夏休みの初日の朝、いつものように早起きし、一階のダイニングに入るとテーブルの上に紙が二枚置かれていた。一枚は手紙のようで達筆な字で書かれている。もう一枚は少し厚手の紙で二つ折りにしてあり、表には「通知表」、「二年A組十六番 白石真子」と書かれていた。僕はまず丁寧な楷書で書かれている手紙の方を読んだ。
お兄ちゃん、いつもありがとう。おかげさまで無事、一学期終了しました。通知表も置いておくので見てね。過去最高の成績だったよ。すごいでしょ!
今日からチームの全国ツアーに行ってきます。まず、沖縄に行って既に現地入りしている先発隊と合流して合宿するの。それからあちこち回るけど、お兄ちゃんとは柏崎で会えるね。柏崎入りは全国ツアーの前半が終わるお盆の頃。柏崎の日程は次のようになるみたい。まあまだ微調整はあるかもしれないけどね。
一日目 裕子おばさんのお墓参りと市長さんの表敬訪問
二日目 「ザ柏崎」のコンサート
三日目 マコちゃんとハルナちゃんに別れての一日警察署長と一日消防署長
四日目 柏崎市内観光名所巡り(スイーツ巡りになるかも)
五日目 砂浜で砂の造形作り
お兄ちゃんとはしばらく会えなくてさみしいけど、柏崎でまた会いましょうね。
あなたの真子より
一緒においてある通知表も見てみた。確かに成績は悪くはなかった。中学時代に学年最下位を記録したこともあるこの少女からすればいいとすら言えるだろう。
それから僕はコーヒーを入れ、新聞を読み始めた。政治の世界も夏休みに入っていて大した動きはない。しばらくするとチャコが起きてきた。まだ七時半頃で夏休み初日にしては早起きの方だ。
「おはよう。結構、早起きだね。」
「おはようございます。まあ夏休み初日だからね。色々と準備しないといけないだろうし。」
そう言ってチャコはダイニングテーブルの僕の目の前に座り、僕の飲みかけのコーヒーを一すすりした。まだ眠そうだ。
「マコちゃんもう出かけたんだ?」
「昨日、と言うよりもう今日かな?とにかく帰りが遅くて、帰ってきて着替えて、荷物置いて、持って、すぐに出かけて行ったよ。マネージャーさん待たせておいてね。で、お兄ちゃんによろしくって。置き手紙読んだでしょ?」
「起こしてくれればよかったのに。」
「あたしも起こそうと思ったんだけどマコちゃんが『寝かせといてあげて』って言うもんだから。マコちゃん本当に人のこと気遣えるようになったよ。すごく大人になった。」
「成績も良くなったみたいだね。」
「うん。芸能活動やるようになって、時間に厳しくなって、集中して勉強するようになったんじゃないかな?それに愛するお兄ちゃんにみっともない姿は見せられないしね。」
「またそれか。」
チャコはやいているようだ。最近はマコちゃんの話題になるとすぐにちゃちゃを入れる。
「まあいいでないの。マコちゃん、あまりにも『お兄ちゃん、お兄ちゃん』騒ぐもんだからすっかり妹キャラが定着しちゃってそれが売りになっちゃったもんね。お姉さんキャラのハルナちゃんともいいコンビだし。それに相手がお兄ちゃんなら事務所も安心だろうし。」
「それはそうだけど。」
確かに妹キャラがマコちゃんを女性アイドルナンバーワンの座に押し上げた大きな要因の一つではあるだろう。
「あたし、マコちゃんとは一心同体だからマコちゃんの男性遍歴は全部知ってるんだけど、マコちゃんがこれだけ一人の男性を強く思うのって初めてなんじゃないかなあ。だから、前はマコちゃんにも正妻の座を譲る気はさらさらないって思ってたけど、最近はそれもありかなって気もしてきてるんだ。あれだけ一途なマコちゃん見てると応援したくなっちゃうもんね。」
返す言葉がなかった。妻の言葉とは思えない。僕は話題を変えた。
「で、今日の予定なんだけど。」
「うん、午前中は大掃除かな?柏崎行きの前だしね。」
「うん。それで午後は権蔵先生の秘書の山崎さんと柏崎の伊藤さんも家に来て、柏崎行きの打ち合わせをすることになったよ。」
「伊藤さんも来るの?柏崎から?」
「うん。昨日、急遽、上京が決まったんだ。今朝メールが来た。もう新幹線に乗ってるんじゃないかな?柏崎の状況が予想していたのと随分変わってきているようで夏休みの予定が大幅に変更されるようなんだ。」
「どう変わるの?」
「詳しくは今日、伊藤さんが来てから説明してくれると思うんだけど、柏崎入りは随分後になるみたいだね。八月に入ってからになるかもって。」
「へ~。柏崎の方、まあ当選確実とは聞いてるけど、余裕出てきたんだね。」
「それで、これは山崎さんの守備範囲なんだけど、党の方から他の候補者の応援に回ってくれって言われていて、あちこち応援演説に回ることになりそうなんだ。」
「あちこちって北は北海道から南は沖縄まで?」
「そういうことになるのかな?まあそれも今日の午後、説明があると思うよ。」
「ひゃっほ~。今年の夏は全国ツアーだ!じゃあどっかでマコちゃんたちと会えるかもしれないね。」
チャコはいつものように女の子丸出しで喜んだ。
「まだチャコも連れて行くとは言ってないぞ。」
僕はわざと意地悪な顔をして言った。
「へ~っ、あたしはお留守番なの?」
「まあ、一緒に行くことになるとは思うけどね。みんな僕よりチャコの顔を見たいんだろうから。僕なんて所詮は当選ゼロ回の政治役者では端役の端役なんだから。」
「あたしより本当に見たいのは啓一さんの愛すべき妹さんの方なんじゃないの?まああたしは啓一さんと一緒ならなんでもいいや。」
チャコはそう言ってニッコリ微笑んだ。
それからチャコと家の中を大掃除して、お昼は宅配にして、午後二時頃、暑い日ざしの中を山崎、伊藤の両秘書がやってきた。二人とも碑文谷のこの家に来るのは初めてだ。この二人は政治の世界では僕よりはるかにベテランだが、秘書という立場上、僕の方が格上ということになる。格上の僕を議員会館に呼びつけるわけにはいかず、暑い中をわざわざ出向いてくれたのだろう。僕は二人をリビングに案内し、応接でチャコと二人で向き合った。
「突然、色々と予定が変更になって申し訳ありません。まあこれもいい方向に向かっているということでご理解ください。」
山崎秘書がまず僕たちに頭を下げた。
「いえいえ僕の方こそご迷惑をおかけしているんじゃないかと思っています。」
チャコと僕も二人の秘書に頭を下げた。
「迷惑なんてとんでもありません。秘書陣は活気付いています。今まで、選挙といえばバラバラになってしまって脱落者すら出ていたのですが今回は本当に一枚岩です。地元の士気も上がっていますしこれも若先生のお陰です。」
山崎秘書がもう一度頭を下げた。
「いえいえそんなことはありません。皆さんのお力ですよ。それでどういう予定になるんですか?」
僕が聞いた。今度は伊藤秘書が応じる。
「地元は今、既にお祭り気分です。これも真子さんと鈴木春菜さんのお二人を迎える準備のためです。」
「準備ってそんなに大掛かりなんですか?」
「そうですね。特にコンサートは柏崎市始まって以来の一大イベントになると思います。商工会議所の会頭さんが自ら陣頭指揮を執っていますからね。それで募集なんかしていないのにボランティアが殺到しています。柏崎市民の三人に一人くらいがなんらかの形で『ザ柏崎』の柏崎訪問に携わるのではないでしょうか。」
「でも市民会館は千人くらいしか入れないでしょう?」
「失礼しました。コンサート会場は佐藤池球場に変更になりました。市民会館ではとても収容しきれない規模になってしまいました。それでも入りきれないようなら今度は中央海水浴場に変更になるかもしれません。カンパもどんどん集っていてもう億を超えていると思います。」
「……」
僕は絶句した。僕の知らないところで物事がどんどん進んでいるのだ。まあいい方向であることは間違いない。伊藤秘書は続けた。
「ですから既に若先生は市民の大きな尊敬を集めています。いつ選挙があっても圧勝は間違いないでしょう。」
「そういう事情で、柏崎の方はもう十分ですので、党本部の方から他の選挙区の候補者の応援に回ってほしいという要請がまいりまして、今、調整をさせていただいています。」
今度は山崎秘書が説明する。
「はあ。で、僕は何をすればいいんですか?」
「若先生にはあちこち行っていただきたいのですがやることはどこも一緒です。そこの選挙区の候補者が講演会や演説会を行うのですが、その前座を務めていただきたいのです。」
「僕もしゃべるんですか?」
「はい。三十分くらいでお願いします。」
「ちょっと準備期間がなさ過ぎやしませんか?」
「それは心配ご無用です。皆さんそんなに熱心に聴いてはいないと思います。若先生と若奥様が舞台の上でその選挙区の候補者と並んで座っていただければ十分です。」
チャコと僕は顔を見合わせた。
「なるほど、客寄せパンダということですね?」
僕が確認した。
「まあ分りやすく言えばそういうことです。でも悪くは思わないでください。これも若先生の人気があってのことなのですから。」
「はあ。」
「それで講演の内容なのですが政治の話はしない方がいいと思います。」
「はあ?」
「つまりですね、若先生の話が面白すぎても困るのです。その選挙区の候補者よりも目だってもらっては困りますから。あくまでも応援ですから。」
なるほどそれはそうだろう。客寄せパンダなのだ。
「ではなんの話をしたらいいのでしょう?」
「そうですね、……例えば裕子お嬢様のお話なんかいいと思います。」
山崎秘書は少し考えてから答えた。
「裕ちゃんの話ですか?」
「ええ。タイトルは『白石裕子の生涯と音楽』とかそういうのがいいと思います。皆さん、若先生と裕子お嬢様、そして若奥様のことは興味をお持ちでおいでですから。とにかくいかに集客できるかが勝負です。」
「はあ。」
「それで、若先生の講演があって、その選挙区の候補者の講演があって、最後は記念撮影ということになります。」
「なるほど、それにはチャコも参加ということですね?」
「もちろんです。それがメインといってもいいかもしれません。」
本当は同じ顔の妹の方がいいのだろうが双子の姉でも客寄せとしては十分ということなのだろう。
「たとえ僕が行かれなくてもチャコには来てもらいたいということですね?」
「まあ早い話がそういうことです。」
なるほど分りやすい。山崎秘書は続けた。
「とにかく白石陣営としてはせっかくのチャンスですので党本部にできるだけ恩を売っておきたいと考えています。それで要請はあちこちから来ているのですがインパクトのあるところから順に若先生には行っていただきたいと思っておりますのであちこち飛び回っていただきますがよろしくお願い致します。」
「まあこちらこそよろしくお願い致します。で、まずどこに行くんですか?」
「はい。まず、七月二十五日、四日後になりますが、福岡に行っていただきます。ここは幹事長が愛弟子を新人に立てる予定です。二十五日の朝の飛行機で行っていただき、午後が講演会でその日は福岡にお泊りいただき、次の日にご帰京いただいて、その次の日は北千住に行っていただきます。その後の予定は現在、調整中で柏崎入りは八月の五日から十日を予定させていただいています。」
「分りました。まあ頑張りますがチャコは大丈夫かな?」
僕はチャコの方を向いた。
「啓一さんと一緒ならどこ行っても大丈夫だよ。すっご~く楽しみだなあ。」
チャコは満面の笑みで答えた。
「それで福岡の滞在先なのですが、どこかリクエストとかございますか?費用は全部向こう持ちですのでわがままを言っていただいていいのですが。」
山崎秘書が聞いた。
「いや、僕はどこでも構いませんが。」
僕がそういうとチャコが横から
「じゃあ福岡国際観光ホテルでお願いします。なるべく上の階でね。」
チャコがそう言った。僕は特に気に留めなかった。
それから四日後の七月二十五日、チャコと僕は朝二番目の飛行機で福岡に向かった。チャコは飛行機に乗ること自体が初めてということでとてもはしゃいでいた。空港には先方のお迎えが来ていて、クルマで市街地に移動し、高級ふぐ店で幹事長の愛弟子にふぐをご馳走になった。それから会場入りし、午後二時に講演会が始まった。中規模のホールで聴衆は五百人くらい、会場は満員で立ち見もいた。自由が丘女子高等学校の夏服を着たチャコと僕はステージの中央に置かれた演題の脇に幹事長の愛弟子と並んで座り、まず僕が裕ちゃんの思い出話を三十分くらいして次に幹事長の愛弟子の政治談議が三十分くらいあった。それから記念写真撮影会になり、チャコと僕は幹事長の愛弟子と支持者に挟まれ何ショットも撮った。撮影会はインターバルを挟みながら延々続き、すべてが終了したのは五時くらいだった。クルマで送ってもらい、三十分くらいでチャコの指名した福岡国際観光ホテルに着いた。
チャコと僕は先方のとってくれた部屋でしばし休憩した。かなり高そうな部屋だったが一応ツインだった。僕はかなり疲れていたが現役女子高生のチャコはまだまだ元気一杯だ。
「ねえ、啓一さんここでちょっと一休みするでしょ?」
ベッドに横になっている僕にチャコが話しかけた。
「うん。さすがに疲れたからね。ちょっとゴロゴロしててもいいかな?」
「じゃああたしはちょっとホテルの中を探検してくるね。こんな高級ホテル泊まるの生まれて初めてだから。」
「ああいいよ。でも晩御飯は外で食べたいから、そうだなあ、三十分くらいで戻ってきてね。」
「ほいほーい。じゃあ、啓一さんは少しゆっくりしててね。」
夏服のポニーテールはそう言って部屋から出て行った。僕は缶コーヒーを飲みながらさっきの講演会でもらった資料に目を通したり、新聞を読んだり、窓から外の景色を眺めたりしてのんびり過ごした。
それからしばらくしてドアのチャイムが鳴った。僕はドアの穴から外を見て、チャイムを鳴らしたのが自由が丘女子高等学校の夏服を着たポニーテールであることを確認してからオートロックを解除した。ドアを開けるとポニーテールは僕の前をすすすと走り抜け、立ち止まって軽くジャンプしながら回れ右し、恐ろしい言葉を口にした。
「お兄ちゃん!お久しぶり!元気だった?」
僕は強い衝撃を受けた。僕は閉めたドアを背にへたれこむような格好になった。
「マ、マコちゃん。……どっ、どうしたの?どうしてここにいるの?」
「それはこっちが聞きたいよ。お兄ちゃんはどうしてここにいるの?」
ポニーテールはマコちゃんだった。
「どうしてって講演の依頼があって今朝、チャコと一緒にこっちに来たんだよ。てかその格好してるんだからチャコから聞いてるんでしょ?」
「うんまあね。あたしはあしたドームでコンサートがあるんだよ。妹さんのスケジュールくらい把握しといてね。さっきリハーサルが終って今、ホテルに着いたところ。」
「そうだったの。」
「お兄ちゃん全然知らなかったんだ。じゃあこのホテル予約したのチャコちゃんだね?」
「うんまあそんなもんだね。」
「そっか。でもあたし的にはうれしいなあ。こんなところでお兄ちゃんに会えるなんて。」
「チャコにはなんて言われてるの?」
「うん。『お兄ちゃん来てるからしばらく二人でゆっくりしてくれば』って言われてる。チャコちゃんがマコちゃんやるからって。」
「でもそんなことしたらバレバレだろ?」
「そうでもないんだな。あたしハルナちゃんと同じ部屋なの。だからいくらでもごまかせるよ。ねえお兄ちゃんお外行こうよ。なんか美味しいものでも食べようよ。なんか『ローマの休日』の王女様みたい。」
妹はとてもうれしそうだ。僕はちょっと嫌そうな顔をした。
「外に出るのは嫌かな?まあそれならそれでもいいよ。この部屋で二人でラブラブするのも悪くはないなあ。」
マコちゃんはとんでもないことを言う。
「分ったよ。出かければいいんでしょ。出かければ。」
僕は観念した。
「わーい。お兄ちゃんと福岡デートだあ!」
マコちゃんはチャコのように女の子丸出しで喜んだ。
チャコ役のマコちゃんと僕はホテルを出て街をブラブラした。マコちゃんは終始ご機嫌だった。「何か食べたいものある?」と聞くと「ふぐが食べたい」と言うので結局、ふぐ屋さんに行った。僕はお昼に食べたばかりでさすがに箸が進まなかった。食事が終わるとスイーツを食べに行ったり、カラオケ店に行ったり何件かはしごし、ホテルに戻ったのは十時頃になった。その間、色々な人に「マコちゃんだ!」とか「チャコちゃんだ!」とか声をかけられた。マコちゃんは一々笑顔で応えていた。
ホテルに戻ると何か物々しい。警備員の数が増え、テレビ局のクルーも来ている。ロープが張られていて、立ち入り禁止の札も立っていた。出かけるときにはなかった光景だ。
「あれっ、どうしちゃったのかなあ?」
マコちゃんがそう言うので近くのホテルマンに聞いてみた。
「何かあったんですか?」
「ええ。実は今日、『チーム』というアイドルグループの皆さんにお泊り頂いているのですが、メンバーのお部屋にストーカーが侵入するという事件が発生したのです。幸い大事に至らず、もう解決したのですが念のため警備を強化しています。」
「そんなことがあったんですか?」
マコちゃんと僕は顔を合わせた。
「とにかくチャコのところに行こう。」
僕がそう言うとチャコ役のマコちゃんは大きくうなずいた。
エレベーターに乗り、「チーム」のメンバーが宿泊しているフロアで降りるとロープが張られていて警備員が立っていた。
「あれっ、さっきはこんなのなかったけど。」
チャコ役のマコちゃんがポツリと言った。
「警備が強化されたんだね。」
僕がそう言ってロープの向こうに行こうとすると警備員に通せんぼされた。
「申し訳ありません。この先は立ち入り禁止になっています。通行証を拝見させていただきたいのですが。」
僕はチャコ役のマコちゃんを見た。
「あたしは持ってないなあ。マコちゃんなら持ってるんだけど。」
チャコ役のマコちゃんが言った。
「スミマセン。関係者なんですが通してもらえないでしょうか?メンバーの家族なんです。」
「申し訳ありませんが通行証のない人は通してはいけないと言われていますもので。」
警備員は応じない。
「ねえ、警備員さん。この顔に見覚えありません?白石真子ちゃん。『チーム』の人気ナンバーワン。あたしマコちゃんの双子の姉なんですよ。顔パスじゃ駄目ですか?」
「はい。お顔は承知しているのですが私の一存ではなんともできません。」
それはその通りだ。ここで押し問答をしていても先には進めない。
「まあ事情が事情だからしょうがないか。じゃあ野島さんを探そう。その方が早いかもしれない。」
「そっか。野島先生なら啓一さんフリーパスだもんね。」
チャコ役のマコちゃんがいきなり「啓一さん」と言ったので僕はドキッとした。この妹は第三者がいるとどんなシチュエーションでも「啓一さん」と「お兄ちゃん」の使い分けを間違えることがない。僕の方が思わず「マコちゃん」と呼んでしまいそうで危なっかしい。
それからマコちゃんと僕はフロントに行き、野島プロデューサーを呼び出してもらった。しかし出かけていて連絡が取れず、他のスタッフともコンタクトは取れなかった。マコちゃんと僕はとぼとぼと部屋に戻った。部屋からハルナとチャコもいるであろう部屋に内線電話をかけてみたが、回線がつながらず、これも不発に終わった。ハルナの携帯電話も不通で、メールを送ってもなんの音沙汰もなかった。電源を切っているようだった。
「今日中に戻れそうもないね。」
僕はポツリと言った。時計はもう十一時頃をさしている。
「まあいいじゃないの。こういうこともあるよ。今日はもう眠いからあたしここで寝るね。」
マコちゃんはポニーテールをほどきながらそう言った。僕は力なくうなづいた。
「そんなに落ち込むことないじゃない。チャコちゃんも元に戻りたいとは思ってるだろうし、あした目が覚めたらチャコちゃんがここで寝てるかもしれないよ。少なくともこの同じホテルの中にはいるんだし。」
「それはそうだけど。」
「それにチャコちゃんならどんな状況でも大丈夫だと思うよ。結構、チームのメンバーになったこと楽しんでいるかもよ。」
「うん。」
マコちゃんはいつの間にか備え付けのパジャマに着替えベッドに横になった。僕も着替えて隣のベッドに横になりマコちゃんと顔を合わせた。いつもはチャコのはずの同じ顔がマコちゃんなので変な感じがした。マコちゃんはまだ目を開けている。
「お兄ちゃん、ゴメンね。本当はチャコちゃんと一緒が良かったよね?」
「えっ?」
「だってお兄ちゃんチャコちゃんのこと大好きでしょ?」
「うん、まあね。」
僕はあいまいに返事をした。
「それは分ってるんだあ。チャコちゃんがお兄ちゃんのこと大好きだってことも。だからあたしはお兄ちゃんをチャコちゃんから奪い取るつもりはないよ。あたしはお兄ちゃんの妹だっていうだけで十分幸せだから。でもたまにはこのかわいい妹にも構ってあげてね。今日は本当に楽しかった。ありがとう。じゃあお休みなさい。」
そういうと妹はそのまま眠りについた。そして一分もたたないうちに寝息が聞こえてきたのには驚いた。チャコと違い、この早寝早起きの少女は寝つきもいいのだ。僕は眠るタイミングを失い、しばらく眠れずにいたがいつの間にか眠ってしまっていた。
次の朝、明るくなったのに気付いて、目を覚ますとすぐに隣のベッドを確認した。既に人はいなかったのでチャコが戻っていないことがそれとなく分った。チャコが僕よりも早く起きられるはずはないのだ。ベッドから起き上がると既に自由が丘女子高等学校の夏服に着替え、ポニーテールを結んでいるマコちゃんと顔があった。マコちゃんは部屋に配られた新聞を読んでいた。
「おはよう!お兄ちゃん。よく眠れたかな?」
「うんまあね。マコちゃんは?」
「ぐっすり眠ったよ。久しぶりにいい夢見たよ。もう忘れちゃったけど。起きてもしばらくうっとりって感じ。」
「で、チャコの方はまだ駄目なんだ。」
「そうだね。起きてから何回かチャレンジしたけど近付けなかったよ。」
「そうか。」
僕は力なく言った。
「まあ元気出してよ。ねえ、あたしお腹空いちゃった。朝ごはん食べるでしょ?」
「うん。」
部屋の外に出るのは気が引けたので朝食はルームサービスを頼んだ。僕はあまり食欲がなかったが元気いっぱいの妹はがつがつと平らげ、僕の分にまで手を出した。
それから八時半には「チーム」のメンバーがドームに向かうというので二人でロビーに降りていった。チャコとマコちゃんが元に戻る最後のチャンスだと思ったのだ。しかしロビーにはロープが張られ、警備員が整然と配置されていた。ロープのこっち側は黒山の人だかりでマコちゃんと僕は少しはなれたところから「チーム」のメンバーが来るのを待った。
そして八時半少し過ぎにメンバーがぞろぞろと出てきて待っているバスに乗り込んでいった。もちろんチャコもいた。チャコはハルナや友美ちゃんと談笑しながらマコちゃんと僕には気付かず楽しそうにバスに乗り込んだので僕は少しびっくりした。チャコも僕と同じように落ち込んでいると思っていたのだ。チャコはどこから見てもマコちゃんで、なんの違和感も覚えなかった。
「なんだ。チャコちゃん楽しそうじゃん。心配して損しちゃった。」
マコちゃんがポツリと言うと突然、「啓ちゃん!」と後ろから声がした。振り向くと昨日会えなかった野島慎一プロデューサーの姿があった。今日は紫色のサスペンダーをしていて目がチカチカする。
「やっぱり啓ちゃんだ。なんだこっちに来てたんだ。」
「野島さん、出てくるのが遅すぎますよ。」
僕は軽くなじった。
「ゴメンゴメン。本当に啓ちゃんだったんだ。こっちに来てるなんて思いもしなかったから。昨日、フロントで僕のこと呼んだんだって?」
「ええ。でも野島さんお出かけでしたよ。」
「いやあ、あんな事件の後だっただろ。啓ちゃんが福岡にいるわけないし、誰かが君の名前を語ってまたチームの部屋に侵入しようとしてるんじゃないかと思って無視しちゃったんだ。」
「とか言って中州辺りで遊んでたんじゃないですか?」
「あっ、ばれちゃった?で、夫婦おそろいでどうしたの?てか、君たちいっつも一緒にいるよね。僕は啓ちゃんがチャコちゃん以外の女性とツーショットのところを見たことがないよ。まあ昔は裕ちゃんだったけど。」
野島氏はチラッとチャコ役のマコちゃんを見てそう言った。まさにチャコ以外の女性とツーショットの瞬間だが、双子の入れ違いは見抜けないようだ。
「選挙の応援要請があって昨日の朝来て一泊したんです。『チーム』がここに泊まってるなんて知りませんでしたよ。」
僕が説明した。
「そうか。で、いつまでこっちにいるの?」
「午前の飛行機で東京に帰りますよ。あしたは北千住でまた応援がありますから。」
「そう。じゃあ今日は特に仕事はないんだね。」
「ええ。今日は帰るだけです。」
「だったら急な話で申し訳ないんだけど、昼の公演、見に来てくれないかなあ?」
「はあ?」
「公演は昼と夜があるんだけど、お昼の方を見ていってよ。こんなチャンスめったにないから。啓ちゃんは迷惑かもしれないけど、僕は啓ちゃんのこともう、『チーム』の共同プロデューサーの一人だと思ってるんだ。九月発売の新曲は全部啓ちゃんにお願いしちゃったし、できればその次もお願いしたいと思っているんだ。」
「でもフライトは十一時ですよ。」
「それってフライトの問題だけでしょ?」
「ええ、まあ今日中に東京に帰れればいいですけど。」
「じゃあさ、帰りの飛行機はこっちで手配するよ。スーパーシートを用意するから。だから見に来てよ。」
僕はチャコ役のマコちゃんを見た。
「あたしは啓一さんに合わせるよ。」
チャコ役のマコちゃんはチャコのように言った。
「分りました。いいですよ。で、どうすればいいですか?」
「うん、ドームの関係者入口のところにつめているスタッフに言付けておくから、そうだなあ、十二時半頃にドームに来てよ。まあうちのスタッフはみんな啓ちゃんのことは知ってるし、チャコちゃんのことも顔を見れば分るから顔パスで入れると思うよ。帰りの飛行機のチケットもそのとき渡すよ。」
「じゃあ午前中はチャコと市内をブラブラしてますね。それで、マコちゃんに会えますかね?」
僕は一番肝心なことを聞いた。
「う~ん。それはたとえ啓ちゃんでもちょっと勘弁してもらえないかな。ツアーは事実上今日が初日なんだ。沖縄で小さいのはやったけど本格的には今日がスタートだからね。だからみんな緊張してるし、そこに啓ちゃんが出て行ったらみんな舞い上がっちゃうんじゃないかな。特に君の大好きな、失礼、君のことを大好きなマコちゃんはね。」
「そんなことないですよ。ちょこっとだけでもマコちゃんの顔を見たいんですけど。」
僕は食い下がった。
「マコちゃんは良くても他の子達がね。実はね、九月のチームの新曲、メンバーには啓ちゃんが裕ちゃんの曲でプロデュースするとは言ってあるけど、フロントメンバーはマコちゃんとハルナと友美以外まだ内緒にしてるんだ。チャコちゃんが参加してくることもね。だから君が見に来ていると知ったらみんなとても緊張しちゃうと思う。みんなハルナみたいになりたがっているからね。だからお忍びできてよ。じゃあ僕はスタッフと打ち合わせがあるからまた後で。」
そう言って野島氏は去っていった。チャコ役のマコちゃんの方に目をやるとニコニコしていた。とてもうれしそうだ。
「どうしたの?」
僕が声をかけた。
「だってまたお兄ちゃんと福岡デートでしょ?うれしいなあ。本当に『ローマの休日』ならぬ『福岡の休日』って感じ。」
「なんか元に戻れそうもないね。」
「いいじゃないそれならそれで。どうせ二十日間くらいだよ。チャコちゃんも元気そうだったでしょ?」
「うん。」
確かに元気そうなチャコを見て僕も安心した。このまま東京に帰って政治家の妻をやるよりも若い女の子達とがやがや全国を回る方がチャコにとっても楽しいのかもしれない。所詮はまだ高校生なのだ。高校生らしい思い出を作ってやりたいという思いもある。僕はこのままこのできの悪い妹と東京に帰るのも悪くはないのかなと思い始めていた。
結局、夜の便で帰京することにしたマコちゃんと僕はホテルをチェックアウトし、福岡デートの続きをやった。タワーに昇ったり、百道浜を散策したりした。僕も安心したのか諦めたのか、今度はマコちゃんとのデートも結構楽しめた。そしてとんこつラーメンを食べてお昼過ぎにドームに向かった。
ドームでは野島氏の指示通り関係者入口から顔パスで入場し、ステージのまん前の席に案内された。文字通りの砂被り席で、後ろには柵が設置され、その後ろに観客席が設置されていた。マコちゃんと僕が案内された席はマスコミや芸能関係者のための席だったようでマコちゃんと僕は取材に来ていた芸能記者のインタビューを受けた。僕は「お忍びで来ていますので」と言って軽くかわしたが、チャコ役のマコちゃんはチャコとしてキチンと対応していた。
午後一時になり、開演を告げるファンファーレが鳴り響いた。前奏が始まり、「チーム」のメンバーが次々とステージに現れた。場内は大歓声と拍手につつまれた。もちろんチャコも登場した。満面の笑みでとても楽しそうだった。マコちゃんを見ているようだった。
チャコにとっては本当にぶっつけ本番なのだろうが、元々チャコは歌や踊りのセンスがあるのでぶっつけ本番でも歌と踊りのセンスのまるでないマコちゃんが一生懸命練習した状態と大差ないのであろう。特に違和感は覚えなかった。
一曲目が終わり、メンバー全員が横に並んであいさつをした。しかしさっきいたはずのチャコとハルナの姿は既になかった。
「チャコいなくなっちゃったね。」
僕は小声で隣の席のマコちゃんに聞いた。
「この次に『ザ柏崎』が出てくるんで今、ハルナちゃんと着替えてるんだよ。」
マコちゃんが解説した。
メンバーのあいさつが終わり、またアップテンポの前奏が始まった。「ザ柏崎」のデビュー曲、「絵日記をかいた午後」だ。裕ちゃんが作ったこの曲の前奏は三十六秒もあり、まずハルナが登場し、十秒くらい遅れてマコちゃん役のチャコが登場した。場内は大歓声に包まれた。
「ザ柏崎」は女の子二人のユニットだが、この二人は通常のデュオがそうするように横に並んで歌うことはしない。マコちゃんの立ち位置は真ん中だが、ハルナは左後方五メートルくらいのところに立つのだ。二人の身長差が十一センチもあり、歌唱力はハルナが圧倒してしまうのでこういう構図になっている。いつもと違うのはマコちゃんがマコちゃんでないということで、それ以外はいつもと変わらず、チャコはそつなくステージをこなした。フルコーラスが終わり、チャコは観客席にあいさつした。
「福岡の皆さんこんにちは~!」
「こんにちは~!」という声が後ろから鳴り響いた。
「『ザ柏崎』のマコちゃんで~す。ハルナちゃんはこの後ソロで歌うからここのおしゃべりは全部あたしがもらうね。」
チャコがそう言うと会場は「お~」という歓声に包まれた。
「今日、今、この会場にいる皆さん、チョーラッキーですよ。実はね、このお昼の公演だけ特別ゲストを呼んでるの。じゃあ早速呼ぶね。あたしの双子の姉のチャコちゃん!一番前に座ってるの。」
チャコはそう言って手のひらをマコちゃんの方に向けた。オーロラビジョンに自由が丘女子高等学校の夏服を来たポニーテールがアップで映し出される。「お~」という歓声と拍手は一段と高くなった。
「さあ、チャコちゃん!ステージに上がってきて!」
チャコ役のマコちゃんは僕と顔を合わせ、周囲を見回し、ビックリした顔で右手の人差し指で自分の鼻をさし、「さあ早く!」とチャコにうながされてステージに上がっていった。その間、マコちゃん役のチャコは後ろにいるハルナからワイヤレスマイクを奪い取り、ステージに上がってきたチャコ役のマコちゃんに渡した。
「改めて紹介します。双子の姉のチャコちゃんです。こういうところ出るのは『スタジオL』で『卒業』を歌って以来だね。」
マコちゃん役のチャコとチャコ役のマコちゃんのトークが始まった。
「皆さんこんにちは~。突然のご指名の白石朝子です。」
会場からは一々黄色い声が飛んだ。
「今日はどうしたの?」
「うん。旦那の仕事があってついてきたの。マコちゃんの大好きなお兄ちゃん、あそこに座ってるよ。」
チャコ役のマコちゃんはそう言って僕の方を指さした。
「あっ、お兄ちゃ~ん。愛してるよ~。」
マコちゃん役のチャコはそう言って僕に手を振った。場内が笑いに包まれた。
「でも啓一さんひどいんだよ。今日、ここでチームのコンサートあるの知らなかったんだから。かわいい妹のスケジュールくらい把握しといてほしいよね。」
「そう?でもいいよ。お兄ちゃんは忙しいからね。それと会場の皆さん!今日は特別に秘密を暴露しちゃいましょう。九月発売予定の『チーム』の新曲にはチャコちゃんも参加するんだよね?」
「あれっ。それ今ばらしていいのかな?」
「いいの、いいの。今日は特別なんだから。」
マコちゃん役のチャコがそう言うと歓声は最高潮に達した。
「じゃあ次は『ザ柏崎』の新曲なのかな?」
チャコ役のマコちゃんが聞いた。
「そうだけどチャコちゃんも歌ってくれるのかな?」
「じゃあ歌っちゃいましょうか。」
「じゃあ本邦初公開、ツインズで歌います、八月十五日発売、『ザ柏崎』の新曲『君はずっとここにいてね』聴いてください。」
「発売日の八月十五日にはハルナちゃんのファーストアルバムも出るからみんな買ってね~!」
チャコ役のマコちゃんが付け加えて前奏が始まり、ハルナを含めた三人がステージで歌って踊った。サプライズゲストにお客さんは大喜びだった。四分くらいで歌が終わり、三人は「バイバ~イ!」と手を振ってステージの袖に消えていった。ステージには他の女の子が登場し、別の曲が始まった。
それから二十分くらいしてヘロヘロのチャコが現れて僕の隣にへたれこんだ。
「やあ、啓一さんお久しぶり。」
「大丈夫か?チャコ。」
「あんまり大丈夫じゃない。今回はさすがのあたしもへたれたわ。」
チャコはグロッキー状態で僕にもたれかかった。
「ねえ、最初からこういう演出だったの?」
「なわけないじゃない。今回ばかりは死ぬかと思ったよ。」
「でも楽しそうだったよ。ホテルでバスに乗り込むときとか。」
「あんなのカラ元気だよ。マコちゃんも啓一さんも助けに来てくれないし。」
「だって近寄れなかったよ。色々頑張ったんだけどね。」
「そうだったの?あたしも脱出しようと頑張ったけどガードが固くてね。電話は通じないし、頼みの綱のハルナちゃんの携帯は電池切れちゃうし、充電器忘れたっていうし、もう最悪!でもよくここに来られたね。あたしもう、マコちゃんと東京に帰っちゃったって思ってた。」
「ああ、たまたま野島さんに会って、コンサート見に来てくれって言われたんだ。でも一番前に座れて、チャコも機転が利いて良かったね。」
「最初にステージに出て行って、マコちゃん見たときはマコちゃんが天使に見えたよ。それで『ザ柏崎』のときに絶対にステージに引っ張り上げなきゃって思ったの。」
「ワンチャンスに賭けたんだ。」
「そうだね。でももうこりごり。たとえ一瞬でも『啓一さんを譲ってもいい』なんて考えるんじゃなかった。もうあなたのこと誰にも渡しませんからね。」
チャコがそう言うとステージでは曲が変わり、新しい衣装に着替えたマコちゃんが他の女の子数人と笑顔で手を振りながら登場した。ふぐでも食べてエネルギーを注入したのか、元気一杯だ。そして歌いながら僕の前に来て僕に向かってVサインをした。チャコの方に目をやると、チャコは安心したのか、既に口を開けて眠っていた。