吉良吉影はトレーナーとして静かに暮らしたい 作:ボンゴレパスタ
M県トレセン学園支部。露伴はその顔に疲労を浮かばせながら、永遠とも思える廊下を壁に背中をつけながら、歩いていくーー道行く人はその光景の異様さに好奇の目を送ったが、露伴にはそれに難癖をつけたり、睨みつけたりする余裕さえもなかった。
慎重に周囲を確認し、エントランスから外に出る。そして露伴は目の前のタクシーを止めると、息も絶え絶えになりながら乗り込むのだった。
「―――とりあえず、前に進んでくれ…道は指示を出すよ。」
「わ、わかりました…お客さん、大丈夫ですか?大分体調が悪いようですが…」
「し、心配ない…早く向かってくれ」
タクシーが発車すると、また耳障りな声が脳内にこだまする。
「露伴センセッ!…どこに向かおうっていうのさ!何をしたってもうあんたは終わりってことなんだ、ねっ!」
「うるさい…黙って見てろ…この岸部露伴をコケにしたこと、必ず後悔させてやる...」
「あ、あのお客様?ラジオ、うるさかったですか…?」
運転席のドライバーが不安そうにミラー越しに此方を覗き込んでいるーースタンドが見えない彼にとっては、露伴がこちらに怒鳴っている構図にしか見えないのだろう
「い、いやーーそうじゃあないんだ…すまない」
露伴を乗せたタクシーは、ある箇所に向かって真っすぐと走り続けるのだった。
――阪神レース場の事故によって本会場を使用することができなくなったことによる、例年とは異なる京都レース場での宝塚記念の開催。
しかしライスをはじめとしたURAの懸命な開催への働きかけはメディアによって大々的に取り上げられ、それを相まって観客は通常に勝ると劣らない人数が押しかけていた。
上半期の締めくくりとしてなのか、はたまたファン投票にとって自身がレースに間接的にでも関わることができるからか、観客席には人々が喜々としてひしめき合うように密集し、今か今かとレースが始まるのを心待ちにしていた。
――コンコン
無機質なノック音が室内に響き渡る。吉良はライスの返事が聞こえた後に室内に入ると、ライスに優しく声を掛けた。
「――ライス、時間だ。そろそろ行こう」
「――うん」
ライスの目には、天皇賞の時のような殺気のこもった鋭さはなかったーー代わりに、その目には熱く、燃え滾るような意思が宿っている。
そんな彼女の姿を見て、吉良はある種の苛立ちを感じているのだった。
彼女が無事に、一着で帰ってくることを信じてやることしかできないなんて…何てもどかしいのだろう。
――こんな時にかけてやれる言葉は…
「――ライス」
「…信じているーーライス、勝ってこい」
――上辺だけの、彼女に取り繕うだけの言葉とは異なる、心から絞り出された殺人鬼の言葉にライスは小さく頷くと、ゆっくりとターフに向かっていくのだったーー
――そよ風がターフの上を駆け抜け、ライスをはじめとした選手たちの頬を撫でつけていく。
周囲の視線はこの場の誰よりも小さな少女に注がれ、彼女への期待を乗せたレース場の緊張は等加速的に高まっていく。
選手たちがやがてゲートに収まると、ライスは静かに目を閉じた。
――こんなに誇らしい気持ちでレースを迎えられたことはあっただろうか
ライスのことを、ライスの走るレースを楽しみにしてくれているファンの存在がいる。
ライスの練習に付き合ってくれた、大切なブルボンさんやカフェさん、マックイーンさんといったお友達の存在がいる。
――そして
どんな時もライスのことを信じてくれて、ライスのことを待っていてくれ
るお兄様の存在がいる。
――さっきのお兄様の顔、今までのどんな場面でもあんな顔を見せたことがなかった。
吉良との距離が一歩近づいたという事実は、追い風となってライスの背中を強く後押ししていたのだった。
――絶対に帰ってくるからね、お兄様
ゲートが開くその直前、ライスはその目を大きく見開いたのだったーーー
―――とある場所でタクシーは止まり、露伴は這いずるように車外へ体を出すと、再び体を壁に密着させて這いずるように歩みを進める。
「――メーターが持ち金を上回ったのかい、露伴センセッ!こんな何もないところで降りちゃってさ!あそこのオーソンで何か買おうってことなのかい!」
――このチープトリックというスタンド。ただ囁くだけの能力だが、この能力が延々と続くと中々にしんどい
露伴は顔を歪ませながら牛歩のような速度で歩みを進めていくが、既に彼の精神は限界を迎えていたのだった。
誰かに背中を見られたら死んでしまうという恐怖。そして四六時中脳内に直接語り掛けるように囁き続けるチープトリック。これらの事柄は少しずつ、しかし着実に露伴の心を蝕んでいたのだった。
角を曲がり、住宅街に足を踏み入れた露伴だったが、その時彼を呼びかける一つの声が聞こえたのだった。
「露伴先生――!遅いですよ、待ち合わせ場所、間違えたかと思いましたよ!」
――彼女の名前は、泉京香。
オレンジ色のカールの髪が特徴の、後ろに黒い大きなリボンをつけ、ショートパンツにカラータイツを履いた特徴的な服装をしている彼女だったが、大手出版社に勤めるれっきとした編集者であり、変人として名高い岸辺露伴の担当として彼に振り回される日々を送っているのだった。
「急に連絡をして申し訳ないーー今日は君にお願いがあって連絡をしたんだ」
「――背中?どういうことですか…?」
眉をひそめる彼女をよそに、チープトリックは歓喜の声を上げたのだった。
「――ついに頭をやっちまったのか!これで次は背中を見るあの女に取り憑く、ねっ!」
露伴はそんなチープトリックに目をやると、困惑する彼女に声をかけたのだった。
「――そういえば泉君。君に一つ注意しとくんだが
―――背中を見せる際に、絶対に後ろを振り向くんじゃあないぞ」
そう言うと、露伴は泉の眼前にその背中を晒すように道の中央に移動したのだった。
「――バカめ!露伴、貴様ももう終わりだ、ねっ!」
チープトリックが次の標的である泉の背中に移動するために首を後ろに見やると、露伴は笑みを崩すことなく言葉を続けた。
「――初めから目的地はここだったんだ。チープトリック、お前はここで振り向いた…もっとも、ここがどんな場所か知っていたとしても、その能力ゆえに振り向かざるを得ないんだがなーー」
チープトリックは、振り向いた先に広がる光景を見てその目を大きく見開いた。
――次なる標的である彼女の後ろに延々と続く、底の見えない暗闇。
そこから生気のない無数の手が伸び、自身の身体を掴んでその暗闇に引きずり込んでいく。
「ど、どこに連れていくんだ!ねっ!ねっ!やめろ!」
恐怖の叫び声を上げるチープトリックだったが、そんな断末魔をかき消すように無数の手は暗闇に彼を引きずり込んでいくのだった。
状況を掴めず困惑する泉を無理やり帰宅させたのち、露伴は考え込むように手を顎に当て俯いていた。
――あの甲斐という男は、矢で刺されてチープトリックを発動させたと言っていたな。
矢が絡んでいるということは、犯人はおそらく写真の親父ということになる。
つまり甲斐の痕跡を辿っていけば、吉良吉影に繋がる手がかりを得ることができる可能性が大いにあるということだ。
ーー彼は確か、中央に勤めているトレーナーと言っていたな…
「ーー調べてみるか、トレセン学園」