吉良吉影はトレーナーとして静かに暮らしたい 作:ボンゴレパスタ
ーー朝の目覚めと共に一日が始まる。
冬の寒さが通り過ぎ、暖かさが少しずつ顔を出し始める4月
7時きっかりに起床しベッドから起き上がると、洗面所へ真っすぐ向かい、身支度を整える。
「――おはよう。今日もいい朝だね」
身支度を整えた吉良は、テーブルに朝食を次々と並べていく。
「今日はホットケーキを作ってみたんだ――そういえば君と初めて会った時も君は駅前の喫茶店でホットケーキを食べていたね…」
――手を取り、その甲に接吻を交わす。
「確か…早妃さんだったかな?本当に君は美しい手をした女性だ…」
吉良は彼女の手――正確に言えば手だけになった彼女を見つめてこれ以上にないほど幸せそうに微笑んだ。
吉良は2か月ほど前から女性――基、手の綺麗な女性の狩りを再開していた。
川尻浩作に成り代わってから大分周囲との生活に溶け込んだこと、そして年月が経っても一向に承太郎や仗助たちの追手がやってこないことから、完全に自身の手がかりを失い、また掴めていないこと…これらのことから細心の注意を払って獲物を選定すれば問題にならないとして吉良は久しぶりの彼女との生活を謳歌していた。
――しかしながら川尻浩作に成り代わってから必死に押さえつけていた「人を殺さずにはいられない」という生まれながらの衝動。ずっと押さえつけられていたゴムまりが、放した拍子に高く飛び跳ねるように、その反動からか狩りを再開してからの吉良の彼女は現在で3人目に登っていた。
「――さあ、一緒に仕事を行きたいところなんだが…ウマ娘たちは鼻が利くというからね…連れてはいけないんだ…」
手をクローゼットに持っていき、戸を開けると中では植木鉢に猫草が眠っていた。
朝の光がクローゼットの中に差し込み、猫草が目を覚ますことがないように注意しながら手をクローゼットの中の箱にしまい込むと、吉良は部屋を後にした。
――猫草はその後も成長を続けており、光を浴びると目を覚ます。
基本的に猫草は吉良に対して絶対服従であり、害を加えるようなことはしないのだが、朝の寝起きが極めて悪く、この間迂闊に餌を与えようとしたら条件反射で攻撃を受けてしまったことがあった。それ以降は基本的に日の光に当たらせないように細心の注意を払いながらクローゼットの中で飼育している。
――何て清々しい朝なんだ。
この吉良吉影、最近ようやく運が向いてきた気がする。
――だからこそ、何としても守り抜く。私の日常を。私だけの平穏をーー
――お兄様はなんだか最近機嫌がいい
春の天皇賞まで残り僅かとなり、最後の調整を吉良の指導の下行いながら、ライスシャワーは吉良の方を見つめた。
思えば2か月くらい前だろうか…人前ではほとんど表情を表に出すことがない吉良だが、ライスは吉良の機微を敏感に感じ取っていた。
それに、お兄様から何か臭いがする…ほとんど分からないが、いつものお兄様の匂いの奥から湧き出てくるような、何か嫌な臭い…何か顔をそむけたくなるような、そんな臭い…
他のウマ娘には決してわからない、気づかないことだろうが、吉良のことを四六時中想い続けているライスだからこそ感じる僅かな変化に、彼女自身戸惑っていた。
「…お兄様、終わったよ…」
「あぁ、ライス…完璧だ。この調子なら天皇賞、勝てるかもしれないな」
――気のせいだ
いつも通りのお兄様だ…お兄様はいつだって優しいし、ライスのことを考えてくれてくれてる。
「3連覇がかかってるマックイーンさん…ライスが勝てるのかな…」
「…問題ない。自分で言うのもなんだが、ライスのトレーニングはとても厳しく課してきたつもりだーーそれこそ同僚に心配されるほどにな…だが、それにライスはしっかりついてきた…君の身体は今、至高の領域に達しているはずだ。」
「うん…!ライス、頑張るね!」
…お兄様の言葉はいつだってライスの背中を押してくれる。
お兄様がそばにいて、ライスのことを見てくれてる。
だから安心していられる。ライスはお兄様のために頑張れるーーー
ステイヤーとして絶対の地位を確立しているメジロマックイーンの3連覇がかかっている春の天皇賞に、世間の彼女に対する期待も並々ならぬものであり、メディアも彼女のことを大々的に取り上げていた
レースを間近に控え、闘志をその眼に宿らせたマックイーンは、トレーナーや「シリウス」のメンバーと共に最後の調整を行っていた。
「やるな、マックイーン!すげータイムだぜ!お前もだいぶ仕上がってきたな!」
ゴルシがストップウォッチを片手に歓声を上げる。
トレーナーはたった今走り終わったマックイーンのもとへ駆け寄ると、タオルを差し出しながら声を掛けた。
「いよいよですわね…メジロ家の名に懸けて、必ず盾を持ち帰って見せますわ」
「君のことを信じている…今年もきっと勝てるだろうさ」
「今年の天皇賞…ライスさんも出られるのですよね?」
「あ、あぁ…」
「だからこそ、決して負けられませんわ…友人として、ライバルとして…」
「…君らしいといえばらしいな」
「…それと、川尻トレーナーのこと何かわかりましたか…?」
本来であればトレーナーだけに吉良のことを話すつもりだったマックイーンだが、情報収集のためにも他言無用という厳正な条件の元、シリウスのチームメイトにも協力を仰いでいた。
「まだ何か疑っているのかよ~マックイーンも神経質になりすぎだな~」
「…生徒会の方でも以前のような騒ぎや些細なことが何かないか観察したが何もなかった…」
口を開いたこのウマ娘…黒鹿毛の後ろに髪をまとめた口数少ないこの硬派なウマ娘、ナリタブライアンは生徒会の副会長であり、マックイーンの願いもあり生徒会のほうでも情報収集を買って出ていた。
「確かに私の思い過ごし…ただネガティブになりすぎていたかもしれませんわ…」
あるいは…
「…いずれにしても、今は目の前の天皇賞に集中しますわ」
天皇賞当日、自身の担当ウマ娘が待つ控室に吉良は向かっていた。
…やれることはすべてやった
ライスのために、ライスが勝てるためにトレーナーとしてできることは全てやった
――コンコン
「――ライス、入るよ?」
扉を開け、部屋に入ろうとしたその時。
部屋の中でただ一人、勝負の時を待ち続ける少女の姿を見て、いくつもの修羅場を潜り抜けてきた殺人鬼である吉良も、一瞬たじろいでしまった。
「――この殺気――」
――私が言うのもなんだが、なんというウマ娘に育ててしまったものだ。
殺気という冷たさ、鋭さが純粋に研ぎ澄まされ、部屋全体に立ち込めている。
その殺気の出どころは、まぎれもなく自身の担当ウマ娘から出ているものであった。
「…あ!お兄様!」
ライスは吉良の姿を認めると、その顔には笑顔が宿り、殺気は瞬く間に霧散していった。
――菊花賞にもその片鱗を見せ始めていたが、ついにその全貌を見せていた。
殺人鬼によって育てられたウマ娘は、無意識下でそのどす黒い瘴気を肌で受け、吸収し、自身のものとして昇華していたーーしてしまっていた。
――パドックに上がり、ターフの上に進んでいく
メジロ家の想いと使命を背負うものとして、チームシリウスのエースとして。
会場の声援に応えながら、歩みを進めていたその時だった。
――首筋に冷たい何かを感じる
ナイフのように、いやそれ以上に鋭い何かを首筋に当てられているような、そんな感覚。
――な、なんですの…この感覚…
レースの時の緊張感とは明らかに質の異なる、恐怖とも取れるこの感情。
本能に訴えかけてくるような、冷や汗が吹き出し、吐き気さえ覚えるこの感覚。
その違和感の正体が明らかになったのは、パドックに一人のウマ娘が姿を現した時であった。
「ラ、ライスさん…?」
目の前に自分とそう変わらぬ体躯のウマ娘と向かい合いながらも、その身体からは想像もつかぬほど強大な、湧き出ている鋭いそれに恐怖を覚えながらも、必死にこらえながら彼女は口を開いた。
「どうなされたのですか…?ライスさん。明らかに普通ではないですわ…」
「マックイーンさん…ライス、負けられないの。ライス自身のため、お兄様のためにも…」
――運命の歯車は確実に動き始めていた。