吉良吉影はトレーナーとして静かに暮らしたい 作:ボンゴレパスタ
「――ライスさん、素晴らしい仕上がりですわね」
声のする方を振り向くと、葦毛のウマ娘とその隣には長髪を後ろにまとめた男が立っていた。そのウマ娘は小柄ではあるが非常に聡明な印象を受け、その立ち姿には気品があふれていた。
「マックイーンさん…!」
…メジロマックイーン
昨年から今年の春の天皇賞を連覇したスターウマ娘。ステイヤーとしての名声をほしいままにしている彼女であるが、吉良はこのウマ娘に若干の苦手意識を抱いていた。
この小娘…感じるのだ。この吉良吉影の勘が告げている。目の中にあいつと同じ誇りを、光を感じるのだ
忌々しい奴の…杜王町で私のことを探り、私の平穏をかき乱したあいつ…
「すごいですね、川尻トレーナー!この仕上がりだったら菊花賞を征することもできるかもしれないですね!」
隣にいるこいつ…小娘の担当トレーナーか。こいつは誰彼構わず犬のように付きまとってくるやつ。夜11時には床に着くことを日課としている(トレセン学園の業務でただでさえそれを守れないときもあるのに)こいつの呑みの誘いにはうんざりしているところだが、ライスをステイヤーとして成長するためのトレーニングのアドバイスや、マックイーンとの併走に快く了承するところは…まあ、助かっているといったところか。
またこいつはトレーナーとしては優秀なようで、長距離を得意としたチーム「シリウス」を率いるトレーナーとしてその手腕を発揮しているようだが…
「ありがとうございます…」
「相手はあのミホノブルボン。一筋縄でいく相手ではありませんわ」
実際のところ夏合宿の時に見た彼女は、日本ダービーの時とはもはや別人であり、ステイヤーとしての実力が十二分であることは疑いようのない事実であった。
――ただ、それをみこしてのライスシャワーに対するトレーニングである。
この夏を通して、彼女は私の期待以上の成長を見せてくれている。私の見立てが正しければ彼女は十分ミホノブルボンと渡り合えるはずだ。
「私もライスも、全力を尽くすだけです…行こうライス」
「うん…お兄様」
吉良がターフを後にすると、ライスも後ろ髪を引かれるようであったが、彼の後ろをぴったりと付いていった。
「――やっぱ川尻トレーナー、考え読めねーな―」
「あまり人についてあれこれいうものではありませんよ」
「でも、M県支部にいる養成所の同期から聞いてた印象とあまりにも違うからさ~」
「そうなんですの…」
「おい!ゴルシちゃん差し置いてなに話し込んでんだよ!」
「トレーナー、渇きを癒す新たなレースはないか?」
マックイーンとそのトレーナーの思考は、奇しくもチームメンバーたちの割り込みによって切り上げられたのだった。
――菊花賞当日。
京都競技場はミホノブルボンの3冠を見届けようと、そしてその王手を阻止するウマ娘の誕生を願って12万人もの人々が詰めかけていた。
出走の目前、吉良とライスは控室でレース前最後の会話に講じていた。
「――いよいよだな、ライス」
ライスシャワーの小さく震えている手を取ると、吉良は彼女に向けて笑みを向けた。
「ライスなら勝てる…胸をはって行ってきなさい」
「うん…いってくるね、お兄様」
ライスシャワーがパドックに歩み出ると、12万人もの人々の熱狂が出迎えた。
「…ライスさん」
声のする方へ振り向くと、そこにはブルボンさんが立っていた。
「私にはマスターとの約束、クラシック三冠の夢があります…絶対に負けられません」
「…ライスもね、勝ちたい。私のために、お兄様のために」
「…お互い、いいレースにしましょう」
――両者の想いはターフの上で激突した。
「ミホノブルボン…」
夏合宿の時彼女の姿はちらりと見た程度だったが、その体の仕上がりは見違えるほどのものとなっていた。
サイボーグのような勝負服に身を包み、私の担当ウマ娘の前に立ちはだかるその姿は、正に怪物…隆々と、そしてしなやかな無駄のない筋肉に、そして冷静ながらも奥からにじみ出る強い意志…
柵の向こうで両者のやり取りを観ながら、吉良は思考の波に身を投じていた。
確かに、選抜レースで感じた彼女の片鱗は、間違いなかったようだ。
皐月、そして日本ダービーを経て彼女はもはや怪物と化していた。
「ライス…」
ゲートが開き、一斉にウマ娘たちが飛び出していくーー18人が身命を賭して、そして12万人の想いをのせて。
ミホノブルボンは前方から2番目の位置を取り、その後ろにライスシャワーがぴったりと続いていく。
「…作戦通りだ」
坂路の申し子、クラシック2冠を征した怪物を打ち倒すにはどうすればいいか
ミホノブルボンに勝つ算段として吉良が思いついた案は、奇しくも自身が追い詰められた際に感じた執念から着想を得たものであった。
――杜王町で、私をどこまでも追跡しようとする執念。こじ付けといってしまえばそうだが、意思というものには、そして執念というものには時として当人の実力以上の力を与える場合がある。
――ミホノブルボンの真後ろに着き、やがて追いつき追い越す。
ミホノブルボンの私生活まで追跡していたときは流石に止めたが、その執念もまた彼女の武器となる…
――その小さな体が、まるで青い炎に身を焦がすかのように走っていく。
吉良は、ライスシャワーの自身の命さえ燃やしかねないその走りを回りの観客と同じく目を離せないでいた。
「――ライス、君は」
純粋に、そして狂気的に研ぎ澄まされた彼女の走りは会場の空気をひりつかせ、その場にいるものの視線を釘づけにしていく。
――ミホノブルボンが最終直線を駆け抜けていく。
「逃げるミホノブルボン!しかし外からライスシャワー!ライスシャワーが差していく!」
――ライスシャワーがゴール!!クラシック三冠、最後のレースを征したのはライスシャワーだ!!
場内は、ミホノブルボンの三冠制覇を期待していたものが多くいる場内は異様な雰囲気に包まれている。
「予想はしていたが…あまりいい出迎えではないか」
彼女がその違和感に気づく前に、精神的ダメージを受ける前に何とかしなければ…
吉良が柵を乗り越え、ライスシャワーの元へ駆け寄っていく。
――その時だった。
一つの拍手が場内に響き渡るーー小さくも、場内の全員に聞こえる拍手が。
たった一人の勝者を称えるその音は、先ほどのレースで敗れたミホノブルボンから発せられたものだった。
――その音を皮切りに、広がっていく拍手。
懸命にその足でターフを駆け、勝利を執念でもぎ取った少女に向けて。
やがて場内に包まれた盛大な拍手は、ライスシャワーを暖かく包み込んでいた。