ヘルマプロディートスの恋   作:鏡秋雪

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最終話 みんな、みんな、幸せに 【コートニー12】

 いつの間にか僕は家の玄関の前に立っていた。どうやってここまで帰ってきたのか全く記憶がない。

 ジークとあんな形で再会する事になるとは……。

 ≪Dicey Cafe≫で顔を合わせたジークは、ソードアート・オンラインの姿と違いすぎていた。

 腰まであろうかという長い黒髪。大きい目は強気な雰囲気を醸し出していて優しかったジークの目とは全く違う。やや厚めの唇、高めの鼻は少しバランスが悪く、お世辞にも美人とは言えない。

 とにかく、何もかも違いすぎるのだ。望月螢という名前とあの政府の役人菊岡の言葉がなければ彼女がジークだとは思いもしなかっただろう。

 彼女はずっと僕を騙してきたのだ。僕はジークという男を愛していた。この世界に帰ってきて、新たな関係をそっと作って行こうと思っていたのに、裏切られたのだ。

 自分が考えてきた思いが根底から覆されたのだ。

 けど、騙してきたのは僕も同じだ。ジーク――螢は僕の事をどう思っているのだろう。

 もう、何が何だか分からない。自分がどうしたいのか分からない。ジークの事をどう思っていいのか分からない。

 僕は呆然としたまま玄関を上がり自分の部屋に戻ろうと廊下を歩いていると、母が僕の帰宅に気づいてリビングから顔を出した。

「おかえり」

「ただいま」

 僕は母と目を合わせずに横を通り過ぎようとした。

「どうしたの? ひどい顔してるわよ」

 母は通り過ぎようとした僕の腕を捕まえて言った。

「僕、何が何だか分からなくなっちゃったよ」

 涙こそあふれなかったが、悲しみで暴走しそうな感情を必死に押さえつけて声をつまらせた。

「こちらにいらっしゃい。お茶をいれるわ」

 母は優しくリビングに招き入れた。

 母の後ろについて、僕はリビングに入った。夕食の準備がほとんど終わっているのだろう。普段であれば食欲を大いに刺激するいいにおいが充満していた。

 僕がリビングのソファーに座ると母が僕の前にカモミールティーを置いて、対面にふんわりと座った。

「まず、飲んで落ち着きなさい。落ち着いて、お母さんに話せる事ならお話して」

 母は柔らかく微笑んで自分もティーカップを手に取った。

「いただきます」

 僕は可愛らしい薔薇の絵が描かれたソーサーとティーカップを手に取った。

 カモミールティーを口に含むとリンゴに似た甘い香りが僕の心を落ち着かせ、お茶の暖かさがじんわりと全身に広がって行った。

 幼い頃から僕が暴れまくった後、母は決まってこのカモミールティーを僕に飲ませていた。この香りと味でほっと一息をついてしまうのはもはや条件反射と言っていいレベルかも知れない。

 僕はゆっくりと、ぽつり、ぽつりと今日あった出来事を母に話した。

 ジークが女性だった事。自分も騙してきたが、騙されてきたことがとても腹ただしい事。自分の事もジークに見破られてどう思われているかとても不安な事。これからどうしたらよいかまったくわからない事。

 とりとめなく、重複し、めちゃくちゃな表現の話を母は忍耐強く聞いてくれた。

 僕が黙り込み落ち着いた所で、母が口を開いた。

「弘人。あなたは最初、どうしたかったの?」

 優しい瞳で僕を見つめながら柔らかく尋ねてきた。

「最初?」

「そう。前に言ってたじゃない」

 母はそう言って、カモミールティーを口にした。

 僕は最初どうしたいと考えていただろう。

「謝って、友達になりたい……」

 僕は確か母にそう答えた気がする。

「それでいいんじゃないかしら?」

 母は満面の笑みで僕の言葉を肯定した。

「でも!」

 母の提案に首を振りながら僕は否定の声を上げた。

「今のあなたは考えすぎよ。あなたは自分のできる事しかできないのよ」

 母はふわりと立ち上がり、僕の左隣にそっと座った。そして、優しく僕の左手をとった。

「でも……僕はジークが許せない」

 こんな気持ちのまま、螢に謝るなんて事は出来ない。

「相手が許せないって言っても、あなたも同じ事をしていたんでしょ?」

「うん」

「同じことをしてたから許しなさいって言ってるんじゃないのよ。あなたは相手を怒らせたくて自分の性別を偽っていたわけじゃないんでしょ? 相手を思いやっての事じゃないの?」

「……」

 僕は頷いた。

「きっと、彼女も同じ考えだったんじゃないかしら? 彼女は弘人を想いやって男性を演じていたんじゃない?」

「そう、だね……」

 頭の中でジークの優しい笑顔が思い浮かんだ。

 そうだ。ジークはいつも僕を守ってくれた。僕の事を一番に考えてくれた。僕を……一番愛してくれた。それを恨むなんて事をしてはいけない。

「弘人は弘人の気持ちを伝えればいい。後は考えても仕方がないわ。そこから先は相手の問題」

 母はばっさりと切り捨てた。そして、僕を安心させようとクスリと笑った。「もし、相手が許してくれなくて、つらくなったらまたここにいらっしゃい。お母さんは弘人の味方だからね」

「お母さんって。やっぱりすごいね」

 僕は母の顔をまじまじと見つめて言った。

「そりゃ、弘人よりながーく生きてますからね」

 にっこりと笑って母は僕の肩を叩いた。

 そう言えば僕はソードアートオンラインの中で、考えすぎていたジークに何度も考えすぎないようにと口にしていた。

 くやしいけれど、ジークの前で僕は母の真似をしていたのかも知れない。やはり一番身近な存在として母の影響をめいっぱい受けているのだと実感した。

「もし、友達になれたら家に連れていらっしゃい。お礼が言いたいから。『弘人を守ってくれてありがとう』って」

 母はそう言って立ち上がった。

「うん。そうなったらいいな……」

 僕はそういう未来が来るといいなと心から思った。

 ジークの優しい笑顔が思い浮かんだ。しかし、望月螢の笑顔は想像できなかった。無理もない。僕は彼女の笑顔を一度も見ていないのだ。

 できるだけ早く、螢に謝ろう。そう僕は心に決めた。彼女は許してくれるだろうか? ジークのように優しく微笑んでくれるだろうか?

 僕は目を閉じて神様に祈った。

(ジークと――いや望月螢と話し合う機会をください)

 カモミールティーの甘い香りが鼻をくすぐった。とても落ち着く香りだった。

 

 

 

 望月螢に謝る。

 そう決めたものの自分から螢に会いに行くとか、呼び出すとかいう勇気はなかった。

 ためらっているうちに1週間が過ぎ、なんとしても謝ろうという気持ちもだんだん弱まってしまった。そんな僕ができるのは螢を探し見つめる事だけだった。

 クラスも学年も違っているので見かける機会はあまりない。しかし、視野に螢の姿が一瞬でも映れば僕は彼女を見つめていた。

 螢の方も僕と話をしたいのだろうか? 最近、そう思う。なぜなら、彼女の方も気が付くと僕を見つめているからだ。もっとも、彼女の方は視線が合うとすぐにそらしてしまうのだが……。

 お昼休み、カフェテリアスペースで昼ご飯を食べていると、螢が佳織と一緒に入ってきた。まだ、螢は僕に気づいていない。佳織と何やら言葉を交わしながら食事を購入していた。

「弘人。ああいうのがいいのか?」

 突然、隣でパンをかじっていた大輔が僕の脇腹をつついた。

「ああいうのって、大輔……」

 僕は照れくさくて頬が赤くなるのを感じながら首を振った。

「望月螢。5月5日生まれ。静岡県出身」

 大輔は朗々と螢のスペックを語り始めた。「血液型はA型。身長175センチ。推定サイズは上から95-63-88。得意科目は国語、英語。得意スポーツはバスケット」

「でけぇ」

「うほっ。いい胸」

 僕の向かい側に座っていたクラスメイトの二人は大輔が語るスペックを聞きながら後ろを振り返って螢に視線を向け、それぞれの感想を語った。

 まったくこの二人はいったい、どこを見ているのか。確かに……一番に目が行くのは長い髪か胸であるのだが……。

「弘人ぉ~。このおっぱい星人が!」

 二人は爆笑しながら僕を冷かした。

 僕はその冷やかしをスルーしながら大輔に顔を向けた。

「いったい、どこからそんな情報を仕入れてるんだよ」

 さすが元情報屋と賞賛すべきだろうか? 僕は半ばあきれながら大輔に言った。

「弘人のために頑張って集めてきた情報だぜ」

 大輔はニヤリと笑うと僕の生姜焼きを一枚つまみあげて口に放り込んだ。「って事で情報料を頂くぜ」

「僕のため?」

「そうさ。だって、ずーーーっと見てるじゃん。バレバレだぜ」

 大輔はニヤニヤしながら僕の耳に囁いた。「向こうも弘人が好きなんじゃねーの? 彼女も弘人をよく見てるよな」

 そう言われて僕は螢に視線を向けると視線がぶつかった。空いた席に座った彼女はあわてて視線をそらした。

「告白するなら、セッティングするぜ」

 大輔は親指を立てると、他のクラスメイトも任せろとばかりに親指を立てた。

「絶対、お前らには頼まねーよ!」

 僕はため息をつきながら毒づいた。大輔たちに頼んだら絶対ストーキングされる。これ以上、大輔たちにネタを提供する必要はないだろう。

「ひでー。弘人。お前はもっと友達を大切にすべきだ!」

 大輔は僕に指を突きつけながら笑った。

「友達なら拳で語り合おうか」

 僕がふざけてゆっくりと拳を大輔の頬に向かわせる。

「見えるッ! 貴様の拳がッ!」

 大輔は笑いながらアニメのセリフを叫んで僕の頬に拳をゆっくりとめり込ませた。

 おかげでクラスメイトの爆笑を誘った。

 ちらりと螢に目を向けるとまたもや視線がぶつかった。彼女は自分の食事に視線を落として僕から目をそらした。

 いつの間にか螢の隣にはシリカが座っていた。反対側にはリズがいる。

 僕がコートニーの姿で、螢がジークの姿であったなら……。あの席で思う存分語り合いたい。

 螢はどう思っているだろうか。

「また、見てるな。もう、告白しちゃえよ!」

 大輔が僕の頬をつまんで引っ張った。

「余計なお世話だよ」

 僕は恥ずかしくなって席を立った。

「お。逃げるのか。待てぇ」

 大輔も立ち上がった。

「次の体育でお前を殺す」

 僕は振り向いて大輔を指差しながら冗談めかして言った。

「ふっ。お前が倒した大輔は四天王の中で最弱」

「情報屋の面汚しよ」

「お前らも情報屋だったのかよ! ってか、俺、もう倒されてる?」

 クラスメイトたちが僕の後を追いながら冗談を言い合っている。

 本当に楽しい連中だ。ソードアート・オンラインではまったく縁がなかった人たちだが、こうして友達になれたのはとても嬉しい。

 僕は笑いながら次の授業が行われる体育館に向かった。

 

 

 

 体育の授業はまず準備体操から始まり、パスとシュートの基本練習を行い、ミニゲームを行う事になった。

 今日の授業は体育館をネットで二つに分けて行われていた。

 ネットの向こうでは女子もバスケットの授業を行っていた。

 そちらを見るとミニゲームの真っ最中で螢が見事なジャンプシュートを決めていた。

 バスケットの事はさっぱりわからないが、彼女のシュートもドリブルもとても綺麗なフォームだと思った。

 ドリブルで走ると螢の長い髪が風に舞いとても美しく、いつまでも目で追ってしまう。

「おい、弘人」

 と、クラスメイトに肩を叩かれるまで螢をじっと見つめてしまっていた。「お楽しみの所わるいけど、始まるみたいだぜ」

「楽しんでない!」

 僕はそう言い捨てながらゲームスタートのジャンプボールのためセンターサークルに入った。相手チームからは大輔が出てきて僕の前に立った。

「弘人。覚悟しろよ」

 不敵な笑みで大輔が言った。

「そっちこそ」

 こちらもニヤリと笑って、腰を落として教師のボールトスを待った。

「ピッ」

 と、短い笛の音が鳴ってボールがトスされた。

 ボールはやや大輔側に飛んでいるようだ。懸命に手を伸ばしたがボールをコントロールできず相手チームにボールを奪われてしまった。

 バスケットボールの授業は今日で3回目だが、クラスには経験者がいないので全員が素人同然だ。そんなわけですぐに泥仕合になってしまった。

 僕自身もドリブルがまともにできない。螢はボールを見ずに華麗にコートを走り回っていたが、僕はボールを見ていないとボールがどこかに転がって行ってしまう。

 だが、パスとシュートには自信がある。これもソードアート・オンラインで2年間投擲を鍛えてきた成果であろう。どんな角度からでも3ポイントシュートを決める自信がある。

 その事はクラス全体の共通認識となったためか自然に僕にボールが集まってくるようになった。当然、相手チームとしては僕にパスを通させないようにするのが作戦となった。

 それにしてもバスケットとは激しいスポーツだ。殴り合いこそないが、体操着は引っ張られるし、ドリブル中はチャージされるしなかなか肉体的にハードだ。

「ほらほら。女子も見てるぞ! 気合入れろ!」

 教師が煽り立てる声をかけてきたのでただでさえヒートアップ気味の試合がさらに激しくなった。

「うおぉぉ! アスナさん! 見ててくださいっ!」

 なんていう声とそれを笑う声が聞こえた。

「ヘイ!」

 3人に囲まれている男子に向かって僕は手を挙げながらパスをもらうために走った。

 なんとか出されたパスはやや遠かった。しかし、走ればエンドライン直前で追いつけそうだ。

「とらせねーぞ! 弘人!」

 大輔が僕の身体を抑えながら行く手を阻んだ。

 僕は無理を承知で前に進む。もう少しでボールに届きそうなのだ。必死に手を伸ばした。

 僕の足が大輔の足と接触し、二人ともバランスを崩してしまった。

(やばっ!)

 エンドライン直前という事は体育館の壁も目前だ。このままでは二人とも壁に衝突してしまう。

 僕は必死に大輔を壁と反対方向に突き飛ばした。咄嗟の判断だった。これで大輔の受けるダメージが少なくなればいいと思った。

 次の瞬間、僕は壁に激突した。閉じた目に火花が散り、鼻の奥で血の臭いがした。

 僕はすぐに抱き起され柔らかい空間に包まれた。

「いてて」

 僕は呟きながら目を開けると目の前に螢の顔があったので驚きのあまり息を飲んだ。

 こんなに間近に螢を見た事はなかった。彼女の汗と石鹸の香りが鼻をくすぐった。

「あ……ありがとう」

 僕はすぐ近くにある螢に緊張してようやく言葉を紡ぐことができた。そして、無意識のうちに口が動いた。

 

(ごめんね。ジーク)

 

 なぜだろう。とても安らかな気持ちになった。長い間失っていたものを取り返したような気持ちになった。

 それをさらに確実にしたくて僕は手を螢に伸ばした。

 螢は僕の手を取ってくれた。優しい表情だった。

(ああ、帰ってきた)

 心が震え僕と螢の指が絡み合い手がしっかりとつながれようとした時、教師の声で僕は現実に引き戻された。

「大丈夫か! 勅使河原!」

「大丈夫です」

 僕は急に照れくさくなって螢の手を振り払って立ち上がった。

「保健室いくか?」

「大丈夫です」

 僕はぶつかった方の腕をぐるりと回してみせた。

「念のため。休んでろ」

「はい」

 僕は教師がコート外を指差したので頷いた。

 咄嗟に受け身を取っていたのだろう。激しい衝突の割にはそれほど痛くない。

 僕は再び肩を回しながら考えた。――僕は一人で何を盛り上がっていたのだろう。螢が僕の事をどう思っているのか分からないのに。

「いつまで呆けてるのよ」

 リズの声に振り向くと、リズが螢の肩を叩いて、彼女を立たせていた。

「ごめんごめん」

 そう言いながら螢はリズの後を追って、ネットをくぐって行った。

 螢は僕の事をどう考えているのだろう?

 わからない。でも、助けに来てくれた。僕の手を握ってくれた。優しい表情だった。

(早く、ちゃんと謝りたい)

 僕は休憩中のチームの隣に座りながら思った。けど、どうしたらいいのだろう。

(リズに頼んでみようか……)

 と、考えてみたが≪Dicey Cafe≫の出来事が頭をよぎった。

 僕はまだその事をリズに謝っていない。

 リズの性格から言って、翌日には舌鋒激しく僕を罵ってくると思っていたのに、彼女はなぜか何も言ってこなかった。僕はそのために謝るタイミングを逃していた……。いや、自分を飾るのはやめよう。完全に自分が悪い事なのにリズに謝る勇気が出なかったのだ。

 同じクラスにいるのにコーヒーカップを割った事も謝罪できない。本来謝るべきはエギルだという事も分かっている。しかし、その勇気もない。

 本当に僕は小さい男だ。こんな男をリズも螢も許してくれるのだろうか?

 僕はため息をついてネットの向こうを見た。

 螢がリズと佳織の肩を抱いてコートに向かっていた。

(螢に僕はふさわしくないかも知れない)

 螢の明るい笑顔を見つめながら、僕は悲しく考えた。

 

 

 

 体育の次の授業は理科だった。

 得意科目だけあってすんなりと頭に入ってきた。教科書代わりのタブレットを触って先のページをめくってみる。教師の説明を受けずとも先の内容も理解できそうだ。

 僕はタブレットからリズの後ろ姿に視線を移した。

 リズは真剣に教師の説明に耳を傾けて、正面の巨大モニターに映し出される解説をノートに書き写していた。

 次の休み時間。リズにちゃんと謝ろう。

 僕はそう決めた。

 これが第一歩だ。それから、螢と会えるようにリズに頼んでみよう。

 僕はどうしてこんなに消極的になってしまったのだろう。ソードアート・オンラインの中での僕――コートニーはあんなに輝いていたのに……。自由に明るく気ままに、そして全力で生きていた。

 もし、この世界がソードアート・オンラインで、僕がコートニーだったらどうしていただろう?

 きっと悪びれずにリズに謝っていただろうし、ジークに許してくれるまで抱きついて謝っていただろう。

 現実世界の息苦しさとゲームの中では女性だったことを隠さなければいけないという気持ちがいつの間にかコートニーから輝きを奪い、弘人という女々しい男にさせていた。

 僕はこの世界でももっと感情を出して生きてもいいかもしれない。

 

 理科の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。

 リズに謝ると決めていたのに、なかなか一歩が踏み出せなかった。リズの方を見ると何やらタブレットを操作していた。あの作業が終わったら声をかけよう。

 そう思った時、タブレットがメール着信音を鳴らした。と、同時にリズが「あー!」と大声を出して立ち上がった。

 メーラーを立ち上げようとタブレットをタッチしたところで、リズがこちらに視線を向けて歩み寄ってきた。

「弘人! そいつを貸して。間違えてメールを送っちゃった」

 リズは僕の前に立ってタブレットを指差した。

「あ、ああ」

 と、僕が了承するとリズはニッと笑ってタブレットを手にして操作を始めた。

「アンタさ……」

 メールを削除するだけにしてはやけに操作してるなと感じた時、リズが口を開いた。「伝言頼まれたんだけど、望月螢から」

「え!」

 ≪望月螢≫という名を聞いて僕は心臓が高鳴り呆然としてしまった。

 リズはそんな僕の耳元に顔を近づけた。僕の後ろの席の大輔に聞かれないように気をつかってくれたのかも知れない。

「話があるんだって。放課後、武道館奥の池に来て欲しいって」

 リズはそう囁いた後、タブレットを僕に返してきた。「アンタ、がんばんなさいよ!」

 リズはニコリとしながら手を振って自分の席に戻ろうと振り返った。

「篠崎さん!」

 僕はあわててリズを呼び止めた。振り向いたリズに僕は頭を下げた。「この間はごめん」

「うん。あたしは気にしてないわ。あたしより、エギルにちゃんと謝りなさいよ」

 リズはさわやかに笑って自分の席に戻って行った。

「お……お前。望月螢だけじゃなくって、篠崎さんも手籠めにしたのか!」

 後ろから大輔が僕の肩をがっしりと掴んできた。

「手籠めって、表現がおかしいだろ。分かってて使ってんのか」

 明らかにおかしい表現なのでツッコミをいれてやった。

「じゃあ、あれか、ハーレム系ヒーローポジションだな! 男女比率が最悪なこの学校で、なんでお前ばかりがモテるんだ!」

 大輔は僕の肩を掴んだまま前後に激しく揺さぶった。

「モテてない。モテてないだろ」

 だいたいリズはキリトに惚れているのだ。ハーレム系ヒーローポジションと言ったらキリトの方だろう。なにしろ、アスナ、リズ、シリカと3人の女性から思いを寄せられているのだから。

「という事で、弘人の人脈で俺に女の子を紹介してください」

 大輔はいきなり両手を合わせて僕を拝み倒した。

「結局、それかよ」

 大輔と笑みを交わした所で授業開始のチャイムが鳴った。次は得意科目の数学だ。そして、その後は……。

 ジーク――螢の話とはなんだろうか? 僕に対する詰問だろうか? それとも、僕と同じように和解を求めてきてくれるだろうか?

(でも結局、先を越されちゃったな)

 僕はため息をついた。僕から先にきっかけを作る事が出来なかった。

「じゃ、弘人。頼んだぜ」

「自分で努力しようぜ」

「そんなこと言うなよ。トモダチだろ」

「はいはい、トモダチ、トモダチ」

「そこで、流すなよ!」

 大輔が再び肩を掴んできたところで、教師が入ってきた。

「はじめるぞー。席につけー」

 教師は教壇に立って大型モニターのスイッチを入れ、教室内の生徒に声をかけた。

 おかげで僕は大輔との不毛なやり取りから解放された。

 

 

 

 授業終了のチャイムが待ち遠しい。授業時間のほとんどが時計を見つめる時間だった。

 デジタル表示の秒が時を刻むたびに螢と会う時間が迫ってくるのだ。どちらかというと不安の方が大きい。

 どういう事を螢が言ってくるか分からない。まず、螢に謝ろう。そして、ぶつかってみよう。もう一度、この世界でも友達になって欲しい。いや、ずっと一緒に……。

 だけど、螢はそれを望んでいないかも知れない。

 その考えが僕を不安にさせる。僕は頭をふってそれを追い払う。

 母が言うとおり、 僕は僕の気持ちを螢に伝えればいい。そこから先は考えても仕方がない。もしも、螢が僕を受け入れてくれなかった時は仕方がない。

 とにかくぶつかろう。謝ろう。

 こんな思考のループをずっと僕は授業中に繰り返していた。

 だが、それももうすぐ終わりだ。この50という数が60になれば時が訪れる。

 心の中で思わずカウントダウンをしてしまう。

(4……3……2……1……)

 ようやく「ゴーン、ゴーン」と第1層のチャペルの鐘の音で授業終了の知らせが鳴った。

 教師が後片付けをして教室を去り、弛緩した空気が流れた。

(行くのが怖い……)

 荷物をバックに詰め込んだのに席を立つ事ができない。

 女々しい。いや、僕が女の子だった時の方がもっと積極的だった。もっと明るかった。もっと勇気があった。

 僕は奥歯をかみしめて席を立った。

 リズが笑顔でこちらを見ている。僕は彼女に頷いて教室を出て、走りだした。

 

 校舎脇の新緑の屋根をくぐり、レンガの小道を抜けると武道館奥の池が見えてきた。

 ベンチに螢が座っている。その姿を見て、僕は血盟騎士団の初代ギルドハウスの裏庭の池を思い出した。

 もし、あの時のように螢に拒絶されたら、僕はそれに耐えられるだろうか? 全力で走っていた足がその思いで回転が鈍った。

 駆け寄る足音に気づいて、螢は立ち上がってこちらに振り向いた。

 風が螢の長い髪を美しく揺らした。僕はその姿に見とれならがスピードを緩め、彼女の前で止まった。もっと近くで立ち止まればよかっただろうか。お互いが手を伸ばさなければふれあえない距離だった。

 僕はその距離で螢の顔を見つめた。

 そして、僕は呟くように確認した。

「ジーク……だよね」

 僕の問いかけに螢は少し視線を鋭くした。

「コーなんだよね?」

 螢の確認の言葉に僕は頷いた。

 ジークなのに声が全然違う。当たり前で分かっていた事なのにとても意外で新鮮だった。

 僕は改めて螢の顔を見つめた。

 大きめの目はややつり目で彼女の強い心を感じた。厚めの唇、高めの鼻……。アスナのような息を飲む美しさはまったくない。コートニーのように守ってあげたくなるような美少女でもない。

 けれども、僕は螢が好きだ。世界の誰よりも大好きだ。

 螢は何を語るのだろう? 僕は彼女の顔を見つめながら待った。

 しかし、一向に螢は黙って僕を見つめるだけだ。

「えっと……」

 僕は意を決してこちらから口火を切る事にした。

「うん」

 螢は僕の言葉に相槌をうったが、まったく話が進みそうにない。

「僕に何の用かな?」

 僕は慎重に尋ねた。

「え? 何を言ってるの? 会いたいってメールを送ってきたのはあなたの方でしょ?」

 僕の言葉に螢は目を丸くして反問してきた。

「メール? 僕は送ってないよ」

 おかしい。なんか噛み合ってない。

「嘘!」

 螢が鋭い声を上げたので、僕は左手を上げてそれを止めた。

「ちょっと待って。僕はリズから伝言を貰ったんだ。『望月螢が話があるらしいから武道館奥の池に行ってほしい』って」

「私はそんな事言ってない」

 螢は首を振って全力で否定した。

 僕の頭にリズの笑顔が浮かんできた。前の休み時間に僕のタブレットを操作していた。

 推測だが、僕に螢を呼び出すメールを送ってから「メールを削除するから」と言いながらメールを螢に転送したのだろう。転送の履歴を消してしまえばあたかも僕が螢に直接メールを送ったように偽装できるだろう。

「リズの差し金か」

「リズベットさんの仕業か」

 同時に僕たちは呟いてお互いを見合って笑った。

 本当にリズらしいおせっかいだった。だけど、ありがたい。僕はそれに乗っかる事にした。

「ごめんなさい!」

 僕は笑顔を改め、螢に頭を下げた。「ずっと僕はジークを騙してきた。ずっと、ずっと。本当にごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 騙してきた事は何度謝っても申し訳ない気持ちでいっぱいだ。2年もの間、僕は自分の都合のために彼女を騙してきたのだ。

 でも、ここからやりなおしたい。この現実世界で僕はもう一度……。

「こんな事言って、迷惑かも知れないけど……」

 僕は顔をあげて螢に語りかけた。

 螢は呆然としていた。僕を見ているのに見ていない。そんな感じだった。

 螢が一歩足を進めた。

 これは、前にもあった……。

 僕は同じ歩幅で一歩後ろに逃げた。

 次の瞬間、螢が歩みを速めて僕を抱きしめてきた。

「ちょっと」

 僕は身をよじらせて身体を引き離し、螢を落ち着かせようとしたが信じられない力で腕をねじ伏せられて唇を奪われた。

 ジークに抱きしめられた時と違って、螢の身体はとても柔らかかった。女の子らしい甘い香りもする。

 だけど、こんな無茶な行動は本当にジークらしい。

 僕は目を閉じた。

 すべてが巻き戻されていく感じがして、僕は全身の力を抜いて身体を螢に預けた。

 僕をねじ伏せていた螢の手がほどかれ、僕の背中や腰を支えた。

 目を閉じている今は何もかもあの頃のようだ。

 唇を重ねている時の首の角度も、僕の背中や腰に回されている手の位置も……。

(帰ってこれた。この優しい空間に……)

 懐かしい気持ちと喜びに胸が締め付けられて、僕の目に涙があふれてきた。

 どれくらいの時間が流れただろう。頭も身体も熱っぽくて訳が分からない。

 ようやく、螢が唇を解放した。

「もう……。いつも不意打ち」

 僕は柔らかい声で抗議した。怒っているわけじゃない。むしろ逆。

 こんな風に襲ってくるのは3回目? いや、もっとあったような気がする。

「ごめん、コー。私もずっと騙してきた。ごめんなさい」

 螢は目を伏せて謝罪した後、僕をじっと見つめてきた。「こんな私だけれど、コーと前と同じように一緒にいたい。ずっと、ずっと!」

「ジーク。それはだめだよ」

 僕は小さく首を振った。

 僕たちはソードアート・オンラインにいた時と比べて何もかも違っている。前と同じようになんてできるはずはない。コートニーとジークリードとして関係を始めてもいつか狂いが出てきてしまうような気がする。

 僕の言葉に螢は呆然としている。

 その時、強い風が吹いて木々が騒いだ。

 螢の髪が風に揺れてとても美しく、僕は彼女に見とれてしまった。

「コー。どういう事?」

 風がおさまってしばらく経った時、不安げな声で螢が尋ねてきた。

「あ。ごめん。見とれてた」

「もう」

 螢は照れくさいのか、耳まで赤く染めて視線をそらして言葉を継いだ。「『だめ』ってどういうこと?」

「僕とジークは何もかも違っちゃったと思わない? 体も顔も……」

「うん。けど、私は――!」

「待って。ジーク。先に言わせて」

 僕は螢の言葉を制してから、息を大きく吸った。僕の想いを男の子として最初に言わなくちゃいけない。「僕――勅使河原弘人は望月螢さんが好きです。あの頃と全然違う顔、姿だけど、この世界で一からお付き合いしてもらえませんか?」

 思ったより声が出ず、囁き声に近い音量になってしまった。けれど、螢にはちゃんと聞こえたはずだ。

「私、弘人君の顔とかあまり好きじゃない」

 その言葉に僕の心に一瞬、亀裂が走った。しかし、螢の優しい笑顔がすぐにそれを癒してくれた。「だけど、私はコーが好き。大好き。愛してる。――こんな私でよかったら、お付き合いしてください」

「うん」

 僕は螢の首に腕を回した。「この世界でもよろしく」

「うん」

 螢の頬に一筋の涙が流れた。「これからできるだけ、一緒にいよう」

「ゴーン、ゴーン」

 と、4時を知らせる学校のチャイムが鳴った。

「隠し事ないよね?」

 僕はチャイムの音で第26層の鐘楼での出来事を思い出しながら冗談めかして尋ねた。

 あの時はお互いに自分の性別を隠した状態で『一緒にいよう!』と誓い合ったのだ。

「もちろん! なんにもない!」

 螢もすぐに同じ事を思い出したらしくにっこりと微笑んで答えた。

「――じゃあ。キスしようぜ」

「もう、そうまっすぐ言われると恥ずかしいよ」

 螢はそう言いながら安らかな表情で目を閉じた。

「強引なキスよりいいでしょ?」

 僕の言葉に反論しようとした螢の唇に僕は柔らかく唇を重ねた。

 優しく、何度も、確かめるように。

 そして、ソードアート・オンラインの時のように舌をからませ、情熱的な――。

「あなたたち! 何をやってるの!」

 その金切り声に僕と螢はあわてて離れると、その方向に視線を向けた。

 そこにいたのは眼鏡をかけた中年女性がこちらに駆け寄って来ていた。あの教師の姿を学年の学級委員長会議で僕は見たことがある。確か生活指導、風紀委員の指導教師だ。これはまずい。

「螢……」

 僕はそっと螢の左手を取った。「ダッシュ!」

「え?」

「待ちなさい!」

 という女教師の声を置き去りにして僕たちは走った。

 小道を抜け、校門へつながるレンガ道を僕は螢の左手を握って走った。

 校門の手前で松葉杖をついているアスナとその隣を歩いているリズを見つけた。

「リズ。ありがとう! アスナ。生きててよかった!」

 僕はそう声をかけながら二人の横を駆け抜けた。

 リズの笑顔とアスナの不思議そうな顔が僕に向けられた。

 僕はすべてを取り戻したような気がした。

 こうして手をつないで走っていると、身体は全然違うけれどまるでソードアート・オンラインの中みたいだ。

 僕は振り向いて螢に声をかけた。

「螢。いっぱい、いっぱい、お話ししよう!」

「うん!」

 僕の言葉に螢は僕の右手をしっかり握り返しながら答えてくれた。

 この手はもう絶対離さない。僕たちの2度目の最初のボタンがしっかりとかけられた。

 

 

 

 「そろそろ、来るかな。みんな、準備はいい?」

 明るいリズの声が≪Dicey Cafe≫に響いた。

「おう!」

「OK!」

「大丈夫です」

 それぞれの声でリズに答えた。みんなの手にはクラッカーが握られ、机の上には飲み物がすぐに飲める状態で準備されている。

 今日は≪アインクラッド攻略記念パーティー≫だ。キリトには午後6時と伝えてあるが、実は30分ほど前から集まっていて準備をしていたのだ。

 今は5時50分ぐらいだが、アスナが一緒なのだ。きっと約束の時間の5分前までには来るだろう。

「カラン」と鐘の音がしてドアが開いて、制服姿のキリトが呆然とした顔をのぞかせた。後ろではアスナともう一人見たことがない女の子が中を覗き込んでいた。

「……おいおい。俺たち遅刻はしてないぞ」

 そう言うキリトにリズが駆け寄った。

「主役は最後に登場するものですからね。ちょっと遅い時間を言ったのよ。さ、こっち、こっち!」

 リズはキリトを奥の小さなステージに連れて行った。

 ライトが絞られ、キリトを明るく照らし出した。

「では、みなさん。ご唱和ください! せーのぉ!」

 リズはマイクを全員に向けた。

「キリト。SAOクリア、おめでとうー!」

 打ち合わせ通りの掛け声が響き渡り、クラッカーが鳴らされ、全員の拍手が鳴り響いた。

「かんぱーい!」

 リズがコップを高らかに掲げて叫んだ。

 やっぱり、リズはこういうのが得意なんだなーと僕は再認識した。

「乾杯!」

 乾杯の後、リズに無茶ぶりされてキリトが挨拶の言葉を述べた。見るからにいっぱいいっぱいの姿に思わず微笑んでしまう。

 しどろもどろのキリトの挨拶が終わると全員の簡単な自己紹介をするためにマイクがバトンのように回された。

 僕は中層ゾーンの壁戦士≪シベリウス≫と名乗り、螢も中層ゾーンの壁戦士≪クリームヒルダ≫と名乗った。

 店内に第50層≪アルゲード≫のテーマ音楽がBGMとして大音量で流れ始めた。

 このパーティーのメンバーを見渡してみると、まったく面識のない人もいたが、ほとんどは攻略組として顔を合わせた人たちだった。こうしていると、ソードアート・オンラインの世界に戻ってきたような気がする。

「ねぇ」

 僕は螢の左腕を取って言った。

「なに?」

「こんな機会はもうないだろうから、みんなにお礼を言ってくる」

「じゃ、私も一緒に」

 螢は微笑みながら頷いてくれたので、僕は彼女の腕を引っ張りながら歩き始めた。

 

 まず、一番近くにいたテンキュウに声をかけた。

「テンキュウさん」

 僕の呼びかけにテンキュウは振り返って僕の顔を不思議そうに見つめた。

 こういう不思議そうな顔で見られることに僕はすっかり慣れた。この姿をいくらソードアート・オンラインの中で出会った人物と突き合わせても思い出せるはずはない。

「えーっと、シベリウスさん、でしたっけ?」

 テンキュウはあの頃と同じ赤いバンダナを頭に巻いていた。彼と日本戦国史について語り合ったのがとても懐かしい。

「ゲームの中では色々とお世話になりました」

 僕は頭を下げた。

「いえいえ」

 テンキュウの顔は「え?」という驚きの表情でどう答えたらよいか迷っているようだった。

「戦国時代のお話とかとても楽しかったし、護衛もしてもらったことがありました。お忘れだと思いますが、ありがとうございました」

 僕はそう言って、右手を差し出して握手を求めた。

「……」

 テンキュウは戸惑いながら無言で僕の握手に応えて、僕の顔を見つめていた。きっと、頭の中では記憶の引き出しを開けまくって大混乱している事だろう。

「私からも」

 螢が微笑みながらテンキュウに話しかけた。「ソードアート・オンラインの中で、テンキュウさんはとても心強い存在でした」

「申し訳ない。俺、あなた方を思い出せないんですけど」

「いいんです! 思い出されちゃったら恥ずかしいから」

 僕はにっこりと笑って頭を下げた。「じゃあ、また、機会があったら会いましょう」

 僕と螢は手を振ってテンキュウから離れ、カウンターに向かった。

 

 エギルは特製の巨大ピザを会場に分け終えて、カウンターで一息ついていた。

 カウンターのハイスツールにはキリト、クライン、シンカーが腰かけていた。

「キリトさん。ソードアート・オンラインではありがとうございました」

 最初に声をかけたのは螢だった。

「え?」

 当惑の表情でキリトは螢を見つめた。

「覚えていらっしゃらないでしょうけど、私、キリトさんに命を助けられたことがあるんです」

 螢は微笑んで頭を下げた。「本当にありがとうございます」

 そうだ、あれは確か第25層のボス戦の事だ。凶暴化したボスにジークは片腕を失い、危うく死ぬところだった。そんなジークをキリトは守ってくれたのだ。

「てめーキリトぉ! お前ってやつはどんだけ女の子を口説いてたんだよ!」

 クラインがニヤリと口をゆがませながらキリトの肩を叩いた。

「口説いたわけじゃない!」

 キリトはクラインの手を振り払いながら鋭い視線で螢の顔を見つめた。

「おーい! キリト! こっちこーい!」

 その時、リズが大声で手を振り回しながらキリトを呼んだ。

「エギル、あいつ、酔ってないか?」

 キリトはリズの妙なハイテンションに疑問を持ったのだろう。そう、エギルに尋ねた。

「1%以下だから大丈夫さ。明日は休みだしな」

 エギルは悪びれない笑顔で答えた。

「おいおい……」

 キリトはあきれながら席を立った。

 そんなやり取りを見て僕と螢は顔を見合わせて笑った。本当にここはアインクラッドの世界と何も変わっていない。

「エギルさん。ソードアート・オンラインの中ではごめんなさい」

 エギルとクラインの会話が途切れたところで僕はエギルに頭を下げて謝罪した。

「ん?」

 エギルは訳が分からないという表情で僕を見た。

「えっと、僕、転売されたのを根に持って、あの世界でエギルさんが嫌いでずっと無視してたから。ごめんなさい」

 エギルがその儲けのほとんどを中層ゾーンの育成につぎ込んでいた事を僕はつい最近リズから教えてもらった。本当ならコートニーの姿でちゃんと謝るべきだろうが、今は仕方がない。

「へへっ。ホント、アコギな商売してやがったからなあ」

 クラインが頬杖をついてエギルをからかった。

「うるせー。これでも中層ゾーンの連中からは神のように崇められてたんだ」

 エギルはクラインに向かって鼻を鳴らした後、僕の顔を見てニヤリと笑った。「まあ、誤解がとけたんならよかったぜ。これからもこの店をひいきにしてくれよ。後ろのお姉ちゃんとのデートコースに必ず組み込んでくれよな!」

「はい!」

 僕と螢は声を重ねてエギルに答えた。

「おっと、照れて否定すると思ったぜ」

 エギルは少し驚いた後、僕に拳を向けてきた。「これからもよろしくな。兄ちゃん!」

「はい」

 僕は笑顔でその拳に応えて、ごつんとぶつけ合った。

「クラインさん」

 次に僕は背広姿で酒をあおっているクラインに視線を向けた。「僕の命を助けてくれてありがとう」

「お、おう? 俺?」

 クラインは驚きのあまりむせこんだ。

「私からもお礼を言わせてください。クラインさんがコ……彼の命を助けてくれたおかげで私たちはこの現実世界でも一緒にいれるんですから。本当にありがとうございます」

 螢が『コー』と口走りそうになったので僕は肘でツッコミをいれた。

 クラインがあの時、≪還魂の聖晶石≫を使ってくれなければ、僕はここにいれなかった。本当に命の恩人だ。

「お、おう。まあ、そう言ってくれて嬉しいぜ。まあ、現実世界も厳しい所があるけどな。苦労したまえ、若者よ」

 カッコよく決めたつもりであろうか。しかし、そう言うクラインの視線が螢の胸元に釘づけにされている。こういう所がなければ、もっと女性にモテると思うのに……。僕は心の中でため息をついた。

 螢はさりげなく両手を組むように胸を隠すと身を翻して、シンカーの方を向いて声をかけた。

「シンカーさん。ユリエールさん。ご結婚、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 シンカーとユリエールは微笑みながら螢に答えた。

「シンカーさん、ユリエールさん。第25層のボス攻略戦の後、ギルドを離れてすみませんでした」

 僕はシンカーにそう言って頭を下げた。

「あ、ああ。あの時はたくさんの攻略組の皆さんを失望させてしまいました。謝らなければいけないのは私の方です」

 シンカーは穏やかな表情で僕に頭を下げた。「いろいろありましたが、こうして現実に戻ってこれたのですからこれからもよろしくお願いします」

「いえいえ。こちらこそ」

 そんなシンカーを見て、クラインと違ってとても大人だなと僕は思った。

 僕と螢はシンカーと握手を交わしてカウンターから離れた。

 

 アスナの周りにはリズとキリトがいた。3人の会話が途切れるタイミングを計って、僕はアスナに声をかけた。

「アスナ……さん」

 僕は呼び捨てを辛うじてさけて言葉を継いだ。「アインクラッドではありがとう」

「え?」

 不思議そうにアスナは僕を見つめた。

「アンタねえ。アスナにはこのキリトがいるのよ! こんちくしょー!」

 泥酔寸前のリズが僕に絡んできた。何が「こんちくしょー!」なのか……。まあ、分かる気がする。

「知ってるよ。リズ」

 僕はクスリと笑って、改めてアスナに視線を向けた。「僕にとって、アスナ……さんは憧れだった。ずっと、目標で、そこにいてくれたから頑張れた。ありがとう」

「そうそう、憧れてて髪の色まで変えたよね」

 と、螢がクスクスと笑った。

「余計な事、言わないでよ!」

 僕はあわてて螢に肘打ちして、彼女を引きずるようにその場から離れた。

 照れくさいのもあったけれど、なによりも他人を見るようなアスナの表情に耐えられなかったからだ。

 あの世界――アインクラッドで、僕はアスナを目標にしていた。親友と呼んでいい存在だった。できる事ならもう一度あの関係に戻りたい。

 けれど、もうそういう関係には戻れないだろう。

 

 僕はその後、螢と一緒にボックス席に座って、エギル特製の巨大ピザに舌鼓をうった。

「ねえ。弘人。もっとアスナと話さないの?」

 右隣から僕の顔を覗き込むように螢が話しかけてきた。

「うん……」

 僕はアスナの方に視線を向けると、彼女と視線がぶつかった。

 アスナは僕の視線に気づいて完璧な笑顔を返してくれた。だけど、その完璧な笑顔はソードアート・オンラインの時に向けてくれた笑顔とは全然違う。外向けの完璧な笑顔なのだ。

 ソードアート・オンラインの時の彼女の笑顔はとても優しく、慈愛に満ちて心の底からとろけてしまうものだった。

「これ以上、話し合ったら僕、アスナに抱きついちゃうかもよ?」

 僕はいたずらっぽく笑って螢の左肩に頭を預けた。「僕は螢がいればいい」

「うん。――私も」

 螢の手が優しく僕の左肩に回されて、抱き寄せられた。

「螢。見られてるよ」

 僕は囁くように抗議の声を上げた。

 アスナやその周りにいるキリト、エギル、クライン、リズ、シリカ、シンカー、ユリエール、直葉の視線が一斉にこちらに向けられたのだ。

「いいよ」

「そういう所、男の子みたいだよね。そういう所、好きだけどさ」

「恥ずかしがる所は女の子みたいだね。そういう所、好きよ」

 僕と螢は顔を見合わせて笑った。

 僕は再び、アスナに視線を向けた。

 アスナは周りの人たちと話し合っていた。きっと、今日の2次会について話し合っているのだろう。僕と螢は親の了解がもらえなくて、アミュスフィアを購入できていない。もし、購入できたとしても新たな悩みが発生する。

 みんなの話によると、ソードアート・オンラインのデータがアルヴヘイム・オンラインにほぼ完全な形で移行されたとの事だ。つまり、アミュスフィアを手に入れた時、僕は二つの選択肢を迫られるのだ。

 新たにキャラクターを作り直すか、コートニーのデータを引き継ぐか……。

 再びコートニーに戻ってあの世界を駆ける。とても魅力的だ。でも、それでいいのだろうか?

 僕は頭をふってその考えを放り出した。まだ、アミュスフィアを手に入れるめどすら立っていないのだ。先回りをして悩むのはやめよう。

 僕はアスナ達、一人一人をみつめながら神様に祈った。

 あんなデスゲームから解放されたのだ。みんな、みんな、幸せに。

 これからも、ずっと、ずっと――!

 そして、僕は螢の大きく吸い込まれそうな瞳を見つめた後、耳元で囁いた。

「これから、ずっと一緒に幸せになろうね。ジーク」

「うん。何があってもずっと一緒だよ。コー」

 螢も優しく僕の耳元で囁いてくれた。触れ合う頬がとても温かかった。

 ずっと流れていたアルゲード街のBGMが途切れた。MP3の繰り返し再生をしているため、どうしても先頭に戻る時に一瞬途切れるのだ。なぜか話し合う店のざわめきも一瞬おさまった。

 その一瞬の静寂に包まれた店内にアスナの叫び声が響いた。

「あーーーーっ!」

 アスナは立ち上がって叫んでいた。その声に全員の視線がアスナに集まった。

 そして照れくさそうに手で口元を抑え、耳まで赤く染めて席に座った。

 アスナが僕に視線を向けて微笑んできた。

 とても慈愛にあふれた笑顔。僕はあの頃――コートニーに戻れたような気がした。

(アスナ、キリト君と幸せになってね)

 僕も昔のようにアスナに微笑み返した。

 




最終話です。長い間、つたない文章にお付き合いいただきありがとうございました。
次に番外編1本。R18の真エンドを1本予定していますが。あっけないとおもわれるでしょうけど、とりあえず、これで本編終了です。


*****今回の話について*****
それにしても、結局、最後まで弘人(コートニー)の女性っぽさが抜けきらなかったですね。一方の螢(ジークリード)の漢っぷり惚れますわw
現実世界の螢さんのイメージは「マリア様がみてる」の細川可南子嬢の巨乳バージョンです。
ある意味、コートニー並みに目立ちそうな存在ですね。

ラストシーンのアスナさんの「あーーーーーっ!」は次の番外編で明らかにするつもりです。


*****ALO、GGOはあるの?*****
たまにお尋ねがあるので……。
答えは「ない」です。
今のところ、アリシとかGGOとかにオリ主二人をからめる展開をまったく思いつきません。
けど、いつかおもいついたら、アップするかもしれません。その時はよろしくお願いします。


*****皆様への御礼*****
感想を寄せて頂いた皆様へ多大な感謝を!
そして、評価をくださった皆様、お気に入りに登録してくださった皆様、ありがとうございます。
そして、読んでくださった皆様。ありがとう。
とても励みになりました。

一応最終話なので、エタる心配がなくなりました。どんどん評価、晒してやってください。


R18の真エンドが一番の難関なんだぜ(吐血)
それまで、お付き合いいただければ幸いです。

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