9月上旬。東京都府中市、トレセン学園。
トレーナー室にて。
トレーナーはパイプ椅子に座った二人のウマ娘の前に立ち、
「まずは二人とも、夏合宿お疲れ様でした」
爽やかな微笑を携え、トレーナーが声をかける。
それに対して
「はい!」
元気いっぱいに返事をするニシノフラワーと、
「ん」
頬杖をついて返事をするパパラチア。
夏合宿を終えて、トレセン学園に戻ってきた三人。
ニシノフラワーはメイクデビューを終え、そして函館ジュニアステークスでG3タイトルを獲得。
パパラチアも練習で力をつけ、負けたとは言え、G2函館記念でハナ差の二着と健闘。
二人にとって実りのある夏合宿であった。
「さて、ここからですが、秋のレースシーズンが始まります」
とトレーナーが言い
「パパラチアさん」
まずは先輩のウマ娘に向き直る。
「貴方の今後のローテーションですが、9月下旬のスプリンターズステークス、そして11月下旬のマイルチャンピオンシップ。ともにG1です」
その言葉に
「はい」
と背をただし、頬杖をやめて、トレーナーの言葉に耳を傾ける。
「出てくるウマ娘も先日の安田記念同様、皆ハイレベルな子達ばかりです。気を抜かず行きましょう」
「はい!」
パパラチアの気合いのこもった返事に、満足そうに頷くと
「続いて、ニシノフラワーさん」
「は、はい!」
後輩のニシノフラワーの方に向き直った。
「貴方のローテーションですが、11月前半、デイリー杯ジュニアステークスを予定しています。G2レース、京都の芝1600です」
「はい!」
「先日の函館ジュニアステークスはメイクデビューを終えた子ばかりでしたが、11月の後半ともなれば、レースを経験している子や、メイクデビューを秋に行った実力者が合流して、単純にライバルが増えているものと思って下さい。ですからそう簡単には勝たせてくれないと思った方が賢明です」
「はい!」
闘志と緊張感が伴った声色。それに深く頷くと
「このレースで結果を出せれば、12月上旬、阪神ジュベナイルフィリーズに登録する予定です」
その言葉に少しニシノフラワーの目が見開かれる。
「マジか・・・」
とつぶやき、隣に座ったパパラチアは思わずニシノフラワーの顔を見た。
阪神ジュベナイルフィリーズ。G1レースにして、ジュニア級ティアラ路線の最高峰レース。これに勝てば、ジュニア級ティアラの女王である。
「が、頑張りますっ!!!」
その事はニシノフラワーも分かっている。ここまで2戦2勝。順調な滑り出しをした彼女であるが、果たしてどこまで彼女の脚が伸びていくのか、全てを決めるのは彼女と彼女のトレーナーの手の中だった。
「さて、では本日のケイコを始めましょうか」
そうトレーナーに言われ、アップをした後、二人が移動し到着した場所。そこはトラックコースではなかった。
「えっと・・・ここは・・・」
とニシノフラワーが、首を傾げる。彼女の目の前に広がったのは傾斜のついた直線。地面は芝ではなくウッドチップ。
「あ、アンタそういえば初めてだね、坂路」
と隣に立ったパパラチアが声を掛けた。
その発言に頷くニシノフラワー。
そう、ここは坂路コース。
「あ、そうでしたか。すみません、うっかりしてました」
とトレーナーが話し
「しっかりしなよ、トレーナー」
とパパラチアが突っ込んだ。
それに苦笑して頭を下げると
「今日から坂路コースをケイコに取り入れていきます。ちょっと伺いたいのですが、ニシノフラワーさん」
と言い、ニシノフラワーの方に向き直る。
「はい!」
彼女の返事に
「中央四大レース場といえば、どこでしょうか?」
と問いかけるトレーナー。
それに対して
「はい!中山レース場、東京レース場、阪神レース場、京都レース場ですっ!」
と間髪入れず、彼女はよどみなく答えた。
「はい、その通り。よく勉強していますね」
トレーナーは微笑みながらそう言い
「そしてこの四つのレース場は、G1レースのような大レースが行われる場所であり、ティアラ路線での主戦場となっていきます。そして、どのレース場にもあるもの。それが坂道です」
と彼女に説明する。
続けて
「坂道のある箇所はコース毎に異なりますが・・・避けて通ることは出来ません。それに慣れるのもありますが、坂道は体力・パワー・そして勝負根性を養うのに最適な練習場所。ですから今日から、出来れば1日1回は必ず坂道のケイコを取り入れて行きます。いいですね?」
とニシノフラワーに確認するように説明した。
「はい!」
それに元気よく返事をするニシノフラワーに、
「よろしい」
と彼は頷き
「では、早速始めて行きましょうか」
とニシノフラワーとパパラチアに促した。
「それでは行きますよ!」
コースの外で、トレーナーは原付のスクーターに乗ってそう二人に呼びかける。
「はい!」
「いいよー!」
ニシノフラワーとパパラチアがそれぞれ返事をすると
「それでは・・・よーい、どん!」
と彼が言ったその刹那、二人は勢いよく坂道を上り始めた。
傾斜2%のついた坂道を勢いよく上っていくニシノフラワーに
(あ・・・結構やるじゃん)
その横で走るパパラチアはそう思った。
併せウマで今まで何回か走ってきたとはいえ、本格的な坂道コースはニシノフラワーにとってこれが初めて。
入学したての時は身体がトレーニングに慣れていないことを鑑み、身体が出来てからと意図的に坂道を避けてきた、そんなトレーナーの方針のためである。
にも拘わらず、短い歩幅を存分に生かし、速いペースでぐんぐんと彼女は前へと進む。
しかし直線の半ばも過ぎると
(き、きつい・・・)
脚の重みとともに、ニシノフラワーの心の中で、そんな思いがじわりと広がり始めてきた。
「コースの全長は1085m。傾斜が途中で何度か変わります」
そのトレーナーの言葉を思い出し坂道を必死に上るニシノフラワー。
もう半分を過ぎた。あと少しだけ、と彼女は思う。
しかしその反面、1085mと言われたその言葉にひっかかりを感じていた。どう考えても今半ばを過ぎたコースの全長はそれより遙かに短い。
(トレーナーさん・・・コースの長さ、間違えたのかな)
と思いながらも必死に坂道を上り
「はいっ!!!」
ニシノフラワーは直線を走り抜け、脚を止めた。
(やった・・・!できた!)
心の中で浮かんでくるのは満足感。初めての坂道コースをこなせたことに対しての達成感。
そして、この位の坂道なら、一日に何度もこなせるという自信が彼女の心の底からあふれ出で始める。
そんな最中、一人のウマ娘が彼女を置いて走り去っていった。併走していたパパラチアである。直線の行き止まりに至って、右の角を曲がり、そのままどこかに消えていく。
「・・・え?」
とあっけにとられるニシノフラワーに
「ニシノフラワーさん!コーナーを曲がって!まだ坂道は終わってません!」
と原付にて併走していたトレーナーが、コース外から拡声器越しで彼女に呼びかけた。
「えっ?」
「右です!みーぎー!」
と言われ、パパラチアが走り去っていった右角に向けて、慌ててニシノフラワーが走り出す。
そして彼女の目の前に広がった物を見て
「うそ・・・」
と思わず、ニシノフラワーは呟いてしまった。
そこにあったのは先ほどの倍の長さの直線。傾斜も先ほどのものより明らかに急である。
「ニシノフラワーさん!まだ300mしか走ってませんよ!!!」
そう言われ愕然としながらも
「は、はいっ!!!」
と彼女は言い再び走り出す。
先ほどの終わりと思い込んでいた直線はあくまで坂道コースのコーナー地点。まだ3分の1も坂道コースは終わっていなかったのだ。
「ここからは傾斜3%!570mの直線です!脚を細かく動かして止めない!返事はいりません!走って走って!!!」
トレーナーの言葉を耳に入れながらも必死に坂を上るニシノフラワー。
しかし、長い坂道が彼女の体力を奪う。脚が痛み、肺が痛み、身体中に汗が噴き出てくる。
だが何より
「ペース落ちてますよ!もっと脚を動かして!!!」
最もニシノフラワーが消耗している場所、それは心だった。
上れども上れども坂道が延々と続く。必死に走ってもいつまで経っても終わらない。心がどんどんとすり減っていく中で
「残り300mを過ぎますよ!!!」
とトレーナーに言われ、どうにか心の明かりが甦り始める。
もう半分以上を過ぎた。残りはあと僅か。
必死の脚を動かすニシノフラワーだが
「なに・・・これ・・・っ!!!」
残り200mを切って、脚がさらに重たくなった。
それもそのはず。ここから100mは傾斜が4.5%とさらに上がる。
「頑張れ!!!頑張れ!!!あとちょっとです!!!」
トレーナーの声を受け、ニシノフラワーは必死に脚を進める。もう先に走っていたパパラチアがゴールし、クールダウンしはじめた背中が彼女の瞳に映る。
「うぅぅんんん・・・!!!」
歯を食いしばり必死に坂道を抜け、そして最後の100mに差し掛かった。ここからは傾斜が1.25%と緩くなる。
「一気に走る!!!」
とトレーナーの声が響く中、根性を振り絞るようにウッドチップの直線を駆け抜け
「はい!よく出来ました!!!」
どうにか坂の頂上へ。ニシノフラワーはへとへとになりながらも、初めての坂道コースを終えたのだった。
初めての坂道コースの練習を終えて、クールダウンするニシノフラワー。
汗でべたべたに濡れた身体を引きずるように走る中、一人のウマ娘がペースを落として彼女に併走し始めた。パパラチアである。
「どうだった?初めての坂道コース」
パパラチアに声を掛けられたニシノフラワーは
「すっごく辛かったです・・・」
と素直に心情を掃き出した。
げんなりとしたその顔を見て、パパラチアは苦笑する。
(アイツも意地悪だな・・・)
そして思ったのはトレーナーの対応である。
彼はコースの全長は説明したが、300m付近から右に曲がる事は言ってなかった。もし自分が初めて坂道を上ったのなら、残りの約800mの直線の坂道を見て愕然としただろう。ただ、それでも彼女は坂を登り切った。つまりそれは、それだけのフィジカルと心の強さがあるという事の証左でもある。
おそらくわざとニシノフラワーに説明せず、心の強さも試し、そして鍛えようとしたのだろうと彼女は思った。
想定外の事態はレースでもあり得ること。いざというときに活きるのは、単純な身体能力だけではない。想定外の事態を目の前にしてそれを撥ねのける、タフなメンタルも重要なのだ。
「二人ともお疲れ様でした。それでは続いてコースにてケイコを続けましょうか」
二人に原付で併走してきたトレーナーがそう言い
「はい」
とパパラチアが苦笑いをし
「はい・・・」
へとへとになりながらもニシノフラワーも答えたのだった。
同日、トレセン学園、栗東寮、夜。
「坂路コースですか」
ニシノフラワーは同室のウマ娘、ミホノブルボンにそう問われた。
「はい」
ベッドに身体を横たえて返事をするニシノフラワー。
初めての坂路を加えたトレーニングを終えて、脚が棒のように痛む彼女である。いつもの姿勢を正して相手の話を聞くような、そんな余裕さえ彼女にはもう全く残っていなかった。
「もう・・・くたくたです。坂路のお稽古ってすっごくきつかったです」
と言う彼女に対して
「理解。坂路トレーニングは確かに身体に甚大な負荷が加わります」
と表情を変えず、ミホノブルボンは頷く。
その言葉に首だけを彼女に向けて
「え・・・ブルボンさん、坂路のお稽古ってやってるんですか?」
と何の気なしにニシノフラワーが聞いた。
それに対して
「はい。1日3セットほど」
とミホノブルボンが答え
「3セット!!??」
その答えに身を起こし、驚きの叫びを上げたニシノフラワーである。
大声にびくっと身体を震わしたミホノブルボン。それもそうである。いつもは穏やかで和やかな小さなウマ娘が突然大声を上げたのだから。
「驚かせてしましましたか。申し訳ございません」
と彼女は頭を下げるが
「い、いえ!私こそすみませんっ!!!」
とニシノフラワーは起き上がり、彼女に頭を下げ返した。
少し間が空いて
「でも・・・びっくりしました。あの坂道を3セットなんて・・・」
と感嘆の声を上げるニシノフラワー。
「マスターの指示ですから」
と胸に手を当てミホノブルボンはそれに応じた。
無表情で淡々とした答え。それに対して、ニシノフラワーの心にある疑問が持ち上がってくる。
「あの...」
「はい、なんでしょうか」
「辛くないんですか、坂道」
それがミホノブルボンに語られたその瞬間
「辛いです」
すぐに彼女は答えを返す。
「ですが」
そして言葉を続け始めた。
「マスターは言いました。努力は才能を凌駕すると。私はマイルまでの距離適正しかないとの評価を受けています。しかし、マスターはそうは思っていません。努力をすれば、どんな壁もいつかは越えられると。そんな私に、マスターはクラシック三冠を一緒に取らないかと提案してくれます。私は・・・そんなミッションのため、1日3セットの坂道を必死にこなしているのです」
よどみのない言葉。すらすらと抑揚のない調子で語られる声色。しかし、それに熱をもっていない訳がない。そのはずがないとニシノフラワーは思った。
どう考えても1日3セットの坂道コースは異常である。しかし目の前のウマ娘がそれをこなしているというのならば、並大抵の決意ではないと、彼女は思う。
だから、いくら表面的には冷たく無機質な表情をしていても、本質は炉から出でた鋼のように熱く強く、鍛えられたものに違いないと彼女はそう感じたのだ。
途端、少しニシノフラワーは自分自身が少しだけ、頼りない物に感じた。
(トレーナーさんと、ともに歩むミッション・・・かぁ)
ミホノブルボンの言葉を反芻するごとに思うのは、自分自身の目標。
無敗のトリプルティアラ。
しかしそれは誰が望んだ目標なのだろう。
少なくとも、ニシノフラワー自身がそうなりたいとは思った物ではない。
思い出すのは老人の顔。彼のしわくちゃな笑み。そしてそれを持てはやす周囲の大人の言葉が知らず知らずのうちに、ニシノフラワーの回りに漂い、そしていつしか彼女の進む道になっていた。
しかしそれに向けてトレーナーも彼女を的確にトレーニングするようにしてくれている。ニシノ家の大人達もバックアップをしてくれている。
彼女自身もそれに不満はない。だが、どうにも目の前のミホノブルボンというウマ娘と比較すると、自分自身が矮小なものに思えてならないニシノフラワーだった。、
「あの・・・」
言葉を発せず呆けているニシノフラワーを見てミホノブルボンが話しかける。
そんな彼女に、いつもの柔らかな笑みを作ると
「ありがとうございます、勉強になりました」、
と言い、
「すみません、今日は大分疲れたみたいです。お先にご無礼しますね」
と続け、再びベッドに横たわった。
「分かりました。私も今日は就寝します」
と彼女も頷き、部屋の明かりが消される。
「それでは、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
とお互いに挨拶をし、静かな夜が訪れる。
布団にくるまったニシノフラワーはただ、ミホノブルボンの言葉を反芻していた。
自分自身の目標。どんな苦難を乗り越えてでも、毎日が辛くても苦しくても叶えたい彼女の「ミッション」。
それを思っている内に、
(ブルボンさんみたいに・・・なれればなぁ・・・)
との思いが溢れてくる中で、ニシノフラワーの意識はまどろみ、夢の淵へと沈んでいった。