6月上旬、月曜日。
その日はすっかり夏の青空が天に広がり、太陽の光が煌めいていた。
朝にも拘わらず若干蒸し暑い空気を纏いながらも、パパラチアの心はすっかり澄み渡っていた。
前日のレース、安田記念。そこで念願のG1タイトルを手に入れた彼女である。
最初は達成感しかなかったものの、徐々にこみ上げてくるのは勝利の喜び。それを噛みしめながらトレセン学園に彼女は歩みを進める。
そんな最中
「パパやん」
と彼女の後ろから話かける声がした。
聞き慣れた声に彼女が振り向くと、そこには鹿毛色のショートカットのウマ娘が歯を見せて笑っていた。
「ミラちゃん」
そう呼びかけるパパラチアの顔も穏やかに笑みを浮かべている。
彼女の名前はミラクルウェイブ。パパラチアからすると、一つ下のウマ娘であるのだが、学年の隔たりなく、二人はどうしてか仲が良かった。
「おはよ!」
「うん、おはよ」
挨拶を交わし並んで歩く二人。
そんな最中
「パパやん、安田記念見てたよ!おめでとう!」
と彼女の顔をのぞき込むようにミラクルウェイブが話しかけ
「ありがと」
と照れくさそうにパパラチアが頬をかいた。
「すごかったね、最後の直線の追い込み!最後にヘリオスに届いたとき、・・・もう身体が震えちゃったよ!」
前日の安田記念。彼女は最後方からの追い込みを選んだ。自分が苦労の末に掴んだ走り。マイル戦というスピード勝負の舞台で一見不利極まりないその戦法だったが、乾坤一擲の作戦は功を奏した。
パイペースで進んだ前半戦が尾を引き、軒並み前方集団が垂れた展開も味方した。後方から全体を見渡し、最高のライン取りを見付けてからの一直線。残した体力を溜め込んだ脚を全て吐きだし、好位置につけていたダイタクヘリオスをゴール手前で躱しての大金星。いまでもその感触が彼女の脚に宿っている。
しかしその事をあまりつつかれるのは恥ずかしいのだろう
「それより、アンタはどうなの」
と話を逸らす彼女。
「えっとね、4月にメイクデビューして、この前の条件戦で勝てたんだ!もうすぐオープンクラスに届きそうなんだ!」
元気はつらつに彼女はそう笑う。
「そっか・・・、頑張るんだよ」
「うん!」
その笑みに穏やかにパパラチアは頷き、ミラクルウェイブは嬉しそうに笑った。
1つ下のウマ娘が今年の4月にメイクデビュー。一見、奇妙な話に映るだろう。普通であれば、もうメイクデビューを終えて、クラシック戦線に参加しているはずの立場。
実は彼女、トレセン学園に入学して早々、大病を患いジュニアクラスのキャリアを全て棒に振っている。
そして、メイクデビュー寸前に骨折した不運にも見舞われ、結果、クラシックからは縁の一切無いキャリアを選ばざるを得なくなったのだ。
それでも彼女は前に向いて走り続けようとしていた。そんな彼女にパパラチアも励まされると同時に、彼女を応援したい気持ちを常に持ち続けている。
ふと、早蝉の鳴く声が聞こえてきた。
天には太陽が、新緑が輝く世界の中で
「もう、夏だね」
ぽつりとパパラチアが呟く。
「そうだねぇ」
とミラクルウェイブもそれに合わせる。
もうすぐ7月、中央四大レース場の芝が入れ替わり、中央の地方レース場で盛んにレースが行われるそんな時期。
もうすぐ、夏合宿が始まろうとしていた。
「夏合宿、ですか」
同日、夜。ニシノフラワーは同室のウマ娘にそう話しかけられた。無機質な瞳。表情の乏しい機械的な端正な顔つき。
彼女の名はミホノブルボンという。
「はい!」
そんな無表情の彼女に満面の笑顔でニシノフラワーは答える。
「理解不能。夏合宿に行くのは、クラシッククラス・シニアクラスのウマ娘のはず。私達はまだ行けません」
彼女の言うことは道理だった。しかし
「いえ!私はシニアクラスのウマ娘を教えるトレーナーさんに受け持っていただいてますので、一緒に夏合宿に行くことになったんです!」
と彼女は告げる。その瞳には期待の光が宿っている。それにミホノブルボンは頷くと
「理解。ニシノフラワーさん、気を付けて行ってきて下さい」
と告げた。
「はい!ありがとうございます!」
と彼女は微笑む。
「あと、そこで・・・」
そして言葉を続けた彼女は
「私のメイクデビューなんです!」
とミホノブルボンに言った。
その声は少しだけ震えていた。はじめてのレースへの、期待と不安を心に乗せた色合いが乗っているかのように。
7月上旬、札幌レース場。
日曜日、第4レース。メイクデビュー。ダート1000m。
天候は晴、バ場は良。
「どうだった?」
指定観客席に戻ってきたトレーナーにパパラチアは話しかける。
「まぁ、緊張してましたね」
と苦笑気味にトレーナーは言った。
無理もない。これがはじめてのレース。誰もがはじめて通るその舞台。それがメイクデビュー。
未知の世界に脚を踏み入れ、これからのキャリアをスタートさせる。どんな結果になろうとも、勝とうと負けようと、全てがここからはじまるのだ。
「それで、なんてアドバイスしたの、あの子に」
髪を左手で触りながらもそう首を傾ける彼女に
「まぁ、一般的な事を」
と彼は答え、彼女の隣の席に座った。
彼がアドバイスをしたこと。ゲートはちゃんと出ること。ペースを考えて走ること。そしてまずは自分の走りたいように走ること。
コースの特徴も勿論話している。だが、何よりまず一番大事なこと。それは無事に帰ってくること。それを一番強く伝えた彼であった。
ふとダートコースの上にいるウマ娘達に二人の視線が向く。そこにいたのは10人のウマ娘。
毎年、ウマ娘のメイクデビューを見る度に、本当に因果なレースだとトレーナーは思ってしまう。
この10人のうち、勝ち上がれるのは1人だけ。残り9人は未勝利戦に回る。
そしてメイクデビューを超えたウマ娘は、次のレースに挑む。ジュニアクラスで好成績を収めた者はクラシックへ、そうでない者は条件戦へ。
このメイクデビューというレースはその最初の分岐点なのだ。この先G1レースで栄冠を掴むウマ娘も、そこそこの重賞でタイトルを取るウマ娘も、そして夢に破れて去って行くウマ娘も、すべてのウマ娘が通るレース。それがメイクデビュー。
「あのさ」
感傷に浸る彼に、パパラチアが話しかけた。
「そういえば、なんであの子、ダートでメイクデビューなの?」
トレーナーの顔をのぞき込むように話しかけるパパラチア。彼女の疑問も最もだった。本来は芝に適性があるニシノフラワーである。わざわざダートにする理由.
それを告げられていなかった彼女。
怪訝な顔をする彼女に
「あぁ実は・・・、あの子、張り切りすぎたんです」
とトレーナーは告げた。
「はぁ?」
パパラチアが『分からない』という顔をし、その態彼は彼は苦笑する。
「メイクデビュー前に張り切りすぎて、オーバーワークしたんですね。それで若干、脚を痛めたんですよ。ですから不本意ながらもダートを選びました。脚の負担が少ないですからね」
その言葉に、切れ長の目を見開いたパパラチアである。
椅子に深く座り込むと
「・・・・・・気づかなかった」
とぽつりとこぼした。
同じようにトレーニングをこなしていた彼女であるが、まさかそこまで、脚を痛めていたとは気づくことができていなかった。
「無理もないですよ。平気な顔してましたから、彼女」
そうフォローするようにトレーナーは笑い
「案外あの子、あぁ見えて頑固なんです。弱みを見せずに意思が固い」
そうダートコースに視線を移して彼は言葉を紡ぐ。
「ふーん・・・」
そんな彼を見て、頬杖をついて脚を組むパパラチア。
そんな彼女の隣で
「・・・誰かさんとちょっと似てますね」
とぽつりと言ったトレーナーの言葉に
「何か言った?」
とパパラチアが反応し
「いえ、何にも」
それを笑いながらごまかすトレーナーだった。
『さぁ、ゲート開いた!』
ばらけて駆け出す10人のウマ娘。遂にニシノフラワーのメイクデビューが始まった。
彼女の枠は10人中5番枠。真ん中からのスタート。
『ハナを切ったのはニシノフラワー!』
勢いよくスタートを切り、早速ハナを奪うニシノフラワーである。流石の瞬発力と言ったところか。
札幌レース場のダートコースは1週1487m。今回は第二コーナー出口からのスタート。まずは263mの直線が彼女の前に現れる。
(スピード・・・出にくいな)
と脚にかかる砂の感触を確かめながら前へ前へ。
短い直線が終わり、すぐに第三コーナーに差し掛かる。
(えっと・・・ここは・・・)
トレーナーの言葉を思い出すニシノフラワー。
「札幌のコーナーは緩いのが特徴です。スピードを若干緩めるだけでこなしていけますが・・・」
その言葉通り、若干減速するだけで、ゆるやかなコーナーに身を委ねていく彼女。ふと内ラチ沿いに目が行く。彼女の走っている場所はコースの真ん中より少し内沿い。コースを短く取った方が短く効率的に走れそうな気がするが
「内ラチ沿いに走ってはいけませんよ。何故なら砂が深い場所がある事が多いですから。脚を取られてしまいます」
トレーナーの言葉を思い出し、決してラインを変えたりはしない。
後続とは2バ身差。そこそこのリードを保ちつつ第三コーナーの終わりを迎え始める彼女。
そして第四コーナーに入る手前、最もコーナーがきつくなるこの箇所で、彼女は少しスピードを落とした。
『先頭は依然としてニシノフラワー!1バ身ほど離れてグレートダイヤモンド!ホワイトライターが続きます!』
後続のウマ娘がじわりと近寄ってくるが、
「えいっ!」
抜群の向き代えをし、依然として先頭のまま、第四コーナーへと入っていった。
観客席にて。
双眼鏡を手に持ち、立ってレースの様子を見ていたトレーナーだったが、第四コーナーを先頭で駆けていくニシノフラワーの姿を見ると双眼鏡を下ろし、椅子に座ってしまった。
「え?」
とパパラチアがその様子を見て途惑いの声を上げ
「どうしたの?」
と尋ねる。
そんな彼女に彼は微笑んで
「勝ちましたよ」
と一言言い放った。
「勝った、って・・・」
その言葉の意味が分からず困惑するパパラチア。まだニシノフラワーのメイクデビューは残り300m程残っている。
顔をしかめて立ち尽くすパパラチアに
「まぁ、見てて下さい」
とトレーナーは微笑んで言った。
トレーナーの目に映っていたのは、教えられたことを忠実に守る教え子の姿。
もしも、いっぱいいっぱいでレースをしているのならば、ここまで正確に教えを守れるはずがない、と彼は思った。
そして双眼鏡から確認できたのはダートに残った彼女の足跡。一切の乱れがないその道筋は、彼女の体力に余裕があることを示している。
さらに彼女はまだある煌めきを彼の前で見せていない。
彼が初めて会った時、彼女に惚れ込んだ素質の原石。カミソリのような切れ味鋭い瞬発力。
トレーナーの思いを余所に、ニシノフラワーはダートコースを走り続ける。第四コーナーがもうすぐ終わり、札幌の短い直線が10人のウマ娘の前に現れようとしていた。
『さぁホームストレッチ!先頭は依然としてニシノフラワー!!!』
実況が叫ぶ最中、
「はいっ!!!」
脚を一瞬貯め、向き変えを行い、抜群の加速力で直線に向く彼女。
『ニシノフラワー先頭!!!ニシノフラワー先頭!!!後続を突き放していくニシノフラワー!!!』
(嘘うそうそ!?!?)
(まってよぉ!!!)
後続の困惑の視線がニシノフラワーの背中に刺さる。
しかしそんなこと一切彼女の気持ちに傷をつけなかった。
『ニシノフラワー、差を開いていく!!!2バ身!!!いや、3バ身!!!』
彼女の前には誰もいない。
彼女を邪魔する事など誰も出来ない。
明らかに違う加速度。慣れないダートにも拘わらず、誰も彼女を捉えることができない。
当に横綱相撲。格の違いをまざまざと見せつけた彼女は
「ね、言ったでしょう?」
とトレーナーがパパラチアに微笑んだその瞬間、
『ニシノフラワー!!!一着でゴールイン!!!』
後続に4バ身差の圧勝で、メイクデビューを終えたのだった。