十月初旬のある平日の朝、目を覚ました僕はいつものように階段を下りダイニングに顔を出した。既にマコちゃんが起きていて、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
「おはよう。相変わらず早起きだね。何かビックニュースでもある?」
僕は早起きのスーパーアイドルに声をかけた。五ケ月間守った女性アイドル人気ランキング第一位の座は先月、ついにハルナに譲り渡したが依然としてスーパーアイドルであることに変わりはない。
「おはよう。お兄ちゃん!今日の一面の活字は大きいよ~。」
そう言われて僕は一番手前の新聞を手に取り驚いた。
「えっ、えっ、え~っ!」
僕は思わず大きな声を出した。本当にビックリしたのだ。マコちゃんが「どうしたの?」、「ねえねえ、どうしたの?」と何度か心配そうに声をかけてきたが僕は構わず「え~え~」言い続けた。三十秒くらい言い続けているとマコちゃんがコップ一杯の水を持ってきて「さあこれ飲んで」と言って僕に飲ませ、僕を落ち着かせようとした。僕は水を一気に飲み干し「フ~」と大きく息をついた。
「ねえどうしたの?」
マコちゃんが僕の隣のダイニングチェアーに腰掛け心配そうに尋ねる。
「どうしたってビックリしたんだよ。本当にビックニュースだ。」
「いつも冷静なお兄ちゃんがいつも通りじゃないんでこっちがビックリしたよ。この人知ってるの?」
新聞の見出しには大きな活字で「ノーベル生理学・医学賞に黒田博士」と書かれていた。
「うん。マコちゃんも知ってるよ、きっと。」
「あたしこんなお猿さんみたいな顔の人知らないよ。」
「まあこの人は知らないかもしれないけどこの人の妹さんはよく知ってるよ。」
「ええっ?ひょっとして聡美ちゃんのお兄ちゃん?」
「そう。黒田博士、成功したんだ。よかった~。」
僕はしみじみと記事を読んだ。本人には直接取材ができていないようで、本人のコメントはなく、業績となった医学的大発見のことが詳しく書かれていた。そのうちシクシク泣く声が聞こえたので顔を上げるとマコちゃんが泣いていた。
「どうしたの?」
僕はビックリしてマコちゃんに聞いた。
「どうしたのってもらい泣きだよ。」
そう言われて気付いたのだが僕は泣いていたのだ。
「そうだそうだ。テレビテレビ。」
そう言ってマコちゃんがテレビをつけ、黒田聡美アナウンサーの所属している局にチャンネルをあわせた。この放送局は「スタジオL」も持っていて、マコちゃんが一番お世話になっているテレビ局だ。聡美さんは七月から朝の情報番組に少しだけレギュラー出演している。
「きっと聡美ちゃん、今日はヒロインなんだろうなあ。」
マコちゃんがそう言って二人でしばらく画面を見た。聡美さんは生活便利グッズの紹介で少し出てきたが特にお兄さんについてコメントはせず、いつも通りだった。まあ普段より噛んではいたが。
「おかしいなあ。聡美ちゃん何も言わないね。」
「うーん。でも噛みまくってるからいつもとは違う気分なんだろうね。まあそっとしておいてほしいのかもしれないし。」
「どうする?」
「どうするって?」
「なんか突っ込んでみる?」
「う~ん。じゃあメール送ってみてよ。」
「うん。なんて送ったらいいかな?」
「マコちゃんに任せるよ。」
「じゃあ『今夜ホテルで君が来るまで何時間でも待ってる』でいい?」
僕はため息をついた。
「いいわけないでしょ。やっぱり僕が考えるよ。じゃあ……『今朝は噛みまくってたけど大丈夫ですか?』でいいや。」
「ほいほ~い。」
マコちゃんは軽くこたえると二階に行き、携帯を持って降りてきた。携帯をカチャカチャ操作している。マコちゃんがニヤニヤしてるので少し心配になった。
「ねえマコちゃん。さっき僕が言ったとおりに打ったよね?」
マコちゃんに確認した。
「うん。『今朝は噛みまくってたけど大丈夫?元カレが心配してるよ。』って打ったよ。」
僕はそれを聞いてもう一度ため息をついた。今さら言い返しても仕方ないのだが、聡美さんと僕は学生時代付き合っていたことになっている。もちろんそんな事実はない。僕が聡美さんと出会ったのは裕ちゃんと僕が婚約してからだ。確かに婚約は形だけのものだったかもしれない。でも婚約中の男が他の女性と正式に付き合うことなどありえない話だ。
しかし聡美さんとマコちゃんがレギュラー出演しているクイズ番組でマコちゃんは確かめもせずに「聡美ちゃんはお兄ちゃんの元カノだったの」と発言し、芸能界に衝撃を与えた。僕が異議を申し立てるとマコちゃんは「だってデートとかしたんでしょ?」と反論してきた。二人だけで学生野球を見たことは事実だがそれは「裕ちゃんを返して」と言われただけだし、デートでもなんでもない。二人きりで会ったのはそのときと成田空港で平手打ちされたときの二回だけだ。
しかしこのゴシップは芸能界を駆け巡った。僕が直接、芸能記者に追い回されることはなかったが、マコちゃんは饒舌に発言し、聡美さんは芸能記者だけでなく、局幹部からも「本当はどうだったんだ?」としつこく責められ続けた。最後は聡美さんが根負けし「もし迷惑でなかったら二人は付き合ってたことにしてもらえないか」と僕のところに電話してきた。「もう説明するのが疲れた」というのだ。僕はこれを受け入れ、二人は恋人でもなんでもなかったのだが元カレと元カノという関係になった。今ではインターネット百科事典にも載っているので二人の関係は公然の事実となっている。インターネット百科事典によると当時、大学四年生だった聡美さんは親友だった裕ちゃんの紹介で大学一年生だった僕と出会い、一緒に学生野球を見に行くなど半年くらい交際したが今ではもう思い出せないくらい些細なことでケンカし、成田で聡美さんが僕を平手打ち、交際にピリオドを打ったということになっている。
裕ちゃんが絡んでいること、学生野球を見に行ったこと、成田で平手打ちされたことは確かに事実だし、これらの事実を一貫したロジックで強引に結びつけると一つの恋愛物語が生まれるのだ。芸能人のゴシップというのは案外こういうものなのかもしれない。ただこのロジックには決定的な誤りがある。僕が聡美さんと出会ったのは聡美さんが社会人一年生、僕が大学二年生のときであり、その一年前はまだ裕ちゃんと僕が七年ぶりの再会を果たしていないのだ。
「でも聡美ちゃんのお兄ちゃん、聡美ちゃんと全然似てないね。とても兄妹には見えないけどなあ。」
僕がボーッとしているとマコちゃんがポツリと言った。
「マコちゃん。確かにそうなんだけど今のことは聡美さんの前では言わない方がいいよ。本当に血は半分しかつながってないんだから。」
「そうだったんだ。ありがとう、お兄ちゃん。気をつけるね。」
マコちゃんが言った。僕は新聞のすべての記事に目を通した。五年前の記憶が本当に次から次へと蘇った。当時の僕は、まったくそうは思っていなかったけれど、博士と裕ちゃんと僕は実は三角関係と言えるような関係だったのかもしれない。
お昼過ぎにマコちゃんから僕の携帯に聡美さんのメールが転送されてきた。
こんなの来ました❤
∨大丈夫だよ。心配してくれてありがとう。お兄さんによろしくね。
ノーベル賞のことも聞いてみたんだけど静かにしておいてほしいみたい。
だから私もこのことは黙ってるね❤ブログにものせてない❤
あのおしゃべりな妹に「黙る」ということができるのか疑問はあったが、僕はただ「ありがとう」とだけ返信した。永田町もノーベル賞の話題でもちきりだった。僕は特に何も言わなかった。そしてその日は静かに更けていった。
次の日、僕はいつもより少し早く午後六時頃には帰宅した。臨時国会が開かれているが、解散のための開会というのが大勢の意見でみんな審議に集中していない。選挙が気になって仕方ないのだ。だから帰宅も早くなる。ただ内閣支持率は低迷していて解散の具体的なスケジュールは見通しすら示されていなかった。
玄関を開けて「ただいま~」というと見慣れない靴がおいてあったので誰かが来ていることがそれとなく分った。僕は「野島プロデューサーかな?」と思った。「チャコ&チームスタジオL」のコラボで九月二十一日にリリースした新曲「恋の進行形」は大当たりした。チャコはCDとセットのプロモーションビデオの収録されたDVDに自由が丘女子高等学校のセーラー服を着たまま参加し、歌って踊った。テレビでは絶対に見られないということがファンの飢餓感を生み、この曲は売れに売れた。そして十二月発売予定の新曲も僕にお願いしたいと野島氏は言ってきていた。おもて面は裕ちゃんの作ったお正月ソング「ア・グッド・イヤー・フォー・ユー」に決まっていたのだが、カップリング曲がなかなか決まらず、野島氏をイライラさせていたのでその催促に来たのだろうと思ったのだ。すぐにリビングからチャコが出てきて「お帰りなさい。啓一さん、お客さん」と少し困った表情で言った。気をつかう客が来ているようだ。僕はそのままリビングを覗き、そして予期せぬ来客にビックリした。
「やあ、石水君。久しぶりだね。」
昨日の新聞一面を飾ったのと同じ猿顔が僕の旧姓を呼んだ。
「博士!どうしたんですか?どうしてここにいるんですか?」
僕はそう言って応接の博士の対面に座った。チャコはダイニングから椅子を一つ持ってきて端っこに腰掛けている。
「君との約束を果たそうと思ってね。一昨日、王立科学院から電話をもらってすぐにこっちに来たよ。もう知っているんだろ?」
黒田博士はケロッとした表情で言った。いつもの人を馬鹿にしたような表情だ。この人はいつも人を馬鹿にしたような態度だ。だから友達ができない。
「博士。……来るのが遅すぎますよ。どうしてもっと早く来てくれなかったんですか?……もう、……もう裕ちゃんはいないんですよ。」
僕はなじった。いや、なじるというレベルではない。食いついた。
「ああ。それは知ってるよ。随分売れたんだな。アメリカにも歌声が聞こえてきたよ。彼女も成功して良かったな。でももう過去のことだ。」
「僕はそんな風に割り切れませんよ。裕ちゃんはあなたのことを……それはあなたも分かっていたはずだ。あなたは人間として最低ですよ。あんなに愛していたはずの人をいとも簡単に捨ててしまうなんて。」
「そうだろうな。君は俺のことを軽蔑しているだろう。でも許してくれ。俺はこんな男なんだ。それは君も分っているだろう?」
「許せませんよ。」
「石水君。冷静に考えてみろ。あのまま俺と裕子がくっついて二人とも幸せになれたと思うか?」
「それは……」
「そうだろ?裕子がわがままな女だったことは君が一番良く知っているんじゃないのかな?君は彼女のわがままにさんざん泣かされていたからな。さっき、君の若い奥さんに聞いたけど、最後は君がずっと裕子の傍にいてくれたそうじゃないか。」
「それはそうですけど。」
「それで裕子はとても幸せだったそうじゃないか。」
「……」
「だからこれで良かったんだよ。彼女には君みたいな優しい男がお似合いだったのさ。俺も君のお陰で成功できたしね。」
「何しに来たんですか?」
僕は話題を変えた。
「君から預かっていたものを返しに来たんだよ。」
そう言って博士は脇に置いていたジュラルミンのケースをテーブルの上におき、そのケースを開けた。中には福沢諭吉先生のブロマイドがぎっしりと詰まっていた。
「これは?」
「君に借りた金だよ。あの時、君、言ったよね?何十倍にもして返してもらうと。だからその約束を果たすのさ。とりあえず三十三倍の一億円だ。足りなければ送金するよ。」
「博士……」
「これで俺と君の貸し借りはなしだ。俺は日本人の同情なんか受けたくないんだ。これは君がなんと言おうと受け取ってもらうよ。ここに置いていくからね。」
博士は毅然とした態度でそう言い、ジュラルミンケースのふたを閉め、それをテーブルの上に立てた。
「それともう一つ、裕子から預かっているものがあるんだ。」
「裕ちゃんから?」
「ああ。君と成田で別れるとき君に渡されたやつだ。あの時渡された封筒、開けてみたら手紙とさらにもう一つ封筒が入っていたんだ。手紙には『この封筒の中には自分の一番大切なものが入っている。それをどうか預かっていてほしい。封筒はなるべく開けないでいてもらいたい。でもピンチになってどうしようもないときは開けてほしい。』そんなことが書いてあった。俺はそのもう一つの封筒をしばらく開けなかったんだがどうしてもピンチに陥ってね。とうとう開けてしまったよ。それがこれだ。」
そう言って博士は僕に開封済みの封筒を渡した。
「何が入ってるんですか?」
僕は聞いた。
「見てみなよ。なんのことはない。紙切れ一枚さ。」
僕は封筒を開けて中身を見た。チャコが寄ってきて後ろから覗き込む。中には折りたたまれた一枚の紙が入っていた。僕はその紙を広げ驚いた。
「こっ、これは。」
一枚の紙には五線が何段かに分かれて引かれていていた。楽譜だ。紙質が随分古い。一番上の題名の部分には「天使の翼」と書いてあり、右上には作詞・作曲白石裕子という記載の「作詞」部分が二重線で消されていて、その上に作詞石水啓一と書かれていた。裕ちゃんの決してうまいとは言えない字だ。下の方に目をやると、音符と歌詞が書かれていて、サビのところに僕の字で「あなたのどりょく、てんしはみている」と書かれている箇所があり、その僕の字の部分にだけ黄色いラインマーカーが引かれていた。
「天使の翼!」
僕は大きな声を出した。
「俺にはどれほどの価値があるか分らないがそんなに大事なものだったのか?」
博士が尋ねた。
「ええ。はっきり言ってそこにある福沢諭吉先生のブロマイド一万枚よりもはるかに価値がありますよ。こんなところにあったなんて……」
「さっきそちらの若い奥さんに裕子の財産は君が全部相続したと聞いたよ。だからこれは本来裕子に返すべきものだが君に返しておく。これで俺の日本での債務は全部完済だ。もう用は済んだ。時間をとらせてすまなかったな。アメリカに帰るよ。」
「博士!」
「ん?」
「聡美さんには会ったんですか?」
「会わないよ。会わないし会うつもりもない。」
「何を言ってるんですか?会ってくださいよ。血を分けた兄妹じゃないですか?」
「君も知ってるだろうけど聡美とは半分しか血がつながってないんだ。俺の馬鹿な親父が馬鹿な女に産ませた子どもだ。本当は俺が面倒見る義務なんてなかったんだ。でもあまりにもかわいそうなんで一人前になるまでは面倒を見てやろうと思った。もう聡美も一人前だ。もう十分だろう。俺が会う必要はない。」
「会ってあげてください。聡美さんは今でもあなたのことを慕っているんです。」
「嫌だね。」
「あなたにとっても聡美さんは苦楽を共にした大切な肉親なはずだ。あなたも本当は会いたいんじゃないですか?」
「うるさいよ。余計なお世話だ。君に俺の何が分かるっていうんだ。俺がこの国でどれだけ惨めな思いをしてきたか君はこれっぽっちも分からないじゃないか。」
博士は大きな声でどなりつけた。そう言われてしまうと僕は何も反論できない。黒田兄妹が苦労したのは事実だし、僕がその苦労を容認した一億二千万国民の一人であることも事実なのだ。
「もういいじゃないか。これ以上、俺をいじめないでくれ。失礼する。」
そう言うと博士は席を立ち、玄関に向かい、靴を履いてさっさと出て行ってしまった。僕は後を追いかけた。街はもう暗い。
「僕のところに来てくれたことは感謝します。でももう一つだけお願いを聞いてください。聡美さんに会っていってください。」
僕は何度かそのようなことを言って博士に呼びかけたが博士は答えず、早足で歩いた。そして大通りに出て博士は左手を上げ、タクシーを止めた。タクシーのドアが開き、博士は乗り込んだ。
「さっきは大きな声を出してすまなかったな。本当は……君はこの国でただ一人の俺の理解者だよ。それは分かっているんだ。色々ありがとう。感謝してる。じゃあ、聡美のことよろしくな。もう会うこともないだろう。元気でな。」
博士は閉まりかけたドア越しにそう言うと、「成田空港」と運転手に告げ、ドアは閉まり、タクシーは僕から離れていった。僕は混乱していた。博士と聡美さんを会わせたい。でも今の僕に何ができるだろうか。
「ただいま~。」
家に帰り、そう言って玄関を開けると、目の前にチャコが立っていてビックリした。マコちゃんの所属しているアイドルチームのユニホームを着ている。
「お帰り。どうだった?」
「タクシーで行っちゃったよ。もう成田に向かうようだ。」
僕は力なく答えた。
「啓一さん、今、何考えてる?」
「何って?」
「博士と黒田アナを会わせたいんでしょ?」
「それはそうだけど。」
「じゃあ会わせようよ。あたしがマコちゃんになって黒田アナを引っ張り出すからすぐに成田に行こう。」
「そうか。ありがとう。……でも聡美さんがどこに居るのか分からないよ。」
「今、マコちゃんの携帯に電話した。黒田アナ、朝の番組がレギュラーだからこの時間は自宅に居るだろうって。一応、電話してもらって居るのを確認して折り返し啓一さんの携帯に電話もらえることになってる。とりあえず黒田アナのマンションに行こう。」
そう言うとチャコは僕にクルマの鍵を投げ、僕はそれを片手でキャッチした。チャコと僕はクルマに乗り込み、原宿の聡美さんのマンションに向かった。
「さっきはビックリしたよ。」
クルマの中でチャコがポツリと言った。
「さっきって?」
「博士に本気で怒ってたでしょ。啓一さんが怒るの初めて見たよ。啓一さん怒ると結構迫力あるんだね。」
「……」
「あたし本気で嫉妬しちゃった。裕ちゃんのことだとあんなに真剣になれるんだね。」
「……」
僕は黙った。
「別に変な意味じゃないよ。ただ裕ちゃんがうらやましかっただけ。裕ちゃん、啓一さんに本当に愛されてたんだね。」
「そうかもね。」
「ねえ、さっきの楽譜だけど。」
「ああ、『天使の翼』ね。」
「そんなに大事なものだったの?」
「僕も忘れていたんだけどね。裕ちゃんの初期の作品だ。」
「啓一さんと合作だったの?『作詞石水啓一』って書いてあったけど。」
「合作と呼べるような代物ではないよ。僕が書いたのはあの黄色いラインマーカーが引かれていた部分だけだ。」
「ああ。あそこだけ啓一さんの字だったね。」
「裕ちゃんが中学三年のとき、僕が中一のときだけど、柏崎で市民音楽祭があってね。素人のど自慢みたいなお祭りだったんだけど、それに裕ちゃんも参加したのさ。でもちょうど高校受験の夏休みでさ、親御さん、権蔵先生は裕ちゃんの参加に反対した。いや、正面から反対してたんじゃないんだけど絶対反対されるっていうんで裕ちゃんはこっそり参加したんだ。それで僕の家のピアノで練習したりしてた。でもなかなかうまく行かなくてね。ある日、『こんなんじゃ駄目だ』といって泣き出したことがあったんだ。裕ちゃんが泣くのを見たのは後にも先にもそのとき一度だけだった。僕には裕ちゃんを慰めてあげることができなかった。でもふと思いついて裕ちゃんの楽譜の一部を書き換えたんだ。もともとなんて書いてあったのかは忘れてしまったけどサビの部分を一部消して『あなたの努力、天使は見ている』とね。裕ちゃんがいつ、どのタイミングでその書き換えに気付いたのか僕は知らない。でもその後裕ちゃんは蘇り、最年少で予選を突破、本選でも審査員奨励賞をもらったんだ。」
「へ~、じゃあ二人にとって本当に思い出の作品だね。」
「うん。裕ちゃんにとっては一番大切なモノだったんだね。博士に預けていたんだ。裕ちゃんの遺品の中から出てこないはずだ。」
「ハルナちゃんに歌ってもらうの?」
「うん。実はさっきの話には続きがあって、これはハルナ本人から聞いたんだけど、当時小学一年生だったハルナが市民音楽祭を見に来ていて『天使の翼』をライブで見てるんだ。そのときから裕ちゃんに憧れてたんだって。」
「へ~。それはすごい話だね。」
「すごい話だね。だからもちろんハルナにも歌ってもらいたいけど、これは本当に裕ちゃんと僕の最初の作品だからぜひチャコにも歌ってもらいたいな。」
「またそんなこと言ってる。」
チャコがそう言うとチャコの握っている僕の携帯のバイブレーションが震えた。チャコが出た。
「はいは~い。あっマコちゃん。……うん。今、黒田アナのマンションに向かってる。……うん。お兄さん、もう成田に向かってるみたいだからこれから啓一さんと三人で追いかけるね。……は~い、ありがとう。」
僕は携帯を切ろうとしているチャコにかわるよう合図した。
「ごめん、啓一さんが、話があるみたい。」
チャコはそう言って携帯電話を僕の耳元に近づけた。
「もしもし。」
「あっお兄ちゃん。大変そうだね。頑張ってね。」
マコちゃんの明るい声が聞こえた。
「マコちゃん色々ありがとう。で、そこに野島さんいるよね?」
「うん。かわろうか?」
「いやかわらないでいいんだけど伝えてほしいんだ。十二月二十一日発売予定のチームの新曲のカップリング曲が決まった。曲名は『天使の翼』。楽譜はなるべく早く渡すのでアレンジの準備をしておいてくださいってね。」
「『天使の翼』ね。どうしたの急に。」
「博士が裕ちゃんの秘蔵の曲の楽譜を持ってたんだ。さっき渡されたのさ。」
「ほいほ~い。了解しました。じゃあね。」
電話は切れ、聡美さんのマンションが近付いた。マンションの前で既に聡美さんは待っていて、僕のクルマが近づくと手を振ってくれた。僕はマンションの前にクルマを止め、聡美さんがリアシートに乗り込んだ。
「お邪魔します。マコちゃんどうしたの?急に。」
聡美さんがマコちゃん役のチャコに聞いた。
「聡美ちゃん、お願いだからお兄ちゃんの話を聞いてあげて。」
チャコはマコちゃんのように言った。僕の番だ。僕はクルマを発進させながら言った。
「これから成田空港に行くね。お兄さんに会わせるから。」
「お兄ちゃんに?日本に来るの?」
「いや、もう来てるんだよ。さっき僕の家に来た。それで聡美さんに会わないでもうアメリカに帰るっていうから急いで追いかけるんだ。」
「ねえ、本当なの?」
「本当だよ。さっき新聞に載ってるのと同じ顔の人がおうちに来たもん。」
チャコがマコちゃんのように言った。
「お兄ちゃん、私には会わないって言ったの?」
聡美さんが僕に尋ねる。
「うん。そう言ってた。」
「そう……そうだよね。もう私なんかと会いたくないよね。私とはいい思い出なんか一つもなかったもんね。」
聡美さんが悲しそうな声で言った。
「聡美ちゃん、大丈夫だよ。」
マコちゃん役のチャコが言った。
「聡美ちゃんのお兄ちゃんね、うちのお兄ちゃんが帰ってくる前にうちに来てうちのお兄ちゃんが帰ってくるの待ってたんだって。そのときチャコちゃんが聡美ちゃんのお兄ちゃんと随分長話してるの。聡美ちゃんのお兄ちゃん、聡美ちゃんのこと心配してたんだって。だから本当は会いたいんだよ。大丈夫だよ。会ってくれるよ。」
「そうだよ。博士、別れ際に僕に『聡美のことよろしく』って言ったんだ。だから気にかけてるんだよ。本当は会いたいんだよ。」
僕がマコちゃん役のチャコに続いてそう言うと聡美さんは「ありがとう」と言って少し笑顔が出た。それからクルマは高速に乗り、マコちゃん役のチャコは睡眠に入った。
空港が近付き、クルマが高速を降りるとマコちゃん役のチャコは目覚めた。そしてターミナルビルの入口前で減速すると、僕の肩を叩き「ねえ、お兄ちゃんあれじゃない?」と言った。前を見るとハザートをつけて停車しているタクシーから猿顔の男が降りてきた。僕はそのタクシーの十メートルくらい後方にクルマを止め、サイドを引いた。すぐにマコちゃん役のチャコが降りて博士に駆け寄り、一言二言言葉を交わして僕のクルマの方を指さした。そして腕をつかんでこっちの方に向かってきた。ミッションは成功したようで、とりあえずホッとした。マコちゃん役のチャコが後ろのドアを開け「さあ、どうぞどうぞ」と言って博士を後部座席に押し込んだ。僕は振り返らず、バックミラーを見ていた。後部座席の二人の目が合ったようだ。
「聡美。」
「お兄ちゃん。」
しばらく沈黙した。マコちゃん役のチャコは助手席に戻ってきた。
「とりあえず駐車場に移動しますね。」
僕はそう言ってクルマを移動させた。二人は沈黙したままだ。駐車場にクルマを止めると
「じゃあ、マコちゃんと僕は少しはずしますから二人でよく話をしてください。」
そう僕が言ってマコちゃん役のチャコと僕はクルマから出た。そして三十メートルくらい離れたベンチに腰掛けて二人で缶コーヒーを飲んだ。
「チャコ、ありがとね。」
僕はチャコにお礼を言った。
「ううん。あたしはなんにもしてないよ。でも良かったね。間に合って。……あの二人なんの話してるのかなあ?」
「そうだね。博士が心を開いてくれるといいけど。」
十五分くらいしてクルマのドアが開き博士が出てきた。チャコと僕はベンチから立ち上がり、博士の方を見た。
「石水君。話は終わった。」
博士が大きな声で言った。チャコと僕はクルマの傍に駆け寄った。クルマからは聡美さんも出てきて兄の傍に並んだ。
「石水君。」
博士が言った。
「はい。」
「君にお願いがあるんだが。」
「なんでしょう?」
「これから俺と聡美を聡美のマンションまで送ってくれないか?」
僕はマコちゃん役のチャコと顔を合わせた。そして「はい」と力強く返事をした。
「東京に戻ったら聡美のテレビ局と系列の新聞の単独インタビューに応じるよ。そしてあしたは記者会見をする。記者会見には君たち二人にも同席してもらいたい。お願いできるかな?」
「はい。喜んで引き受けますよ。」
僕は笑顔でそう言った。聡美さんは泣いている。
「聡美ちゃんよかったね。」
マコちゃん役のチャコがマコちゃんのように満面の笑みでそう言った。