2-1 鏡・響・狂
「ホチシメソシマンソンワウニ、エシフサハメトトカウニノオツヨフフノヘトンタシソン」
言語。この世界のどこにもない言語。それは、暗がりの中で腕部に装着された端末機器に話しかける男の声。
すぐ側では床面を高速で踏む音。機械に腰掛け、まさに機嫌が悪いと言うかのように眉間に皺がよっている女。貧乏ゆすりで小刻みに揺れる巨大な乳房とは裏腹に、その体躯はさながら女児の様に小柄である。
「ねえ、まだぁ?」
「瑠璃。ネビデの充填が不十分なまま起動しては事故が起こる。マニュアルは読み込んでいるはずだが」
不満げなその女を瑠璃と呼ぶ男も同様に身長が低く、しかしその身長とは不釣り合いなほど完成された肉体が白いワイシャツ越しにも見て取れる。身長以外にも顔の作りと青の髪。性別こそ違えど二人の肉体は類似している点が多かった。
「んなもんは知ってる! だらだらまどろっこしい報告をしてるのがイライラするって言ってんの!」
「毎度言わせるな。データは正確に記録する必要がある。音声記録、座標記録、映像記録、気象、スペクトル、ネビデ……」
淡々と表情を変えることもない男の説教めいた説明に、瑠璃はその態度が気に入らないと言わんばかりに床を強く蹴り上げ立ち上がる。
「あーあー! うるさい!」
「……またか?」
血走った眼で服を脱ぎ男に迫る瑠璃。男は目をそらすでもなく、体を凝視するわけでもなく、瑠璃の目線を追う。
筋繊維で彼女の肌には影が複雑な形で出来上がっている。脈動し、汗が滲み始めている彼女の体は男に訴えかける。
「わかってんならさっさと相手しろ頭でっかちのカス!」
下着一枚の姿で身構える瑠璃。脇を締め、拳を頭頂部と同じ高さに掲げ、ソワソワとステップを取り始める。瑠璃の吐息は早くなり、口角は上がりっぱなしになる。
男はそれに応える様にネクタイを緩め、瑠璃に対し半身になり構える。
「まったく、君は本当に仕様が無い」
◆ ◇ ◆
「……ふぅ」
整然とした窮屈な部屋。ヘッドホンやペンライトなど、音楽好きの部屋と認識させる多くの物品。それらは壁に設置された格子状の金網にきれいに飾られており、ブラインドから差し込む朝の光芒により薄っすらと照らされている。
部屋を狭く感じさせる大本、デスクトップパソコンが鎮座する机に向かうのは九音栄翔という黒髪の少年。この部屋の主は彼であるという事は、タンクトップにトランクス一枚とそこにヘッドホン着用という無防備な格好が示している。
「思いつかないや」
エナジードリンク、モンスターガイザーのシトロンフレーバーを口元で傾け、残るひとくちを喉に流し込む。調子が乗らないのだと、彼は最近毎朝これを飲んでいる。
原因は自覚していた。
(あの音、なんだったんだ)
事は数週前、ゲームセンターの屋上で起こった怪奇。同級生の少女の肉体から閃光が飛び出し、空間が裂けたあの日。
その少女、鍋塚出汁子が発光を始める直前に彼は音を聞いていた。金属板がしなる音のような規則的で不可解な音は、耳ではなく思考に直接響く不思議な音であった。
(俺以外には聞こえてなかったみたいだけど……くそ、気が散って仕方がない)
残響がある気がして、それが事の蠢きへの懸念を強める。あの日に出汁子とは絆のようなものが芽生えたが、出汁子と関わり合いにならず大人しくしていれば……と関係を否定する気持ちが脳裏に浮かんでは振り払う事にも心が揺らされる。
しかし極めつけがある。同じ日、謎の音以外に彼にとっても重要であろう大事件が起こっていたのだ。
(あいつ……パッヘルって言ってたっけ)
自分の顔。鏡合わせのような同じ顔。空間の裂け目から現れた少女の焦った顔がそれだった。そして少女が切羽詰まって話した事は何から何まで突拍子のないものであり……
と、栄翔が思案にふけっていると、スマートフォンにメッセージの通知が入る。
《今日カフェ来いよ。忘れんな!》
メッセージの主は松野。出汁子と同じく栄翔の同級生。先の怪奇とは全く無関係、だが栄翔とは同じ部活に入った間柄である。
「……はーっ」
ため息が部屋に満ちる。居心地の良い一人だけの時間が毒だと感じる。その重い気分を振り払うように、栄翔はドリンクの缶をゴミ箱に投げ入れ、勢い任せに立ち上がる。
クローゼットから乱雑にシャツと黒い上着、ズボンを取り出し身につける。ベルトで固定した腰巻きには財布やペンライトなどの出かけるために必要な私物がすでに収納されている。
「まともな答えが返ってくるとは思わないけど、あいつにも相談してみるか。あいつ、オレにはないモノ持ってるし」
そうして、身支度を終えた彼は玄関の戸に体を向けた。
◆ ◇ ◆
サックスとピアノ。店内スピーカーから流れるジャズに混じって来客を知らせる鐘の音が鳴る。住宅街でも目立つ虹のかかった看板には、一推しの商品らしいプリンのイラストと店名が記されている。
その喫茶店、プリズムプディングに入った栄翔の目にまず待ち受ける壁の右手奥、店長のメガネコレクションがずらりと並んだ縦長のショーケース。傍らには片眼鏡の女性の写真が控えめに飾られている。
「お~い。こっちこっち」
ショーケースのガラスの反射、アイボリーの癖っ毛の少年が手を招いている。それを確認した栄翔は少し不機嫌な素振りを作り、ショーケースを横切って3つあるテーブル席の最奥側を目指す。
先客である彼が栄翔の同級生であり軽音楽部の相方、松野明良である。水色の瞳で栄翔を見つけるとルーズな袖を振り回しながら栄翔に相席を促している。
「遅いって!」
焦らせようと、松野は大げさにテーブルの対面を指さす。
「急に呼び出しといてさあ」
そんな松野の突然の呼び出しに不満を垂れてはいるが、しかし渋ることなく対面の席に座る栄翔。一人でいるよりかは全然いいと、窒息しそうな部屋での気分を思い出して一息ついた。
松野はすぐさま店員を呼ぶ。ショーケースの写真に写っていた片眼鏡の女性店長は「ちょっと待ってね~」と注文伝票を準備し始める。
栄翔は、ダイニング側の壁にずらりと並んだティーカップのコレクションや入り口のショーケースなど、店長の趣味が詰まった店内の独特な雰囲気を何気なく見ている。松野はそんな栄翔の顔を覗き込む。
「なんか栄翔さ、上の空だけど終わったの?」
「ああ、まだ」
軽音楽部の初ライブが次週に迫る二人。世に出ている楽曲のカバーライブとはいえ、部長の意向によってアレンジを加えてのパフォーマンスを求められている。
しかし栄翔はその楽曲の編曲に手間取っているのだ。怪奇のこと、同時に聞こえた音の事など気持ちがうろつき、アイデアが浮かばないのである。
「なんだよ〜、もう来週だろぉ?」
栄翔の浮かない様子に若干の呆れを見せる松野。栄翔はバツが悪そうに眉をひそめつつ、腰巻から折りたたみの鍵盤デバイスとスマートフォンを取り出しテーブルに置く。
「間に合わせるって。今日中に片付けるよ」
スマートフォン上でアプリを起動し、鍵盤デバイスを操作する。首からかけたヘッドホンから音が聞こえ、栄翔はよしと呟く。
栄翔の準備が整った様子に安心し、松野は両手を頭の後ろで組んで体を伸ばす。
「頼むぜ〜」
「お前も手伝え!」
松野の無責任に何時ものように叱責する栄翔。同時に店長が注文を受けに来た。少し気恥ずかしげに栄翔はミルクココアを、松野はストレートティーとクリームブリュレを注文すると、店長はにっこりと笑顔を返す。
「かしこまりました!」
ダイニングに戻る店長に会釈しつつ、二人は目を合わせて本題へと気持ちを切り替える。
「ほら、松野もイヤホンつけろ。できてるとこまで確認するからさ」
「りょーかい。待ってろ」
栄翔はスマートフォンを松野の無線イヤホンと同期し、編曲の進捗を二人で確認する。ワンコーラスを二曲分、ロックとポップスのEDMアレンジ、その途上の曲に二人は聴覚を研ぎ澄ます。
数分の時が流れた。二人がヘッドホンとイヤホンを外すとほぼ同時、店主が注文の品を運んでくる。
「では、ごゆっくり。いつもありがとうね」
店長のウィンクに松野は少し頬を染めて会釈をする。栄翔も会釈をするが、編曲中の譜面に目線を取られている。
どうにも浮かない顔の栄翔。そんな彼に松野は先程の曲の雑感を伝える。
「最初の方に聞いたのより元気ないよな。なんかあったの、栄翔」
「お前、わかんの?」
適当言ってるだけではないかとの疑いの目で松野を見る。その反応に松野は得意げに親指を立て栄翔に突きつける。
「あきらか元気ねーじゃんか。お前も曲も。音楽だってオレも勉強してんだぜ? なんとしてもオレの歌で射止めたい子がいるんだからな!」
「あー……あいつ?」
松野が示すその子、それは栄翔にも心当たりのある同級生である。
「出汁子ちゃんはさぁ、初めてオレがイイって思った子なんだ。他の女子がオレに見せないあの目つき、堂々とした肉付き、ドライな態度! 振り向かせたいじゃんか!」
「まあ、うん。そうだな……」
鍋塚出汁子。松野の片思いをしている少女であり、そして栄翔の不調要因に関わる重要人物の一人。
元々から松野は中学生の頃から高校生での部活は軽音楽部に入ると決めていた。その甘いルックスと無邪気な性格で中学の頃からすでに異性からの人気が高かったが、モテたいという自己顕示欲は消えることはなかった。それで選んだのが軽音楽部であった。歌を歌えば女の子は自分に更になびくようになると、勝手に確信していた。
そんな高校生活に胸を膨らませ、入学して早くも女の子に声をかけときめきを振りまいていた松野。だが、出汁子はその声かけにも「よくわからない、あんた」の一言で一蹴。その日、松野は痛烈な敗北を味わせてきた出汁子を特別に意識をし始め、言い表せぬ高揚感を感じ始めた。それが松野の恋心、である。
一方の栄翔は出汁子と利害の一致から協力関係を結んだ。理不尽な先輩が握る弱みを握りつぶそうと立ち向かった先に起こったのは謎のオカルト現象。出汁子との仲は悪くはないものの、今は会うたびに心配事が想起されてしまう。
出汁子との出会い方が違う二人。彼女に対する認識は全く違うものである。
「お前は脳天気でいいよな」
「真剣だよオレ!」
ヘラヘラした元気よい返答の後、一間の沈黙。今日の出会い頭から様子がおかしかったが、栄翔が本当に息が詰まっているのだと見て松野はそろりと腰を下ろす。
その松野の様子を察知してか、出汁子の話から思い出してか、栄翔は今の自分の悩みに関わる質問を松野に投げかける。
「……そのさ。変なこと聞くけどいいか?」
「ホントどうしたんだ? 深刻な顔してさ」
「もしも、の話。お前、自分と同じ顔の他人が急に出てきて「お前のことを知ってる」とか「お前の力が必要」とか言われたらさ、どうする?」
「……は?」
一瞬の硬直。松野がてっきり音楽の悩みについての質問だと思い、身構えていたために起こった沈黙。その様子が気まずく、栄翔は手のひらで覆った顔を逸らす。
「ごめん。忘れろ」
「いや、いや。待てって。突拍子もないコト言われたから面食らっただけだって。栄翔って関係ない話するタイプだと思ってなかったからさ」
栄翔にとっては大事な話なのかもしれない、と松野は焦りながら弁解する。その身振り手振りが栄翔のため息を生む。
「……そうかよ」
栄翔の機嫌をなだめたと見るや、腕を組んで改めて真面目に考える素振りを見せる松野。栄翔は松野に体を向き直し、返答を待つ。
「ドッペルゲンガーってやつでしょ? オレだったらまあ……出汁子ちゃんをどうやって振り向かせるか二人で考えるかな。あ、でも出汁子ちゃんは二人はいないしなぁ……」
そして返ってきた答えを聞いてまた体をそっぽに向ける。
「聞かなきゃよかったかも」
「真面目に答えたよ、オレぇ? ていうか、お前の考えはどうなんだよ」
人差し指を栄翔の顔に向け不服を訴える松野。自らの心とは裏腹に明るい松野に一息吐いて、栄翔は意識せず左手を後頭部にやり浮かない顔で自分の答えを語る。
「……俺は断った、全部。同じ顔だろうが、困ってようが、素性の分からない相手だし。ていうか、同じ顔なんて余計に怪しいだろ? 打ち解けることなんてできないよ」
聞きながら松野はスティックシュガーに手を伸ばし、首を傾げながらスティックシュガーの封を切る。
「なんか愚痴みたいだなぁ、その言い方」
「間違っちゃいない」
スティックシュガーが松野の紅茶に注がれていく。平常通りに見える松野の態度に、今は悩まないように努めた方が良いのだと栄翔に思い至らせる。
「ごめん、ありがとう。続きやるか」
そして自分のミルクココアを一口啜る。なにかに夢中になる以外ないと、栄翔はスマートフォンと繋がった鍵盤を叩いて音を探り始める。松野も紅茶をかき混ぜていたスプーンとスカした笑顔を栄翔に向ける。
「おう、やってくれ!」
呆れた笑みと共に、栄翔もいつもの調子で松野に指を差し返す。
「やってくれじゃねえって。お前も……!?」
そのタイミングで栄翔は思考に音が響いている事に気がつく。
金属が周期的にしなるような音。徐々に音量は大きくなってくる。栄翔の頬に冷や汗が流れる。
「あの音……!」
怪奇の予兆か、何なのか。あの日聞いた音と同じ響鳴に、思わず栄翔は立ち上がり、周囲を見渡す。血相を抱えた栄翔の突然の行動に驚き松野の体は少し跳ねる。
「ど、どうした?」
「お、おいおい……追手が来るとか、こ、殺されるとか、アイツが言ってたこと本当に……?」
松野の声を気にせず注意を凝らす栄翔の視界、先日音が響いた直後に発生した空間の裂け目は無い。発光物や不可解な現象が起こっている様子もない。
だが、音はやはり鳴り、大きくなってきている。心臓の鼓動が混じり、焦燥感を掻き立てる。無意識に挙動がせわしなく変わっていく。
「おい、栄翔!」
「!」
依然として音は聞こえる。だが、松野の声を張った呼び声に栄翔は我を取り戻す。息を整え周りを見ると、片眼鏡の店長が恐る恐るという表情でこちらを見ていた。
「尋常じゃないぞ、今のお前」
松野は栄翔をなだめるために自らも立ち上がり、栄翔の隣に寄って肩をさする。
「あ、ああ……ごめん」
栄翔は自分がこんなに取り乱すとは思っていなかった。そんなショックと鳴り続ける音に苦悶の表情を浮かべながらうなだれる。
まだひと月経つかという程の付き合いではあるが、どうやら栄翔は大きな問題を孕んでいるのだと松野は察した。だがしかし、事情を探るより兎にも角にも落ち着くことが先決だと栄翔の肩をさすり続ける。
数秒の後、あらゆる音に交じって鐘の音、扉の音が店内に響いた。
「い、いらっしゃいま……あら?」
店主は入口を見て声をつまらせる。そして栄翔の顔を見直す。直後、入り口からこちらに向かってツカツカと床音が鳴る。
今の店主の反応で察した栄翔は眉間にシワが寄せた。
「……なんなんだよ、全く」
壁とショーケースの間に靡く黒い長髪、華奢な体つきだとわかる女性のシルエット。どこか落ち着いた佇まいの彼女の顔は、そこにいる誰もが見た顔だった。
「え、栄翔……!?」
空間の裂け目からの来訪者の一人、栄翔と瓜二つのパッヘルである。
「カノン、もう時間がないの」
静寂の中、二人は相対す。