かなり長い話となっております。いつもの倍程の内容となってます。
東久邇宮内閣辞職後、立場を引き継ぐ形でGHQの勅令(許可)によって第4次近衛文麿内閣成立。しかし、57日後に戦犯指名により逮捕命令が出たため辞任。彼の残した日記には敗戦国の立場の弱さからまともな裁判が行われるとは思えないという心境を記していながらも、当時の新聞では戦勝国側に正面から反論を行った近衛文麿元首相が一面に載った。狼狽える戦勝国の姿も記録されており、東京裁判が不当であったことや日本側の正当性を示す資料となった。
第4次近衛文麿内閣ではGHQ追従政策を行っていたことで荒れた国内を正すために再び東久邇宮内閣が擁立。43代44代に続いて近衛兼真は外務大臣及び内務大臣を兼任で入閣。東久邇宮総理は国務大臣を兼任。1596日間総理を務めた頃に皇族による政治によって天皇の権力が上がることを危惧したGHQによって総辞職。
選挙にて近衛兼真が就任。稔彦王在任中に成立した東政立憲党の総裁。東久邇宮総理は就任後に東政党の総裁になっている。兼真が成立。稔彦王が初代総裁として就任。在任中に無所属→東政党の流れである。近衛兼真総理は国務大臣を兼任。東久邇宮稔彦王は外務大臣及び内務大臣として入閣。しかし、野党に稔彦王について迫られたため解散(皇族参政解散)。
137日という短期だったが、総裁選では再び勝利し総理大臣に就任。衆議院選挙では東政党は6割近くを占めた勝利となった。閣僚は稔彦王が国務大臣、外務大臣に村上
総裁選にて佐々木恵美が勝利し総理大臣に就任(女性の総理大臣)。外交に力を注ぎ、サンフランシスコ平和条約に調印。警察予備隊(今の自衛隊)を発足し、国営強化を花道に辞任(任期満了)。854日間就任し、反対派も少なく初の女性内閣総理大臣としていい滑り出しだった。
その後は自由党、吉田茂が一時政権を握るも造船疑獄によって辞職に追い込まれる。328日という短期政権でだった。
次は衆議院の多くを占めていた東政党の村上正明(讃の夫)に政権が移った。しかし、就任時の演説にて失言し、わずか14日で解散することとなる(神の子孫解散)。その後消息不明となり、政界にも何処にも姿を現さなかった。
再び近衛兼真が総裁選に利候補するが、今までのタイミングを顧みない盲信的な行動があって敗北。二条
その後の総選挙では近衛兼真が当選。外交政策と同じくらい女性の立場向上、国民の生活環境向上に務めた。しかし、自社との互い違いが発生したため共同声明撤廃。解散(大義名分解散)に追い込まれることとなるが、国民からの支持により東政党の大勝利となり、再び総理大臣に就任。男女平等待遇法や女性権利保護法、男系天皇推奨法などを制定。男女の差をなくし、間接的に男系の女性天皇を認める法を施行した。同時に消費税の導入を検討。支持率が20%を切る事態に陥るが、消費税を給付金や施設建築に使うことやデフレ時の減税政策同日施行することを在職中に公表し解散
(消費税解散)。
選挙戦は最終日の演説に加えて、消費税導入による予想されるお金の流れを発表。政治学の教授や歴史研究の教授の話も聞いてまとめた『英霊たちが守った日本が進む未来』を発売。その甲斐があり選挙に当選。総裁選でも再び当選した。消費税3%を導入し、消費税減税法や主権者要請制減税法、給付金制度を充実させた(1958年くらい)。同時にソ連との国交正常化を行い国連に加盟した(1957年くらいで第3次の時)。
しかし、近代史最大のミステリーとされている日英王族同時襲撃事件と昭和国家転覆事変が起きた。日英王族同時襲撃事件ではイギリスへ訪問していた天皇陛下とエリザベス女王が謎の光線や炎、雷といったものが放たれたと思われる事件だ。容疑者としては20名の日本人と3名のドイツ人とイギリス人となった。もう一つはこの頃の議長暗殺と首相官邸での爆発音と落雷、国会議事堂の爆発音などが起こった。これにより近衛兼真は総辞職することとなった。
「私は戦後から他国と馴染めるように、日本がいち早く戦後復帰を果たし他国と平等になるように、国民の安心を保障できるように努力してきました。第1次東久邇宮内閣から第4次近衛文麿、第2次東久邇宮内閣に佐々木内閣まで裏で取り仕切り、二条内閣では同格の立場として13年近く日本を支えてきました。日本は世界に馴染むために我慢するしかないのです。世界に神はいないのです。日本は我慢し、適応するしかないのです。日本人の暴走、これは私の考えが足りなかったのです。故に私は総理大臣を辞任することといました。」
在職日数276+322+416日=1014日(通算1701日)となった。33歳から政界に入り、初入閣から始まり、37歳で内閣総理大臣に就任。51歳にて総辞職、一般政治家と同じ立場になるという後世でも異例の出来事となった。
その後東政党は衰退の動きを見せ、吉田内閣に入閣していた岸信介が就任し自民党に政権が移る。池田内閣が3代、佐藤内閣も3代に続き第1次田中角榮内閣にて自東合体を打ち出し自由東政党となる。第2次田中角榮内閣が自東党総裁となる。しかし、お金関係の問題にて辞任。
どの派閥から総裁を選出するかにて政治に深く関わることを避けていた近衛派(俗に言う火曜クラブ。兄の文麿が火曜会に所属していたことから呼ばれるようになった)から
後任として
その後は中曽根裁定にて、竹下登が就任しリクルート事件にて辞任。宇野宗佑が女性スキャンダルにて辞任するという汚職が続いたところで近衛兼真が声をあげた。
80歳にて再び総理大臣に就任することとなった。高齢を気にする声が多く出たが、「昔と違って経験豊富だからこそ頼りになるんじゃないか?」とコメントした。
就任後は5%になった消費税の3%への減税政策をおこなった。しかし、東政党派閥と自民党派閥をほぼ等しく入閣させたこともあり、内閣での方針も定まらなかったため、近いうちに参議院選挙があるため突如として解散(お花見解散、地方活性化のために早咲き桜を見に来ていた時に報道陣に解散を予定していると発言したため)を宣言。
減税を考案中のことが大々的に発表された時期だったこともあり元東政党メンバーの多くが当選することとなった。
再び総理大臣に就任し、PKO法を考案し1990年12月2〜4日に東京サミットを開催、3日後にPKO法を施行した段階で解散(様子見解散)。
再び就任し、安定した長期政権を確立。任期満了にて辞任かと思われたが再び当選したことで任期が一年延長。任期満了後も再び当選したことで与党の総裁と総理大臣が違うという事態が発生。総裁を廃して兼真が再び総裁となる異例の事態となった。
天総会談(天皇と総理の話し合い)を行った後の帰りに飲酒運転車両と衝突した衝撃でガソリンスタンドに衝突。死体は発見されなかったが、焼死したものと判断された。戦後初めて就任中に死亡した総理大臣となった。在職期間103+685+876日=1676日(通算3377日)となった。
後任には柏原寛二郎が再び就任し、今後も元東政党メンバーが多く就任したことで、元自民党派閥は衰退することとなった。
戦後の歴代総理大臣
43:東久邇宮稔彦王、44:近衛文麿、45:東久邇宮稔彦王、46:近衛兼真、47:近衛兼真、48:佐々木恵美、49:吉田茂、50:村上正明、51:二条護麿、52:二条護麿、53:近衛兼真、54:近衛兼真、55:近衛兼真、56:岸信介、57:池田勇人、58:池田勇人、59:池田勇人、60:佐藤榮作、61:佐藤榮作、62:佐藤榮作、63:田中角榮、64:田中角榮、65:柏原寛二郎、66:大平正芳、67:大平正芳、68:鈴木善幸、69:中曽根康弘、70:中曽根康弘、71:中曽根康弘、72:竹下登、73:宇野宗佑、74:近衛兼真、75:近衛兼真、76:近衛兼真、77:柏原寛二郎、78:・・・・・・