネットで二つに分けて行われていた。
ミニゲームの休憩時間になったので、私はアスナの隣に立ってネットの向こう側を見た。ネットの向こうでは4年F組男子の授業が行われているのが見えた。
あちらもミニゲームをやっているようだ。バスケットボールを追いかけ激しく生徒たちが走り回っていた。
そんな中でもやはり私はすぐに弘人を見つけ出し、目で追っていた。
弘人のドリブルは目も当てられないほど下手だったが、パスとシュートは見事だった。さすが、ソードアート・オンラインで投擲を鍛えただけはある。そして、なにより私がほっとしたのは彼の右手が普通に動いていた事だ。
(よかった……。本当によかった……)
右腕が動かなくなって泣きぬれていたコーの姿が脳裏をよぎった。
じんわりと胸が熱くなった。私は以前のように彼を愛する事が出来るだろうか?
私はその胸のぬくもりにそっと問いかけた。
それにしてもひどい試合だ。プレーしているのが素人だから仕方がないが、なかなか反則を取らない教師にも問題があると私は思った。もしかするとあまりバスケに詳しくないのかも知れない。
おまけに「ほらほら。女子も見てるぞ! 気合入れろ!」などとけしかける始末だ。
「うおぉぉ! アスナさん! 見ててくださいっ!」
そんな男子の声と笑い声が聞こえてきた。
「ほらほら、アスナ。ちゃんと見てあげなよ」
リズベットが爆笑しながらアスナに言った。
「もう」
アスナはため息をついて小さく笑った。
その笑顔に触発されたのか試合がさらに荒れてきていた。もう、プッシングもチャージングもブロッキングも行われ、バスケットボールとは名ばかりの格闘技に成り果てている。
苦し紛れに出たパスがこちらに飛んできた。そのボールに弘人が追いつこうと必死に走っていた。ディフェンスが弘人の身体を抑えながら進路を妨害した。
(ホールディング!)
私は心の中でジャッジしたが、教師はそれをスルーした。
二人はそのままボールを巡って争い、もつれ合った。
(このままじゃ! 二人とも壁に!)
私は思わずネットをくぐっていた。
「ちょっと、螢!」
リズベットの声が背後から聞こえたが私は駆けだしていた。
私の視界にはもう弘人しか映っていない。
弘人は壁にぶつかる直前、相手を守るために壁と反対方向に突き飛ばした。
弘人が肩から壁にぶつかってゴツッと鈍い音がした。
床に崩れ落ちた弘人に私は誰よりも早く駆け寄って無我夢中で抱き起した。
「いてて」
腕の中で弘人が目を開いた。
すぐ目の前で視線がぶつかり私は息を飲んだ。
いったい私は何をやってるんだ。
男子の授業に割り込んで、さらに男子を抱き起すなんてどう考えてもあり得ない。夢中に取った行動が自分でも信じられなかった。
「あ……ありがとう」
弘人も驚いたのか一瞬、声を詰まらせた後、ようやく言葉を絞り出した。
そして、彼の口がゆっくりと動いた。
(ごめんね。ジーク)
唇の動きだけだったのに、私の頭にはコーの声でその言葉が聞こえた。私は心臓が高鳴り、気が遠くなった。
私に伸ばされてきた弘人の右手をそっと左手で捕まえた。
指が絡み合い、両手がしっかりとつながれようとした時、教師の大きな声で私は我に帰った。
「大丈夫か! 勅使河原!」
「大丈夫です」
弘人は教師に微笑みかけて私の腕からすり抜けて立ち上がった。つながれようとしていた手も離れて行ってしまった。
「保健室いくか?」
「大丈夫です」
弘人はぶつかった方の腕をぐるりと回した。
咄嗟に受け身をとっていたから大丈夫だったのだろう。さすがの反射神経だと私は思った。
「いつまで呆けてるのよ」
リズベットが私の肩を叩いてきた。
そちらに目をやるとニヤリと微笑むリズベット。その後ろには今にも抗議の声を上げそうな佳織。ほっとしながらも興味津々の表情のアスナ。それぞれの目が私を突き刺していた。
「ごめんごめん」
私はリズベットの手を取って立ち上がった。
「いきなり飛び出してっちゃったからびっくりしたよ」
リズベットはそう言いながらネットをくぐった。
「自分でもびっくりです」
私は照れくさくて頭をかきながらリズベットに続いてネットをくぐった。
「先生が声かけなきゃ、すごくいい雰囲気だったのに」
リズベットが舌打ちしながら言った。
「里香さん!」
私は顔全体が熱を帯びるのを感じながらリズベットの肩を叩いた。
するとリズベットが私の予想以上にのけぞった。何が起こったのかとリズベットの向こうを見ると私と同時に佳織がリズベットにひじ打ちを食らわせていた。
「ちょ! 螢はともかく、なんでアンタがツッコミいれんのよ!」
リズベットが佳織を指差しながら迫って行った。
「おーい。チーム交代!」
笛の音が響いて教師の声がこちらに飛んできた。
「行こう」
私は二人の肩を抱いてコートに向かった。
次の授業の数学が終わって、10分間の休憩時間に入った。今日の授業はあと、1コマだ。
私は目を閉じて大きく伸びをした。
唐突に弘人の顔が頭に浮かんで、『ごめんね。ジーク』という声が聞こえた。
私はコーを忘れられない。だから、弘人を無視する事ができないのだ。
目を開けて左手を見つめた。思い出すだけで全身が火照る。現実世界での接触はソードアート・オンラインの中より濃厚だ。
タブレットがメール受信を知らせる音を鳴らした。
私はタッチパネルを撫でてメーラーを開いた。
件名:放課後待ってます 差出人:勅使河原弘人
その表示を見て心臓が止まりそうになった。
唾を飲み込んでから震える手でそのメールをタッチした。
『今日の放課後会いたいです。武道館奥の池で待ってます。』
簡潔な短い文章だった。それなのに何度もかみしめるように読み返した。
「どうしたの? 螢」
佳織がタブレットを片手に私の席に歩いてきた。
「な、なんでもない」
あわててメーラーを閉じた。
「あの、螢……。お願いが……」
つらそうに言葉を詰まらせて佳織が話しかけてきた。
「はい」
私はタブレットを操作して次の国語で使う課題ファイルを佳織に送った。古文の訳の課題だ。
昨夜、佳織はかなり苦戦をしていた姿を私は見ていたから多分最後までできなかったのだろうと思ったのだ。
「よく、分かりましたね」
目を丸くして佳織が課題ファイルを開きながら驚きの声をあげた。
「分かるよ。佳織の事だもん」
「ありがとう!」
私の言葉に佳織は上機嫌でタブレットを胸に抱いて自分の席に戻って行った。
(さて……)
私は私の課題を考えよう。いや、考える余地はないのかも知れない。
私は再びメーラーを立ち上げて勅使河原弘人から送られてきたメールを何度も読み返した。
これほど放課後が待ち遠しかったことは今までになかった。
好きな古文の授業であれば集中して話を聞いているうちに時間が過ぎ去っていたはずである。だが、今日に限っては時間が気になって仕方がない。
何度も腕時計を見ては秒針がちゃんと動いているか確認を繰り返してしまった。
それでも、ようやく授業終了まであと5秒だ。
4……3……2……1……
ようやく「ゴーン、ゴーン」と第1層のチャペルの鐘の音で授業終了の知らせが鳴った。
「螢。ありがとう。おかげで助かりました」
すぐに佳織が微笑みながらこちらに歩いてきた。「今日も一緒に……」
「ごめん。ちょっと用事があるんだ」
私はトートバックに荷物を詰め込んで佳織を残して教室を飛び出した。
校舎脇の新緑のトンネルを私は駆け抜けた。真新しいレンガで舗装された小道を抜け、約束の武道館奥の池にたどり着いた。
池の周りには満開のピークを過ぎた桜が風に葉を揺らせ、残りわずかになった花びらを散らせていた。
私は美しい風景に視線をぐるりと走らせて勅使河原弘人の姿を探した。まだ、彼は来ていないようだ。
池の周りにあるベンチの一つに私は腰かけた。
まったく風景は違うが、このシチュエーションは血盟騎士団の初代ギルドハウスの裏庭の池のようだ。あの時はコーと和解できたが今度はどうなるのだろう。
というより、私はどうしたいのだろう。
水面を見ながら思いにふけるが結論は相変わらずでない。だって、何もかも違ってしまっている。私もコーも、あの時とは違う。
物思いにふけっていると後ろから駆け寄ってくる足音が聞こえた。
胸の高鳴りを抑えながら私は立ち上がり振り返った。
弘人がこちらに駆け寄ってきた。徐々にそのスピードは落ちて私の手前2メートルほどで彼は足を止めた。
お互いが手を伸ばさねばふれあうことができない。この距離がとても遠く感じた。
私は改めて弘人の顔を見つめた。神経質そうな顔つきは決してハンサムとは言えない。私との身長差はコーの時とほとんど変わらない。彼の方がやや低い。良くも悪くも彼は普通だ。SAO事件がなければ決して彼に目を止める事はなかっただろう。
もっとも、これは弘人の方から見ても同様だろう。
私の高い身長は悪い意味で目立つし、顔だって平均に届くかどうかという顔立ちだ。こんな私に興味をもってくれる男子などそう多くはないし、SAO事件がなければ彼が私に注目する事はなかっただろう。
「ジーク……だよね」
弘人が呟くように問いかけてきた。少しショックだった。男性の声色でその名を呼んでほしくなかった。
「コーなんだよね?」
弘人の問いかけに頷いた後、私も尋ねた。
ゆっくりと頷いて弘人は私の言葉を肯定した。
『会いたい』とメールに書いてきたのは彼の方だったから、私は弘人の次の行動を待った。
しかし、なかなか弘人は行動を起こさず私を見つめてくるだけだった。
「えっと……」
5分ほどだろうか。それとも1分ほどだろうか。緊張しすぎで時間の経過がまったくわからないが、ようやく弘人が口を開いた。
「うん」
私は弘人の次の言葉を待った。
「僕に何の用かな?」
真剣な表情で弘人は私に問いかけてきた。
「え? 何を言ってるの? 会いたいってメールを送ってきたのはあなたの方でしょ?」
私は目を丸くして反問した。
「メール? 僕は送ってないよ」
「嘘!」
さらに私が問い詰めようとした時、弘人が左手を上げて私を制した。
「ちょっと待って。僕はリズから伝言を貰ったんだ。『望月螢が話があるらしいから武道館奥の池に行ってほしい』って」
「私はそんな事言ってない」
と、言った後、私の頭にリズベットのいたずらっぽい顔が思い浮かんだ。
「リズの差し金か」
「リズベットさんの仕業か」
同時に私たちは呟いてお互いを見合って笑った。本当にリズベットらしい行動だ。
「ごめんなさい!」
笑顔を改め、唐突に弘人が頭を下げた。「ずっと僕はジークを騙してきた。ずっと、ずっと。本当にごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
その弘人の言葉に私の頭の中で記憶があふれ出した。
コーが私をずっとブロックリストにいれたまま、うっかり忘れていた事を謝罪した時だ。
(コー、コー、コー、コー……)
それをきっかけに私の中に次々とコーとの記憶がよみがえってきた。
ホルンカで初めてリトルネペントを倒した時のハイタッチ。
その後、≪リトルネペントの胚珠≫を手に入れた後、コーの装備が耐久切れで壊れて下着姿になって呆然とする姿。
シチューをぐるぐるとずっとかき混ぜている事を注意された時。
回線切断で取り乱したコーを抱きしめた時。
第25層ボス戦後のコーの懺悔。
蟲風呂で私をからかったコーの笑顔。
家を買ってハイタッチを交わした時のコーの笑顔。
鐘楼でのプロポーズに応えてくれた時のコーの泣き顔。
(コー、コー、コー、コー……)
あふれ出す一つ一つの思い出のコーに私は心の中で呼びかけた。
弘人が顔を上げて、何か言葉を続けている。その顔がコーと重なった。
私は弘人の言葉が何も聞こえない。頭の中がコーの想いでいっぱいだ。
何を悩んでいたのだろう。彼はコーなのに。姿がどんなに変わってもコーはコーなのに。弘人はずっと私が愛してきたコーなんだ。
私は熱い思いのまま足を一歩進めた。
そんな私を見て少し驚いた表情で弘人が一歩後ずさりをした。
私はさらに三歩進んでそんな弘人を抱きしめた。
そして、私の胸の中で暴れる弘人を力づくでねじ伏せながら夢中で唇を重ねた。
弘人の身体はコーの身体と違って少しゴツゴツしている。女性の身体ではないのだから当然だ。
徐々に弘人の抵抗が収まり、その身体の力が抜けて行った。私は以前のように彼の背中や腰に手を回して抱き寄せながら唇を重ねつづけた。
やがて弘人の手がそっと私の腰に回された。
私は弘人の唇を解放して彼の顔を見た。
弘人の頬に涙が流れていた。男の涙なんて見たことがなかったので私はたじろいでしまった。
『男の子だって、泣いていいんだよ』
昔、コーが私にかけた言葉は自分に向けたものだったのだろうか?
「もう……。いつも不意打ち」
弘人がコーの口調そのままに言った。
「ごめん、コー。私もずっと騙してきた。ごめんなさい」
私はコーを受け入れられる。どんな姿になっていようとも。だけど、弘人はどう思っているのだろうか。私はコーのように美少女ではないし、背も高いし、顔だって誇れるものじゃない。そう思いながら私は弘人に語りかけた。「こんな私だけれど、コーと前と同じように一緒にいたい。ずっと、ずっと!」
「ジーク。それはだめだよ」
弘人の瞳と口調は冷静な落ち着きに満ちていた。
(その言葉は拒絶? けれど、拒絶だったら私を突き飛ばしたりしないだろうか?)
そんな思いと戸惑いがぐるぐると頭を巡る。
彼の言葉の真意が分からない。やはり、私のような見た目が悪い女は受け入れられないのだろうか? それとも弘人には私と違う別の思いがあるのだろうか?
弘人の真意は何なのだろう。私は呆然としながら腕の中にいる彼の次の言葉を待った。
その時、強い風が吹いた。
わずかに残った桜の花がすべて空に舞った。
私の長い黒髪とスカートがその風に踊る。すべてが幕間劇みたいに……。
ここで話を切るんじゃねーよ!
そんな苦情が聞こえそうです。スミマセン><
今回、2万3千文字ぐらいあったりします。書き始めた時はシーンの数もそんなにないので1万2千文字ぐらいだろうとタカをくくっていたのですが、ジークが考えすぎで文字数が増えすぎちゃいました。
文字数の割に内容が薄いのはもはや仕様ッ! 本来の仕様である!(土下座)
ちょっと、書いていて気になったことw
> 私は佳織が持っていた小説の主人公のように「やれやれだぜ」と言えばいいのだろうか。
ちょっと、待て! ジーク(螢)。お前、なぜその百合小説の内容を知ってるんだ!
SAOから解放されて、コー(弘人)と会うまで、「私、コーと再会したら、こんな事するんだ(むふふ)」なんて思いながら百合小説を読んでいたのか?
> リズの暗躍
リズベットさん。アスナ&キリトみたいに他の人をくっつける才能があるんですね。リズベットさん、原作でも早く幸せになってほしいです。
> 百合要員、佳織さん
容姿イメージ、そど子さん(ぉぃ)
SAO内ではどんな人生を送っていたのでしょうか? やっぱり百合チームを組んでたのかなあ。
妄想がひろがりんぐ。
残り最終回+番外1話となります。壁を大量購入しておいてくださいね。
また1週間ほどお時間をください。よろしくお願いします。