あと一回だけ。それはまるで駄々をこねた子どもが発するような言葉。
しかし彼はそれを、結局3回ほど口にしてしまった。
来年度からトレセン学園に入学する予定のニシノフラワーという少女の走りを見て、不覚にもトレーナーである彼はその走りに魅せられはじめていたのだ。
当初は彼女の受け入れを断るつもりだったのにも拘わらず。
「何度も走らせてしまい申し訳ございませんでした」
練習コースでそう彼は頭を下げるが
「いえ!大丈夫ですっ!」
ニシノフラワーの顔には満面の笑み。そして達成感に満ちあふれた明るい雰囲気。
身体にもたらされた疲れより、目の前のトレーナーに対しての「手応え」を強く感じているからだろう。汗に濡れた顔をそのままに満足そうに、しゃんとしていた。
彼、トレーナーが練習コースで確認したかったのは、彼女が一瞬見せた煌めき、瞬発力という武器についてだった。
第四コーナー出口からホームストレッチに向けて、向き変えをする際に一瞬貯めたと思ったら、抜群の加速力を見せた彼女。何度か条件を変えて彼女に走って貰う中で、彼は確証を持った。彼女が見せた一瞬の煌めきは、偶然でなく、どんな局面でもある程度発揮できるものだと。
例えば直線から第一コーナーまで走って欲しいという要望に対しては、スタートダッシュを鋭く決める。コーナーの出口から直線に向く際に一気に走るよう課題を出せば、その通りに彼女は実行してくれた。
(この歳で、この体格で。この瞬発力はすごいな・・・)
と目の前の飛び級の小さな少女を彼は見て、そして確信する。ただの家の七光りの少女ではない。確かにトレセン学園が特待生として選んだだけの実力はあるものと。
「どうですか、トレーナーさん?」
そう話しかけてきた駿川たづなに
「確かに、すごいですね」
とトレーナーは頷いた。
その言葉に
「当然ッ!彼女はトレセン学園が選んだ特待生なのだからなッ!」
と満足そうに秋川理事長も胸を張った。
時刻はすっかり13時を越えていた。昼休憩もなしに、ただ練習コースを走っていたニシノフラワー。そして昼食など忘れ、彼女の走りを何度も見ていたトレーナーであるが、そろそろ宴もたけなわといった所だろう。トレーナーが申し出た、面談の時間は終了へと近づいていた。
「ありがとうございました!」
14時頃。トレセン学園、駐車場。
ジャージから私服に着替え終え、黒色のクラウンが待機する中で、ニシノフラワーは、トレーナー・秋山理事長・駿川たづなに頭を下げた。
「いえ、こちらこそ」
とトレーナーも軽く会釈する。そこにあったのはあどけない少女の満面の笑み。面談だけの予定だったはずが、トレセン学園のトレーナーの前で走ることになった彼女だったが、その顔に一点の曇りもなかった。
「来年の入学ッ!楽しみにしてるぞッ!」
と秋川理事長が扇子を広げて声を掛け
「また会いましょうね、ニシノフラワーさん」
と、駿川たづなが彼女に微笑んだ。
「はい!よろしくお願いします!」
と彼女は言うと、さらに一礼。そしてクラウンの後部座席のドアを開け、そこに座ると窓を開けた。
「ありがとうございました!」
彼女が手を振るのと同時に、ゆっくりとクラウンは走り出す。そしてその走り去る車をいつまでもトレセン学園の3人は見ていた。
そして敷地外に車が出て行き、その姿が見えなくなると
「感謝ッ!ご苦労だったッ!」
と秋山理事長がトレーナーにねぎらいの言葉をかけた。
「いえ、こちらこそお疲れ様でした」
とトレーナーが秋山理事長に見直ると、彼女は満足そうな笑みを浮かべ、腕を天に突き上げ背伸びをする。
「いやぁ!よかったよかった!!!これで万事解決だなッ!!!」
と満足そうに駿川たづなに見直り、
「そうですね、理事長。これで安心ですね」
とたづなも彼女に笑顔を見せた。
そして
「それじゃ、トレーナーさん。来年から宜しくお願いしますね」
と彼女は微笑むと、秋川理事長と連れだってその場から歩み去って行く。
そんな2人をただ眺めていた彼だったが
(・・・・・・ん?)
何か大切な事を忘れていることを今更思い出す。
それは、当初の目的。
飛び級で入ってくる名門出身のウマ娘、ニシノフラワーの担当は荷が重いと、それとなく断り、軟着陸させてこの場を収めること。
「あ・・・・・・」
すっかり彼女の走りを見るのに夢中になり、大目標をすっかり喪失していたことに今更彼は気づいたのだった。
そして
「これ・・・僕、何も言ってないけど・・・」
彼の脳裏に漂うのは
「トレーナーやる流れになった、よな」
もう断ることなどできないという自覚だった。
途端彼は額に手をやり天を仰ぐ。どうして大切なことを忘れているんだ。もうどう考えても断れないじゃないか。ウマ娘の走りに熱中するがあまり、自分の間抜けさに笑いがこみ上げてくる彼である。
彼の視界に広がるのは、秋晴れの広く高い空。
何もかもを飲み込むかのようなその白みがかった青空を見ているうちに、思い出すのは、小さな身体から繰り出す鋭い走り。ニシノフラワーの姿だった。
それを思い出すとある程度がどうでもいいものに思えた。
なにはどうあれ、ニシノフラワーは才能があるウマ娘には違いない。
「まぁ・・・重賞勝てる位にはなってくれそうだし・・・」
と自分を納得させるかのように呟くと
「ま、いいか」
と言い、彼もトレーナー室へ歩みを進める。
もうすぐ教え子達のトレーニングが始まる。さっさと遅めの昼食を取って、今日の準備を進めないと。
そう仕事へ意識を切り替える彼だったが、知らず知らずのうちに、彼の口元には晴れやかな笑顔で満ちあふれていた。
夕方、トレーナー室にて。
「来年から、もう一人受け持つことになった?」
「はい」
トレーナーと黒鹿色の髪の毛のウマ娘、パパラチアは机に向き直っている。彼女は彼が受け持つウマ娘の中で、唯一現役を続行する子である。他のウマ娘は卒業ばかりだから、ある程度連絡は遅れてもいいとして、彼女には一言、早めに言っておかないとと感じた彼。それはすぐさま彼の口から語られることになった。
「・・・随分、早いじゃん」
パパラチアが言うのも最も。まだ11月なのに来年の新入生の話。
長い髪を右手で触りながら視線を合わそうとしない彼女に
「特待生ですからね。今日面接して参りましたけど、素質のあるいい子でした」
と話しかける彼である。
「ふーん・・・」
しかし、そんな言葉に興味が特にないように。彼女は素っ気なく返事をする。決して彼と視線を合わせることなく。
そんな態度を察してか
「なにかありますか?」
と彼は問いかけた。
その言葉に眉を細めつつも
「あー・・・、私のこと、ちゃんと今まで通り・・・教えてくれるなら、別に」
と彼女は返した。
(本当にプライドが高いんだよな・・・この子)
と彼は思い、脳内で苦笑する。それと同時に繊細な子でもあるとも彼は思っている。
素直に甘えることも、人に頼ることも出来ない不器用さ。にも関わらず、放っておくと悪い気性が顔を出し始める厄介さ。
そんなガラスのような心象を抱えた彼女。そんな彼女にはどんな言葉が響くのか。
それを考えた彼は、にっこりと微笑み
「そうですね。それじゃ、今日も始めましょうか。1月の洛陽ステークスに向けて」
と、次のレースを口にする。
「はい」
その言葉に彼女の顔が動き、彼の方に向き直った。
1月、京都レース場、オープンレース、芝1600m、洛陽ステークス。
クラシックを終えた彼女が迎える初戦の舞台。芳しい結果を出せなかったクラシックとは異なり、シニアでは必ず結果を出そうと、二人の心は燃えていた。
11月の秋風が冷たくそよぐ、空の下で。
11月中旬、月曜日。
トレーナーは愛車のカローラツーリングを走らせ、ある場所に向かっていた。
場所は東京都郊外、某市。
事の始まりは、秋山理事長からの電話である。ニシノフラワーの保護者がトレーナーの顔が見たいと言っている、だから面会に行って欲しいとのこと。
それを承諾しない理由はなかった。というより拒否することが出来なかった。名門の保護者が会いたいと言っているなら、トレーナーとしては応じるのが礼儀であり道理である。
少々、いや、幾ばくかの不安を持ちつつも、教えられた住所に彼は車を走らせる。
「でっかい家だな・・・」
そして到着して思った第一の感想。いくら東京の郊外とはいえ、その指定された場所は、非常に大きな日本家屋だった。
家の周りには白い漆喰の壁が巡らされ、車でも優に入れる漆塗りの大きな正門がそびえ立つように彼の目に映る。
「さて・・・どうしたものかな」
と、頭を捻らすと車を正門の近くの路肩に止め、ふとトレーナーは考える。
「・・・ん?」
するとインターフォンが門のすぐ傍にあることに気づいた。
そこで一旦車から降り、インターフォンを鳴らしてみる彼である。トレセン学園から来たと告げると、ゆっくりと門が開かれた。
「すいません、車はどうすればよろしいですか?」
『敷地内に駐車場がございます。そのままお入り下さい』
「分かりました」
そう会話を終えると、車戻りイグニッションボタンを押す。ハイブリッドカー独特の静かなモーター音がし、彼は車を回し始めた。
車に乗ったまま門をくぐると、そこに目の前に広がったのは日本庭園。よく庭師が入っているのだろう、樹木の形に崩れが見当たらない。白い砂利敷きの駐車場に車を止めると、すぐに家から着物姿の女性が姿を現した。
「遠路、ご足労ありがとうございます。こちらへどうぞ」
と促されるままに女性の後ろを彼は歩き、家の中へ入れられる。
下駄箱に靴を入れ、家の中を神妙な顔つきで歩む彼。
(これは・・・とんでもない所に来ちゃったな・・・)
と脳裏で呟きつつも、窓の外に映る、太陽の光に照らされた池や庭を眺めて歩くうちに、
「こちらへどうぞ」
と通されたのは和室の応接間だった。
漆塗りのテーブル、そして椅子が向かい合って4脚そこにあり、そこに座るよう促されると
「少々お待ち下さい」
と女性は一礼し、静かに障子が閉められた。
時刻は13時。窓の外から聞こえるのはかすかに鳥の声。秋の太陽の光が差し込む中で、彼は腕を組み、ぼんやりと天井を眺める。
少ししてお茶が出され、
「申し訳ございません。会長ですが、少し遅れるようです。あと15分ほどお待ち願えますか?」
と先ほどの女性にそう言われ
「承知しました」
と彼はにこやかに返事をした。
結局、ニシノフラワーの保護者が到着したのは20分後の事だった。
白髪の目つきの鋭い老人が
「待たせた、申し訳ないのう」
と言い、
「すいません、お待たせしました」
とその後ろから現れた眼鏡をかけた恰幅の言い中年の男性がそう頭を下げた。
「いえ、とんでもございません」
とトレーナーも椅子から立ち上がり二人に一礼すると、
「こんにちは」
と明るい声色の女の子の声がした。
中年の男性の傍からひょっこりと姿を現した彼女のことをトレーナーは知っていた。
「ニシノフラワーさん、こんにちは」
それは紛れもなく、彼が来年から受け持つことになったウマ娘、ニシノフラワーだった。
トレーナーは椅子を一つ向かい側に移動させ、トレーナー1人、ニシノフラワーの保護者の老人と男性、そしてニシノフラワーの3人で向かい合う姿勢となり向かい合った。
「さて、君がフラワーのトレーナーか」
「はい。来年からフラワーさんを受け持たせていただきます。宜しくお願い致します」
話を切り出したのは老人の方だった。先ほど応対した女性が『会長』と呼んでいたのはこの人物だと察したトレーナーである。そしてその横に座った男性は特に話そうとする素振りはない。
つまり
(この老人が・・・ニシノ家のトップってことかな)
と気づいた彼である。
その後、挨拶を交わそうとするうち
「んん・・・?」
老人の顔が少し歪んだ。
何かを確かめるような、探るような顔をした彼に
「あの・・・」
少し遠慮した調子で彼が問いかけた。
「いや、どこかで見た顔なんじゃが・・・」
と老人が言うと
「会長、今年の桜花賞の・・・」
すかさず隣に座った男性がそう言い
「あぁ!!!」
その言葉に老人の目が見開かれ、『すっきりした』と言わんばかりの顔つきとなった。
「今年の桜花賞!センパフローレンスを桜花賞に導いたトレーナーではないか!?」
そして語られたのは、彼の実績。少し熱をもったかのような声色で、はじけるように老人は話す。
「えっ!?」
と意外そうな声を上げたのはニシノフラワー本人だった。そして男性の方を向くと、男性もにっこり笑って頷く。
そしてニシノフラワーの視線は目の前のトレーナーに注がれた。まさか自分を担当するトレーナーから、今年の桜花賞ウマ娘が出たなどと、このとき初めて知ったという驚きとともに。
「あ・・・よくご存じで」
当の本人のトレーナーは、その栄冠を全く意に介す様子もなく、穏やかな顔で頭を下げる。
「確か雑誌かテレビか、どっかで見た顔じゃと思ったんじゃよ!!!」
「恐縮です」
すっかり上機嫌になった老人を見て、トレーナーは安堵のため息を心の中で漏らした。
気難しそうな印象を老人に抱いた彼であるが、何も言わずとも勝手にご機嫌になってくれた。このまま波を立てず、面談が終わるといいな、と期待しつつ。
しかし彼がそう思ったのもつかの間、
「あ・・・」
と老人の顔が固まった。
そして
「いや、すまん軽率じゃったな」
と、言葉を続け、少し彼から視線を逸らした。
「?」
トレーナーが首をかしげると
「センパフローレンスのことじゃよ」
とどこか決まり悪そうに老人は言葉を続けた。
「いえいえ、お気になさらず」
その言葉ににこやかに言葉を返した。
今年の桜花賞ウマ娘、センパフローレンスは無敗で桜花賞を制した。ここまでの戦績は5戦5勝だった。
そして次の戴冠、オークスは二着だった。しかし一着との差は3/4バ身差。しかもレースの途中で骨折しての敗北。まさに実力では負けてはいない、天の下した悪運を呪うしかない、そんな敗北だったのだ。
幸いにも骨折の経過は軽く、続く秋華賞へのリベンジを誰もが期待していた。しかし、それは叶わなかった。
何故ならば、彼女はその後屈腱炎を患い、引退することが決まったのだから。
しばらくとりとめの無い話をトレーナーと老人、お互いにするうちに、すっかり老人はトレーナーの事が気に入ったようである。
「なぁ、お前。このトレーナーならフラワーを預けても安心じゃわ!!!」
と老人は隣に座った男性に話すと
「そうですか、会長」
と、彼はにこやかに言葉を返す。
「何せ、桜花賞を取らせた事があるんじゃからのう!!!うちのフラワーならもっと凄くなるかもしれんぞ!!!」
「そうですね、会長」
すっかり盛り上がっている老人の態度を見て、貼り付けたような笑顔を保つトレーナー。
その反面
(そろそろ・・・切りのいい頃合いだな)
と思い始めた彼である。
時刻は14時は過ぎているだろう。1時間あまりの時間を使って、十分お互いに話したし、老人からのトレーナー自身の印象も全く悪くはなさそうだ。
適当に理由をつけ、そろそろトレセン学園に帰ろうと、腕時計を覗きはじめたその時だった。
「そうじゃ!そうじゃ!!!無敗のトリプルティアラも夢ではないかもしれん!!!」
上機嫌そうな老人の声が部屋に響いたのは。
「・・・・・・・・・え?」
その言葉にトレーナーの顔が固まり、低い声色の疑問の声がぽつりと出される。
しかしそんな声など全く老人の耳には入っていないようである。
(今・・・無敗のトリプルティアラって言った?)
とんでもない目標が出たと思ったのもつかの間、興奮した様子の老人はさらに言葉を続けた。
「それどころか天皇賞も有マも出れるほどになるかものう!!!!!」
「ハハハ、なるほど」
勝手に盛り上がる老人、そしてそれに相づちを打つ男性。雰囲気に合わせたようににこにこと笑うニシノフラワー。
そんな三者三様の様子を見て、トレーナーの脳裏に言葉がぐるぐると漂う。
無敗のトリプルティアラ、天皇賞、有マ記念。まだ入学する前のウマ娘にそこまでの期待を掛けるこの老人。
その様子をうかがっているうちに
「よし!!!!!」
と老人は椅子から立ち上がると
「フラワーを宜しく頼むぞ!!!!!」
と言い、トレーナーの肩を力強く両手で叩いた。
「・・・・・・精一杯、頑張らせて、いただきます」
「うむッ!!!!!」
半ば死んだ目で彼は微笑み、そう応えると、老人はそんな彼の様子など一切気にすることなく
「それではわしは次の予定があるのでこれで失礼する!慌ただしくてすまんが、寛いでいってくれッ!!!」
勢いよく椅子から立ち上がり、部屋を後にした。
「・・・・・・ありがとう、ございます」
と彼も頭を下げる中、
「すみません」
と声のトーンを絞って声を掛けてきたのは、老人の隣に座っていた恰幅のいい男性だった。
困ったような笑顔で頭を下げる彼に、トレーナーは少し光明を見た気がした。明らかに彼の期待は度を過ぎている。そしてそれを感じている人物がニシノ家にもいる。それが今の態度からも読み取れた彼だったが
「ですが」
と彼は前置きすると
「会長も期待しているので、頑張って下さいね」
と、感情のこもっていない微笑みをそのままに、無情な言葉を彼に放つ。
トレーナーの望みは早くも断たれた。
「はい・・・」
それを聞いて、どこか吹っ切れたような、そして疲れたような精一杯の笑顔で、返事を返すのが精一杯となっていたトレーナーだった。
(やっぱり・・・受けるんじゃ・・・なかった・・・・・・)
心に責任という名の斤量が本格的に襲いかかってきたのは、彼がこの家を出た後のことだった。
同日、夕刻。トレセン学園、トレーナー室にて。
「無敗のトリプルティアラ」
そう彼に話すのは、担当するウマ娘の一人、パパラチアだった。
「・・・はい」
彼にしては珍しくすっかり疲れた調子で、椅子に持たれこむように座り、力なく返事をする。
彼はパパラチアに今日の顛末を全て話した。それは単純に来年から彼女の後輩となるウマ娘の事を伝えたいというのが半分、そして残りの半分は心労の元となった出来事を聞いて欲しいという気分からだった。
その態度を見て、パパラチアは顔色を一切変えず、
「そのおじいちゃん、夢見過ぎじゃない?」
とトレーナーに言い放った。
誰もが栄冠を目指してトレセン学園の門をくぐる。誰もが栄光を取れると信じて、ウマ娘をトレセン学園に送り出す。
しかし現実はそういうものではない。トリプルティアラどころか、まともに勝ち上がれるか、1勝できるかすら難しいものだと彼も彼女も知っている。
そういう意味で、トレーナーにとって、目の前のウマ娘は、ある意味最高の理解者だった。
「・・・何、笑ってるの」
だからだろう、知らないうちに笑顔が彼の口元に浮かんでいた。
「いえ、別に」
咎められたことで、どこか心持ちが軽くなったトレーナーは首を左右に伸ばし、軽く髪をかき上げた。
少しだけ気分が楽になったトレーナーの脳裏に浮かんできたのは本日のトレーニングのこと。考えても仕方ないことで時間を取ってもどうしようもない。そう考え、椅子から立ち上がろうとしたその時、
「まぁ、でも」
とパパラチアは切り出し
「アイツなら・・・出来たかもね。無敗のトリプルティアラ」
どこか遠い目で、頬に手をやりそう呟いた。
二人の頭に浮かんでいたのは、肩まで伸ばした明るい鹿毛の髪を、ふんわりと整えたウマ娘の姿。笑顔のまぶしい今年の桜花賞ウマ娘。そして今年で卒業となる、センパフローレンスの姿だった。
時は流れる。
枯れ葉が落ち、冬の風が吹き、そしてゆっくりと訪れる暖かい伊吹の声。
河川敷にはつくしが頭を出し、蝶が舞い、ツバメが軒下に巣作りをし始めるそんな時期を迎える。4月である。
桜が咲き誇るトレセン学園の前に、一台の黒いクラウンが止まる。
そこから降りたのは、小さなおかっぱ頭のウマ娘。
「それじゃ、行ってきます!」
と運転手に声を掛けたウマ娘の名はニシノフラワー。
満面の笑顔で、そして緊張と期待を胸に抱えて、彼女はトレセン学園の門を遂にくぐったのだった。