(これは「民法の一部を改正する法律(平成三十年法律第五十九号)」施行前の物語である。)
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場所、施設名等の固有名詞はたとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。
僕は元来早起きだ。気ままな一人暮らしをしていた頃は学生でもあったし、朝は何時間でも寝ているという生活もしていたが碑文谷に来てからは重い病気だった裕ちゃんの面倒をみなければならなかったこともあり自然と早寝早起きの習慣が身についてしまった。早寝早起きは人間が動物として持つ本能であり、一度その本能を取り戻してしまうと早寝早起きの方が楽なのだ。
年度も新しくなり、妻のチャコも高校二年生へと進級した初めての土曜日、僕はいつものように早く目を覚まし、二階の寝室から階下へと階段を降りていた。そこでふと僕は階下に人の気配を感じた。誰かがリビングでテレビを見ているようなのだ。あるいは昨夜、チャコが電気とテレビをつけっぱなしで眠ってしまったのかなとも思ったのだがやはり人の気配がする。チャコはさっき僕が寝ていた隣のベッドで眠っていることを確認している。そもそも土曜日の朝、チャコが僕と同じ時間に起きることなどありえない話なのだ。
そう思いながら廊下から頭だけ出してリビングを覗くとそこには昨夜放映されたテレビ時代劇「忠臣蔵」を見ているチャコと同じ顔の少女が長いソファに座っていた。テーブルには数袋のおかしが散乱し、ストローで飲むタイプのカフェオレが置かれていた。
「おはよう、マコちゃん。何やってるの?」
僕は昨年の十月から加入したアイドルチームのユニフォームを着ている眠そうな少女に声をかけた。一年前、この妻と瓜二つの双子の妹に出会った頃はしばらく二人の区別がつかず、恥ずかしい思いもさせられてきたがさすがに今ではいかなる状況でも二人の区別がつくようになった。
「あっおはよう。お兄ちゃん相変わらず早起きだね。まだ寝てていいのに。」
まるでこの家の住人のような口のきき方だ。
「なんでここにいるの?まあ鍵はチャコから預かってるのがあるんだろうけど。」
「う~ん、昨日収録があったんだけど今朝の三時頃までかかっちゃって、家に帰るのも面倒なんでこっちに寄らしてもらいました。チャコちゃんに『忠臣蔵』の録画もお願いしてたし。早く見たかったから。」
時代劇を録画してまで見る女子高生もマコちゃんくらいのものだろう。
「収録って『スタジオL』の?」
「ううん。クイズ番組。この四月からレギュラーもらったんだ。」
マコちゃんは僕とテレビ画面を交互に見ながら受け答えした。時代劇はクライマックスのようで僕もマコちゃんの隣に腰掛け、画面を見た。三分くらいすると「続く」のクレジットが出た。
「はあ~面白かった!」
マコちゃんはリモコンを手繰り寄せテレビを消した。
「予告編は見なくていいの?」
僕はマコちゃんに聞いた。
「予告編見ちゃうと来週のストーリーが気になって気になって一週間落ち着かないの。だから予告編は見ないようにしてるんだ。その方が先入観なく見られるからかえって面白いんだよ。サブタイトルも見ないようにしてるの。」
なかなか渋いコメントだ。
「マコちゃん徹夜だよね?」
「うん。もう眠くて眠くて。お兄ちゃんのところで寝かせてもらってもいいかな?お母さんには泊まりになるって言ってあるし。」
「まあいいけど、なんか大変そうだね。」
「うん。急に売れっ子になっちゃったからね。あっ、それから春菜ちゃんとのユニット、正式に決まったよ。ユニット名は『ザ柏崎』。」
「随分、渋い名前だね。」
「うん。春菜ちゃん柏崎の出身だし、あたしも本籍地は柏崎だからね。それにあたし漢字が好きだし。で、柏崎で行こうということに。発売は五月二十一日になった。これからキャンペーンが始まるよ。」
「ハードスケジュールになるね。」
「まあ好きで入った道だから我慢できるけどね。それにとっても楽しいし。これもお兄ちゃんのお陰だよ。」
「そんなに大変なんだったら……」
と言って僕は言葉を飲み込んだ。心にもないことを言おうとしてしまったのだ。
「えっ、何?」
「いや、なんでもないよ。」
「やだなあ、気になるじゃない。何?」
「だからなんでもないんだよ。」
「そう言われると余計聞きたくなるなあ。教えてよ。」
「いや、心にもないことを言おうとしたんだよ。」
「だから何?」
「心にもないことだから言いたくないよ。」
「じゃあ聞かなかったことにするから教えてよ。このままじゃ気になって眠れないよ。」
どこまでも我がままな少女だ。
「大したことじゃないよ。マコちゃんがそんなに大変ならここに下宿すればって言いそうになったんだよ。」
「えっ、いいの?」
僕は言ってしまったことを後悔した。やはり心にもないことは何があっても口にしてはならないのだ。何を言っても真意が通じないという人が世の中にはいる。身近にも。
「だからそうは言ってないってば。」
「本心でなくてもいいよ。応援してくれる人がいるってだけでうれしいや。そうか、居候させてもらえると楽だな。ありがとう、お兄ちゃん。そんなこと言ってくれて。でも不思議だなあ。」
「何が?」
「一年前、あたしチャコちゃんの結婚に一番反対してたんだよ。お母さんやお父さんより。政略結婚なんてかわいそうだって。それなのに今じゃお兄ちゃんのこと一番頼りにしてるもんね。お兄ちゃん、本当にいつもありがとう。じゃあお休みなさい。」
そう言うとマコちゃんはテーブルの上は散らかしたまま眠そうにリビングから出て行った。本当に眠そうだった。
僕はマコちゃんが散らかしたものを片付け、コーヒーを入れておやつを準備し、ダイニングで新聞を読み始めた。一応、政治家見習いである僕の朝一番の仕事は新聞を読むことなのだ。そのうちチャコが起きてきた。いつもの土曜日よりは早い時間だ。ダイニングの扉が開き、さっきと同じ顔の少女が顔を出した。パジャマ姿でまだ眠そうだ。
「おはよう。今日は早いね。」
僕は声をかけた。
「おはよー。ああ良かった。啓一さんいたんだ。」
「どうしたの?ああ、マコちゃんか。」
「そう。啓一さん今朝は起きるの遅いなあとか思ってたら隣のベッドで寝てるのがマコちゃんなんだもん。びっくりしちゃった。魔法でもかけられてマコちゃんになっちゃったのかと思ったよ。啓一さんのパジャマ着てたし。」
「……」
「あるいは階段からおっこった拍子に啓一さんとマコちゃんの心と身体が入れ代わっちゃったとかね。」
チャコはダイニングテーブルの僕の前に座り、僕の飲んでいるコーヒーを一すすりした。
「もしマコちゃんと僕が入れ替わってたらどうするの?」
「まあそれはそれでいいかな。あたしは啓一さんの中身に惚れてるんだから。外見はあまり関係ないかなあ。で、どうしたの?どうしてマコちゃんがいるの?」
「マコちゃんにここの鍵預けたのはチャコでしょ?僕が朝起きたときにはマコちゃんリビングで『忠臣蔵』見てたよ。」
「ああ、マコちゃんに録画頼まれたんだ。」
「そう?で、昨日、収録が徹夜で、終わりが今朝になって、『忠臣蔵』どうしても見たくてこっちに来たんだって。」
「ああ、レギュラーもらったクイズ番組か。で、啓一さん、マコちゃんと何かあったの?」
「何かって?」
「いやあ、オーディションのときマコちゃん『合格できたらお兄ちゃんにすべてを捧げてもいい』って言ってたでしょ?その手形が落ちたのかなあとか思っちゃって。」
僕は大きく深呼吸した。
「確かにありえない話じゃないかもしれないけど、もしそうだったとしても普通は妻の寝てるベッドの隣でそういうことにはならないんじゃないかなあ?」
「普通はね。でも啓一さんもマコちゃんも常識に囚われないから。」
チャコはケロリと言った。返す言葉がなかった。僕は話題を変えた。
「ところで今日はどうするの?特に予定はないよね。まあ溜まっている家事をやるんだろうけど。」
「そうだね。でも午前中で終わるんじゃないかな。お昼過ぎたら久しぶりに実家にでも行ってみようかな。」
「ああ、そうだね。マコちゃん忙しいから最近お店手伝えないよね?お義母さんのところ大丈夫かなあ。」
僕はチャコとマコちゃんの実家の中華料理屋さんを心配した。
「それが大丈夫なんだって。マコちゃん効果っていうか、マコちゃんのお陰でお店は大繁盛してるみたいよ。マコちゃん目当てのファンの人がわんさか来るんだって。」
「じゃあなおさら手伝う人がいないと駄目なんじゃない?」
「中途半端に流行ってるとそうだけどね。でも大繁盛なんで人が雇えるようになったんだって。」
「ああそうか。じゃあマコちゃんもお店のお手伝いから解放されたんだ。」
「そう。だからどれくらい繁盛してるのか見てきたいんだあ。啓一さんも来る?」
「そうだな、そういう話なら僕も行きたいな。」
ということでチャコと僕はさっさと朝ごはんをすませ、溜まっている家事を片付けてお昼頃、マコちゃんは寝かせたままチャコの実家の中華料理屋さんへ向けて出発した。
碑文谷の僕の家からチャコの実家まではなんとか歩いて移動できる距離だ。春の日差しが気持ちよく、チャコと僕は久しぶりの二人きりの散歩を楽しんだ。チャコの実家と僕の家の間を散歩するのはこれが二回目だ。前回はそう、入籍したその日だった。もう一年がたつ。チャコはあの日と同じ自由が丘女子高等学校の制服を着ている。ここの高校は保守系のいわゆるお嬢様学校であるが、外出するときはプライベートでも常に制服を着用しなければならないという信じられない校則があるのだ。だから休日の外出でも制服着用が義務付けられている。
「なあチャコ。」
僕は一緒に歩いているセーラー服の少女に話しかけた。
「ん?」
「実はね、さっきマコちゃんに心にもないことを言っちゃったんだよ。」
「何?心にもないことって?愛の告白とか?」
なんかチャコの態度が攻撃的だ。
「なんかさっきからつれないねえ。」
「ゴメンゴメン。啓一さんとマコちゃんが仲いいんで嫉妬してるんだよ。前にも言ったと思うけどあたし啓一さんのことが大好きだから相手がなんであれあたし以外に興味が向くと冷たくなっちゃうんだよ。こればっかりはどうしようもないから気にしないでね。啓一さんがマコちゃんと仲好しになるのは本当はうれしいんだから。もちろんあたしもマコちゃん大好きだし。……で、何言ったの?」
「マコちゃん大変そうだったから『そんなに大変ならここに下宿すれば?』って言ったの。もちろん本心でないことも言ったけどね。」
「えっいいの?」
この子もマコちゃんの同類だから真意が伝わらないこともある。
「だから本心ではないんだってば。」
「そっか。でもマコちゃんが一緒にいてくれるならあたしはうれしいけどな。」
「そう?」
僕はマコちゃんに引っ掻き回される恐怖の方を先に感じていた。
「うん。最近、啓一さんあまり家にいないからあたしも寂しいし。」
それは僕にも責任がある。通常国会が開催されている。次回の衆議院議員選挙に柏崎から立候補する予定の僕は形式上、参議院議員の大物でチャコとマコちゃんの祖父である白石権蔵先生の秘書ということになっていて政治家見習いの身分なのだ。だから国会開会中は忙しいのだ。
「それにマコちゃんと一緒だと着るものが助かるんだ。」
「着るもの?」
「そう。あたしって着るものに無頓着なの。下着も含めてね。だから洋服とか自分じゃ絶対に買いに行かないの。マコちゃんは買い物大好きだからじゃんじゃん買うのね。それでマコちゃんの買ってきたものを着るってわけ。独身の頃はそれができたけど結婚してから難しくなっちゃったからね。まあ高校がプライベートでも制服の着用を義務付けてる高校だったんであたし的には助かってるけど。それでも下着はピンチかな。実はね今日はさすがにはくパンツがなくなっちゃって今、啓一さんのパンツはいてるの。」
「僕のパンツ?ぶかぶかじゃないの?」
「うん。新品なんで、ゴムがきついんでなんとか耐えてます。でもスカートめくられたらちょっとピンチかな。」
「そう、チャコは賛成なんだ。マコちゃんの居候。」
「あっ、でも啓一さんは嫌だよね?我がまま女が二人になったら大変だもんね。」
そう正面きって認められると「イエス」とは言いにくい。
「まあね。」
僕はあいまいに返事をした。
「いいよ。啓一さんのペースでやってね。まあ啓一さんもマコちゃんにはいい顔したいだろうから言いにくいことがあるならあたしに言ってね。」
そんな話をしているうちに目指す中華料理屋さんの前に着いた。
実家の中華料理屋さんの前に到着したときは既にランチタイムのピークは過ぎていたが、それでも十人ほどが列を作っていた。以前では考えられない光景だ。
「あたし達も今日はお客さんだから一応並ぼうね。」
チャコがそう言い僕たちは最後尾についた。途端に列の若者達が「チャコちゃんだ!」と騒ぎ始めた。自由が丘女子高等学校の制服を着ているのでチャコがマコちゃんではなく瓜二つのチャコであることはここのお店にわざわざ食べに来るほどのファンであればご存知のようだ。
「チャコちゃんですよね?」
僕たちのすぐ前に並んでいる少年が声をかけてきた。
「さあどうでしょう?マコちゃんがこの制服着てるだけかもしれないよ。」
チャコもノリノリだ。
「でもチャコちゃんでしょう。こないだテレビでこの制服で見分けるように言ってたからチャコちゃんですよね。マコちゃんはいないんですか?」
「マコちゃんまだおうちで寝てるの。昨日、収録で徹夜だったの。」
「ここのお店チャコちゃんの実家ですよね?」
「ええ。そうですよ。」
「チャコちゃんでも並ぶんですか?」
「今日はお客さんだからね。まあ、手伝いに借り出されちゃうかもしれないけど。」
「そうですか。」
そう言うと少年は僕の方を向き
「失礼ですが、マコちゃんのお兄さんですか?」
僕に聞いた。
「ええ。そうですけど。」
「そうですか。マコちゃんのプロフィールの理想の男性に『お兄ちゃん』って書いてあったんでどういう人かなって思ってたんですよ。」
(「そんなこと書いてたのか。面食いだったはずなのに。」)と僕は思った。
「でもこの人はあたしのお兄ちゃんじゃないの。」
僕が黙っているとチャコが答えた。
「スミマセン。よく理解できないんですけど。マコちゃんのお兄ちゃんってことはチャコちゃんのお兄ちゃんってことでもあるんでしょ?」
少年は核心を突いてきた。
「ところがそうでもないんだなあ。確かにこの人はマコちゃんのお兄ちゃんだけどあたしのお兄ちゃんじゃないのよ。」
チャコが答える。
「チャコちゃんとマコちゃんって双子ですよね。そんなことがありえるんですか?」
「簡単なことよ。」
「ひょっとして夫婦とか?」
「ピンポーン!」
「まさか。」
「現実はそういうこともあるのよ。こちらはあたしの大切な旦那様。『卒業』の作詞者の石水啓一さんよ。」
「ああそうか。ただならぬ関係って夫婦っていうことだったんですね。まあ真偽はどうでもいいや。掲示板にアップしてもいいですか?」
「それは別に構わないけど。」
チャコがそう言うので
「おい、ホントにいいのかよ?」
僕はチャコの耳元で小声でささやいた。
「いいよ別に。どっちみちいずれはばれる話だし。こういうのは早い方がいいと思うよ。」
チャコが小声で僕に答えるうちに少年は携帯端末を取り出し、ガチャガチャ操作し始めた。掲示板に投稿しているようだった。
そうしているうちに「啓一さん、どうもご無沙汰しています」と女性から声をかけられた。チャコのお母さんの幸子さんだった。会うのは正月以来だ。幸子さんはチャコやマコちゃんと同様、どちらかというと童顔なので実年齢よりもかなり若く見える。今年で三十五になるが僕と同い年といっても誰も不思議に思わないだろう。むろんチャコやマコちゃんの母親に見えるはずはなく、三人並ぶと誰が見ても歳のそう離れていない姉妹にしか見えない。幸子さんとチャコと僕の三人が並んで「どっちが僕の妻でしょう?」という問題を出したら百人中百人が幸子さんを選ぶことだろう。
「いつもチャコがお世話になってます。最近はマコまでお世話になって本当にご迷惑をおかけします。」
幸子さんがあまりにも深々と頭を下げるので僕の方がかえって恐縮した。
「いいえ。僕は何も……。」
とは言ってみたものの迷惑をかけられているのは事実なので後に言葉が続かない。
「それで、せっかくお休みのところお願いがあるんですが……。」
幸子さんが僕にお願いをするなんて珍しい、というより初めてだろう。
「なんでしょう?」
「チャコのこと少しお借りしてもいいでしょうか?」
僕はチャコを見た。
「あたしはいいけど……。」
「じゃあ手伝ってきてあげなよ。たまには親孝行だ。」
「うん。」
チャコがそう言うと「じゃあお借りします」と幸子さんはチャコの手をつかんで店の中に引っ張り込んだ。
僕一人が列に取り残された。一人残されると途端にマコちゃんファンの少年達との会話はなくなった。僕は元来トーク上手というわけではないから積極的に気の利いた話もできない。結局、そのまま二十分くらい待ってようやく店内に入り、着席することができた。
店内では当然相席で、四人がけのテーブルの隅に座った。僕の前では僕と同い年くらいのいい青年がラーメンをすすっていた。着席してしばらくすると、従業員である見慣れないお兄さんが注文をとりに来た。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「じゃあ、……ラーメン餃子を。」
まだ注文は決まっていなかったが目の前の青年と同じものを僕は注文した。
「はい。ラーメン餃子入りました!」
店員さんが大きな声を出すと厨房の中から「は~い!」とチャコの声がした。姿は見えない。
「失礼ですがマコちゃんのファンの方ですか?」
注文が終わると、目の前の青年が僕に声をかけた。
「はい。まあそうですけど。」
僕はやや曖昧に返事をした。「マコちゃんのファンか?」と聞かれれば答えは当然「イエス」になる。この世の中にマコちゃんの男性ファンが十万人いるとしてランキング表を作成すると第一位はお父さんの遼太郎さんがランクされ、僕は第二位にランクされるに違いない。そしてこの目の前の青年は一万七千八百五十六位くらいにランクされるのだろう。
「いやあ、同い年くらいの人がいて安心しましたよ。この歳になってアイドルのファンをやってるのも少しつらいですね。世間からは冷ややかな目で見られるし。でも好きなものは仕方ないですよね。実は昨日の夜行バスで仙台から来たんです。ここのラーメン食べるだけのために。」
それを聞いて僕の中の彼のマコちゃんファンランキングが一万七千八百五十六位から三百六十七位くらいまで一気にランクアップした。
そうするうちに厨房から割烹着を着たチャコが現れ、別のテーブルに料理を置いた。「マコちゃんだ!」と周りから声をかけられていたが、チャコは「ごめんなさい。マコちゃんじゃないの。双子の姉の方なの。まだマコちゃん寝てるんだ。せっかく来てもらったのにごめんなさいね。いつもマコちゃん応援してくれてありがとう。これからもよろしくね」というようなことを言うと僕に気付いた。
「ああ啓一さん。やっと座れたんだ。もう注文した?」
「うん。ラーメン餃子注文したよ。」
「そう。じゃあ啓一さんにだけ大サービスしちゃおうかな。チャーシュー特盛にしちゃうとか。」
「そういうわけにもいかないでしょ?普通にやってよ。」
「そうだね。ごめんねえ、せっかく来たのに一緒に食べられなくて。じゃあごゆっくりね。」
そう言うとチャコは厨房に下がった。視線を前に戻すとさっきの青年と目が合った。びっくりした目をしている。
「スミマセン。さっき何気なく声をかけてしまいましたがチャコちゃんとお知り合いなんですか?」
「はい。」
知り合いかと聞かれれば答えは「イエス」だ。
「何かとても親しそうでしたけどご家族の方とか。ひょっとしてチャコちゃんとただならぬ関係の人とか。……石水啓一さんですか?」
「ええ。でも今は白石を名乗ってますが。」
「ただならぬ関係ってどんな関係なんですか?やはり恋人同士とか?でも白石を名乗ってるってことは養子縁組でもして義理のお兄さんとかになってるんですか?」
「いや、実はチャコとは夫婦なんですよ。」
別に隠すことでもないし、情報はさっきの少年によって既に公知のものとなっているはずだ。それに下手に婉曲に言うとこの青年の思考回路をかえって混乱させてしまうだろう。僕がそう言うと隣とはす向かいでラーメンをすすっている少年の手も止まり三人が一斉に僕を見た。
「まさか。ご冗談でしょう?」
向かいの青年が言った。
「確かに信じがたい話かもしれませんが世の中にはそういうこともあるのです。」
「どういう事情なんですか?」
「それはランチの席で話せるようなボリュームではありません。特殊な事情があっての政略結婚です。まあマコちゃんこれだけブレイクしているし、そのうちマスコミとかにも出てくるんじゃないかと思いますよ。」
「この話ってシークレットですか?」
「いや別に隠すことでもないですけど。」
「じゃあ掲示板にアップしてもいいですか?特ダネなんで。」
「まあ構いませんけど。」
僕がそういい終わらないうちに向かいの男性はスマートフォンと思われる携帯端末を操作し始めた。マコちゃんの所属しているアイドルチームの掲示板に投稿しているようだ。そのうち目の前の青年が「ちー、もう投稿されてる」と舌打ちした。さっき並んでいた少年の方が僅差で勝利したのだろう。それから三人のマニアックな質問攻めに合い。僕は一々答えた。チャコは店内を忙しく駆け回り、マコちゃんの代わりに笑顔を振り撒き、店内に貼ってあるマコちゃんのサイン入り特大ポスターの前で記念写真に応じた。サインはさすがに断っていたようだがこれはチャコがマコちゃんのように達筆ではないからだろう。
しばらくしてようやく僕の「ラーメン餃子」をチャコが運んできた。
「お待たせしました~。ごゆっくりどうぞ。」
チャコは僕にも他の人と変わらない笑顔を見せた。
「なあチャコ、これからどうする?」
僕は回りに気付かれないようにそっと耳打ちした。
「どうって、あたしはしばらく手伝って行きたいけど。ごめんねえ。こんなことになると思わなかったんで。」
チャコもヒソヒソ声で僕に答える。
「それはいいけど今、みんなチームの掲示板にチャコがお店にいること投稿してるよ。これからファンの人がわんさか押し寄せてくると思うけど。」
「きゃ~、そうなんだ。じゃあ申し訳ないけど啓一さん先に帰っててくれる?それで一人で買い物とか少しのんびりしてきなよ。あたしはタイミングをはかって戦線離脱するから。」
「了解。じゃあ僕は食べ終わったらそれとなく抜けるからチャコも無理しないでね。」
「ほ~い。」
店内はにわかマコちゃんファンの集いのようだった。代役のチャコもそれなりに楽しそうで終始笑顔だった。僕はそそくさと「ラーメン餃子」を片付けると新しく入った店員のお兄さんに勘定を済ませ、チャコには声をかけず、同席のファンの人に軽くあいさつして引き上げた。
それから三時間くらいチャコもマコちゃんもいない、久しぶりに一人ののんびりした土曜日の午後となった。渋谷に出て本屋さんやCDショップを冷やかした。本屋さんではマコちゃんの所属しているアイドルチームの本を立ち読みしてみた。少女達のプロフィールが直筆で書かれていた。他のメンバーは漫画字だったがマコちゃんはさすがに達筆で活字のようだった。「理想の男性」欄に「お兄ちゃん、石水啓一さん」と書かれてあったのでちょっとほほえましく思った。これを見ただけの人は「お兄ちゃん」と「石水啓一」を別人と思うだろう。鈴木春菜のページも見てみた。出身地は新潟県柏崎市。これは当たり前だ。身長は百六十三センチ。思ったよりも低かった。僕よりもはるかに高いと思っていたのだ。それでもマコちゃんと十一センチも身長差がある。「理想の男性」は「石水啓一さん」と書いてあり笑ってしまった。監督する野島慎一プロデューサーあるいはマコちゃんやチャコにもそう書けと言われたのだろう。それから東急で学芸大学まで戻り、碑文谷公園を少し散策してから帰宅した。
帰宅すると玄関にまだマコちゃんの靴がおいてあったのでマコちゃんがまだいることがそれとなく分かった。家に上がりリビングに入るとチャコももう帰ってきていた、と思ったのだが僕は久しぶりにリビングにいる少女がチャコなのかマコちゃんなのか迷った。上は僕のパジャマを着て下は僕のパンツを丸出しにしている。まああられもない格好だが「きゃ~」と叫んだわけでもなかったし、さっき僕のパンツをはいていると言っていたのでチャコなのだろうと思った。
「ただいま。随分早かったね。もっとゆっくりしてきて良かったのに。」
と言った次の瞬間、リビングの扉が開き自由が丘女子高等学校のセーラー服を着たもう一人の少女が顔を出した。
「ちょっと、啓一さん!マコちゃん!何やってるの?信じられない!」
セーラー服の少女はそう叫ぶと「ぷい」と回れ右し、階段を昇っていった。僕はびっくりした。チャコとマコちゃんを間違えたのだ。そういえばマコちゃんは僕のパジャマを着ているとさっきチャコは言っていた。僕はチャコを追いかけ階段を駆け上がり、寝室の前でチャコに追いついた。
「違うよチャコ。誤解だよ。何もしてないよ。僕も今、帰ってきたばかりなんだ。そうしたらマコちゃんがあの格好でリビングにいたんだ。それだけだよ。」
「マコちゃんあられもない格好だったんだよ。普通は一緒にいるの遠慮すると思うけど。」
チャコはとても怒っている。不倫現場に居合わせたような表情だ。
「ゴメン。チャコだと思ったんだよ。」
「あたしとマコちゃんを間違えたって言うの?」
「はい。……仕方ないよ。一瞬だったんだから。」
「ねえ、それってひどくない?まだあたしとマコちゃんの区別がつかないの?別にあたしは啓一さんがマコちゃんといちゃいちゃするのはなんとも思わないよ。でも結婚して一年にもなるのにまだあたしとマコちゃんの区別がつかないのはちょっとひどいと思うけど。」
「悪かったよ。さっきチャコが僕のパンツをはいてるって言ってたんでてっきりチャコだと思っちゃったんだよ。」
「言い訳なんて聞きたくない。」
「ごめんなさい。」
「許さない。」
「どうすれば許してくれる?」
「う~ん、じゃあマコちゃんの居候を認めてよ。」
「えっ?」
何か無茶苦茶な論理のようだがさっき「マコちゃんが一緒だと着るものが助かる」と言っていたので整合性はあるのかもしれない。
「マコちゃんがここに下宿してもいいって言うなら許してあげる。どうなの?マコちゃんの居候を認めてくれるの?」
チャコは本当に怒っている。こんなチャコを見るのは結婚して初めてだ。マコちゃんと何もなかったのは事実だが、チャコとマコちゃんを見間違えたのは事実だし、それがチャコのことをひどく傷つけたというのであればその責任は僕にあるのかもしれない。とにかくチャコの怒りを納めなくてはならない。ここはのむしかないと思った。
「分かったよ。いいよ。マコちゃんの居候を認めればいいんだね。」
僕は諦め顔でぼそっと言った。
「そう?ありがとう。お兄ちゃん。」
目の前の制服の少女がにっこり笑ってそう言ったので僕はびっくりした。
「お兄ちゃん?」
僕は聞き返した。
「お兄ちゃんなら絶対に認めてくれると思ってたんだあ。」
制服の少女は屈託のない笑顔でそう言った。僕は頭の中を整理する必要があった。リビングで僕のパジャマを着て僕のパンツをはいていた少女は本物のチャコでチャコのセーラー服を着ていたのがマコちゃんだったのだ。僕は見間違いなどしていなかったのだ。普段はどんな状況でも見間違うことなどあるはずもないのだが変なところを見られたという動揺から混乱してしまったのだ。
「マコちゃん?」
「ん?」
「なんでチャコの制服着てるの?」
「ああこれ?お風呂入ったんだけど着替えがなくてね。ホント、チャコちゃん着るもの少ないから。だからなんでもいいやと思ってとりあえずあるもの着てみたの。」
「リビングのドア開けて変なこと言ったのは?」
「う~ん、自分でもよく分からないんだけどあたしとチャコちゃんって時々入れ替わるでしょ?チャコちゃんの格好をしてるとなんとなく自分はチャコちゃんなんじゃないかなっていう気分になるの。で、チャコちゃんの方があたしかなっていう気分にね。さっきチャコちゃんあられもない格好してたから、あれがもしあたしだったらチャコちゃんはきっとこういうこと言うんだろうなっていうことがついつい口をついて出ちゃったの。まあこれは自然現象だね。ねえ、チャコちゃん。今のお兄ちゃんの言ったこと聞いたよね?」
マコちゃんがそう言ったので僕は後ろを振り返りびっくりした。僕のパジャマの上を着て僕のパンツをはいた少女、すなわち本物のチャコがそこにいたのだ。
「うん。いきさつはよく分からないけど要するにマコちゃんがこのうちに居候していいってことでしょ?」
チャコはきょとんとした表情で言った。僕は返す言葉がなかった。僕の人生はいつだってこうなのだ。
「そうなると思ったんでね、ねえ、お兄ちゃん。こっち来てよ。」
自由が丘女子高等学校の制服を着た妹は僕の手をつかむと僕を寝室の隣の部屋に誘導した。後ろからチャコもついてくる。その部屋は一年前、この家にチャコが初めて来たときに僕がチャコにあてがってやった部屋だ。
「ほら!」
部屋の中は綺麗に整理されていて、物置に入っているはずの折りたたみ式のベッドが部屋の隅に整然と置かれていた。
「お兄ちゃんならあたしの下宿、絶対に認めてくれると思ったんでなんとなく整理してみました。ここあたしの部屋でもいいかな?」
マコちゃんは勝ち誇ったように言う。
「でもここはまだあたしの部屋だから、使ってもいいけどあたしも使うからね。」
チャコも頭からは否定しない。
「ほいほ~い。じゃああたしとチャコちゃんの部屋ということね。ごめんね、突然押しかけて。でも、あたしは若い二人の邪魔をするつもりは毛頭ありませんから。こっちに入り浸るつもりもないし、実家とお兄ちゃんのとこを行ったりきたりしようかなと思ってる。チャコちゃんいいよね?」
「啓一さんが良ければあたしは大歓迎だよ。これで着るものが助かる。今だって啓一さんのパンツはいてるんだから。」
二人は屈託のない笑顔で笑った。
「じゃあ居候させてもらえるお礼として今日の晩ご飯はあたしが作るね。」
マコちゃんが言った。
「マコちゃん、それよりお買い物行こうよ。着るものがいよいよないんだ。啓一さん申し訳ないけどクルマ出してもらえるかなあ?」
チャコが提案する。僕が意見する余地はなさそうだ。マコちゃんが口を開く。
「いいねえ。じゃあ晩御飯は外で何か美味しいものでも食べようよ。この制服着て行ってもいいかな?」
「いいよ。別にマコちゃんが自由が丘女子の制服着ちゃ駄目っていうルールはないもんね。」
「あたし美味しいお肉が食べたいなあ。昨日の夜から何も食べてないの。お腹ペコペコなんだあ。」
「じゃあ焼肉かしゃぶしゃぶかな?啓一さん、せっかくお休みのところ申し訳ないけどもうちょっとだけこの我がまま姉妹に付き合ってね。」
姉妹はそう言うと手をつないで階下に下りていった。