吉良吉影はトレーナーとして静かに暮らしたい 作:ボンゴレパスタ
デビュー戦を前日に控えたある日、ライスシャワーがターフの上を駆け抜けていく様を眺めながら、吉良は静かに思案していた。
…このライスシャワーというウマ娘、体躯は大分小柄だが、デビュー前で既にこの持久力。
どうやらステイヤーの素質がありそうだ。
デビュー戦を控え、まだまだ詰めの甘い箇所があるのは否めないが、彼女に眠る才能を上手く引き出してやることができれば…
そこまで考えたところで吉良はハッと思考の海からその足を引き上げた。
…この吉良吉影、今何を考えていた?彼女をどうやって芽を開かせ、レースで勝てるようにするのか、そう考えているのか?違う、こいつはただの承太郎たちからの追跡をかいくぐるための隠れ蓑に過ぎない…
するとちょうど走り終わったライスシャワーが、いそいそと吉良の元へとやってきた。
「おに…トレーナーさん、走ってきたよ」
「あぁ、ライス君。お疲れ様。先ほどより上がり3ハロンのタイムが上がっているな。上出来だ。しかしコーナーの処理がまだ甘いな。コーナーの時は歩幅を詰めて、ロスをなくすようにするんだ。」
「わかった!」
彼女自身も非常に呑み込みが早く、私が言ったことをすぐに実践する。素直な奴は嫌いじゃあない。
…まだ気になる点があるといえばあるが、明日は彼女にとって初めてのレース、あまり根を詰めて練習しても芳しい成果を得ることは難しいだろう。早めに休んで、英気を養うに越したことはない。練習を切り上げようとライスの方を向くと、吉良はその違和感に気がついた。
「…どうしたライス君?」
なにやら彼女の様子がおかしい。まるでライスシャワーは何か言いたげに、その手を何度も組み替えながら、もじもじとその場にとどまっていた。吉良の問いかけに顔を上げると、彼女はおっかなびっくりに口を開いた。
「あのね、トレーナーさん…ううん、何でもない」
「今日の練習はこれぐらいにしよう…明日はいよいよデビュー戦だ。今日はぐっすり寝るといい」
彼女の口から言いたくないのであれば、別段無理に聞く必要もないだろう。最も私自身がそこまで興味がない。
手に持っていたバインダーを閉じると、ライスシャワーの肩に手を置き吉良はそのままターフを後にした。
翌日、約束の時間になっても現れないライスに、吉良はしびれを切らしていた。
彼女は一体なにをやっているんだ…!これじゃあデビュー戦に間に合わないじゃあないか…
ここで彼女が出れないことになっては、私の管理不行き届きという評価に繋がることも十分にあり得る。今私がそう言った意味で…つまり悪い意味で目立つことは得策ではない。
承太郎は趣味が悪いと抜かしやがったが、自身の左腕に付けられた、独身の自分にとっては数少ない嗜好品である手元の腕時計で現在の時刻を確認していると、突然背後から大きな声で呼びかけられた。
「あ!ライスちゃんのトレーナーだよね!」
声をかけられた方向に首を向けると、そこにはピンク色の髪色をした少女が、その顔に満面の笑みを浮かべ、手を振りながらこちらに近づいて来ていた。
こいつは確か、ハルウララだったか…ライスシャワーと仲が良く、彼女と比較的一緒にいることが多いようだが。
吉良はライスの担当になったその日から、彼女の身辺を調べ上げて自身の正体に近づく恐れがないか否かを徹底的に確認していた。ライスの部屋の同室であり、読書仲間であるゼンノロブロイに、目の前にいる学友で友達のハルウララをはじめとした交友関係は既に仔細まで把握している。
幸いだったのが、彼女は別に嫌われているというわけではないのだか、フレンドリーであるというわけでもない。つまり、ほかのウマ娘たちと比較するとその交友関係は極めて限定的であり、これは自身がその正体を隠して生活を送る上でも非常に都合の良いことだった。
…全ては前回からの失敗だ。あんな目にあったが、あの失敗から学び取ったものも多くあることもまた事実だ。次は必ず上手くやってみせる。
「それじゃあ、行こうか!ライスちゃんのトレーナーさん!」
「……は?」
ハルウララは問答無用で私の手を引っ張ると、ぐんぐんと先に進んで行ってしまう。
「ちょ、ちょっとまて。ウララ君。一体どういうことだ!?」
「あのね、ライスちゃんが今朝からいないからみんなで探してたんだけど、ウララが寮の空き部屋でライスちゃんを見つけたときに小さい声でトレーナーさんの名前を呼んでたから、トレーナーさんに見つけてほしいのかなって!」
…彼女の話を要約する限り、どうやらライスシャワーの悪い癖がここで出てきてしまったようだ。彼女はここぞというときで踏み込めない弱さがある。大方選抜レースの時にバックれた時と同じ心境なのだろう。
これを克服しない限りは、彼女が競技者として大成することはできないだろう。吉良としてはこのまま彼女を放っておくこともできるのだが、今は不祥事を起こさない方が身のためだ。万が一M県支部に逆戻りとあっては、承太郎に追跡されるリスクがまた上がる。
「ちょっと待ちな!アンタなに入ろうとしているのさ!ウマ娘寮にはトレーナーは立ち入り厳禁だってことは、知らないわけじゃあないだろう!?」
思案していると、褐色肌のウマ娘にウララ共々寮の入り口で呼び止められた。
……彼女は確か、寮長のヒシアマゾン。女傑と名高いウマ娘である。彼女に訳を説明し、今回は特別ということで寮に足を踏み入れることを許可された。
ウララになすすべなく腕を引っ張られていたが、とある部屋の前で彼女は突如立ち止まった。彼女に礼を言って引き払ってもらい、その扉の前で耳をすませると中ではすすり泣く音が聞こえた。
「…ライス君、入るよ」
ライスシャワーが素っ頓狂な声をあげるが、吉良は入室を促す声を待たずに扉を開けると、そこには薄暗い部屋の中で大きな目に大粒の涙を溜めたライスシャワーの姿があった。
「おに…じゃあなかった。トレーナーさん…?ど、どうして……?」
「…訳を聞いてもいいかい?」
「…ライスね、変わりたかったの。弱い自分から、不幸な自分から。だから選抜レースにも出ようとしたのに…怖いの。レースに出て、ライスは変われないってことがわかっちゃうのが。…みんなを悲しませちゃうのが」
…彼女は彼女なりに思い悩んでいたということだろう。私には到底理解できないが。
理解は全くできないが、手放しにすることもできない。私の未来のためにも、ここで彼女には部屋に引きこもってないで走ってもらわなければならない。ならば私が彼女に取るべき行動は…
「ライス君」
吉良は決して笑みを崩さず、座り込む彼女の目線に合わせると、語りかけた。
「君の走りは、今回のデビュー戦におけるほかの出走者と比較しても遜色なく戦えるほど仕上がっている…」
だが、彼女が本当に求めているのはこの手の理屈的なの言葉ではない。もっと彼女の感情に揺さぶりをかけるような言葉をかける必要がある。吉良は笑みを崩さぬまま言葉を続けた。
「…私は君を信じている。君の走りを、君の未来を。そして君のすべてを。君が自分を信じられなくても、私がその分君を信じるよ。」
彼女に必要なのは、精神に訴えかける言葉。もっと精神の深みに入り込んで、盲目的に私に依存させる……私のことを決して疑わぬように
「…本当に?ライスのこと、信じてくれるの?」
拠り所を失った少女のもとに差し込んだ、輝かしくもどす黒い一筋の光に彼女は縋り付いてしまった。
……掛かったな。
どす黒い感情を押し殺し、吉良は毒に侵された彼女の手を取った。
デビュー戦を目前にしたら控室で、ライスシャワーは小さく震えていた。
…まだ手が震えている。怖い。負けてしまうんじゃないかって。
でも、ライスにはトレーナーさんがいる。トレーナーさんが信じてくれている。それだけで走りたいって、一歩踏み出したいと思える。前を向くと、きれいなスーツに身を包んだトレーナーさんがライスのことを見て微笑んでくれた。
――真っ黒で底が見えないけど、きれいな目。
「いってくるね…トレーナーさん」
長い通路を抜けて、ゲートの前に着くと、練習の時とは全く違う緊張感がターフの上を風と共に走り抜けていく。
一瞬の静寂の後、一斉にゲートが開く。
前方に位置を取って、展開を窺う。集団に挟まれないように注意しながら、最終カーブで外から抜け出せるように一気に足を踏み込んだ。
トレーナーさん、ライス変わりたいんだ。
弱い自分から、なにもできない自分から。一つ一つの意思が、確かな思いとなってターフを駆け抜ける力となる。
「外からライスシャワー!…ライスシャワー一着でゴール!デビュー戦を華々しく飾りました…」
レース場には1人のウマ娘の勝利を告げる実況と、それを祝福する観客の歓声に包まれた……
その日の夜、ライスシャワーが華々しくデビュー戦で一着を取った祝勝会を兼ねてトレーナー室で二人でお祝いをしていた。
せっかく勝ちを持ってきたんだ、なにか欲しいものでも一つ買ってやるとするか…
「今日のお祝いだ、何か欲しいものはないかい?」
吉良が尋ねると、ライスは恥ずかしそうに口を開いた。
「じゃあ…ひとつだけ」
「…?」
「トレーナーさんのこと、お兄さまって呼んでもいいかな?」