梅雨入り前の六月の土曜日の朝、僕はいつものように早く目を覚まし、リビングとダイニングを覗き少し違和感を覚えた。マコちゃんが帰宅した形跡がなかったのだ。マコちゃんが居候を始めてから、金曜日の夜は収録やらレコーディングやらで大概午前様になり、マコちゃんは僕が寝てしまってから帰宅する。帰宅して一服してからベッドに入るので、土曜日の朝一番の僕の仕事はマコちゃんの一服の後片付けをすることになっていた。しかし今朝はマコちゃんの散らかした後がなかったのだ。いつもの土曜日のようにコーヒーを飲みながら新聞を読んでいると八時頃になってチャコが起きてきた。
「おはようございます。」
チャコはパジャマのままダイニングの僕の対面に座った。まだ眠そうだ。
「おはよう。マコちゃんまだ帰ってないみたいだね。」
「おお、無断外泊か。」
チャコはそう言って僕の飲みかけのコーヒーを一すすりした。
「実家に帰ったんじゃない?それに無断外泊っていっても僕に断る必要もないと思うけど。僕はマコちゃんの親権者じゃないし。」
「もう保護者みたいなものよ。マコちゃん啓一さんのこと頼りにしてるし。帰ってきたら『電話の一つくらい寄こせ』って叱ってあげたら?そっちの方がマコちゃん喜ぶと思うよ。」
「そんなもんかなあ。」
「そうだよ。好きな人に心配してもらうってうれしいもんだよ。それにしてもマコちゃん、男でもできたのかなあ。」
それはそれで僕にとっては好都合だ。男でも作ってさっさとこの家から出て行ってくれれば僕の負担は確実に減る。
それからチャコと二人で朝ご飯の支度をしているとマコちゃんが帰ってきた。
「ただいま~。」
徹夜明けで眠そうだ。
「お帰り、マコちゃん。お泊りだったの?」
チャコが聞いた。
「うん。タクシーもつかまらないんでお泊りしちゃった。」
「男の人のおうち?」
「まさかあ。あたしがお兄ちゃんを差し置いて他の男にうつつを抜かすわけないでしょ。聡美ちゃんのマンションに泊めてもらったの。聡美ちゃん知ってるよね?黒田聡美アナウンサー。クイズ番組の司会やってる。」
「ああ、あのいじられキャラのね。」
僕が答えた。
「いじられキャラか。お兄ちゃんうまいこと言うね。」
「どこに住んでるの?」
「原宿だよ。前はお兄ちゃんと一緒に住んでたんだけど何年か前にお兄ちゃん死んじゃったんだって。」
「死んじゃったの?」
僕はびっくりして聞き返した。
「そう。まだ若かったのにね。とっても優しいお兄ちゃんだったんだって。で、今は一人暮らし。番組ではあたしといいコンビでプライベートでも仲好しになっちゃった。歳は聡美ちゃんの方が一回りくらいお姉さんだけどね。」
「無事ならいいんだけど、ねえ、マコちゃん。あたしもマコちゃんのことは信頼してるけど、お泊りするときは連絡入れてね。マコちゃんが帰ってこないんで啓一さんとても心配してたんだから。父親みたいだったよ。」
僕は大して心配していなかったがチャコがそう言った。
「そっか。お兄ちゃんごめんなさいね。」
「いいよ。気にしなくて。」
僕が言った。
「それで、ごめんなさい。今日も夜出かけて遅くなるの。そのクイズ番組の打ち上げならぬ中締めがあるの。」
「打ち上げならぬ中締めって?」
僕が聞いた。
「本当は打上げの予定だったんだけど視聴率で勝って、番組が続行することになったの。マコちゃんこれでも貢献したんだよ。この前出演者の人気ランキングが発表されてマコちゃんは堂々の第一位。聡美ちゃんが二位だったんだって。まあこれもあたしが聡美ちゃんをいじくりまくった結果だね。それで打上げの予定が中締めになったってわけ。」
「ふ~ん。まあ忙しいんだろうから身体の方、気をつけてね。」
僕が心配そうに言った。
「お兄ちゃん、心配してくれてありがとう。……ねえお兄ちゃん。もしね、もしもあたしに彼氏ができたらお兄ちゃんに一番最初に紹介するね。じゃあお休みなさい。」
そう言うと妹は階段を上がっていった。僕は朝ご飯を挟んでチャコと向き合った。
「チャコ。別に僕は心配なんかしてなかったぞ。」
「そう?まあいいじゃない。マコちゃんうれしそうだったし。あたしとマコちゃん、ネグレクトってわけじゃなかったけど、親からは干渉されてこなかったから心配してくれる人がいるっていうだけでとってもうれしいんだよ。」
「そういうもんかなあ。」
「そう。……で、黒田聡美アナウンサーなんだけど、啓一さん、実はよくご存知なんじゃない?」
「まあ別にチャコに隠すことでもないけど。」
「元カノとか?」
「そう。元カノ。二人はとても愛し合ってたんだ。」
「またあ。見栄張っちゃって。」
「なんで見栄なんだよ。」
「だって黒田アナっていったらミス東大だよ。啓一さんのことなんか相手にするわけないじゃない。」
「……」
「ゴメン。今のは言い過ぎでした。なんていうか、啓一さんの良さって一緒に暮らしてみないと分からないじゃない。だから……う~んフォローになってないなあ。」
「まあ元カノっていうのは嘘だから見栄と言われれば見栄だけどね。で、チャコはなんで知ってるの?聡美さんと僕が知り合いだってこと。」
「啓一さんと知り合いだってことは知らないよ。でも裕ちゃんとは東大の同期で親友だったんでしょ?」
「よく知ってるね?裕ちゃんに聞いたの?」
「なんとなくね。あたし、裕ちゃんが亡くなる二週間くらい前に裕ちゃんに呼ばれて会いに行ったって言ったでしょ。そのとき、別れ際に『これポストに入れといて』って手紙を渡されたの。表に黒田聡美様って書いてあって裏には病院の名前と裕ちゃんの名前が書いてあった。別に『この人誰ですか?』とは聞かなかったんだけど裕ちゃんの方から『東大の同期でアナウンサー仲間で親友。惜別のお手紙』って言ってた。それからテレビで黒田アナが出るたんびにそのこと思い出すよ。マコちゃんと同じ番組に出るようになったのはあたしもびっくり。でも黒田アナ、マコちゃんに裕ちゃんのことは話してないんだね。」
「そうなんだろうね。だから僕もマコちゃんには聡美さんのことを話せないでいる。親友だったのは事実だけど僕がぶち壊したことになってて、最後は絶交状態だった。だから最後に手紙出したっていうのも今聞いてちょっとびっくりしたよ。」
「じゃあ啓一さんは黒田アナとはそんなに仲良くないんだ。」
「うん。だからマコちゃんのクイズ番組の司会者で彼女が出てきたときはどうしようかと思ったよ。最後に会ったのは四年前かな。成田空港で平手打ちされてそれっきりさ。」
「ひっぱたかれたの?」
「そう。」
「お尻触ったとか?」
「そんなことするわけないでしょ。」
「じゃあ胸触ったとか?まさか強引にキスしたとか?」
「あのねえ、チャコ。僕がそんなことするような人間に見える?」
「見える。ハルナちゃんのお色気には耐えたかもしれないけど黒田アナって結構、啓一さんのタイプでしょ?」
「……」
「で、二人はどういう関係だったの?啓一さんが女の人に平手打ちされるほどひどいことするとは思えないんだけど。」
「まあ誤解なんだけどね。前に裕ちゃんがお医者さんと付き合ってたって話したことあるよね。」
「ああ、巣鴨のうなぎやさんで話してくれたよね。初耳だったんでびっくりした。裕ちゃんずっと啓一さんに一途だと思ってたから。」
「その彼氏が聡美さんのお兄さんなんだよ。」
「えっ、もう亡くなったってさっきマコちゃん話してたけど。」
「死んでなんかないんだよ。裕ちゃんおいて、聡美さんもおいて一人でアメリカに行っちゃったんだ。それが僕のせいだと聡美さんは思ってるんだ。だから聡美さん今でも僕のことをとても恨んでるはずだ。聡美さんは本物のブラコンだったから。」
「じゃあマコちゃんと同じだね。仲良くなるはずだ。」
「マコちゃんのレベルじゃないよ。聡美さんとお兄さんは小さい頃に両親に捨てられて施設で育ったんだ。でもお兄さん、黒田博士、ファーストネームは『潔』っていったかな、その黒田博士はその境遇を跳ね返して東大を出て医者になった。聡美さんも東大に入れてアナウンサーにしたんだね。」
「それはすごい話だね。」
「そうだね。でも黒田博士は人間嫌いのひねくれた人間になっちゃったけどね。そんな努力の人を裕ちゃんは愛したんだ。」
「へ~。裕ちゃんと啓一さんがお互いに一途でなかったのは聞いたけど。」
「僕が大学二年生のとき,裕ちゃんと七年ぶりの再会を果たしたときには二人は付き合ってたよ。もっともハートのバランスとしては裕ちゃんの方が黒田博士にぞっこんだったけどね。」
「裕ちゃん彼氏がいたのに啓一さんと婚約したんだ。」
「そう。だから僕の方は本当にダミーだった。裕ちゃんは黒田博士を権蔵先生に紹介したんだけど黒田博士は野生児というか自然児というか、ひねくれものでマイペースで研究三昧の人で、政治にも興味のない人だったから権蔵先生は裕ちゃんのお付き合いに反対した。何より人間味のない人だったからね。それで音楽のこともあってダミーの彼氏が必要になって僕の登場となったわけだ。」
「でも表向きは婚約者だったんでしょ?」
「そう。権蔵先生を誤解させるためのお芝居だったけどうまく行かないもんだね。聡美さんも誤解して聡美さんは僕が権蔵先生を言いくるめてお兄さんから裕ちゃんを奪ったって思ったんだ。まあ形式的には確かにそうだったから仕方なかったけどね。」
「だから平手打ちになったんだ。」
「平手打ちはもう少し後の話。僕は聡美さんに呼び出されて『裕ちゃんを返して』って言われたよ。それで僕は『返してもいいけど相手のある話だからちょっと待って』って答えたんだ。まあそのとき裕ちゃんと僕はただのお芝居に過ぎなかったから裕ちゃんとのことはどうでもいいことだったんだけどね。それでいったんは収束した。」
「じゃあ丸く収まったんじゃない。」
「ところがそれからしばらくして博士にアメリカ留学の話が出て来た。異端児の黒田博士は素人の僕が見ても天才だったんだけど、日本ではまったく評価されてなくて、これがチャンスだと思ったんだな。それで裕ちゃんに留学資金の三百万円を用立ててくれって頼まれたんだ。」
「裕ちゃんの方がお金持ちでしょ?」
「まだ売れる前だよ。それに権蔵先生が大嫌いな男のために気前よくお金を出すわけもない。裕ちゃんとしては僕が頼りだったわけだ。」
「よくそんなお金あったね。」
「ちょうど、おやじが亡くなったばかりで、僕にはおやじの残したお金があった。うちは裕福な方ではなかったけど、親父は趣味が仕事と貯金という人でコツコツためたお金があったんだ。で、おふくろはお金の計算も管理もできない人で遺産の管理は必然的に僕ということになった。それでおふくろの目を盗んで三百万円用立てたってわけだ。その三百万円を僕は博士の研究室に届けに行った。現ナマでね。僕が留学資金を用立てることは博士には内緒だったみたいで『こんな金は受け取れない』ってつき返された。で、僕は『これはあげるんじゃない。あなたに投資するんだ。成功した暁には何十倍にもして返してもらう』って言ってようやく受け取ってもらった。僕が部屋から出ようとすると帰る背中に『ありがとう』と声をかけてくれたよ。あの人間嫌いが涙声だった。僕もジンときたなあ。それから博士の行動は早くて、二日後には日本を発った。妹さんにも裕ちゃんにも内緒でね。僕は博士から『今日、日本を発つ』って話を聞いて、あわてて裕ちゃんに『見送りに行こう』って言ったんだけど、『泣いちゃうから』って腰が重くて、『これを渡してくれ』って手紙を託されてそれを持って成田空港に行った。成田空港で僕はその手紙を渡した。博士は『君とは色々あったけど唯一、君だけが友達と呼べる存在だった』と泣かせるセリフを言ってくれた。そしてアメリカに旅立っていった。僕は見送った後、空港の駅に引き返す途中で聡美さんに会った。聡美さんには裕ちゃんから連絡がいったんだね。僕が『もう行っちゃったよ。間に合わなかったね』と言うとそこで平手打ちされて『どうしてあなたはそうやって私から大切なものばかり奪っていくの?』と言われてそれっきりってわけだ。」
「ふ~ん。そんなことがあったんだ。」
「だから聡美さんの中では僕はひどい人間ということになってるんだ。権蔵先生をだまくらかして裕ちゃんと無理矢理婚約し、失意の兄をアメリカに追いやってしまった悪い奴ということにね。」
「でも、今、マコちゃんと仲好しになってるのはいい兆候かもしれないよ。仲直りできるかもしれないじゃない。」
「それは楽観的過ぎるんじゃないかな。彼女、僕を殺したいほど憎んでるはずだよ。兄の恋人を奪い、兄を奪い、親友も奪ったんだから。マコちゃんと僕の関係は知っているはずだからプライベートでもマコちゃんと仲良くしているのは案外、僕を殺すチャンスをうかがっているのかもしれない。だから裕ちゃんや僕の話をマコちゃんにしないのかもね。」
「それは考えすぎだと思うけどなあ。」
「殺すのは極端だけど復讐はしたいと思ってるはずだよ。」
そんな話をしながら朝ご飯を済ませると二人は溜まっている家事を片付け、お昼過ぎにクルマで買い物に出かけた。一週間分の食材などを買い込み、帰宅するとダイニングテーブルに「出かけてきます。今夜も遅くなります。」というマコちゃんのメモがのせられていた。メモといっても筆ペンで書かれている。達筆だ。この達筆のアイドルは自分のサインもマジックでぐにゃぐにゃと書くことはしない。常に筆ペンを携帯していて楷書で書くのだ。それからチャコと僕は二人きりで静かに時を過ごし、土曜日の夜は更けていった。
僕は熟睡していた。誰かが僕を起こす夢を見た。しばらくしてそれが夢でなく現実であることが分かった。誰かが僕を揺り動かしているのだ。それがチャコであり、さらにチャコが自由が丘女子高等学校の夏服を着ていることが分かるにはもう少し時間がかかった。
(「やばい、寝坊した。」)そう思って僕はがばっと起きた。しかし外はまだ暗かった。時計を見ると午前〇時半頃をさしていた。
「どうしたの、こんな時間に。なんで制服着てるの?」
「たまには制服の方が萌えるかなあと。……そうじゃなくて、ネムムのところ申し訳ないんだけどクルマ出してもらえるかなあ?マコちゃんから電話があって、迎えに来てほしいんだって。」
「タクシーで帰ってくればいいのに。」
「そうもいかないんだって。黒田アナと二人なんだけど、黒田アナが酔いつぶれちゃったんだって。だから運んでほしいんだって。」
「ああそうなの。分かった。じゃあ起きますよ。」
一番深い眠りの段階で起こされた僕は意識もうろうと着替え、チャコと一緒にクルマで都心方面に深夜のドライブに出かけた。チャコは僕の携帯でマコちゃんと何度か連絡を取り、僕を赤坂の中心街に誘導した。徐行の指示に従いクルマを減速させると歩道で手を振っているマコちゃんが見えた。僕はクルマを寄せて停止させ、チャコが助手席のパワーウインドーを開けた。
「マコちゃん、大丈夫?」
チャコが声をかけた。
「チャコちゃん、お兄ちゃんごめんねえ。助かった。どうなるかと思ってたところだったから。」
「で、ご本人さんは?」
僕が聞いた。
「今、お店で寝かせてもらってる。それともう一つ申し訳ないんだけど、ここのお店の支払いもお願い。」
そう言って妹は僕の前で手を合わせた。
「ああ、そうなの。まあしょうがないね。」
僕がそう言ってチャコと僕はクルマから降り、雑居ビルの一階に入っている、飲み屋さんというにはかなりいい感じのお店に入った。僕はお店の人から伝票を渡され、驚愕したが払うべきものは払い、店の奥の方に行った。奥の個室ではチャコとマコちゃんが畳の上で寝かされている聡美さんを介抱していた。聡美さんは眠ってしまっているようだ。四年ぶりの再会だった。
「ほら、聡美ちゃん。クルマが来たからおうちに帰るよ。」
マコちゃんがそんなことを言っていたが動く気配はない。
「仕方ないからクルマまで担いでいこう。僕が頭の方を持つから二人は足の方を持って。」
僕はそう言って両脇を抱え、チャコが足を持って担ぎ上げた。マコちゃんは携帯で写真を撮っているようだ。「お宝映像だ」とか言っていた。担ぎ上げると熟睡していた聡美さんの目が少しだけ開いた。
「おう石水啓一じゃねーか。探したぞ。……ぶっ殺してやる。」
聡美さんは目を半開きにした状態でドスの利いた声でそう言い、再び眠りについた。
「あれっ、聡美ちゃん、お兄ちゃんのこと知ってるの?」
マコちゃんが不思議そうに聞いた。
「酔っ払ってるだけだよ。僕も業界じゃそこそこ知れた名前だからね。顔と名前くらいは分かるんじゃないかな。」
僕はそう言って三人でクルマの後部座席まで運んだ。チャコが後ろに乗り、マコちゃんが助手席に乗ってマコちゃんのナビゲーションで原宿の聡美さんのマンションに移動し、また三人で聡美さんを部屋まで運び、ベッドに寝かしつけた。そしてマコちゃんを付き添わせ、チャコと僕はそのままクルマで碑文谷に引き返した。
「本当にぶっ殺してやるって言ってたね。」
帰りのクルマの中でチャコが言った。
「でしょ?だから彼女の気持ちは変わってないんだよ。マコちゃんに危害が加えられなければいいんだけど。」
「でも案外、酔っ払ってるだけかもしれないよ。啓一さん本当はとっても優しい人なんだからきちんと話せば分かってもらえるんじゃないかなあ。」
そのまま帰宅し、チャコも今度はパジャマに着替えて本当に寝た。僕は変なところで起こされたこともあり、なかなか寝付けなかった。
結局、あまり眠れないうちに日曜日の太陽が昇ってきた。夜の遅かったチャコは当分、起きる気配がない。僕はスタジオ兼書斎にこもり、裕ちゃんの残してきたものと向き合った。アルバムをめくると東大時代の写真があった。聡美さんとツーショットで二人ともVサインをしている。写真の脇に裕ちゃんの汚い字で「アナウンサーダブル合格 撮影者黒田潔」と書かれていた。この三人の一番幸せな時間だったのかもしれないと思った。それから一年後にはこの三人に僕という得体の知れない存在が付け加わった。僕にはまったく悪意はなかったが僕が加わったことによりこの幸せな時間がぶち壊されたのは事実なのかもしれない。裕ちゃんはもうこの世にはおらず、黒田博士はアメリカで行方不明。せめて聡美さんだけでも幸せな時間を過ごすことができれば、そう思っても今の僕にできることは何もない。
資料を整理しているとスタジオ兼書斎のドアが開き、チャコが入ってきた。時計はお昼頃をさしていた。パジャマのはずが自由が丘女子高等学校の夏服に着替えて手には何か持っている。
「啓一さんここにいたんだ。おはようございます。」
「おはよう。眠れたかな?」
「さすがにね。眠かったんだね。で、啓一さん、お疲れのところ申し訳ないけどまたクルマ出してもらえるかな。」
チャコが制服を着ていたので出かけようとしていることはなんとなく分かった。
「ああ、別にいいけど、今度はどこに行くの?」
「さっきのところだよ。黒田アナのマンション。」
「マコちゃんからまたヘルプ要請があったの?」
「うん。忘れ物しちゃったから届けてほしいんだって。」
「忘れ物って?」
「黒田アナへの誕生日プレゼントなんだって。今週、誕生日が来るんで今日、どうしても渡したいんだってさ。」
チャコの手にはプレゼントらしいものが握られていた。
「さっき言ってくれればよかったのに。」
「まあ、さっきは黒田アナが酔いつぶれててそれどころじゃなかったけどね。」
それでまたクルマを出してさっきと同じマンションに向かった。もう道は分かる。
「もう聡美さんシラフだろうなあ。今度こそ殺されるかも。」
僕がポツリと言った。
「後ろ向きだなあ。もっと前向きに行こうよ。これから仲直りしに行くと思えばいいじゃない。もし殺されそうならあたしが盾になって啓一さんを守るよ。」
「ありがとう。そんなこと言ってくれて。チャコと一緒にいると元気が出るよ。」
そうは言ったものの僕の気は重かった。
マンションに到着し、入口でチャコが部屋番号を押してインターフォンを押した。
「はい?」
マコちゃんが出た。
「あっ、マコちゃん?チャコです。来たよ。啓一さんも一緒だよ。」
「ありがとう。じゃあ上がってきて。」
オートロックが解除される音がした。
「僕はここで待ってるから。」
僕はそう言ったが
「駄目駄目。これからのこともあるんだから、突破しないといけない壁だよ。さあ、行こう。」
そうチャコは言い、僕の手を引っ張って無理矢理エレベーターに乗せた。エレベーターを降りると聡美さんの部屋のドアは開いていて、マコちゃんが顔を出して待っていた。
「いらっしゃい。さあ入って、入って。」
マコちゃんに引き込まれ、僕が最初に部屋に入った。部屋に入って僕はびっくりした。聡美さんが立っていて目が合ったのだ。手には包丁が握られていて目は血走っている。明らかな殺気が感じられた。
(「殺される!」)僕はそう思い、あわててマコちゃんの前に立ちはだかった。
「聡美さん!やめろ!聡美さんの気持ちは分からないこともない。でもそれは誤解なんだ。分かってくれ!」
僕は叫んだ。
「石水君。」
包丁を握ったまま聡美さんが静かに僕の旧姓を呼ぶ。
「どうしても許せないと言うのならしょうがない。僕にも責任があるのは事実なんだから僕を刺せばいい。でもマコちゃんはなんの関係もないはずだ。」
僕がそう言うと少し間があった。聡美さんは包丁を持ったまま固まっていた。そのうち後ろから僕の背中をツンツンとつつく指があった。チラッと後ろを見るとマコちゃんだった。
「お兄ちゃん、どうしたの?聡美ちゃんこれからスイカ切るところなんだけど。……お兄ちゃんも食べる?」
「えっ?スイカ?」
僕はそう言ってもう一度聡美さんの方を見た。聡美さんは自分の握っている包丁を見た。
「ああこれか。ごめんなさい。私が刺すと思った?そっか。最後に会ったとき私、石水君のことひっぱたいてるんだ。そのことも謝らないといけないよね。今度は刺されると思ったんだ。」
聡美さんがそう言うと後ろからマコちゃんがもう一度、指でツンツンと僕の背中をつついた。
「ねえ、どうしたの?お兄ちゃん。聡美ちゃんのこと知ってるの?」
マコちゃんがそう言うとチャコが「マコちゃんにはあたしが説明するからこっち来て。ちょっと二人にさせてあげて」と言ってマコちゃんの腕を引っ張って部屋から出て行った。振り返ると聡美さんは包丁から手を離し、引き出しから封筒を取り出してその封筒を僕に渡した。封筒の表には住所と「黒田聡美様」と書いてあり裏には裕ちゃんが入院していた病院と裕ちゃんの名前が書いてあった。裕ちゃんの直筆だった。昨日、チャコが話していた手紙だと思った。
「石水君。こんな形でまた会うとは思わなかった。マコちゃんのお兄さんだって聞いてたし、いずれは会うことになるとは思ってたんだけど。……この前はごめんね。成田でのこと。私、ずっと誤解してたの。……裕ちゃんからの手紙、読んでみて。」
「いいの?」
僕がそう言うと聡美さんは小さくうなずいた。封筒の中には写真と二枚の紙が入っていた。写真には黒田博士がアフリカ系の若い女性と二人で並んで写っていた。二枚の紙はいずれも手紙でうち一枚を僕は読み始めた。白紙の紙に横書きに書かれていた。決してうまいとはいえない裕ちゃんの字だ。
前略 聡美へ
お久しぶりです。絶交してもうかれこれなるね。もうそろそろ私の命も燃えつきそうです。それで、最後にどうしても聡美に伝えたいことがあってペンをとりました。
伝えたいのは博士と私と啓ちゃんのこと。特に啓ちゃんのこと。二年前、博士がアメリカに行くときに成田で聡美に平手打ちをくらったって啓ちゃんから聞いた。聡美は啓ちゃんが博士をアメリカに追いやったと思ったんだろうけど実は違うの。
私と啓ちゃんは柏崎で結納して婚約したけどそれはお芝居だったの。私は博士のことが大好きだったんだけど父がどうしてもそれを認めなくて、次の選挙に私を立てることしか考えてなくてしかたなく啓ちゃんに婚約者になってもらったの。私の替え玉にしようとね。父の気をそらすためにね。博士にアメリカ留学を薦めたのは私で啓ちゃんはその資金も用意してくれた。決して裕福じゃない啓ちゃんがどこからそんな大金を持ってきたのか私は知らない。でも、啓ちゃんは少しの疑問も感じずに私、博士そして聡美のためにお金を出してくれたの。
博士はアメリカに旅立っていった。私もそれを追いかけるつもりだった。でも、私は病気になってしまい、博士から写真つきの手紙が来た。博士アメリカで結婚したんだって。びっくりだよね。その手紙と写真も同封したから見てね。結局、私は振られちゃったってわけ。仕方ないといえば仕方ないよね。誰も私みたいなわがままな女は相手にしたくないだろうし。まあ最初から結果は分かっていたようなもんだったけど、分かってて、啓ちゃんにも無理させて、アメリカに行かせたんだから私もバカだよね。でも私は満足かな。あの天才黒田博士が自分の道を歩くお手伝いができたんだから。聡美も満足でしょ。大好きなお兄ちゃん、今、とっても幸せだよ。私なんかと一緒にいるよりずっとね。
で、私が今、不幸のどん底かというとそうでもないんだな、これが。もちろん病気はつらいよ。でも今までの人生で今が一番幸せかもしれない。啓ちゃんがそばにいてくれるの。啓ちゃんとはただの幼なじみだったけど病気になって、一緒にいてくれるようになって本当の幸せって何かっていうのが分かった気がする。啓ちゃんいいよ。なんでもしてくれるんだもん。こんなわがまま女、誰も相手にしてくれないと思ってたけど、一人だけいたんだね。相手にしてくれる人が。とっても身近に。しかもその人と婚約してたなんてまたびっくり。結納したときはお芝居だったけど、今は本当の婚約者になった。結局、結婚はできそうもないけどそれはそれで幸せかな。
ということで博士も私もとっても幸せになりました。次は聡美の番だね。一緒に現地からレポートする夢は果たせなかったけど、私の分まで頑張ってね。天国でテレビ見てます。やっぱり聡美は親友だったよ。さようなら。
草々
僕はショックを受けた。黒田博士はアメリカに行ってすぐに現地の女性と結婚していたのだ。しかもそれを裕ちゃんは知っていて、そのことを僕には話していなかったのだ。
僕はもう一枚の紙を開いた。それも横書きで男の字だった。その文字にも微かに見覚えがあった。
お久しぶりです。日本ではありがとう。ここにきてようやく自分の道を見つけることができた。それと写真を同封したけど結婚したよ。来年には子供も産まれる。
裕子には色々してもらったけど、結局俺は君には何もしてやれなかった。悪く思わないでくれ。俺はしょせんこんな人間なんだ。君のあのバカな幼なじみにもよろしく。くやしいが今の俺があるのはあのバカのお陰だ。
お達者で。幸せになれよ。地球の裏側で祈ってる。
手紙の最後には横文字でサインがしてあった。黒田博士らしい用件のみ伝える簡潔な手紙だった。
「そうか、こんな手紙を聡美さんに送ってたのか。それと黒田博士も。」
「そう。裕ちゃん幸せだったんだね。石水君と一緒にいられて。お兄ちゃんも。お兄ちゃんが結婚したことは裕ちゃんに知らされるまで知らなかったよ。裕ちゃんと石水君の婚約が嘘だったってことも。私一人で何も知らなくてバカみたいだったね。……本当にごめんなさい。そして、ありがとう。お兄ちゃんのこと。私は裕ちゃんとお兄ちゃんを結婚させることがお兄ちゃんを幸せにするただ一つの方法だと勝手に思ってたけど全然違ったね。石水君がすべて正しかった。」
「僕の方こそキチンと説明できればよかったんだけど、普通ありえない話だったから。」
「まあそうだね。それにしても裕ちゃんすごいよね。ありえないことをやるよね。」
「僕と女子高生を結婚させたりね。マコちゃんもそうでしょ?常識に囚われない。白石の血だよね。」
「マコちゃんかあ。マコちゃんにも裕ちゃんや石水君の話をしようと思ってたんだけどなかなかきっかけがなくてね。石水君とは成田のとき以来だったし。」
「マコちゃん迷惑かけてない?」
「迷惑なんてとんでもない。マコちゃんには本当に助けられてるよ。」
「マコちゃんに?聡美さんが?」
「そう。実は私、報道がやりたくてアナウンサーを希望したの。ミスキャンパスも採用で少しでも有利になればと思ってやったことだった。でもいざ、アナウンサーになってみるとミスキャンパスの話題が先行してしまって仕事はバラエティーばっかり。報道を希望しても『今どきの女子アナはバラエティーもできないといけない。バラエティーで成功したら報道の仕事をやる』とか言われてなかなか報道の仕事はもらえなかった。でもバラエティーでの気の利いたトークは苦手でどうしても局が望むような仕事はできなかった。今、マコちゃんとやってるクイズ番組がラストチャンスだって言われてたの。若い子が入ってくるし、これで視聴率が取れれば報道の仕事をさせてもいいけど、駄目なら総務か経理に異動してもらうって。私はもう駄目かなと諦めてたんだけど、番組はマコちゃんのお陰でゴールデンで視聴率トップ、私も出演者の人気投票で第二位にさせてもらって、実は今度の七月からちょっとだけど報道番組にも出られることになったの。だから本当にマコちゃん様々。」
「マコちゃんが人気トップっていうのは聞いたけど、聡美さんも二位なんでしょ?」
「マコちゃんは本当に断トツ。二位以下を全部寄せてもマコちゃん一人にかなわない。マコちゃんのお陰で番組も存続できたし。マコちゃんに会えてよかった。」
「そう。」
「マコちゃんいっつも石水君の話をしてくれるよ。とってもやさしいお兄ちゃんだって。だから石水君の話を聞くと私もお兄ちゃんのこと思い出すの。お兄ちゃんもとってもやさしかったから。なんでもしてくれたし。」
「そうだったね。」
「でも、もう会えないんだろうなあ。」
「そんなことないよ。また会えるよきっと。」
「ありがとう。そう言ってくれて。でももう無理だよ。日本には帰ってこないだろうし、アメリカのどこにいるのかも分からない。分かったとして会いに行っても会ってはくれないだろうし。」
「いや、そんなことないよ。日本には一度は帰ってくる。実は博士には預けているものがあるんだ。それを僕に返しにくることになってる。いつになるかは分からないけど必ず僕の前に現れる。そのときは聡美さんにも連絡するからそのときに会えばいいよ。そして会ったら博士の手をつかんでもう離さないことだ。」
「そうなんだ。ありがとう。じゃあ期待してるね。……ねえ、石水君、また会ってもらってもいいかな?」
「会うって、聡美さんと僕が?」
「そう。お兄ちゃんの話とかしたいから。裕ちゃんの話も。」
「いいよ。じゃあ一度、碑文谷の僕のうちにおいでよ。マコちゃんもいるし、裕ちゃんの遺品もある。裕ちゃんの遺品で形見分けできるものもあるかもしれない。」
「ありがとう。じゃあ近いうちにお邪魔させていただきます。」
聡美さんがそう言うとチャコが拍手をしながらマコちゃんと一緒に入ってきた。どこかに潜んでいて立ち聞きしていたのだ。
「良かった良かった、じゃあ二人は仲直りしたのね?」
チャコが聞いた。マコちゃんはキョトンとしている。
「ねえ、お兄ちゃん?よく分からないんだけど、お兄ちゃんと聡美ちゃんてお友達だったの?」
マコちゃんが僕に尋ねると、僕が答える前にチャコが「お友達というレベルよりも元カレと元カノかなあ」といたずらっぽく言った。
「だからそうじゃないんだってば。」
僕が言い終わらないうちに「聡美ちゃん、悪いけどお兄ちゃんは渡せないよ。お兄ちゃんはあたしのとっても大切な人なんだから」とマコちゃんが言い、それを受けてチャコが「それあたしのセリフなんですけど」と言った。僕はヤレヤレといった表情で聡美さんの方を向いた。
「聡美さん。改めて紹介しますね。僕の妻でマコちゃんの双子の姉の朝子です。マコちゃんから話は聞いてると思うけど。」
僕が聡美さんにチャコを紹介した。
「はじめまして。黒田聡美です。マコちゃんにはいつもお世話になってます。」
聡美さんがそう言うとチャコは「スミマセン。初めてじゃないんです。お会いするのは二度目なんですけど」と言った。
「あっ。それは失礼しました。どこで会ったんだろう。」
聡美さんがそう言うと今度はマコちゃんがニコニコしながら「十二時間くらい前だよ。聡美ちゃん酔っ払っててひどかったんだから。お兄ちゃんのこと『ぶっ殺す』とか言ってたんだよ。まあこの続きは番組の中で披露するね」と言った。
「ええっ?私、そんなこと言ってたの?ねえ、石水君、本当?」
聡美さんが僕に確認する。
「残念ながらそうだよ。聡美さんがあんなに酒癖が悪いなんて思わなかった。僕は本当に殺されるかと思ったよ。」
僕がそう言うと「お願いマコちゃん。二人だけの秘密にして」と聡美さんはマコちゃんに手を合わせて懇願した。
「駄目駄目。ミス東大のプライドなんてあたしがぶっ潰すんだから。実はね、携帯で動画も撮ってあるの。本物のお宝映像だよね。美人アナの醜態とかいって。」
「マコ様、お願い。なんでも言うこと聞きますから。」
チャコと僕はゴールデンで視聴率トップの原動力となったそんな二人の掛け合いを微笑ましく見ていた。