吉良吉影はトレーナーとして静かに暮らしたい 作:ボンゴレパスタ
ーー漫画家という職業柄なのだろうか、それともこの男、岸辺露伴の性というやつだろうか…露伴はウマ娘の取材という仕事を忘れ、目の前の男が懸命に背中を隠すその姿に関心を奪われていた。
ーーヘブンズドアーで彼に命令することで背中を見ることは簡単だ。
だが、それではダメなのだ。この岸辺露伴が「見てやった」ということにはならない。
僕が直接彼の背中を見ることが重要なのだ。
「えーと質問を続けるが、ウマ娘の練習の内容としては、どのようなものが…」
取材として質問を投げかけるが、重要なのはそんなことじゃあないーー彼の背中だ。
隙があれば彼の背中を見ようとするが、そのたびに甲斐は体の向きを調整し、露伴に背中を見られないようにするーーそのことが却って露伴の好奇心というものを酷く刺激していたのだった。
――やがて露伴は一つの作戦を思いつくと、さり気なく、わざとやったものだと悟られないように取材で用いていたペンを転がし、彼の傍の机の下に落としたのだった。
「初対面の人に頼むのはとても気が引けるんだが、そこのペンを拾ってくれないかい?」
「――いいですよ」
甲斐は露伴が落としたペンを拾おうと椅子から立ち上がり、机の下に手を伸ばすーーすかさず露伴は背後のカーテンを開けると、昼下りに昇る太陽の陽が室内に鋭く差しこみ、ペンを拾った後に顔を上げた甲斐の顔に直撃したのだった。
甲斐の視界を鋭い光が包み込み、反射的に体を逸らすーー
「すまないね~~~部屋が少し暗かったからカーテンを開けたんだ!」
そんな台詞をいけしゃあしゃあと吐きながら、すかさず露伴は彼の背中を覗き込むのだったーーー
宝塚記念を翌日に控え、吉良吉影はライスシャワーと最後のミーティングを行っていた。
吉良の作戦の説明を咀嚼し、自身のコンディションを鑑みた意見を適格に織り交ぜるライスの姿を見て、吉良は初めて出会った時の彼女のことを改めて思い出していたのだった。
――初めて出会った彼女は、正に弱者という言葉を体現したような存在だった。
自信がなく、ウマ娘というポテンシャルをその臆病さによって存分に活かすこともできない。選抜レースには出場することもできずに校舎の隅で感情を押し殺すこともできずにめそめそと泣いていた彼女。
――それが今はどうだろうか
菊花賞、そして天皇賞を征した一流のウマ娘としてその確固たる信念と自信を基に明日のレースに臨もうとしている。
―――それなのに何だろう、この焦燥感は。
昨晩の夢から、吉良の胸の中には僅かな不安が空に立ち込める鱗雲のように居座っていた。
――トレーナーとして、ライスのケガには細心の注意を払ってきたつもりだ。
だが万が一。
「――なぁライス。本当にケガはないか?少しでも体調に不安はないか?もしも何かあるんだったとしたら…」
「…お兄様?いつものお兄様らしくないけど、どうしたの?」
「…いや、なんでもない。ミーティングはこれで終わりに…」
――違和感を残す言い方になってしまったか。
急いで話を切り上げようとした吉良だったが、ライスはじっとこちらを見つめたまま、静かでありながらも確固たる意志を宿した声色で吉良に問いかけた。
「お兄様」
「何があったのか、聞かせて欲しい。お兄様が何か思ってることがあるなら、聞かせて欲しい」
「……」
このまま何でもないと白を切ることもできるが、レースの前日に彼女の心にシコリを残すようなことは得策ではない。
吉良は観念したようにため息をつくと、ライスに昨日見た夢の内容を淡々とーーあくまでも彼女の心に不安と残す形とならないように注意を払いながら説明した。
ライスは吉良の話が続いている間、真っすぐ彼の目を見つめたまま聞いていたが、やがて吉良の話が終わると静かに口を開いたのだった。
「――ありがとう。ライス、嬉しいんだ…お兄様がライスのこと、心配してくれてるってことだから…」
「…いや、私がただ気になっただけなんだ…いらぬ心配をさせてすまない」
「…あのね、お兄様」
「…?」
「ライスね、お兄様が心配してくれてるってわかってーー」
「――やっぱり勝ちたい」
「明日のレース、絶対に一着でお兄様のところに帰ってくるから。お兄様の心配が夢の中の出来事だけだったってなるように、ライス頑張るから」
「――ライス」
本当に彼女は選手としても、精神的にも成長したようだ。
吉良に臆することなく真っすぐと向き合い、自身の確固たる自信と覚悟をぶつけるその姿に吉良の心は揺れ動かされていた。
「――これが、信念というやつか」
ならば私も信じよう。
――目の前の彼女を
――彼女の信念を
――彼女の覚悟を
彼女の強さに、ある種の感銘を受けた吉良は一つの願望が心の中で生じたのを感じ取った。
――彼女に、本当の自分を打ち明けたい。
――自身の出自。自身の本名…自身の罪を。
殺人衝動を抑える反動によって生じたものでは決してなく、まぎれもなく彼女の成長を見守る存在として改めて立つために…その資格を得るために。
罪のない人々を自身の快楽と保身のために殺してきた罪人には到底許されない思いを抱えた中、吉良はその願望をぐっとこらえ、動きかけた唇をぐっと抑える。
――自身の行いを悔いているわけでは決してない
私には持って生まれた性というものがある。それに向き合った結果の行為である以上、その行為をしなければ良かったとは決して思わない。
吉良はライスの決意に首を縦にふることで答えると、静かに彼女に微笑んだのだった。
露伴の眼前に晒される、甲斐の背中。露伴は漫画家として探求心がたどり着いた勝利をかみしめながらその背中をまじまじと見つめた。
「見たところじゃあ、別に何て言うことはない普通の背中じゃあないか…」
――すると、甲斐は尋常ではないほど身体を震わせ、呻くように声を上げ始めた。
「――もう終わりだ。背中を見られた以上、もう終わりなんだ…」
余りの甲斐の憔悴具合に、露伴もさすがに事態の深刻さを察知し詫びの言葉を並べたが、甲斐は構わず言葉を続けた。
「…何かはわからないが、背中を見られたら終わりだっていう感覚だけはあったんだ…ちくしょう…あの時からだ…矢で射られたあの時から…」
―――なんだって?
…この男、たった今、矢に射られたと言ったのか?
とんでもない言葉を聞いた露伴は、詳しい話を聞くために甲斐のもとに駆け寄ろうとしたが、彼は突然自身の胸を押さえて苦しみだした。
――なんということだ
自信の命の灯が急速に失われていくのを感じながら、甲斐は既に自身のこととは別のことを考えていたのだった。
――やはり班目が巻き込まれた出来事とはこれだったのか
矢で首を射られた時から、自身の身にもしものことがあった時に彼にメッセージを残したのだが、どうやら本当にあとは彼に託すことになってしまいそうだ。
急速に暗転していく世界の中で、甲斐が最期に思ったのは最愛のウマ娘に対する謝罪の念だった。
――初めて彼女と出会った時
――彼女とウマ娘の未来について、語り明かした時
――彼女がクラシック三冠を征し、その栄光を二人で祝った時
――ウマ娘の未来について語る彼女の横顔を眺める時
彼の脳内には、最愛のウマ娘と過ごした日々が走馬灯のように流れていく。
本当はもっと彼女といろいろな景色を見たかった。
「――本当にすまない」
――ルナ
目の前で突然倒れて動かなくなった甲斐の姿を見て、露伴は一つの可能性に行き着いたのであった。
「―――これはスタンド攻撃か!」
このトレーナー、既に背中にスタンドが取り憑いていたということか
すると自身の背中から底冷えするような声が聞こえてくる。
「――おんぶして、ねっ!」
後ろを振り返って正体を確認しようとしたが、その姿はどこにも見えない。声の出どころを確認しようとした露伴は、鏡に映った自身の背後を見て戦慄としたのであった。
――自身の背中に、小人のような物体―――スタンドがへばりつき、囁くように語り掛けてきている。
「ぼく…チープトリック。そこに転がっている甲斐から産まれたスタンド…背中に取り憑いて、背中を見られたら憑いた奴を殺して見たやつに取り憑くって能力さ…」
「ヘブンズドアー!」
チープトリックが言い終わらぬうちに自身のスタンドであるヘブンズドアーの能力を使って、背中から剥がれるように命令を書き込もうと試みるーーしかしながら、チープトリックの顔からノートのようにページが出現すると、露伴の自身の顔もヘブンズドアーの能力によって同様の状態となってしまったのだった。
「なっーーーこれは一体っ!?」
「――僕の本体、甲斐俊はもう死んじまって、あなたのエネルギーで動いている…つまり今の本体はあなたってことさ…!僕へのスタンド攻撃は全て、本体であるあなたにかかるってことなのさ…!」
――どうやらとんでもないスタンド能力に襲われてしまったようだ。
しかし、厄介なことになった。甲斐が死んだということは遅かれ早かれこの部屋には誰かがやってくるということだが、その時に誰かに背中を見られでもしたら…
甲斐の死体を確認しようと振り向いた露伴だったが、すでに倒れた彼の死体があるはずだが、彼の死体はまるで手品のように消えていたのだった。
「――ど、どういうことだ!?彼の死体はどこにある…」
その問いに答えるように、チープトリックは囁くように口を開いた。
「僕は背中を見られた者を殺して新たな人物に取り憑くとき、かなりのエネルギーが必要なのさ…そのエネルギーは元の宿主の精気を全ていただくから、そいつの死体なんて残らないよ…ねっ!露伴センセッ!諦めて背中見せちゃおうよ…!」
――どうやらこの部屋に誰か来る恐れはないようだが、ここにとどまっていても何の解決にもならない。
「…ねっ!背中見せてよ!露伴センセッ!…どうせもうあなたは助からないよ!」
いちいち癇に障るやつだ…露伴は忌々しそうに顔を歪ませると、ドアを開けて部屋の中から出ると、細心の注意を払いながら、壁に背中をつけて廊下を歩きだしたのだった。